8 壊れた魔女
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生まれ育ったのは、小さな聖堂が運営している孤児院だった。親の顔なんて知らなかったが、見たいとも思わなかった。だって自分には、何より大切な“家族”がいたのだから。
「あら、シス。またその本を読んでるの? 貴方は本当にレクトルが好きねぇ」
「うん! オレ、レクトルみてーな強い大人になる! で、【サツリクの魔女】をやっつけるんだ!」
地位は低いながらも敬虔なシスターの教えのおかげで、神や英雄はとても身近に感じられた。だから物心ついた時にはもう、魔女を倒す正義の英雄に憧れを抱いていた。
勉強は嫌いだったが、“狩人”レクトルの英雄譚なら何時間でも読んでいられた。子供向けの絵巻だけでは飽き足らず、シスターに読み方を教わりながらちゃんとした聖典も読み込んだ。いくつもの名場面を、一言一句諳んじることもできるようになった。
西の果てにいるという、悪い悪い漆黒の魔女。【原初の魔女】を狩ったレクトルのように、そいつを狩る大人の自分の姿を夜ごと夢に見た。“狩人”レクトルが使う様々な武器のような、自分だけのカッコいい武器の絵を何枚も描いた。
未来の自分の活躍を語る少年を、優しいシスターはいつだって温かい笑みを浮かべながら聞いてくれていた。孤児院で暮らす友人達も、純粋な称賛の眼差しを向けて肯定してくれた。だから少年は、いつか自分も彼のような英雄になれると無邪気に信じていた。
「シスは大きくなったら、魔女を倒す旅に出るんでしょ? じゃあ、僕も旅に出ようかなぁ。吟遊詩人になって、魔女を倒した英雄の物語を世界中に広めるんだ」
「なら、一緒に旅しようぜ! リヤンの歌は、元気が出るからな。リヤンが傍で歌ってくれるなら、魔女なんてぜんっぜん怖くねーし!」
「そうだね、それがいい! そうしよう!」
幼馴染でもある親友と、旅立ちの計画を綿密に練った。それは無謀な夢物語だ。けれど二人でならなんだってできる気がしていた。
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孤児院育ちで、加護の力も持たない少年は、騎士や聖戦士になるための試験を受ける資格すら与えられなかった。
しかし時は荒れる戦乱の世。魔物や敵国の兵と、いつだって人々は戦っていた。だから傭兵となれば、食い扶持には困らなかった。
自分が暮らしていく金も、生まれ育った孤児院に寄付する金も、己の腕で稼いだ。いつしか少年は青年となり、その名だけで敵を恐れさせるほどの戦士になっていた。
いくつもの戦場を駆けた。幼いころのように、魔女を倒す旅に出るだなんて夢物語を言っている余裕はなかった。生きるため、孤児院で暮らすまだ幼い子供達の未来のため、戦わなければならなかった――――けれどその夢は、自分の原点として心の奥底に眠っていた。
「そなたの武勇は我が国中、いや、ショハム全土に轟いておる。そこでそなたを“狩人”に任命しようと思う。そなたには、かの【殺戮の魔女】を打ち滅ぼしてもらいたい。我が国の勇士が魔女を倒したとなれば、諸国はもはや我が国に逆らえぬだろう。……魔女さえいなくなれば、この地に平和が訪れるのだ。報酬は、そなたが望むだけのものを与えよう」
だから、だろう。
突然呼び出された王宮で、暗愚の王と疎まれる男から直々に下されたその“依頼”を、怪しむことなく二つ返事で受けてしまったのは。
「せいぜい死なないでちょうだいね」
「そっちこそオレの足引っ張んじゃねぇぞ、お嬢サマ?」
相棒として紹介されたのは、次代の聖者候補と目される修道女だった。
名家出身の、いけ好かない女だと思った。こいつと二人旅なんてごめんこうむる。それに、旅の相棒はもう決めていた。だから、気ままにリュートを弾いてさすらっていた親友と連絡を取り、彼と彼女の三人で魔女を倒す旅に出た。
