5-3
急に静かになった世界に、虫の声が一つだけ聞こえた。真広が再び視線を外に戻すと、そこには剣を地面に突き刺したリーシャが立っていた。その周りには、サイコロ状の物体がいくつも転がっている。どうやら、それらは全てバグだった物らしい。サイコロの側面では、鉄とオイルの黒色を基調として、配線の赤や青、基盤の緑が現代アート風の模様を作っている。
その中心で顔にかかっていた髪の毛を整えたリーシャは剣を抜くと、こちらに歩いてくる。あれだけの戦いをこなしたというのに、その体にはほとんど汚れがついていない。自分は今何を目にしたのか。興奮冷めやらぬ頭で考えていると、家の中に戻って来たリーシャが床に剣を突き刺して、真広たちに手を差し出した。
「来て下さい! 早く!」
きっと、この手を握ったらここに戻って来られなくなるだろう。リーシャの手を見ながらそう思ったが、今の真広には迷いも、この手を取らなければ死ぬかもしれないとう恐怖もなかった。そこにあるのは前向きな気持ちだ。それだけを頼りにして、真っ直ぐに手を伸ばす。
それは、革新に似た気持ちだった。きっとリーシャと行けば、世界は大きく変わるだろう。きっと、鬱々とした日々とは、決別できるだろう。それも、世界が根本から覆るほどの勢いで。だからきっと、今手を伸ばさなかったら後悔するだろう。
しかし、その手は、あと少しでリーシャの手に届くというところで、止まってしまう。真広の意思ではない。誰かに、反対の手を引かれたのだ。
「兄さん!」
伊織だ。その眼は必死に何かを訴え、真広を引き留めようとするが、その言葉に貸す耳を、今の真広は持っていない。伊織を振りほどいてでも手を伸ばそうとするが、伊織も、絶対に行かせまいと、真広の手を全身全霊をかけて引っ張る。
きっと、普通に考えれば伊織の方が正しいのだろう。リーシャの手を取れば、今みたいな危険なことに巻き込まれることになるのは、明らかだ。でも、それでも……
「えい!」
「はい?」
突然、今度はリーシャの側から真広の体が引っ張られた。全身の神経が相手に集中していたせいで、真広と伊織は簡単にバランスを崩し、リーシャの方に転んでしまう。
「お、とと」
その手をリーシャが反射的に握って、真広が再び床に倒れることを防ぐ。
「「「あ……」」」
真広、伊織、リーシャの三人分の声が重なる。
「ふふーん」
そして、三人分の視線による集中砲火にさらされているクシャナは、会心の笑みでバカみたいな顔で口を開けている真広たちのことを眺める。
「じゃ、行こっか?」
あまつさえ、そんな言葉をのたまい、こちらに背を向けてしまう。相変わらず人を振り回すと言おうか、自由と言おうか、そんなクシャナの行動を受けて、少しの間、どうしていいのかわからなくなる。
「さ、早く!」
そのすきに、リーシャが真広の手を引き、走り始めるように促す。思考が停止している真広は、どうすることもできずに、ついつい誘われるままに足を動かしていた。
リーシャが作った穴をくぐって家から出てみると、そこには家の中から眺めていた以上の光景が広がっていた。まず目に着くのは、無残に風穴を開けられた道路と、真広の家だ。家は文字通り、蜂の巣のようになっていて、建築の知識がない真広の目からすれば、今にも自重に耐えかねて潰れてしまいそうだった。真広もリーシャがいなければ、今頃あの中でひき肉よりもひどいありさまになっていただろう。
人を襲わないはずのバグが、なぜこんなことをしたのだろうかと考えながら視線を道路や畑に移すと、手のひらよりも大きい薬莢があちこちに散らばり、先ほどバグが立っていたあたりには、巨大な弾倉が転がっているのも見える。しかし、真広が気になったのは、それらの光景よりも、周囲の静けさだった。真広の家の周りには、人っ子一人いないのだ。家一軒丸ごと蜂の巣にできる量の弾薬を使ったら、家の周りには人が集まってきていても不思議ではない。いや、集まって来ない方が不思議だ。
銃撃戦が行われているところまで出て行って観戦してやろうなどと言うことを考える人なんかいないと言われればその通りではあるのだが、それにしても、話し声一つしないのはおかしすぎる。いくら人家の少ない場所とはいえ、悲鳴を上げて逃げていく人の一人や二人はいてもいいはずだ。それすらもいないというのは、どういうことなのか。
気になった真広は、足を止めてもっとよく周囲の状況を探ろうとするが、
「急いでください! お願いです!」
