合理的(模倣)と「社会の切り替え」の仮説
まえがき
この物語では、「合理的(模倣)」という考え方を使って、個人の意識と社会の動きについて考えています。
ただし、ここで描かれていることが、実際の歴史や現在の社会でそのまま起きていると断言するものではありません。
私が考えている「合理的(模倣)」は、もともと社会についての理論ではなく、もっと個人的な疑問から生まれたものです。
それは、人間の意識は、本当に連続しているのだろうか、という疑問です。
もし意識が、私たちが普段感じているような完全な連続体ではなく、その直前の意識状態を何らかの形で引き継ぎながら成立しているのだとしたら。
そして、人間がそのような不完全な意識を持ちながら生活しているのだとしたら。
人間は、自分自身の直前の状態を「合理的なもの」として模倣しながら、次の判断をしているのではないか。
私は、その状態を個人的に「合理的(模倣)」と呼んでいます。
もちろん、これは科学的に証明された意識の仕組みを説明するものではありません。
しかし、仮にそのような性質が人間の意識にあるとしたら、それは個人だけで完結するものではなく、社会との間にも何らかのつながりを持つのではないか。
一人の人間が、自分の直前の状態を模倣する。
その人間が他者の行動を見て、それを模倣する。
さらに、その行動を模倣した人々が集団をつくる。
そうしていくうちに、個人の中にある「合理的(模倣)」が、社会の中にも現れてくる可能性がある。
もしそうだとすれば、社会の大きな出来事も、単に「国家が判断した」「組織が決定した」というだけではなく、その内部にいる一人ひとりの意識の連続から生まれているのかもしれません。
そして逆に、社会が形成した合理性が、今度は個人の判断を縛ることもある。
この物語は、そのような個人と社会のつながりが存在すると仮定したら、世界はどのように見えるのかを考えるためのものです。
歴史上の出来事や現在の社会について、ここで描かれる解釈が正しいと主張するものではありません。
ただ、
「もし人間の意識が、完全な連続ではなく、直前の状態を不完全に模倣しながら続いているのだとしたら」
という、最初の小さな疑問から始めてみます。
そして、その小さな疑問が個人の外側へ広がったとき、そこに社会というものとの、奇妙なつながりが見えてくるのではないか。
これは、その可能性を考えてみた仮説です。
「合理的(模倣)」を、直前まで成立していた合理性を次の判断にも引き継ぐ性質だと仮定する。
個人の場合なら、
「昨日これでうまくいった」
→「今日もこれをする」
この状態は意識しなくても状態が維持される・・・
しかし、これが社会全体に広がると、
「社会はこれを正しいとしている」
→「自分もこれをする」
すると、社会の中に一つの**「合理性の型」**が形成される。
問題は、この型が一度形成されると、個人一人ひとりが疑問を持っていても、簡単には変更できないことだ。
日本の1945年をこの仮説から見る
太平洋戦争中の日本社会では、
戦うこと
↓
国家を守ること
↓
正しいこと
という合理性が形成されていた。
もちろん、すべての日本人が同じ考えだったわけではない。しかし、国家・軍・学校・地域社会など、様々なシステムがその方向へ人々を動かしていた。
そこで1945年、戦況が決定的に悪化し、天皇が終戦を受け入れる意思を示した。
「戦い続ける」
という、それまでの合理性を支えていた中心的なシグナルが失われ、
「戦争を終える」
という新しい合理性が社会に提示された。
ここで重要なのは、全国民を武力で鎮圧して戦争をやめさせたわけではないということだ。
もちろん終戦までには軍内部の抵抗もあり、単純な一瞬の切り替えではなかった。それでも、国家の中心から発せられた終戦の意思が、社会全体の判断を切り替えるうえで大きな役割を果たした。
もしこれを「合理的(模倣)」として表現するなら、
社会が模倣する対象そのものが変化したと考えられる。
そこから見えてくる日本社会の特徴
ここから、「日本人は合理的(模倣)が強い民族なのではないか」
と考えたくなる。
日本社会では、社会全体が共有する合理性が形成されると、それを個人が一人ずつ変更することは難しい。
そして同時に、
その合理性を変更する強い社会的シグナルが現れると、社会全体が比較的短期間に新しい合理性へ同期する可能性がある。
という仮説のほうが適切だろう。
つまり、
「変わりにくいが、変わるときには一気に変わる」
という二面性である。
イランの問題になる
現在のイランについて考えると非常に怖い構造が見えてくる。