旅するうちに彼女に恋い焦がれ、彼女から想われることになるなんて、この時の自分はまだ知らなかった。
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死地に赴く前に昂るのは、生物としての本能か。愛する女を抱き寄せる。触れてはいけない素肌のぬくもりを感じながら、ふわりと漂う甘い香りに溺れた。
「約束よ――」
ずっと焦がれ続けていたその花を、ついに恐怖という名の誘惑に負けて手折ってしまった。純潔を散らした彼女は、切ない声で囁いた。
「ああ、もちろんだ。誰より幸せにしてやる」
力強く答えると、彼女は夢見るように微笑んだ。
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弾丸の雨を魔女に浴びせる。頭に、心臓に。人の急所を穿たれてもなお、その魔女は生きていた。
けれど一発の弾丸が魔女の封じられた左目を射抜いたとき、黒く輝く宝石が転がり落ちてきた。ぼろぼろになるほど読み込んでいた聖典のおかげで、その存在は知っていた。あれこそ魔女の心臓、あれを壊せば魔女は死ぬ。だから、迷わずそれを撃ち抜いた。
魔女が嗤った。彼は崩れ落ちる刹那、「お前が次の贄だ」と言った。その意味を問う前に、砕かれた宝石から黒い霧が立ち上った。霧はまるで意思を持っているかのように、青年の身体を包み込んだ。首が焼けるように熱くて、恋人の歓声も親友の喝采も聴こえなかった。
――――あんなことになるなんて、聖典には書かれていなかった。
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親友は、「自分は王に選ばれたわけではないから」とまた一人で旅を続けた。傭兵から英雄になった青年は、聖者の地位が確約されたも同然の恋人と共に祖国へ凱旋した。
魔女を倒した狩人一行を讃える、華やかな宴の席。何某が告げた乾杯の音頭に合わせてワインを一息に呷る――――その味の異変に気づいた直後に、視界は暗転した。
気づいたときには、拘束されて牢獄の中に転がされていた。
刃を突きつけられた首から、黒い石がころりと落ちた。それはまるで宝石のように見えた。高値で売れると思うより先に、心は嫌悪と焦燥で塗りつぶされた。だってその石が何であるかは、嫌と言うほど知っていたのだから。
「ここから出せ! どういうことなんだよ、おい!」
心臓はそのまま奪われた。拘束は解いてもらえなかった。すべての武器は奪われ、抵抗と言えば喚くことしかできなかった。
「ずいぶん騒がしいな。やはり人では、魔女は御しきれないのか……。これでは陛下のご所望通り、奴を外に晒すこともできないぞ」
「なぁに、奴の心も弱みも掌握済みだ。自分の立場を理解させれば、すぐにおとなしくなるさ」
ああ、彼女は一体どこにいる。あれから一度も会っていない。約束したのに。結婚して、誰より幸せで何より暖かい家庭を築くつもりだったのに。こんなところに閉じ込められていては、何もできないじゃないか。
約束の報酬はどうなった。全部全部、嘘だったのか。だってこんなのおかしいだろう。どうして、どうして、こんなことになるんだ。
「オレは魔女なんかじゃない、人間だ! 人間なんだよ、信じてくれ! なぁ、誰か……!」
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おどされた。国に逆らえば、愛しい恋人も、孤児院で暮らす家族も、ただではすまないと。
考えた。この拘束を破壊して、大切な者達をみなさらっていくことを。けれどそうしたところで、彼らは一体どうやって生きていけばいい?
