合理的(模倣)の拡張と収束の仮説
まえがき
この物語は、私自身が考えた「合理的(模倣)」という仮説を、人間の本質の一部にあるものだと仮定したら、いったい何が起こるのかを検証するために書いたものです。
「合理的(模倣)」とは、人間の意識が完全な連続ではなく、その直前の状態や、他者の状態を不完全に模倣しながら次の状態を作っているのではないか、という私個人の考えから始まっています。
もちろん、これは科学的に証明された理論ではありません。
また、この物語で描かれている歴史や社会の出来事が、実際に「合理的(模倣)」によって起こっていると断言するものでもありません。
ただ、
もし人間の本質に「合理的(模倣)」が存在するとしたら、個人の意識だけではなく、人間同士の関係、社会、国家、文明にも同じ性質が現れるのではないか。
そう仮定してみました。
人間は他者を模倣する。
しかし、他者を完全に模倣することはできない。
そのわずかな違いが、新しい考えや行動を生み出す。
そして、それがまた誰かに模倣される。
この繰り返しによって、人間の社会は拡張してきたのではないか。
一方で、外部からの刺激が失われれば、模倣する対象も減っていく。
そのとき「合理的(模倣)」は外部へ広がるのではなく、自分自身の過去へと収束し、徐々にその範囲を狭めていくのではないか。
この仮説を、個人から社会、そして文明へと広げてみたとき、普段は別々に見えているさまざまな現象が、少し違った形で見えてきました。
この物語は、その仮説が正しいことを証明するためのものではありません。
「もし本当にそうだったら、世界はどう見えるのか」
その問いを考えるための、ひとつの思考実験です
「合理的(模倣)」を、人間が直前の意識や行動を何らかの形で引き継ぎながら、次の状態を作っていく性質だと仮定する。
人間は完全に同じ状態を模倣することはできない。
他者の考えも、経験も、感覚も完全には再現できない。
そのため、模倣には必ずわずかな「ズレ」が生じる。
このズレが新しい判断や行動を生み、その新しい状態がまた次の模倣の対象になる。
すると、
他者や環境から刺激を受ける
↓
それを模倣する
↓
完全には模倣できない
↓
ズレが生まれる
↓
新しい状態になる
↓
その状態が次の模倣対象になる
という循環が生まれる。
この状態では、合理的(模倣)は外側へ向かって広がっていく。
人と出会えば、その人の考えが加わる。
環境が変われば、その環境への対応が加わる。
新しい知識を得れば、それまで存在しなかった判断が可能になる。
つまり、外部刺激は合理的(模倣)の範囲を拡張する。
しかし、逆の状態も考えられる。
外部からの刺激が極端に少なくなった場合である。
人との交流がなくなり、新しい環境にも触れず、新しい情報も入ってこない。
すると、模倣する対象が減っていく。
最初は過去の他者を思い出すことができても、それも次第に自分の記憶へ変わっていく。
そして最終的には、
今日の自分
↓
昨日の自分
↓
その前の自分
というように、自分自身の過去が主要な模倣対象になっていく。
つまり、
合理的(模倣)は外部へ拡張するのではなく、自分自身へ収束していく。
これを極端にした状態が、「暗闇の中で一週間、食料だけが与えられている状態」なのかもしれない。
身体は生存できる。
しかし、外部刺激は極端に少ない。
そのため、合理的(模倣)の「入力」が減少し、意識が模倣できる範囲も狭くなっていく。
ここで重要なのは、「生きていること」と「意識が拡張していること」は同じではないということである。
これを社会にまで広げる
もし、この性質が個人だけではなく、人間の集団にも存在するのなら、社会にも同じ現象が起こり得る。
人と人が交流する。
異なる経験がぶつかる。
完全には模倣できない。
そのズレから、新しい考えが生まれる。
それが別の人に模倣される。
そして社会全体の合理的(模倣)が拡張する。
逆に、交流が減り、同じ人間だけが同じ考えを繰り返すようになると、
社会の模倣対象が減る
↓
過去の成功例を模倣する
↓
新しいズレが生まれにくくなる
↓
社会の合理的(模倣)が縮小する
という状態になる可能性がある。
そうなると、社会が停滞する理由も、
「人々が考えなくなったから」
だけではなく、
「新しく模倣する対象そのものが減っているから」
と考えられる。
そして、ここに文明の問題がつながる
文明は大量の知識を持っているから存在するのではない。
その知識を持った人間同士が交流し、
模倣する
↓
模倣できない部分が生じる
↓
修正する
↓
新しい方法になる
↓
次世代が模倣する
という循環を維持しているからこそ、文明が更新されているのかもしれない。
だから人口が極端に減少すると、単純に「労働力」が減るだけではない。
合理的(模倣)のネットワークそのものが小さくなる。
そして一定の規模を下回ると、
