迫る危機
教室内では教師がカッカッカッとチョークを黒板に叩きながら書く音が響き、生徒たちがその黒板に書かれた文字を写し取っていた。
私もそんな生徒たちと同じようにノートに文字を写していた。
――こっ……み……。
ふと、静かな教室にか細い声が聞こえてきた。
なんだろう。何処から聞こえてきてるんだろう。
直接自分の脳に響くような声を不思議に思った私は、ノートから視線を外して教室内を見渡す。
私は直ぐにそれを発見した。
――ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ。
首を締める縄の音が耳に入る。
私の目には教室の後ろ角にぶら下がる男の子が映った。
――こっ……をみ……。
脳内に響く声を次第にはっきりと私の頭が理解しだす。
私の目はずっと彼から離せずに見開いていた。
――こっちを見……。
思考が停止して、私はどうしたらいいのか分からない。
クラスメイトは誰一人として教室の角でぶら下がる男子生徒に気付かない。
どうして、みんな気付かないの。どうして、あの声が聞こえないの。
私の心が誰かに助けを求めて叫んだ。
リズミカルにチョークを黒板に叩きつける音だけが室内を満たす。私の叫びに気付く者はいない。諒も私の救難信号に気付かない。
――こっちを見て。
私に聞こえた声は今では鮮明に私だけを捕らえていた。
彼は私だけに何かを訴えている。
そんな目で私を見ないで。私は貴方を助けられない。
私は冷や汗を身体中に流しながら、首吊りの男の子に心の中で訴えた。
突然、私の視界が遮られた。目の前には白いシャツを着た、社会の先生が立っていた。
「おい、櫻井。どうした? そんな驚いた顔して。ちゃんと前を向いて俺の話しを聞けよ」
「あ、はい」
私は小さく返事をした。
先生はそれを聞いて私の机から、教卓の前まで戻っていった。
それから先生は教卓で授業を再開した。
教室の後ろで首を吊る彼は、前を向く私に視線を送る。じっと私を見つめる気配が背中から感じられる。
良かった。少しさっきより恐怖が薄れている。
注意が一度彼から逸れたことで、私は再び考える力を取り戻した。先ほどは思考能力が低下し、まるで時間の流れが止まってしまったかのように感じていた。けれど時間はきちんと私と共に過ぎていた。前を見ると黒板には新たな事柄が記されていた。
私は急いで黒板の文字を写すことに力を注いだ。
「じゃあ、ここ写したら今日はこれで終わりな」
私が一生懸命写し始めた頃、先生はそう言い残して教室を出ていった。授業は終了チャイムが鳴る前に終わった。
教師が出ていった途端にクラスはざわめきだし、それぞれ友人の机へ行ったり話したりと自分の行動に移っていった。
「ねぇ、ユッキー。さっき先生に注意されてたね。何してたの?」
諒が必死に黒板の文字を書く私の机にやってきた。諒は私の机の前でしゃがみ、ノートを見る私の顔を覗き込む。
「えーと、ちょっと待って、後少しで写し終わるから……はい、いいよ。何だっけ?」
「うん、だから何して先生に注意されてたの?」
諒は笑って私を下から見上げ、もう一度聞く。
「……えっと、後ろ見てた」
私は一瞬彼女に何と答えればいいものか迷い、答えに詰まってしまった。
私は諒に、まだ死んだ者たちが時々見えることを話していない。諒は私の話をバかにしたりせず、ちゃんと聞いてくれる。そして、その話が真面目なものなら信じてくれることもわかっている。
けれど、私は自分でも未だに戸惑っているこの事を話すことが出来ない。もしかして私は、話すことで自分の見ている者たちを肯定してしまう事が怖いのかもしれない。
「後ろ? 後ろに何かあるの?」
そう言いながら諒は教室の後ろを見た。
諒が見るそこには、今でも彼がぶら下がっているはずだ。私には彼の気配が背中をヒンヤリとさせていた。
「……えっと、その、説明しにくいんだけど、これから話す私の話、きちんと聞いてくれる?」
「なんか真面目な話みたいだね。いいよ、ちゃんと聞くから話して」
諒は私の言葉に一瞬驚いていたが、すぐに真面目な表情で答えた。私はいざ自分のことを話すとなると、うまく言葉に表せなくて暫く、考え込んでいた。
今話せば悩んでいたことも、少しは楽になるのではないか。見える恐怖もなくなっていくかもしれない。
「あのね、さっき後ろを見てたのは――」
「ちょっといい?」
意を決して私が話し出すと、いつの間にかやってきていた柏原さんが私の言葉を遮った。柏原さんの隣には花田さんも一緒にいる。
「う、うん、いいよ」
突然割り込んできた二人に戸惑いながらも、私は彼女に了承する。
「……櫻井さ、あのまじないとかやってないよね?」
柏原さんはチラッと諒を見ながら私の顔色を伺うように言った。