約束した。決して死なない“魔女”として国に飼い殺されていれば、大切な者達に危害は加えないと。
魔女が死ねば、また新たな魔女が生まれる。だから魔女は、死んではいけない。心を破壊されない限り、魔女は死なない。
【殺戮の魔女】に長年苦しめられ、王の悪政に悩む民衆には、怒りの刷け口が必要だった。死なない魔女は、それをぶつけるのに最適だった。だから、ありとあらゆる弱みを握られた自分こそが生贄だった。
「…………ぁれ…………ぇも、いい……からぁ……どうか………………ぁれ、か…………」
鈴の音におびえる。きりり、きりりと装置が動く音に震える。降ってくる笑い声に縮こまる。
弓なりに反らされ、無数の棘に刺し貫かれた身体はもはや呼吸すら困難で。潰れた喉は叫びを上げられず、かすれたは吐息は何も乞えない。あとどれだけの血を流せば、終わるのだろうか。
吐き出した血は赤く黒くよどんで濁って熱く苦く甘い。折れた骨が皮を突き破り、裂かれた中身が飛び出ていた。何かがべちゃべちゃ落ちていた。
ぐるり、ぐるり、きりり、きりり。大歓声。揺さぶられて潰れた頭の中で反響する声と音。まっかなまっかなみじめで醜いかたまり。
さんさんと照る太陽の下、おこぼれほしさにからすが来る。臭いにつられて群がってくる。ついばまれ、ついばまれ、ついばまれ、視界が暗く。今日も身体のどこかが奪われた。
「…………ぃて…………も…………こぉ…………ひて……くぁ……ひゃい……」
食べられたものはどこにいくのか。落ちたものはどうなるのか。朝になれば戻るものは、どこからくるのか。どうして生きているのか。どうしてまだ考えられるのか。ひとのこころは、いのちは一体どこにある。もはやこの身は、化け物なのか。
黒い鳥。黒い魔女。酸化した血の黒。黒は、嫌いだ。
日が沈んで日が昇って沈んで日が昇って沈んで日が昇って沈んで日が昇って沈んで日が昇って沈んで日が昇って沈んで日が昇って鈴の音が聴こえる。
きりり、きりり。今日もこの音が。車輪。車輪。祭りの日。週に一度の娯楽の日。車裂きの刑。見世物としての処刑。血塗れた気晴らし。自分より下の者がいて、ソレが苦しみあえぐ姿を嗤うためのもの。
ぐるぐるぐる。べきべき。どしゃ。ぐちゃ。がちゃり。ばさばさばさ、ぶちぶちゅぶち。からすの声。赤と黒。
「こぉ……ぃて……ぁい……ころ…………くぁ……さ……ぃ…………ろし…………て、く……ころ……し、て……くださ……ぃ……」
赤、赤、赤、黒黒黒。赤赤赤黒。
誰か、誰でもいいから、どうか、どうか。
死なせてほしい。この呪われた身を、もう二度と蘇らないよう殺してくれ。
繰り返されるうわごと。救済を求める願い。虚ろな目は、もう何も映していなかった。
*
夜遅く。つかの間の休息を妨げる影があった。びくりと顔を上げる。けれどそれは、兵士でも街の住民でもなかった。本当の兄弟のように育った、幼馴染だ。
「りぁ……ん……?」
「なんてむごいことを……。君だけでも生きていてくれたことは喜ばしいけど……これじゃ、どちらが幸せだったのか……」
どこか遠い空の下で旅をしている、ここにいるはずのない親友。久方ぶりに見た彼は、ひどくやつれているような気がした。
「ぃあん……り、やん……ぃぁ、ゆいあは……? ……こぃいん……はぁ……みんな……ぉう、して……?」
「私は嘘や隠し事が嫌いだ。だから君には、本当のことを伝えよう。……君には真実を知る権利がある。それが、君の望まないことだったとしても」
彼の目は、とても悲しく残酷な色をしていた。
「ユイアさんは妊娠していた。君の子だろう?」
たった一度の、あの夜の過ちのせいか。いいや、あれは過ちなどではなかった。少なくともあの瞬間は。
あれからどれだけの月日が流れたのか。日が昇って沈むことしかわからない。子供はもう生まれたのだろうか。父親がこのざまで、母子はずいぶん苦労しているだろう。
「……彼女は死んだよ。生きたままお腹を裂かれて、子供を引きずり出されたらしい。その子は、生まれる前に死んでしまった。……ユイアさんは、最期まで君を裏切らなかったそうだ。魔女を愛していると言い続けて、殺された」
「彼女だけじゃない。孤児院の子供達も、シスターも、全員死んだ。誰もが君を信じていた。君は魔女なんかじゃないって、たとえ魔女だったとしても家族だって、ずっと主張を曲げなかったらしい。そして彼らは言ってしまった。必ず魔女を助けてみせる、って。だから王国兵が孤児院に火を放ったんだ。……私が行った時には、もう遅かった。みんな、とっくに殺されていたんだよ。私は、何も……何もできなかった……」
「だから、せめて……私がこの手で、君に……終止符を打とう。それが、生き余った私の責任だ。君の親友でありながら、何もできなかった私の贖罪だ。……今、楽にしてあげるからね、カティーシス」
「……は、」
息が息が詰まる頭が白く呼吸が肺の空気を吸って吐いテ頭に酸素を心臓ガ身体を指に末端ニ血液を思考思考コトバ考えろ考えルナ生きる生キルってなんだっけコノままこのままそう息でキテる大丈夫心臓動いてる勝手に動クな臓物心臓吸って吐いて止マッテ止めてもう一回まっしろ頭がぐるぐるグルぐる視界がちかちか声が声が声がきこえないキコエナイもうなにもききたくない待って頼む待ってクレ思考が追イつかナイもう一回もう一回モウ一回モう一回アアアアアアやっぱりナニモ言ワナいでくれ全部ゼンブ嘘だろう嘘ナンダ嘘ニ決まっテルだっテソうダそウに違イナイあリエないおかシイふざけるなふざケルナ嘘だウソだ嘘ダもう一回深呼吸。
恋人が死んだ、子供が死んだ、弟妹達が死んだ、シスターが死んだ――――家族が、死んだ?