模倣対象の減少
→ 専門性の消失
→ 知識の継承失敗
→ さらに模倣対象が減少
という縮小循環に入る可能性がある。
そう考えると、文明の存続には「知識の保存」だけでは足りない。
知識を模倣し、失敗し、修正し、新しいものを生み出す人間同士の接触そのものが必要になる。
そして、一番不気味なところ
ここまで考えると、「孤独」という言葉の意味も変わってくる。
孤独とは、
「誰もいないから寂しい」
だけではないのかもしれない。
この仮説では、
外部刺激がなくなる
→ 模倣対象が減る
→ 自己模倣へ収束する
→ 模倣の範囲が狭くなる
という現象が起こり得る。
つまり、人間は他者から離れることで自由になるのではなく、極端な場合には、
自分自身の過去から逃れられなくなる。
そして、その状態が長く続けば、外部へ戻ること自体が難しくなる可能性もある。
ここで「合理的(模倣)」は、単純な模倣ではなく、
外部との接触によって拡張し、外部との接触を失うことで自己へ収束する、意識の動的な性質
になる
そして、もしこれが人間の意識の根本に少しでも関係しているのなら、
人間が社会を必要とする理由は、単に生存のためだけではなく、自分自身の意識を「自分以外のもの」によって更新し続けるためなのかもしれません。
この仮説が正しいかどうかは分かりません。
しかし、最初に考えていた「合理的(模倣)」が、ここまで来ると、
個人 → 他者 → 集団 → 社会 → 文明
を一本の線でつなぐ仮説になってきます。
そして、その根底にあるのは、
完全には模倣できないからこそ、新しいものが生まれる。
という、かなり単純な一点なのかもしれません。
あとがき
この仮説を書きながら、私は「合理的(模倣)」について、最初とは少し違う恐ろしさを感じるようになりました。
私が最初に考えていたのは、人間の意識が直前の状態を不完全に模倣しながら続いているのではないか、という小さな疑問でした。
しかし、それを社会にまで広げてみると、別の問題が見えてきました。
社会は、誰もが「正しい」「合理的だ」と感じている行動によって、縮小していくことがあるのではないか。
例えば、大きな企業が資本力を使って小さな商店より安く商品を提供することは、その企業にとって合理的です。
消費者が安い商品を選ぶことも合理的です。
投資家が、より利益を上げられる企業へ資金を移すことも合理的です。
それぞれを個別に見れば、誰かが明らかに間違ったことをしているわけではありません。
しかし、その合理的な行動が繰り返されることで、小さな商店がなくなり、地域の商業が縮小し、人の集まる場所が失われる。
そこで生まれた問題に対して、また新しい合理的な解決策が必要になる。
そして、その解決策がさらに別の問題を生み出す。
こうして考えると、「合理的(模倣)」の怖さは、間違ったことを模倣することではないのかもしれません。
誰もが正しいと思っていることを模倣し続けた結果、社会全体にとって不都合な状態が生まれること。
そこにあるのではないかと思うようになりました。
そして、この考えをさらに進めると、もっと恐ろしいところへ行き着きます。
技術が発達する。
機械が人間より効率的になる。
AIが人間より速く判断する。
人間を使わないほうが安くなる。
人間を必要としないほうが合理的になる。
それぞれは、どれも合理的な選択に見えます。
しかし、それらが社会全体で模倣され続けたとき、
「人間がいないほうが合理的な社会」
が自然に形成されてしまう可能性があります。
そのとき、人間は誰かに排除されたわけではありません。
誰かが「人間を邪魔にしよう」と考えたわけでもありません。
一人ひとりが、その時点で最も合理的だと思った選択を積み重ねただけなのかもしれません。
それでも最後には、
人間がいることそのものが非効率になる。
そんな社会が出来上がってしまう可能性がある。
これが、私が「合理的(模倣)」という考えを突き詰めたときに感じた、一番恐ろしい部分です。
そして、ここには最初の「意識」の問題が戻ってきます。
人間は、自分が合理的だと思ったものを模倣する。
社会もまた、その合理性を模倣する。
その結果として生まれた社会を、次の人間がさらに模倣する。
その循環が続けば、社会は必ずしも豊かになるとは限らない。
合理的であることと、人間にとって望ましいことは、同じではないからです。
もし「合理的(模倣)」が人間の本質の一部に存在するのだとしたら、人間に必要なのは、合理的(模倣)をなくすことではないのかもしれません。
むしろ、
「これは合理的だが、この先に何が起こるのだろうか」
と一度立ち止まる余白なのではないでしょうか。
その余白がなくなったとき、合理性は人間を助ける道具ではなく、人間そのものを必要としない社会を作る力になってしまう。
私には、それが「合理的(模倣)」という仮説の、一番皮肉な結末に見えています。




