16話 ワシはロザリアの依頼を受ける
その依頼は、あまりに馬鹿げたものだった。
ワシは迷うことなく首を振る。
「断る」
たとえ世界を守護するという炎竜だろうが、ワシには関係のないことだ。
ロザリアは小さく頷いたが、その冷めた視線は射抜くようにワシを捉えて離さない。
「シドと言ったな。お前はあの聖水がどれほど特別なものか、本当に理解しているのかい?」
「そんなものは知らん」
ロザリアはやれやれと、呆れたようにため息をついた。
「お前は何も知らなすぎる。聖水は、魔王を弱体化させることができる唯一の手段なんだよ」
「魔王? 聖水? それが何の関係があるというのだ」
「およそ千年前に突如として魔王が現れた。世界の支配を宣言した魔王は、人間を含むすべての種族に対して宣戦布告したのさ。奴は魔物の大軍を率いて襲いかかり、戦いは百年に及んだ。聖水を使うことで、かろうじて封印できたんだよ。……だが、その封印は解けてしまったらしい」
「聖水が奪われたからか」
ロザリアが静かに頷く。ワシは冷めた視線を返してやった。
「世界を守護する竜か……お前たちがいたのなら、百年もかからんだろう。何故、魔王との戦いに参加しなかった?」
ロザリアは微かに笑みを浮かべ、少しだけワシを見直したような顔をした。
「だからこそ、聖水を提供したのさ。だが、今はそんな話はどうでもいい」
「ならば、魔王が復活する前に聖水を取り戻せばいいだろう」
肝心な部分から話を逸らそうとするワシに、ロザリアが呆れた声を出す。
「神殿は破壊されて、その場にいた神官も皆殺された。もはや聖水を取り戻して済む話ではないのは、お前にも分かるだろう?」
「……」
ワシは思考を巡らせるが、ロザリアを説得できる材料が何一つなかった。
引き受けねばレリアは真っ先に殺されるだろう。
何とか彼女を説得してロザリアとの妥協点を見つけ出すしかない。
「……仕方ない。引き受けよう」
ワシは喉の奥から、かろうじて絞り出すように返事をした。
「これでも譲歩しているんだよ。お前があの女と手を組むのは自由だが、そうなれば私がお前たちをこの炎で灰にする。選択肢というものが消えるんだよ」
「すべてお見通し、というわけか」
「結果は変わらないよ。アレはもう人ではないんだ。やめておくんだね」
さっきの戦いで、今のワシに勝ち目が薄いのは理解している。
レリアが今のままでは足手まといになることも。
全盛期の肉体であれば戦うことも考えられたが、このロザリアを相手にするには今の自分ではあまりに厳しすぎる。
「レリアと話をしてくる。依頼は受けたが、その上で考えさせてもらうぞ」
「依頼はせめてもの情けだよ。好きにすればいいさ」
ロザリアがそう告げた瞬間、彼女の身体は炎に包まれ溶け込むように輪郭が薄れていった。
存在そのものが熱を残して消える。
次の瞬間、炎が山肌全体へと走った。
中腹に位置するこの空間を囲んでいた外殻……山そのものが、轟音と共に熔けていく。
岩や土は形を失って崩れ、蒸発した水分が白い水蒸気となって噴き上がった。
視界は白一色に覆われて空気は重く湿る。
ロザリアはあえて、この閉ざされた空間を破壊したのだ。
それはすなわち、話し合いの終わりを意味していた。
その理由は、すぐに理解できた。
水蒸気の向こう、岩の残骸を踏みしめる足音が近づいてくる。
山を登ろうとしていた者。ここに来るはずのなかった存在。
「レリア……」
ワシが名を呼んだ瞬間、蒸気が裂けた。
そこに立っていたのは、紛れもなくレリアだった。
腰に柔らかく沿う黒い修道服は、以前と変わらず清潔なままだ。
端整で美しい顔立ちも、神に仕える者としての静かな気品を湛えている。
だが、近づくにつれて違和感は増大し、もはや否定しようもなくなった。
空気に混じる鉄を含んだ濃い匂い。
それは明らかに、人の血の匂いだ。
首元に掛けられた古い十字架は角が欠け、擦り傷が増えている。
まるで、祈りとともに幾度も強く握りしめられたかのように。
肌は不自然なほど白く、瞳は濁った赤に変わり呼吸の気配が一切感じない。
わずかに開いた唇の奥からは、隠しきれない牙が覗いていた。
ロザリアが、低く息を吐いた。
「やっぱり、間に合わなかったのね」
レリアはゆっくりと顔を上げ、ワシを見据える。
そこには、かつての温かな眼差しは欠片も存在しなかった。
「……シド君」
名は、確かに呼ばれた。
だがその声は、ワシの知っていた生者のものではなかった。