「ア……ぁ……ァ……ぁ、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
夜空を引き裂くように声を張り上げる。
じゃらり、じゃらり。鎖が千切れて垂れる。
ばん、がたん。車輪の残骸が崩れ落ちる。
逃げられない理由があった。だから、死という救いだけを待っていた。
けれどもう、そんな必要もなくなった。だって守りたかったものは、守っていると思い込んでいたものは、もうとっくに失われていたのだから。
「あ、あ……ああ……あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
なんのために。なんのために戦った。なんのために耐えた。なんのために、なんのために、なんのために。
感情に任せて吼える。衝動に委ねて叫ぶ。咆哮と共に流れた涙に呼応するように、傷がみるみる癒えていく。意識が鮮明になっていく。
人間から、本物の魔女へ。振り切れた針は覚醒を促す。もう、あのみじめな赤い塊はどこにもいなかった。
「はは……はははっ……ははははははは……ははははははっ……」
血の繋がらない弟妹達。やんちゃなガキ大将だった自分をずっと見守ってくれていたシスター。人を愛し、人に愛されるぬくもりを教えてくれた恋人。一度も見たことも抱いたこともない、愛しい我が子。
どうしてみんな、死んでしまったのだろう。だれがみんなを殺したのだろう。どうしてそんなに簡単に、死んでしまえるのだろう。
「お前は、殺さない。お前には、殺されない」
もう死んでいい? 死んでようやく解放される? やっと? 本当に?
いいや、だめだ。彼にだけは、殺されるわけにはいかない。この身の呪いを考えろ。彼であっては、意味がない。
まずは心臓を取り返す。けれどそれを壊させたい奴はあまりに数が多すぎる。だから、そいつら全員が嘆き悲しむような奴に、心臓を壊させよう。
「ぐ、ぅッ……」
唯一生き残った親友の首に手をかけて。彼の顔が苦痛に歪む。手を放すと、彼は苦しげに咳をしながら自分の首に触れた。
刻んだのは同じ痣。黒にまつわる同じ呪い。その無力さを償ってくれるなら、一緒に堕ちるところまで堕ちてくれ。
「歌ってくれよ、リヤン。神話にかぶれた英雄気取りの大馬鹿野郎が、魔女になる歌を――」
ああ、ああ、これからはなんと名乗ろうか。
前任者は【殺戮の魔女】。ひねりのない、つまらない異名だ。あの男は、きっとすべてを知っていた。だからあの男は、己を殺す狩人のことを贄と呼んだのだ。
けれど、その程度の名では人しか殺せない。もっと、もっとだ。世界のすべてを呪い、世界のすべてを飲み込むような名がほしい。魔女すら殺した、強大な魔女。魔女を殺し、人を殺し、神を殺し、世界を滅ぼす魔女にふさわしい名が。
待ち望むのは新たな狩人。永遠に続くこの呪いを継がせる者。英雄を夢見る愚か者に、かつての自分と同じ境遇を与えよう。自身を起点としてこの忌まわしき業を蔓延させる魔女には、一体どんな名が似合う?
「魔女の慟哭、告げるは災厄の訪れか。……人の短き栄華は終わりを告げて、世界は再びに絶望に包まれる――」
リュートをかき鳴らす友が紡いだその言葉に、青年は満足げな笑みを浮かべる――――ああ、いい名が見つかった!
この日、望まないままに魔女と為った青年は心身ともに魔女へと成った。世界に絶望をもたらす使徒にして悪徳の権化、あらゆる罪の象徴となる存在に。
最も野蛮にして最も惰弱、すなわち最も救えない魔女。その名は【災厄の魔女】カティーシス=リオット。幼い時から英雄に焦がれてそれを志し、夢を叶えて英雄と呼ばれるはずだった狩人の、成れの果てだ。
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