6
豪奢な牛車に揺られ、都の北方に位置する広大な敷地――鎮狄将軍・源琥珀の邸宅へと到着した薄雪は、その重厚な門構えを見上げて息を呑んだ。
琥珀の邸宅は、色鮮やかな花々や華美な装飾で飾られていた中納言邸とは、完全な対極にある場所だった。煌びやかな装飾は最小限に抑えられているが、柱の太さや建物の骨組みは堅牢そのもので、一歩足を踏み入れただけで、ここが外敵を退ける強固な要塞でもあることがわかる。あちこちに張り巡らされた高度な魔除けの結界の気配と、手入れの行き届いた武具の匂いが微かに漂う、武門の頂点に立つ家にふさわしい質実剛健さと威風堂々たる空気を纏っていた。
薄雪は無意識に琥珀の袖をぎゅっと握りしめた。
「どうした、薄雪。足元が暗いか?」
「いえ……その、あまりに立派なお屋敷で。私なんかが、本当に入ってもよろしいのでしょうか」
「何を言う。この間見たばかりであろう?」
「いえ、あの時は、そんな余裕ありませんでしたから……」
琥珀が薄雪の家に押しかけてきた時のことを思い出した。
ほんの数日前の出来事が、薄雪には随分と昔のことのように思えた。
「お前はこの屋敷の女主となるのだ。何も恐れることはない、堂々としていればいい」
琥珀は優しく微笑むと、薄雪の腰をしっかりと抱き寄せた。
玄関の巨大な扉が開かれると、広大な土間と板敷の広間には、大勢の使用人や武官たちがずらりと並んで二人を出迎えた。松明と灯籠の明かりが、彼らの顔を明るく照らし出している。
その光景を見た瞬間、薄雪の身体がビクッと強張った。長年の習慣とは恐ろしいもので、大勢の他人の目に晒されることへの恐怖が、反射的に頭をもたげたのだ。
(私の銀髪は『無能』の象徴。攻撃的な五行の呪力を持たない私は、武門の最高峰であるこの源家にとっては、最も忌むべき存在のはずだわ……)
薄雪は俯き、長い袖で自身の銀色の髪を隠すようにした。
(お父様がそう言っていたように、みんなきっと私を気味悪がる。いくら将軍様の命令とはいえ、忌み子を仕える主人と認めるなんて、嫌に決まっている。……琥珀様が優しくしてくださるのも、きっと私が珍しいから。この髪の色に、一時的な興味を持たれただけなのだわ。いつか必ず、飽きられて捨てられる)
中納言邸との縁が切れて自由になれた喜びはあったが、心に深く刻まれた自己評価の低さと世間一般の「銀髪=不吉な忌み子」という認識の呪縛が、薄雪の心を冷たく締め付けていた。
しかし、琥珀は隠れようとする薄雪を背中から優しく押し出し、並み居る者たちの前に堂々と進み出た。
「皆の者、待たせたな。俺の妻、薄雪だ」
琥珀のよく通る声が玄関ホールに響き渡る。
すると、使用人たちの先頭に立っていた初老の家令が一歩前へと進み出た。背筋の伸びた、いかにも厳格で隙のない初老の男だ。薄雪は思わず息を呑み、厳しい拒絶の言葉を投げつけられるのではないかと肩をすくめて目を閉じた。
だが、家令は薄雪の顔を真っ直ぐに見つめると、その厳格そうな顔を思い切り綻ばせ、深い慈愛に満ちた笑みを浮かべて、ゆっくりと深く頭を下げたのだ。
「奥様、お帰りなさいませ。ようこそ、源家へ。私ども一同、奥様がお越しになるこの日を、一日千秋の思いで心待ちにしておりました」
「え……?」
思いがけない歓迎の言葉に、薄雪は目を丸くして間の抜けた声を漏らしてしまった。
「お待ちしていた、とは……」
「奥様」
家令は静かに首を振り、薄雪の自虐の言葉を遮った。その瞳には、蔑みや恐れの色は微塵もなく、ただ純粋な敬意と深い感謝の念が宿っていた。
「奥様は、数年前、北の最前線から瀕死の状態で戻られた旦那様の式神を、そして絶望の淵にあった旦那様の御心を救ってくださった大恩人であらせられます。旦那様からそのお話を伺い、私どもは皆、いつかその御恩に報いることができる日を、そして奥様を我が家にお迎えできる日を、ずっと夢見ておりました」
家令の言葉に呼応するように、後ろに控えていた侍女たちや、屈強な武官たちも次々と温かい笑顔で深く頷いた。
「奥様、お待ちしておりました。旦那様を救っていただき、本当にありがとうございます」
「ずっと、琥珀様が心からの笑顔を見せる日を心待ちにしておりました。奥様がいらしてくださって、琥珀様はまるで生まれ変わったようです」
「奥様のために、お好きな甘いお菓子や、美しいお着物をたくさんご用意しておりますよ」
口々に紡がれる、優しくて温かい歓迎の言葉。
誰一人として、薄雪を「忌み子」として蔑む者はいなかった。それどころか、血生臭い過酷な戦場に生きる主君の心を救った尊い存在として、皆が心からの敬意を持って彼女を見つめている。
家令が、薄雪の銀色の髪を眩しそうに見つめて言った。
