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暗い空間に水をかき分ける音が吸い込まれていく。溜まっている水は冷たく、くるぶしから下が靴の中と外の区別がつかないほどに濡れてしまっている今では、足の指の感覚がない。初めて味わうその感覚だけでもかなり足元がおぼつかなくなっているのに、目が見えないせいで何度も転びそうになる。周りはこの空間に踏み入れてから今まで、変わらぬ闇が支配している。しかしこの闇が、目が見えなくなっているせいのなのか、光が無いせいなのかは、判断がつかない。暗闇の中に自分や他人の呼吸だけが聞こえて、言いようのない不安が押し寄せる。
どのぐらい走っただろうか。二重構造になっている壁の間にある空間は、数百メートルほどしかなかったはずだ。それにも関わらず、もう何キロメートルも走っているような気がする。
「止まってください」
突然、リーシャが声を発した。またバグが現れたのかと思い、慌てて足を止める真広。すると、
「ぎゅ!」
「痛い!」
「ちょっ!」
人がぶつかって来たような衝撃が三回、背中を襲う。声から察して、クシャナ、伊織、イリックが勢い余って真広の背中に順番にタックルしてきたようだ。突然の超突を受け止めきれなかった真広は転びそうになり、ついつい剣から手を放し、両手を振り回してどうにか転倒することを阻止する。転んで濡れ鼠になるのだけは、どうにか防ぐことが出来たようだ。
「ふふ。待っていてください。今、灯りを用意します」
真広の行動を見て――今な暗闇で回りが見えている訳がないが、今のタイミングはそうとし言いようがない――楽し気に笑った後、リーシャが居ると思われる方向から剣を抜く金属音と、薄いガラスを割ったみたいな小さな音が聞こえてくる。
「眩し!」
同時に、眩い光が足元からあたりを照らし出し、真広は反射的に顔を手でかばう。後ろに居る三人もそれは同じらしく、小さなうめき声が聞こえる。
だが目がつぶれるほどの光だと思ったそれは、実際は蝋燭ほどの灯りだったらしく、真広の目はすぐに明るさに慣れてくる。ずっと光のない空間に居たせいで、目が過敏になっていただけのようだ。
「大丈夫ですか?」
真広たちが光になれたのを確かめながら、リーシャは光源をゆっくり頭上に掲げる。下から照らされていたものが上から照らされるようになり、物の陰影が見慣れた形に戻る。それでも、蛍光灯の灯りよりも相当オレンジがかった光には、少し違和感を覚える。電気の灯りではなく、蝋燭やランタンのような炎の灯りなのだろう。そんなもの、どこに隠し持っていたのだろうかと思いながら、真広は目が慣れたことを確かめながら、ゆっくり光に目を向ける。
「はい?」
向けた途端、目が離せなくなった。そこにあるのは、確かに炎だった。指先ほどの大きさの橙色の火がゆれている。それは良い。それに何もおかしなところはない。問題なのは、それの燃料だ。
炎は、なぜか剣の先端で燃え盛っていたのだ。
蝋燭の先で炎が輝くように、泰然自若として、剣を覆う鞘を燃やしている。
「リーシャちゃん、それ、何?」
クシャナや伊織、イリックもほとんど同時に気づいたようで、顔の横に伸びて来たクシャナの手が炎を指さす。それを見て少しだけ不思議そうな顔をした後、すぐに大きく頷いたリーシャは、剣を真広たちに向かって傾けながら説明する。
「ああ、これもフウミュです。炎を司るスピリッツに手を貸してもらっているんです。先ほどの爆発も、彼女らの力を借りました」
なるほど、よくわからないことだけは分かった。
「まあ、それについての詳しい説明は後程」
首を傾げる真広を見て、リーシャが表情を和らげて言う。だが、すぐに以前よりも気を引き締めて言う。
「今は、ここから出ましょう。ここを、見てください」
リーシャが指さす方に顔を向けると、振れれば届きそうな距離に、コンクリートの壁があった。間違いなく、反対側の壁だ。ただ、街から見えていたものとは違って、表面を黒い黴が覆っていたので、リーシャに指さされるまで全く気付かなかった。
壁の存在に気づいてからは、全員、なんとなく壁のほうに近づいていく。試しに壁の表面を中指で軽くノックしてみると、コンコンという音と感触が返ってくる代わりに、モフモフとした綿のような触り心地だけが伝わってくる。どちらかと言うと不快なその感触にすぐに手を引っ込めるが、ノックした部分には、わずかに白いコンクリートが覗いている。
この向こう、わずかに五m向こうに、見たことのない世界が広がっているのかと思うと、真広の心は興奮して、心臓の鼓動が早くなっていく。
この向こうにあるのがどんな世界なのか、真広にはわからない。でもそれはきっと、狭苦しくて、いつも息苦しい思いを心に抱えていた街よりも素晴らしい世界なのだろう。
向こうを透かして見ようとするごとく真剣に壁を睨む真広脇腹を、伊織が突く。そして真広の視線を自分に向けさせるために、
「兄様」
訴えかけるように言う。まだ真広を止めたがっているのだろう。そちらに顔を向けると、真剣な目で、真っ直ぐ真広のことを見返してくる。
だがその視線は、今の真広には届かない。真広の心は、すっかり壁の向こうに囚われていて、今は誰が何を言っても無駄であろう。その証拠に、真広は子どもをなだめるみたいに伊織の頭をポンポンとたたくだけで、真面目に取り合おうとしない。
「皆さま、追撃が無いとも言い切れません。そろそろここを突破したいと思いますが、よろしいですか?」
いつの間にか壁をたたいたり眺めたりしている真広たちの後ろに回っていたリーシャが、全員の意識が壁から離れたタイミングで声をかけてくる。
真広としては、文句など無い。心は既に壁の向こうなのだ。大きく頷く真広に続いて、クシャナがコクリと頷く。それを見て、イリックが慌てて同調する。
伊織だけが、ただ一人、何も言わずに真っ直ぐリーシャを見ていたが、リーシャはそれには答えずに、そっと何かを囁いて炎を消した。
再び暗闇が支配した空間の中で、熱めのお風呂ほどの温度の何かが手に触れる。凸凹として手に引っかかる細長い物体は、リーシャの剣だ。
「申し訳ないのですが……」
また鞘を持っていて欲しいのだろうということを察した真広は、それをきつく握りしめる。とたんに剣と鞘が擦れる澄んだ金属音が生じる。
「いきます」
剣を構えたらしいリーシャが言葉を言い終わるか言い終わらないかのうちに、例のリィーンと言う音が鼓膜を破らんばかりの音で響く。
音は、街の側にある壁を壊した時とは違い、十重二十重に、尽きることなく響く。壁を切り崩しているのだろう。高く綺麗な音に混じって、石が落下する音が時折真広の耳に届く。
「っ!」
随分と長い間、リーシャが壁を切る音を聞いていたような気がする。やがて一筋の眩い光が、真広の顔を白く染め上げた。




