イラン戦争に関する思い
まえがき
これは、私が考えた「偽善の妄想」です。
ここでいう「偽善」とは、誰かを騙そうとしているという意味ではありません。
自分では世界を理解しようとしているつもりでも、その考えの中には、きっと自分にとって都合のよい解釈や、見たくないものを見ないための理由が含まれている。
それでも、人間は考えることをやめられない。
この物語に出てくる出来事や考えは、現実に起きていることを断定するものではありません。
私が世界を眺めながら、
「もし、こういう仕組みが存在していたら?」
「もし、人間が自分で考えていると思っていることさえ、過去の自分や他人の模倣なのだとしたら?」
と考え続けた結果として生まれたものです。
だから、これは予言でもありません。
正解を示すものでもありません。
ただ、自分の中に生まれた一つの妄想を、最後まで追いかけてみた物語です。
そして、その妄想がもし少しでも現実を考えるきっかけになるのなら、それだけで、この物語を書いた意味はあったのかもしれません。
イラン戦争について考えていると、私は、この戦争がこのまま永遠に続くとは思っていません。
アメリカがこれまでのように戦争を続けるための「合理的(模倣)」を維持できなくなれば、いずれ戦争を終わらせる方向へ向かうのではないかと思います。
しかし、それで本当に終わるのだろうか、という疑問も残ります。
私が考えている「合理的(模倣)」とは、人間や組織が、その直前までうまくいっていた方法を、次の瞬間にも合理的なものとして繰り返してしまう状態です。
戦争も最初は、何らかの目的のために始められるのかもしれません。
しかし、戦争が長期化すると、
「ここまで犠牲を払ったのだから続ける」
「ここまで戦ったのだから撤退できない」
「戦時経済にさえ突入してしまえは戦費は徴収できてるのだから、まだ戦える」
というように、戦争を始めた理由とは別のところに、新しい合理性が生まれてくる。
そして、その合理性をまた次の判断が模倣する。
そうなると、戦争を終わらせることのほうが難しくなる。
終戦するためには、これまでの判断を疑い、失敗を認め、今までとは違う方法を考えなければならないからです。
つまり、
> 戦争を続けることは、昨日の判断を今日も繰り返せばいい。
> 戦争を終わらせることは、昨日の判断そのものを疑わなければならない。
この違いがあるように思います。
そして、ここに私は二つ目の不安を感じます。
もし戦争を続けるための理由が必要になったとき、人間は過去に存在した方法を模倣するのではないだろうか。
過去の戦争では、さまざまな「敵から攻撃された」という出来事が、大きな軍事行動の根拠になってきました。
現代では、ドローンや情報戦のように、攻撃主体を簡単には判断できない出来事も起こり得ます。
だからこそ私は、個別の事件について「偽旗作戦だった」と決めつけたいわけではありません。
むしろ怖いのは、
「戦争を続ける理由が必要になったとき、過去に使われた合理的な方法を、人間が再び模倣してしまう可能性」
そのものです。
もしそうなら、戦争を終わらせるためには、敵を倒すことだけでは足りない。
「なぜ私たちは、まだ戦争を続けているのか」
という問いを、自分たち自身に向けなければならない。
しかし、それこそが「合理的(模倣)」にとって最も難しいことなのかもしれません。
なぜなら、それは今までの自分たちの判断を模倣するのではなく、
**自分たちが模倣してきたものそのものを疑うこと**
だからです。
私は、イラン戦争やウクライナ戦争が沈静化する可能性はあると思っています。
けれど、それは単純に「戦争を続ける理由がなくなったから終わる」というほど簡単ではないのかもしれません。
戦争を続ける仕組みそのものが、新しい合理性として社会に組み込まれてしまえば、その仕組みを維持するために、さらに別の理由が必要になる。
そして、その理由さえも、過去の模倣から生まれる。
もし「合理的(模倣)」というものが本当に人間の意識や集団の判断に存在するのなら、戦争の最大の問題は、戦争を始めることではなく、
**一度始まった合理性から抜け出せなくなること**
なのかもしれません。
だから私は、戦争が終わることを願いながらも、単純にはそうならないのではないかと思っています。
戦争を終わらせる最後の一歩とは、敵に勝つことではなく、
**「昨日まで合理的だったことを、今日はもう合理的だと思わない」**
と誰かが考えることなのかもしれません。
それは、戦争の中では最も非合理的に見える行為です。
しかし、もしかすると、人間が「合理的(模倣)」から抜け出すために必要なのは、まさにその一瞬なのではないでしょうか。
あとがき
この物語を書きながら、私は戦争そのものよりも、その戦争が終わった後の世界について考えるようになりました。
仮にイラン戦争が終戦へ向かったとしても、それですべてが元に戻るとは限らないのではないかと思っています。
なぜなら、戦争の背景にある経済や通貨の構造そのものが変わっていなければ、同じような緊張が、別の場所、別の理由、別の形で再び現れる可能性があるからです。
特に私が気になっているのは、原油のような世界にとって不可欠な資源の取引が、特定の通貨に大きく依存していることです。
ここで私は、ドルを排除すべきだと言いたいわけではありません。
むしろ逆です。
ドルが世界で使われ続けること自体が問題なのではなく、
**一つの通貨に世界の資源取引や利益の循環が集中し、それによって他の国々が構造的に利益を生み出しにくくなる状態**
に問題があるのではないか、と考えています。
もし原油を取引するためにドルが必要であり、そのドルの価値が大きく変動するなら、原油を必要とする国は、原油価格だけではなく、ドルそのものの変化まで引き受けなければならなくなります。
それは、単なる通貨の問題ではありません。
エネルギー、貿易、国家財政、軍事、外交までが、同じ構造の上に乗ってしまう可能性があります。
だから、たとえ戦争が終わっても、
「次に何かが起きたとき、また同じ構造が動き出すのではないか」
という不安は残ります。
私が想像しているのは、ドルを世界から排除することではありません。
ドルも使える。
別の通貨も使える。
あるいは複数の通貨や、新しい世界的な決済手段を組み合わせることで、原油などの重要な資源を取引できる。
そして、どの国も、一つの通貨の価値や政策に過度に依存することなく、利益を生み出せる。
そのような仕組みができなければ、戦争が終わったとしても、世界は「いつ状況が変わってもおかしくない状態」から抜け出せないのではないかと思います。
これは、私が考えてきた「合理的(模倣)」ともつながっています。
ある国にとって合理的だった仕組みを、他の国も模倣する。
その仕組みが大きくなればなるほど、それを変えることは難しくなる。
そして、誰かが利益を得ている限り、その構造を維持することにも合理性が生まれる。
そうして、人間が作った仕組みが、いつの間にか人間の選択肢を狭めていく。
もしかすると、戦争をなくすために必要なのは、戦争をする国をなくすことではないのかもしれません。
戦争を起こすことに合理性が生まれてしまう構造そのものを、少しずつ変えていくことなのかもしれません。
そして、そのためには「ドルをなくす」という単純な答えではなく、**どの国も、他国を犠牲にしなければ利益を生み出せないような構造から抜け出せる世界**を考える必要があるのではないでしょうか。
もしそれができなければ、戦争が終わったとしても、それは本当の意味での終戦ではないのかもしれません。
ただ次の戦争までの、長い休憩なのかもしれない。
私は、そんなことを考えるようになりました。




