02 紅之蘭 著 『天才紅教授の魔法講義 其の二十六』
梗概/黄戸島村立大学魔法科講師・紅教授と縫目助教の日常。縫目ちゃん失踪事件の真相。
其の二十六 縫目ちゃんの失踪(1/6)復活
第1話 3LDK官舎のシェアルーム
学外の人間が恐怖する私の〝悪女の仮面〟が、職員用官舎の扉を閉めた瞬間、音を立てて崩れ落ちる。
「……おかえりなさい、紅教授。ずいぶんと遅いお帰りですね」
リビングのソファにちょこんと座り、ふくれた頬を丸めて私をジト目で睨みつけてくる助教の縫目ちゃんがそこにいた。
生真面目に組まれた両腕。大学での無茶な命令をすべて実務へと落とし込んでくれる優秀な助教は、家に戻れば私の不摂生を監視する小姑へと変貌する。
「縫目ちゃん、そんなに怒るんじゃないわ。島村の古狸に少し足止めを食らってね」
「また島村学科長ですか。……教授、鼻の下が伸びていますよ。ちっ」
あからさまに舌打ちをして、縫目ちゃんはぷいっとそっぽを向いた。ファザコンである彼女にとって島村は憧れであり、同時に私が島村と近づくのが気に入らないらしい。分かりやすい子供っぽさだ。
「そんなに拗ねるんじゃないわ。ほら、今日のご買出しで君の好きな、ちょっと苦めのママレードを使ったタルトを買ってきたのよ」
「……子供扱いしないでください」
口では突き放しながらも縫目ちゃんの耳たぶが嬉しそうに跳ねる。彼女はトトトと近づくと、私の白衣の裾を一瞬だけきゅっと掴んだ。
「靴下が片方、裏返しよ。ほら、脱ぎなさい」
「言われなくても、いま直そうと思っていました。教授はいつも一言余計です」
小さな唇を尖らせながらも、縫目ちゃんは私の胸元へと観念したように頭をあずけてきた。文句を並べながらも結局は甘えてくる彼女の髪を細い指先で梳いてやると、小さく安堵のため息を漏らした。
「御屋形様。大変です。冷蔵庫の缶ビール、誰かが一本盗み飲みしました」
そこへ、甲冑を脱いだばかりの縦巻き金髪騎士・ジャルジェさんが、大粒の涙を流してリビングに飛び込んできた。
「金髪騎士、そう騒ぐんじゃないわ。高潔な戦士なら、麦酒の一本くらいで――」
「守衛長、静かにしてください。あれなら、夕飯の準備を全く手伝わない教授への罰として、私が料理酒の代わりに肉の煮込みに使いました」
縫目ちゃんが冷徹な正論を、ピシャリと言い放つ。
「えっ。姫様、私の楽しみが……。ああ、あんな黄金の泡立ち、我が故郷の領地では労働者どもの安酒だと侮っていましたが……あの喉越しを知ってしまった今の私には、至高の癒やしだったというのに……」
ショックでよろめき、貴族のプライドを日本の缶ビールに粉砕されているジャルジェさんを無視して、縫目ちゃんはエプロンの紐をきゅっと結び直した。すっかりお母さんのような顔でキッチンへと戻っていく。
ジャルジェさんは、官舎一房の世帯主である私を、「御屋形様」と呼ぶ。縫目ちゃんは私の娘のようなものだから、「姫様」だ。
エプロン姿の縫目ちゃんが、
「ほら、お二人とも。手を洗って席についてください。すぐにご飯にしますから。教授、今夜はワインなんてありませんからね。お茶で我慢してください」
キッチンから漂ってきたのは、酸味を含んだ麦芽の豊かな香りと、じっくり火を通された肉の重厚な脂の匂いだった。
今夜の主菜は、彼女が腕を振るった『豚肩ロース肉の麦酒煮込み』。ジャルジェさんが楽しみにしていた液体は、厚手の鋳物鍋の中で肉の繊維を柔らかくほぐし、玉ねぎの甘みと混ざり合って、深く艶やかな琥珀色のソースへと昇華されていた。
食卓の中央に据えられた鍋の蓋が開けられると、白い湯気とともに温かみのある香りが広がる。
「素晴らしい出来映えね、縫目ちゃん。君の術式構成能力は料理の火加減でも正確無比だわ」
私がそう言ってナイフを手に取ろうとすると、その手元を、ジャルジェさんが真剣な眼差しで見つめていた。彼女は背筋を限界まで伸ばし、戦場での軍議に臨むかのような厳粛な面持ちで椅子に腰掛けている。
「御屋形様。肉の切り分け、すなわちカービングは、その領地を統べる主君の領域であります。我ら末端の騎士は、天より分かち与えられる恩寵のごとく、お皿に分けていただいたそれを、ありがたく受領するものなのだ……と、我が家門の騎士規律にも厳格に定められております。ですから、どうかその神聖な大役をお果たしください」