イラン社会にも、長い歴史の中で形成された、
資源を外国に支配されない
↓
国家の主権を守る
↓
外国勢力の介入に抵抗する
という合理性が存在している可能性がある。
そこには当然、
「現在の政府に不満がある」
という合理性も同時に存在できる。
つまり、
反政府であることと、外国による体制転換に反対することは矛盾しない。
むしろ外国から最高指導者が殺害されれば、
「政府への不満」
よりも、
「外国から国家を攻撃された」
という新しい問題が前面に出てくる可能性がある。
すると、それまでの合理性が消えるどころか、
「国家を守らなければならない」という合理性が強化される可能性さえある。
だから「指導者を倒す」と「社会を変える」は違う
ここが一番重要なところだと思う。
指導者を殺すことは、人間を排除することであって、
その人間を支えていた社会の合理性を消すことではない。
むしろ、その合理性が長い歴史の中で形成されたものであれば、それを書き換えるには時間が必要になる。
そして、その時間を待たずに外部から武力を加えると、
古い合理性
↓
外部からの攻撃
↓
「国家を守らなければならない」
↓
古い合理性の強化
という逆方向の循環が起こる可能性がある。
そして、ここに「合理的(模倣)」の弱点がある
合理的(模倣)が、
「現在の状態から見て、次に合理的な行動を選ぶ」
という性質だとすると、
問題は、
その行動を実行した瞬間に、現在の状態そのものが変わってしまう
ことです。
つまり、
Aという状況を見てBを選択する。
しかしBを実行した瞬間、AではなくCという新しい状況になる。
それなのに次の判断でも、Aから導いた合理性を使ってしまう。
これが連鎖すると、非常に危険です。
そして国家規模になると、
「指導者を排除すれば体制が崩れる」
という一つの合理的判断から始まった行動が、
「外国に攻撃された」
→「国家を守る」
→「報復する」
→「さらに攻撃する」
という全く別の合理性を生み出してしまう。
「時間がないと解決しない問題」
という言葉は、この仮説のかなり重要な部分だと思います。
社会の合理性は、爆撃によって書き換えることはできない。
書き換えるとすれば、
経験
↓
認識
↓
新しい行動
↓
その行動の成功
↓
新しい行動が模倣される
という時間のかかる過程になる。
そして1945年の日本について考えるなら、終戦とは単に「軍事的に負けた」という出来事ではなく、
国家の中心から「これまでの合理性をもう続けない」というシグナルが出され、社会が新しい合理性へ移行するきっかけになったとも解釈できる。
この視点から見ると、わたしの「合理的(模倣)」は、
「人間は過去を模倣する」という単純な仮説から、
「社会は現在の合理性を模倣し続け、それを変更するには強いシグナルと時間が必要になる」という仮説
あとがき
この仮説を書きながら、私自身が最後まで気になっていたことがあります。
私は「合理的(模倣)」というものを、簡単には書き換わらないものとして考えていました。
人間は、それまでの経験から「これが合理的だ」と感じたものを次の判断へ引き継いでいく。
それが個人の中だけではなく、社会の中にも存在するのだとすれば、長い時間をかけて形成された合理性は、そう簡単には変わらないはずです。
ところが、1945年の日本を考えると、私にはどうしても引っかかるものがあります。
戦争を続けることが、それまで社会の中で強く合理化されていたにもかかわらず、天皇が終戦を受け入れ、その意思が示されたことで、日本社会は大きく方向を変えていきました。
もちろん、実際の終戦には軍事的敗北、原爆、ソ連の参戦、国内の疲弊など、数多くの要因がありました。また、日本人全員が同じ考えを持っていたわけでもありません。
それでも、
なぜ、それまで続いていた社会の合理性が、これほど大きく切り替わることができたのか。
これは、私にとって「合理的(模倣)」を考えるうえで、一番気持ちの悪い部分になりました。
もし合理的(模倣)が、直前の意識や、それまでの社会の状態を引き継ぐ性質を持っているのなら、何がその切り替えを起こしたのだろうか。
そして、そこからもう一つの疑問が生まれました。
なぜ、時間をかけなければ変わらないはずの合理的(模倣)が、一人の発言によって変わったように見えることがあるのだろうか。
もちろん、本当に一人の発言だけで社会が変わったのかどうかは分かりません。
むしろ、そうではないのかもしれません。
その発言の前には、すでに社会の中に、それまでの合理性に対する矛盾や疲れが蓄積していたのではないか。
