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中納言邸へと向かう豪奢な牛車の中で、薄雪の体は小刻みに震えていた。
(また、あの場所へ戻るの……?)
幾重にも重ねられた最高級の絹の衣――雪解けを思わせる淡い白から深い青へと連なる美しい『襲』を着せられ、艶やかに梳きつけられた銀髪には真珠の飾りが挿されている。ほんの数日前まで、泥のような単衣一枚で暗い塗籠の冷たい床にうずくまっていた自分とは、まるで別人のようだった。ふかふかの茵に座り、高価な香の匂いに包まれていても、心に染み付いた恐怖は簡単には消えない。
「中納言邸」という言葉を聞くだけで、胃の腑が鉛のように重くなり、背筋に冷たい汗が滲む。カビと埃の匂い、すえた残飯の味、そして家族からの蔑みの視線が、条件反射のようにフラッシュバックしてしまうのだ。
「怖いか、薄雪」
隣に座る堂々たる威丈夫――鎮狄将軍・源琥珀が、心配そうに黄金の瞳を細めた。大きく、剣ダコのできた武人の手が、薄雪の冷たくなった小さな手を包み込む。その途方もない熱と分厚い手のひらの感触に、薄雪はわずかに強張っていた息を吐き出した。
「……申し訳、ありません。琥珀様がご一緒してくださるのに、私、どうしてもあの家の人たちの顔を思い出すと……体が、すくんでしまって……」
「謝る必要などない。あのような地獄で長年虐げられてきたのだ。恐ろしくて当然だ」
琥珀は薄雪の震える肩を抱き寄せ、その銀髪にそっと口付けを落とした。
「だが、案ずるな。お前を二度とあの薄暗い部屋には戻さないし、誰にもお前を傷つけさせはしない。これは、お前が過去と決別し、俺の妻として堂々と生きていくための『儀式』だ。俺がお前を、すべてから守り抜いてみせる」
その力強く、甘い誓いの言葉に、薄雪はこくりと頷いた。
中納言邸の正門が開き、車が中庭へと入る。
御簾の隙間から見えたのは、美しく手入れされた池と、季節の花々が咲き乱れる色鮮やかな庭園だった。同じ屋敷に住んでいながら、最奥の窓のない部屋に閉じ込められていた薄雪は、自分の家の庭がこんなに美しいことすら知らなかった。自分がいかに世界から切り離され、存在を消されていたのかを改めて突きつけられるようだった。
広大な寝殿造の豪奢な広間は、水を打ったような静寂に包まれていた。
上座に据えられた円座に琥珀が腰を下ろし、薄雪はその隣に寄り添うように座った。
目の前には、薄雪を『忌み子』として幽閉し、死の縁談を押し付けた父・中納言と、継母、そして異母妹の紅梅が平伏している。
彼らがゆっくりと顔を上げた瞬間、三人の顔に強烈な驚愕と混乱が走ったのがわかった。
無理もない。彼らが『魔物の囮にされて無惨に死んだ』と信じて疑わなかった薄雪が、国で最も権力のある最強の武将の正室として、この世のものとは思えないほど神々しく着飾って凱旋してきたのだから。
継母の扇を持つ手がわななき、中納言は目を丸くして口をぱくぱくとさせている。
(お父様……お母様……)
薄雪は無意識に肩をすくめた。彼らと目が合うだけで、反射的に「叩かれる」「罵られる」という恐怖が蘇る。しかし、中納言の口から出たのは、薄雪が一度も聞いたことのないような、媚びへつらう猫撫で声だった。
「……将軍殿。そ、その、本日は三日夜餅の儀式ということで……我が家にとりましても、大変な名誉でございます……!」
中納言が揉み手をして、引きつった愛想笑いを浮かべる。
その浅ましい姿に、薄雪は呆然とした。
自分を殺そうとし、虫ケラのように扱っていた絶対的な権力者である父が、琥珀の機嫌を取ろうと必死にへりくだっている。彼の頭の中ではすでに、最高軍事権力者である琥珀との「縁戚関係」をいかにして出世に利用するかという、どす黒い計算が渦巻いているのが、薄雪にもはっきりとわかった。
「まさか、あの不器量な薄雪が、将軍殿の正室として迎えられる日が来るなんて。お姉様、本当によかったわね。これで少しは、中納言家の役に立てるというものですわ」
静寂を破るように、紅梅が扇で口元を隠しながらチクリと棘のある声で言った。
その言葉の響きに、薄雪の体がビクリと跳ねる。紅梅の手から放たれる火の呪力で、髪や肌を焼かれた痛みの記憶がフラッシュバックする。
紅梅の目は、薄雪の透明な美しさと、彼女が纏っている自分など一生着られないような一級品の装束に向けられ、醜い嫉妬の色でドロドロに濁っていた。
(どうせ、珍しい銀髪を面白がっているだけよ。すぐに見飽きて捨てられるに決まっているわ)
そんな紅梅の心の声が聞こえてくるようで、薄雪はきゅっと唇を噛み締め、俯いた。やはり自分は、ここでは誰からも祝福などされないのだ、と。
だが、そんな薄雪の悲屈な思いを打ち砕くように、隣の琥珀の空気が一変した。
「不器量、だと?」
地を這うような、ぞっとするほど低い声。
広間の空気が一瞬にして凍りついた。昨夜まで自分に甘い言葉を囁き続けていた男と同一人物とは思えない、戦場の死神のような冷徹な響きだった。
次の瞬間、琥珀の全身から青白い稲妻がバチバチと音を立てて弾け、圧倒的な「雷」の呪力が広間全体を制圧した。
「ひぃっ!?」
紅梅が悲鳴を上げて腰を抜かし、継母が恐怖で顔面を蒼白にする。
琥珀はゆっくりと立ち上がり、薄雪を背後にかばうようにその前に立った。その広くて逞しい背中が、薄雪の視界から家族たちの醜い顔を完全に遮ってくれる。弾ける雷の呪力は凄まじい威圧感だったが、薄雪にだけは少しの熱も痛みも与えず、まるで結界のように優しく彼女を包み込んでいた。
「貴様らの目には泥でも詰まっているのか。我が妻のこの透明な美しさが、そしてその身に宿る気高く神聖な光が分からぬとは。……いや、分からなくて当然か。五行の呪力などという矮小な力に固執する、浅ましい俗物どもにはな」
「しょ、将軍殿! 何を仰られますか! 相手は我が娘とはいえ、忌み子の銀髪……」
「黙れッ!!」
ドォォォォンッ!!
