合理的(模倣)による階層があるという仮説
まえがき
私が考えている「合理的(模倣)」には、どうも階層があるような気がしてきました。
ただ、それが本当に階層なのかは分かりません。
私は先に理論を作って、それに現実を当てはめているわけでもありません。
人間や社会を眺めているうちに、
「なぜ、同じようなことを繰り返すのだろう」
「なぜ、考えている人ほど、その考えから抜け出せなくなることがあるのだろう」
「なぜ、立場が変わると、同じことが違って見えるのだろう」
と考えてきました。
その後から、それらを説明するために「合理的(模倣)」という仮説をなんども書いいるうちに、
それはその状態は階層にがあるのではないかということをまとめている、仮説になります
すべてが私が考えた、仮説で、証明された理論ではありません。
現実を見ながら、後から説明をつけようとしているだけの仮説です。
もしかすると、そもそも私の見方が間違っているのかもしれません。
それでも、もし人間の判断に「合理的(模倣)」と呼べるようなものがあるのなら、そこには一様ではない濃淡や階層のようなものが存在するのではないか。
そんな疑問から、この仮説を書いてみました
合理的(模倣)は社会全体に一様に存在するのではなく、置かれている階層によって「何を模倣し、何を疑えるか」が異なる。
生活に余裕がない層
生きるための判断が多い
↓
過去にうまくいった方法をすぐ再利用する
↓
「考え直す余白」が少ない
↓
合理的(模倣)が濃くなりやすい
一方で、
余裕のある層
失敗してもすぐには生活が破綻しない
↓
別の選択肢を試せる
↓
過去の方法を疑う余地がある
↓
合理的(模倣)が薄くなる可能性がある
ただし、ここで面白い逆転があります。
上の階層だから合理的(模倣)が薄いとは限らない。
資産や権力を持つほど、
成功体験が多い
↓
「この方法で成功してきた」という確信が強い
↓
周囲もその判断を肯定する
↓
反対意見が届きにくくなる
↓
別の意味で合理的(模倣)が濃くなる
可能性があります。
つまり、階層によって合理的(模倣)の「形」が違う。
下の階層では、
「選択肢がないために模倣する」
上の階層では、
「成功してきたために模倣する」
という違いです。
そして中間にも、
「周囲と違うことをするリスクを避けるために模倣する」
という状態がある。
だから、「階層が上がるほど合理的(模倣)が薄くなる」という単純な上下関係ではなく、
階層ごとに、合理的(模倣)を生み出す理由が違う
社会階層とは、単に所得や資産の違いではなく、「何を疑う余白を持てるか」の違いでもある。
という仮説にもできます。
食料品減税にもつながります。
低所得層にとっては、食料品価格の変化が生活そのものに直結する。
一方で、高所得層にとっては、同じ1万円の変化でも生活の選択肢そのものを変えるほどではない。
つまり、同じ政策でも、階層によって「合理的(模倣)」が動く閾値が違う可能性があります。
これを一言でまとめるなら、
「合理的(模倣)には階層差がある。人は同じ社会にいても、持っている余白の大きさによって、過去を模倣せざるを得ない者と、過去を疑える者に分かれる。しかし、余白が大きい者も、成功体験や権力によって別の合理的(模倣)に囚われる。」
あとがき
私が考えている「合理的(模倣)」には、善も悪も存在できないのかもしれません。
これは、「善悪など存在しない」と言いたいわけではありません。
人間は当然、善いことと悪いことを区別しながら生きています。
ただ、その善悪さえも、ある状態の中で生まれた判断なのではないかと思うのです。
同じ行動でも、時間が変われば意味が変わる。
場所が変われば意味が変わる。
立場が変われば、守るべきものも変わる。
昨日は正しかったことが、今日も正しいとは限らない。
ある人にとって善であるものが、別の人にとっては悪になることもある。
そして、その両方が、それぞれの立場から見れば合理的に見えてしまうことがあります。
だから私は、「合理的(模倣)」そのものを善いものにも悪いものにもできないのではないかと考えています。
それはただ、
**「その状態において、過去から続いている判断を次の状態へ持っていく」**
という現象なのかもしれません。
しかし、もしそうだとすれば、別の問題が生まれます。
合理的(模倣)が悪いのではなく、
**それに従うことが過度になったとき、社会そのものが危うくなる可能性がある。**
一人なら、その人自身の問題で済むかもしれません。
しかし、多くの人が同じ判断を繰り返し始める。
企業も、政府も、国家も、個人も、
「今までこうしてきたから」
「これが一番合理的だから」
「みんながそうしているから」
という理由で、同じ方向へ進んでいく。
そのとき、誰かが間違っているとは限りません。
むしろ、一人ひとりは合理的に行動しているのかもしれない。
それでも、全体として見ると、破綻へ向かってしまうことがある。
私はそこに、「合理的(模倣)」の怖さがあるように思います。
そして、さらに難しいのは、
「では、合理的(模倣)から逃れればいい」
とも言えないことです。
人間は過去の経験を利用しなければ生きていけません。
知識も、経験も、習慣も、社会のルールも必要です。
だから問題は、合理的(模倣)をなくすことではない。
**合理的(模倣)に従いながら、それを疑える余白を失わないこと。**
その程度しか、人間にはできないのかもしれません。
この文章を書きながらも、私自身が「合理的(模倣)」という考え方に合理的(模倣)している可能性があります。
それなら、この考え方そのものも疑わなければならない。
結局、私が最初に考えていたことさえ、答えではないのかもしれません。
ただ、
**「自分たちは今、何を正しいと思い、何を疑わなくなっているのだろう」**
と一度立ち止まること。
それだけでも、何かが変わる可能性はあるのではないか。
そんなことを考えています。




