25話 ワシは魔王と戦う②
叫びと共にワシは、全身の『気』を肉体が崩壊する寸前まで爆発的に循環させた。
血管を逆流しようとする呪われた血を圧倒的な『気』の奔流で強引に押し潰して浄化し、レリアから受けた血を毒として強制的に体外へと排出する。
肌の毛穴から、薄く赤い霧がシュウシュウと音を立てて噴き出す。
そして、狙うは一点。奴の硬直が解けて再び動き出そうとする一瞬だ。
「一閃!」
ワシは黒剣に全神経を集中させ、腹の底から絞り出した叫びと共に一気に振り下ろした。
黒剣が通った跡は空気が弾けて激しい風が吹き荒れる。
それはもう普通に剣で斬っただけのものではない。どんなに巨大な魔物であろうと両断する必殺の一撃だ。
だが、魔王は玉座に座ったまま退屈そうに手のひらを差し出し、ワシの渾身の刃を止めてみせた。刃と指が触れ合う境界から、ギィィィィンと鼓膜を突き破るような甲高い金属音が響き渡る。
「いいぞ、それくらい動けなければ私の配下にふさわしくない。実に愉しませてくれる。もっと足掻け。その無意味で小さな力を振り絞り、私を一歩でも後退させてみろ」
魔王は余裕の笑みを浮かべながら腕を払い、不可視の強大な衝撃波を放った。
ワシは後方へ跳んでそれを回避する。
だが、着地の衝撃だけで疲労しきった両膝にズンと鈍い痛みが走る。
『気』を込めた追撃の斬撃も奴の衝撃波によって阻まれ、虚しく弾き返される。
「……チッ。やはり、小手先の技では通らんか。これほど、もどかしいと感じたことはないぞ」
攻撃を力任せに叩き潰すという基本の動きが今は仇になっている。
疲労で動きが鈍っている分、余計に太刀筋を読まれているな。
「度し難い小僧だ。人間というものは、痛みで教え込まねば従わないものなのか? お前の脆く未熟な身体に、私の愛という名の絶望を骨の髄まで深く刻み込んでやろう」
魔王がゆっくりと玉座から立ち上がり、死神の鎌のように鋭い爪を振るった。
空気を無慈悲に切り裂く、目に見えぬ真空の刃が、四方八方から網の目のように襲いくる。
ワシは黒剣を限界まで旋回させてそれを弾き飛ばすが、魔王はさらに卑劣で吐き気のするような手に出た。
奴が右足で地を強く叩きつける。
カツンと響く音が合図になったかのように、ワシの足元から泥まみれで肉の腐り落ちた無惨な姿の者たちが次々と這い出してきたのだ。
それは先ほど吹き飛ばし、永遠の眠りにつかせたはずの眷属たちだった。
死してなお安らぎすら与えられずに操り人形として利用される。
その様はまさに現世の地獄そのものだった。
「往け、私の愛しき操り人形ども。その腐り落ちた肉体で小僧にすがりつけ。喜ぶがいい。死してなお無残な姿を晒す貴様らにも、まだ私の役に立つ価値が残されているのだ」
次々と這い出してくる、自我を失った眷属たち。
魔王に容赦はなかった。自分の配下をただの肉の盾として扱い、彼らごと真空の刃で切り刻みながらワシを追い詰めてくる。
味方ごと切り捨ては死を嘲笑うかのような非道な振る舞い。
ワシの腹の底でドス黒い怒りがマグマのように煮え滾っていく。
奴の姿が目の前で陽炎のように掻き消えたかと思うと、無数の蝙蝠へと姿を変えて空間に分散した。
「私はここだぞ、小僧。どこを見ている? それとも、まだ見ぬ明日を夢見て別の逃げ場でも探しているのか?」
ワシの周囲に蝙蝠が再び集い、数人の魔王が実体と見紛うばかりの精巧な分身となって現れる。
四方八方から迫る、回避不能とも思える同時攻撃。
空気を引き裂く凶悪な爪の音が幾重にも重なり、逃げ場を完全に塞いでくる。
悲鳴を上げる身体を精神の力だけで無理やり動かし、全神経を針の穴を通すように研ぎ澄ませた。
――来る!
紙一重、わずか数ミリの差で首筋を狙う刃と爪をかわし、カウンターの黒剣を閃かせる。
一撃、二撃。分身たちが断末魔の代わりに黒い霧を吹き出しながら、次々と消え去っていく。
そして再び黒い霧が集まり魔王が人の形に戻ると、見下しながら哀れむような表情を浮かべた。
「私は無傷だぞ。そんなボロ剣では傷どころか、倒すことも不可能だ。たとえ私を斬ったところで無意味だ。そんな攻撃ではすぐに再生する。いい加減に分っただろう? 小僧らしく無様に這いつくばって楽になれ。無駄な抵抗は死を早めるだけでなく、その魂を惨めに晒すだけだぞ」
すべての分身を斬り伏せて着地したワシは、激しく肩を上下させた。
血の混じった喉が焼けるような呼気を吐き出す。
どうやら普通に斬りつける程度では、倒すことはできなそうだ。
それでもワシは不敵に挑発を込めて笑ってみせた。
「まさか封印で腕が錆びついた、などという言い訳はあるまいな。魔王という大層な看板も、ただの安っぽい虚勢に見えてきたぞ。まさかそれが全力だというのなら、失望しかないな」
ワシの冷徹な挑発に、魔王の顔から余裕の笑みが一瞬にして完全に消え去る。
そこには底知れぬ凍てつくような冷酷な光がその瞳に宿った。
「まだ、理解ができないのか。いいだろう、見せてやろうか。下等な貴様ら人間が唯一の拠り所として信奉する『聖水』すら、私は既に克服した! そして、すでに自らの力へと変えている証をな! そのくだらん思い上がりを、絶望の底で後悔するがいい!」
魔王は懐から一瓶の聖水を取り出すと、恍惚と狂気が入り混じった表情でそれを自らの頭上からゆっくりと浴びせかけた。
「あぁ……この身を焼く忌まわしい痛み! 長きに渡り私を封じ込めたこの呪縛すら、今や魔力へと変換されて全身を駆け巡るのを感じるぞ!」
ジュウジュウと生肉を焼くような、おぞましい音が静かな広間に響き渡る。
同時に腐肉と煮えたぎる膿が混ざり合ったような、耐え難い異臭が周囲に激しく立ち込めた。
奴の肉体は人の形はおろか、もはや魔王としての輪郭すら維持できていない。
全身がドロドロと溶け出して、まるで生きている黒い泥のように無惨に崩れ落ちていく。
液状化したその体は一滴の雫にまで明確な意志が宿っていた。
巨大で不定形な怪物と化して床を這いずり、ワシを丸ごと呑み込もうと漆黒の津波となって襲いかかってきた。
「ははは! もがき苦しみながら、偉大なる私の一部となる栄誉に泣き叫べ、小僧! 貴様の骨も魂も全てを私が喰らい尽くし、永遠の血肉としてやろう!」
圧倒的な質量による逃げ場のない熱を持った不浄の泥。
それが、ワシの小さな身体を四方から完全に包み込んでいく。
視覚が真っ暗な絶望に染まり、ワシは魔王のあの忌まわしいドロドロとした肉体の中に完全に呑み込まれていった。
身体の自由が奪われ感覚が消失し、意識が暗い闇の底へと沈んでいく。
「これで終わると思うなよ……魔王。お前ごと斬って捨ててやる」