琥珀の怒号とともに、凄まじい落雷が中庭の巨大な松の木を直撃し、轟音とともに真っ二つに裂いた。
鼓膜を破るような音と衝撃に、中納言一家は全員が床に平伏し、ガタガタと震え上がった。
薄雪は息を呑んだ。怖い、のではなかった。ただ、圧倒されていたのだ。
自分のために。出来損ないの忌み子である自分のために、国で一番強く、気高いこの人が、本気で怒り狂ってくれている。
今まで、誰も薄雪のために怒ってくれる人などいなかった。理不尽な扱いを受けても、ただ暗闇の中で耐えるしかなかった。それなのに今、最強の武将が己の全存在をかけて、彼女の尊厳を守ろうとしている。その事実に、薄雪の胸の奥が熱く粟立った。
「薄雪を『忌み子』と呼び、薄暗い塗籠に閉じ込めて残飯を食わせていたこと、俺が知らぬとでも思ったか? そなたらが彼女に強いてきた冷遇と虐待は、本来ならば一族郎党を極刑に処しても足りぬほどの大罪だ」
「お、お許しを……! 私どもはただ、魔物を引き寄せるという言い伝えを恐れ……!」
「言い訳など聞かぬ」
琥珀は冷酷に見下ろす瞳で、かつての薄雪の家族たちを一刀両断した。
「本日をもって、中納言家と薄雪の縁は完全に切れるものと心得よ。俺は結納金など一銭も払わぬ。貴様らのような外道と縁戚になるつもりなど微塵もない。今後、我が妻の名を軽々しく口にすることすら許さぬ。もし薄雪に少しでも近づこうとしたり、良からぬ噂を流したりすれば――次はこの屋敷ごと、灰燼に帰す」
それは、瑞鳳国最強の武将による、完全なる絶縁と宣戦布告であった。
圧倒的な暴力と権力の前に、中納言たちは返す言葉もなく、ただ床に額を擦り付けてガチガチと歯の根を鳴らし続けることしかできない。
さきほどまでの権柄ずくな態度は欠片もなく、嵐の前の虫ケラのように命乞いをする惨めな姿。
その様子を琥珀の背中越しに見つめていた薄雪の目から、ふっと涙がこぼれ落ちた。
(ああ……そうか)
薄雪の中で、長年彼女の心を縛り付けていた真っ黒な恐怖の呪縛が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
お父様もお母様も、紅梅も。絶対的で、恐ろしくて、自分を支配する神様のような存在だと思っていた彼らは、ただの弱くて、小さくて、浅ましい人間たちだったのだ。彼らが与えてきた苦痛は本物だったが、彼ら自身は決して恐れるような存在ではなかった。
今の彼女の目には、床に這いつくばる家族たちがひどくちっぽけに見えた。
「行くぞ、薄雪。こんなむさ苦しい場所に、お前を長居させるわけにはいかない」
琥珀が振り返り、血も凍るような先ほどの怒気はどこへやら、とろけるような甘い声で薄雪に手を差し伸べた。
「……はい。琥珀様」
薄雪は涙を拭い、ひまわりのような微笑みを浮かべてその大きくて温かい手を取った。
ゆっくりと立ち上がり、かつての家族たちを見下ろす。
不思議と、もう彼らに対する恐怖も、憎しみも湧いてこなかった。哀れみすら感じない。彼らはもう、自分の人生には一切関わりのない、遠い世界の他人なのだ。
(さようなら、お父様、お母様、紅梅。私はもう、二度とここへは戻りません)
薄雪は静かに目を伏せると、琥珀の力強いエスコートのもと、一切の未練なく実家を後にした。
足取りは羽のように軽く、背筋は真っ直ぐに伸びていた。
暗く冷たい塗籠の記憶は、愛する人とつないだ手から伝わる確かな熱によって、綺麗に溶け去ろうとしていた。