どうやら彼女の故郷の異世界では、主膳の肉を切り分ける行為は家長の権威を示す象徴であるらしい。現代日本の官舎でそこまで大真面目に語られると、おかしいのを通り越してどこか気高さを感じてしまう。
「分かったわ、守衛長。君の騎士道精神に敬意を表して、私が直々に執り行いましょう」
私は微笑を浮かべながら、大きなフォークで肉を押さえ、大ぶりのナイフを滑らせた。ビールのおかげで柔らかくなった肉は、刃を当てるだけで吸い込まれるように綺麗に切り分かれていく。それぞれの皿に均等に肉を盛り付け、ソースをたっぷりかけて差し出すと、ジャルジェさんは両手で恭しくそれを受け取り、深く一礼した。
「ありがたき幸せにございます、御屋形様」
その隣で、縫目ちゃんが小さくため息をつきながら自分の皿を引き寄せる。
「ジャルジェさん、ここは官舎なんですから、そんなに畏まらなくていいんですよ。お肉が冷めてしまいます」
「そうはいきません、姫様。礼節を失った騎士は、ただの暴力装置に成り下がってしまいます」
そう言いながらも、ジャルジェさんは待ちきれない様子でフォークを肉に突き刺し、口へと運んだ。次の瞬間、彼女の榛色をした鷹のような美しい瞳が、驚きで見開かれた。
「……っ。なんという柔らかさ。口の中で肉の繊維がほどけていきます。それに、このソースの深み……私が楽しみにしていた麦酒の苦みが、玉ねぎの甘みと同化して、コクを生み出しています。姫様、これはまさに宮廷の晩餐にも引けを取らない至高の皿です」
「ふん。私の計算に間違いはありませんから。ビールの炭酸と有機酸が肉のタンパク質を分解し、麦芽の風味が臭みを完全に消し去ることは、事前の演算で証明されていました」
縫目ちゃんはツンとすました顔でマッシュポテトを口に運びながら、嬉しさを隠しきれずに頬を微かに緩めている。
私は静かに縫目ちゃんに淹れられた温かいお茶の湯呑みを傾け、切り分けた肉を口に含む。香ばしい麦の余韻が鼻腔を抜け、濃厚でありながらもしつこさのないソースが、肉の旨味を完璧に引き立てていた。
「今夜はワインがないのだけが悔やまれるけれど、このお茶の渋みも、肉の脂を流してくれて悪くないわね。ごちそうさま、縫目ちゃん」
「どういたしまして。……教授が大人しくお茶を飲んでくれて安心しました」
食事が終わると、ジャルジェさんは満足感に満ちたため息をひとつつき、決然とした態度で立ち上がった。
「御屋形様に肉を切り分けていただき、姫様に極上の料理を振る舞っていただいたのです。ならば、残された名誉ある任務――皿洗いは、このジャルジェが全霊を賭して遂行いたします。油汚れの一片たりとも、我が防衛線を突破させはしません」
「ええ、頼んだわよ、守衛長。君の戦果を期待しているわ」
流し台へと向かう金髪騎士の背中を見送りながら、私はソファへと移動し、買ってきたタルトを切り分ける準備を始める。キッチンからは、食器が触れ合う軽快な音と、縫目ちゃんがジャルジェさんに、「水の無駄遣いです」と注意する小気味よい声が聞こえてくる。
学内での私は誰も寄せ付けない絶対的な悪女として君臨し、指先一つで男どもを手玉に取る方法も知っている。けれど、この3LDKの狭い官舎を満たす、温かい肉の香りと彼女たちの賑やかな声のなかにいるときだけは、ビールなみに冷えた私の感情も、根雪を解かす春の陽気のようだった。
(第1話・了)
登場人物
01 紅教授(結城紅子):年齢不明の魔法使い。年齢不詳。八百比丘尼という説がある。愛車はサイドカー仕様九九九CC、ミリッター解除のスズキ・KATANA。
02 縫目助教(縫目フラ子):二十六歳。ロリ体型。紅教授の弟子。
03 ジャルジェ:紅教授が異世界からお持ち帰りした女騎士。バン・キュッ・ボン・ズガーンな九頭身スーパーモデル体型。縦巻金髪。愛馬は白のシルバーシップ。略して〝シルシ〟
04 メガネ、カブ、コゾウ。大学二年の変態三人衆。
05 管狐:紅教授が拾って来た式神。ペット。
06 島村学科長:ロマンスグレイのイケオジ。紅教授の元カレで、ファザコンな縫目助教が片思いしている。