「その穢れなき銀の御髪こそ、戦いと死の気配に明け暮れる我が家に差した一条の光。希望の証でございます」
その言葉を聞いた瞬間、薄雪の中で長年張り詰めていた太い糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
これまで、誰かに優しくされることなどなかった。期待すれば裏切られ、傷つくだけだと思い知らされてきた。だから、心を殺して、何も感じないように、石のように冷たい塗籠の隅でじっとうずくまって生きるしかなかったのだ。
けれど、琥珀の温かい手と、この屋敷の人々の真っ直ぐで優しい瞳が、彼女が必死に築き上げてきた心の防壁を、あっけなく打ち砕いてしまった。
「あ……ああ……っ」
薄雪の大きな翡翠色の瞳から、堰を切ったように大粒の涙がポロポロと溢れ出した。
自分は忌み子だ。生きている価値などない。そう信じ込んでいたのは、他でもない薄雪自身だったのだ。
だけど、ここは違う。誰も彼女を叩かない。罵らない。蔑まない。
生まれて初めて、「ここにいてもいいのだ」「生きていていいのだ」と心から思える、安全で、温かくて、自分という存在を全肯定してくれる場所が、ここにあったのだ。
「うぅ……っ、ひぐっ……あぁぁっ……!」
一度溢れ出した涙は、もう止めることができなかった。心の奥底の冷え切った悲しみの塊が、溶けて外へ流れ出していく。子供のように声を上げて泣きじゃくる薄雪。
「お、おい! 泣かないでくれ、俺の愛しい人。お前が泣くと、俺の胸まで締め付けられて息ができなくなる……っ!」
琥珀が血相を変えて慌てふためき、薄雪をきつく抱き寄せる。その大きな親指で、壊れ物を扱うようにそっと涙を拭おうとするが、次から次へと溢れる涙に全く追いつかない。
戦場では鬼神のごとく恐れられ、「血も涙もない氷の将軍」と異名をとる最強の武将が、一人の少女の涙にオロオロと狼狽している。そのあまりのギャップに、周囲の使用人たちからクスクスと微笑ましい笑い声が漏れた。
その温かな笑い声すらも、今の薄雪にとっては、春の陽だまりのような心地よい音楽のように聞こえた。
「将軍様……いいえ、琥珀様。私、私……っ」
薄雪は琥珀の胸に顔を埋め、その頑丈な衣をぎゅっと握りしめた。
「私、本当に……幸せです。生きていて、よかった」
「ああ。俺が一生、お前のその笑顔を、その涙を、すべて守り抜いてみせる。俺の命に代えてもだ」
琥珀は薄雪の頭を優しく撫でながら、皆の前で堂々と、しかしこの世の誰よりも甘い声で誓いを立てた。
その夜、薄雪は琥珀の邸宅の最も奥深く、厳重な結界に守られた豪奢な寝所で、これまでにないほど深く穏やかな眠りについた。
肌触りの良いふかふかの茵。最高級の絹の掛け布団。そして何より、自分を心から愛し、その強い腕で包み込んでくれる夫の体温。
もう、カビ臭い冷たい床で震える必要も、いつ怒声が響くかと他人の足音に怯える必要もない。
彼女の人生は、長く厳しい冬を越え、今日この日をもって完全に新しく生まれ変わったのだ。
しかし――。
二人が穏やかな夜を過ごす、その同じ頃。
瑞鳳国の北に位置する広大な国境線の夜空が、不吉な赤黒い瘴気によってどろどろと染め上げられていた。
空を覆い尽くすほどの巨大な黒雲。いや、それは雲ではない。大陸の覇権を争う遊牧異民族のシャーマンたちが、暗黒の呪術で生み出した濃密な死の瘴気だ。
その瘴気にあてられ、狂暴化した無数の魔物たちが、血走った目で南下を始めていた。
「結界が持たないぞ!」
「魔物の数が多すぎる! 本陣に援軍の要請を!」
国境を覆う強固な呪力の結界が、無数の異形の爪牙によって不気味な軋みを上げ、火花を散らす。北の防人たちが絶望的な悲鳴を上げる中、大地を揺らす地鳴りと、天を焦がすような邪悪な炎が国境線を焼き尽くそうとしていた。瑞鳳国を揺るがす、未曾有の危機が迫っていた。
そして、遠く離れた都の将軍邸。
琥珀の腕の中で穏やかな寝息を立てる薄雪の銀髪が、天窓から差し込む淡い月光を吸い込むように、突如として神秘的な霊光を放ち始めた。
チカチカとした微かな瞬きから、やがてそれは部屋全体を淡く照らし出すほどの、清廉で神聖な光の帯となって薄雪の髪を揺らめかせる。
それはまるで、北の空から押し寄せる強大な「闇」の気配に本能で呼応し、己の内に眠る絶対的な「光」の力が、真の覚醒を始めたかのような、美しくも恐ろしい輝きであった。
長年虐げられ、「無能」の烙印を押されていた少女が持つ、希少にして強大な『治癒と浄化の霊力』。
それが、この国を滅亡の危機から救い、最愛の夫である琥珀の運命を大きく左右する波乱の戦いへと巻き込まれていくのは、もう少し先の話である。




