個人の意識は本人の考えなのか・・・?
デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と考えました。
私は、この言葉を否定したいわけではありません。
むしろ、その言葉について考えているうちに、別の疑問が自分の中に生まれました。
「我思う」という状態が確かにあるとして、その「我」は、いったいどこから来たのだろう。
自分が考えていることは分かる。
自分が迷っていることも分かる。
自分が何かを選ぼうとしていることも分かる。
しかし、その「自分」が、どの状態を引き継いで現在の自分になったのかまでは、自分自身には分からない。
そして、そのことを考えている「自分」さえ、ひとつ前の状態から続いている。
そこから、私が「合理的(模倣)」と呼んでいる考えが生まれました。
これは、人間が単純に他人を真似するという意味ではありません。
価値判断よりも前に、
**前の状態から次の状態が生まれている。**
その連続そのものを、私は「合理的(模倣)」と呼んでみました。
だから、これはデカルトの言葉を否定するための考えではありません。
「我思う、ゆえに我あり」という問いから、私自身がさらに、
> **「その我は、どの状態を引き継いで、今ここにあるのだろう」**
と考えてしまった。
ただ、それだけです。
そして、その問いを考えていることさえ、もしかすると「合理的(模倣)」の一つの状態なのかもしれません。
この考えが正しいのかどうか、私には分かりません。
ただ、私の中では、この疑問が何度も形を変えながら戻ってきます。
だから私は、何度も「合理的(模倣)」について書いてしまうのだと思います。
そして、何度書いても、その外側からそれを眺めている自分を見つけることができません。
それさえもまた、前の状態から続いているのかもしれません。