すでに道を越えて畑の中に踏み入れているリーシャに促されて、緩めかけた歩調を元に戻す。
道を踏み越えて三十㎝ほど低くなっている畑の中に入ると、乾いた土が僅かに舞い上がる。今は晩春で、蚯蚓腫れのように盛り上がった畝の頂上には、植えられたばかりの苗が可愛らしくチョコンと座っている。植物で視界が遮られることはなさそうだが、反面、敵からよく見えそうだ。また、畝と畝の間には、ところどころ、資材や収穫した物を運ぶ為の小型モノレールの軌道が通っていて、足を取られないか心配だ。それでも、通路になっているところは土が踏み固められていて足が埋まるようなことが無いのが救いだろうか。
そんな中を、リーシャに促されるままに、壁がある方向に向かって真広は土に足を取られながらも必死に走っていく。もっとも、慣れない土の上であるということに加えて、焦っているせいなのか時々通路を踏み外して畝の斜面に足を取られてしまうので歩くよりはマシ程度の速さしか出ていないが。
それでもどうにかこうにか速度が上がって来たところで、今まで後ろを何度も振り向きながら走っていたリーシャが速度を上げて先に行ってしまう。真広たちがいるのは、壁から約三百mの地点。その距離を、リーシャは重力を感じさせない軽やかな動きで、ものの三十秒もしないうちに詰めてしまう。対して、真広は五十mほどしか進んでいない。
「兄様」
リーシャが居なくなるタイミングを待っていたのだろうか。今までは真広の後ろを走っていた伊織が畝を一つ飛び越えて隣の通路に移り、真広と並走する。
「どうした?」
軽く息切れしているせいで、これ以上言葉を続ける気になれない。
伊織は、何か言いたげにしばらくの間真広のことをじっと見つめていたが、やがて諦めた様に口を開いた。
「今からでも戻りましょう。あの人を捕まえて、それからバグの指示に従って。あの人についていくなんて、絶対にダメです」
口調は穏やかなのに、その声には強い意志が乗っていた。
「それは……」
その視線にどう答えたものかと、少し困ってしまう。今こうして走っているのには、言葉にできるほど確固たる理由があるわけではない。銃撃に追い立てられるままに来てしまったと言えばその通りだし、伊織の方に理があると言われれば反撃できない。だが、ここで引き返すことは、真広には出来ない。きっとここで手を引いてしまったら、もう二度とこんな出来事に出会うことはないだろう。だから……
「ん?」
改めて口を開こうとしたところで、伊織とは反対側から視線を感じた。そちらに視線を向けてみれば、クシャナが真広と並走していた。その顔は伊織と違って笑顔で、じっと真広を見つめている。
どうしたの、行かないの?
クシャナが、そう言った気がした。真広の手が、無意識のうちにクシャナの方に向かって動き――
「ああ、無事だったか」
始める寸前に、どうやら壁までたどり着いたらしい。剣を地面に突き刺して壁を触っていたリーシャが顔だけで振り返る。リーシャのそばまで走り寄った真広は、肩で息をしながら後ろを振り返る。左の方向に最寄り駅があり、そこから右方向に商店街が続き、それが途切れたあたりからは、人家を田畑の混じった風景が続き、そのずっと先には、巨大な十字架がこの中に住む人々を睥睨している。リーシャを運ぶときに通った駅から家までの道は、今やすっかり電気が消えて人の気配が失せている。家を出た時に感じ違和感はどうやら局所的なものではなく、真広たちの澄む区画全体にわたっての変化らしい。これだけ大規模な変化なら、普段であれば真広のマキナが教えてくれるはずなのだが、今日に限っては何も知らせてはくれなかった。そう思いながら駅と十字架を結ぶラインにちょうど直角になる直線を描くように視線を落としていく。それは、真広たちの家から現在位置を結ぶ線で、先ほど逃走してきた道だ。こうして改めて見てみると、あまり好きな街ではなかったが、感慨の一つや二つ湧いてくる。
「ああ、イリックか」
だがしかし、真広の感慨をぶち壊すようにして家からここまでのライン上で最後に目に入ったのは、息切れして膝に手をついているイリックだった。水面を浮いているところを助けて以降意識から消えていたせいで、てっきりあの場に残っているものとばかり思っていた。
「あ、た、り、ま、え、だ」
真広の言葉が聞こえてしまったのか、顔を上げたイリックが何か言っているが、荒い呼吸の間に一文字ずつ発音してくれるせいで、何を言っているのかいまいちよくわからない。