そして、誰かがそれを言葉にした。
その言葉を聞いた人が、
「それは自分が感じていたことと同じなのではないか」
と思った。
さらに、その考えを別の人が受け取り、模倣する。
そう考えるなら、一人の発言は社会を直接変えたのではなく、
すでに社会の中に蓄積していた変化を、表面化させるスイッチ
だったのかもしれません。
もしそうなら、合理的(模倣)が切り替わるためには、少なくともいくつかの条件が必要になります。
それまでの合理性に矛盾が蓄積していること。
誰かが、その矛盾を言語化すること。
その言葉を聞いた人が、「自分の状態を説明している」と認識すること。
そして、その新しい考えを模倣しても、生活や社会の中で致命的な損失を受けないこと。
この条件が重なったとき、社会は突然変わったように見えるのかもしれません。
そう考えると、バブルも少し違って見えてきます。
たとえば、
「これを買うことが合理的だ」
という考えが社会の中で共有されると、人々はそれを互いに模倣します。
そして、みんなが買うから価格が上がり、価格が上がるから、
「やはり買うことは合理的だった」
という認識がさらに強くなる。
ところが、誰かがその循環の矛盾を言葉にしたとき、それを聞いた人が「確かにそうかもしれない」と感じ、さらにその考えを別の人が模倣し始める。
すると、
買うことが合理的
だったものが、
売ることが合理的
へと反転することさえある。
これはAIバブルのような現在の現象にも当てはめて考えることができるかもしれません。
ただし、ここでも私は、それが実際に「合理的(模倣)」によって起きていると断言するつもりはありません。
あくまで、
もし人間が、不完全な意識を直前の状態から模倣しながら生きているのだとしたら、個人の判断が集まってできた社会にも、同じような仕組みが現れるのではないか。
という仮定です。
そして、この仮定をさらに広げていくと、私は少し不気味なところに行き着きます。
人間は自分で考えていると思っていても、実際には、
「今、周囲では何が合理的とされているのか」
を無意識に参照し、その状態を次の自分の判断へ取り込んでいるのではないか。
そして社会もまた、一人ひとりのその判断によって維持されているのではないか。
もしそうなら、社会を変えるのは必ずしも大勢の人間ではないのかもしれません。
「次に何を模倣するのか」を最初に変える人がいる。
その人の言葉が、すでに蓄積されていた無数の小さな疑問と結びつく。
そして、それまでの合理性とは違うものが、新しい「合理的」として模倣され始める。
その瞬間、社会は外から見ると突然変わったように見える。
しかし実際には、突然変わったのではなく、変化する準備がどこかで進んでいたのかもしれません。
そう考えると、私が最初に感じた、
「なぜ合理的(模倣)は時間が経たなければ変わらないと思っていたのに、一人の発言で変わったように見えるのか」
という疑問にも、少しだけ別の見方ができます。
一人の発言が社会を変えたのではなく、
社会の中ですでに蓄積されていたものを、一人の発言が見える形にした。
もしそれが本当なら、歴史を変えるのは、必ずしも大きな力だけではありません。
誰にも気づかれていなかった小さな疑問を、最初に言葉にする人がいる。
その言葉が誰かに模倣される。
そして、その模倣がさらに別の人へ伝わっていく。
その連鎖が、いつか社会全体の「合理的」を書き換える。
私は、この可能性を考え始めてから、「合理的(模倣)」を単なる人間の癖として見ることができなくなりました。
もしそれがどこかで本当に作用しているのだとしたら。
個人の意識の中にある小さな仕組みが、社会や国家の大きな動きにまでつながっているのだとしたら。
それは私にとって、少し不気味で、それでも考えずにはいられない問題です。
この物語は、その答えを出すためのものではありません。
ただ、最初は自分の中にあった、
「意識は本当に連続しているのだろうか」
という小さな疑問から始まりました。
その疑問を追いかけていった先に、
「もし人間が不完全な意識を模倣しながら生きているのなら、その個人が集まってできた社会もまた、何かを模倣し続けているのではないか」
という、さらに大きな疑問が残りました。
そして今も、その疑問に私は答えを持っていません。
ただ、そう仮定して世界を眺めると、今まで別々に見えていたものが、妙につながって見えてくる。
そのこと自体が、私にとってこの「合理的(模倣)」という考えを、最後まで手放せない理由なのです。