「あの? あの、まじないって、最近、噂になってる、ま、まじない、のこと?」「そう、やってる?」
少し前まで彼女にいじめられていたことを思いだし、私は多少びくびくしながら聞いていた。私は、多分この態度が相手をイラつかせているのだろうとわかっているのに、どうしても彼女たちの前では普通に話すことができない。
しかしそんな私の態度なんか気にもせず、彼女は早口で私に聞いた。
「や、やってないけど、あの、そ、それが、どうしたの?」
「ホントに?」
「ホント、だけど」
「わかった」
彼女はそう一言言うと、黙りこくり、私の顔をバツの悪そうな顔をして見つめた。そして、何かを決めたように一度頷いてから口を開いた。
「櫻井には……今まで私たちは、とても酷いことしてきたと思う。私は、本当に後悔してる。ごめんなさい。……これで、許してもらえるとは思ってないけど、一応言葉にしたかったから。それから、これから笹原と橋本が話しかけてくるとき、絶対に一人でいないで。もし、一人になったときは、逃げて」
柏原さんはその言葉を最後にそのまま花田さんを連れて、私と諒の前から去って行った。
「ユッキー、大丈夫?」
柏原さんの言葉を聞いてから呆けてしまった私に、諒は心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「え? あ、うん。大丈夫」
私がハッとしたように言うと、諒は笑顔になった。
「ユッキーは優しいね」
「え? 私が?」
「うん、そうだよ。ユッキーは優しい」
「私は、優しくなんて、ない」
「優しいよ。だって、もし私がユッキーと同じ立場だったら、謝ってきた相手に酷いこと言っちゃいそうだもん」
「……そんなこと、考えたこともなかった」
私がそう言うと諒はクスッと笑った。
「そういうのは考えて言うんじゃないよ。腹が立って、勢いで言っちゃうんだよ」
「そっか、そうだね」
私はなるほどと納得したように思った。
すると、にやにやと笑って諒は私に茶化すように言う。
「もしかして、ユッキーって今まで悪口言ったことないんじゃない?」
私は少し考え込んで、慌てたように言った。
「あ、あるよ言ったこと」
「そう? じゃあ、試しに私に酷いこと言ってみて」
何で? と私は一瞬思ったが優しい子にどうしてもしたい諒の思い通りにはなりたくなかったので、彼女に従うことにした。
「うーん、茶髪、ショートカット、髪の毛茶色。えーと、他にある?」
諒は私の罵りを聞いて、突然弾けたように笑いだした。
「ブッ、ハハハハハハハ、それ全部私の特徴だけじゃん。しかも、何で髪の毛ばかり?」
むっとした私は、眉間にしわを寄せてジトッと諒を見詰めた。
「ごめんごめん、ちょっと笑い過ぎたね。でも、ユッキーのそれ悪口じゃないよ。悪口って言うのは、相手が不快に思うことを言わなくちゃ」
「諒にそんなこと言えない。だって、諒に不快に思わない」
「違う違う、ユッキーじゃなくて私が不快に思うことを言わないと悪口じゃないから」
諒が苦笑しながら言ったその時、丁度教室に次の授業の先生が入ってきた。
私は気付かないうちに予鈴の音を聞いていたようだ。
「ほら、席に着け。授業始めるぞ」
先生はまだ喋り足りない生徒たちに静かにするよう促しながら、教卓についた。そして、私たちは英語の教科書を開いた。
私はそうして、柏原さんと花田さんのことで、諒に教室の後ろでぶら下がる彼の話をする機会を失った。
お昼休みは諒といるようになってからは、いつも屋上で過ごしている。
私は母親の手作り弁当を持参し、諒はコンビニ弁当か菓子パン、またはおにぎりを持って屋上に向かう。
廊下は生徒たちの楽しげな声が反響し合い、静かな時を想像できないほどの賑わいがあった。
私と諒は屋上まで行くと、ガチャリと音を鳴らして諒が扉を開けた。
諒が屋上の扉を開けて以来、ずっと鍵はかかっていないのだ。
今日は曇り。風も少しあって、外で食べる天気とは言えない。
私たちは風の当たらないところを探した。屋上の出口からちょうど反対に回って、貯水槽のタンクを上に乗せた建物の影に座る。影の中は気温が低くて少し寒い。
ここは初めての友達との秘密の場所だった。そして、私は秘密を誰かと共有することが初めてだった。
友達と秘密を共有することが、こんなにもドキドキして嬉しいものだとは思わなかった私は、この屋上に来るたび何か優越感のようなものを感じていた。
「今日のユッキーのおかずは、何かな?」
諒は私がお弁当のふたを開くのをジッと見つめている。
「わぉ、今日はから揚げ! 私の大好物。ちょっと、ちょーだい」
私の返事を待たずに諒の手はお弁当箱のから揚げをかすめ取っていった。
「うーん、おいし。ニンニクがよくきいてるね。じゃあ、はい私もあげるね」
「え、うん。ありがとう」
私のお弁当には諒のコンビニ弁当からの肉団子が入っていた。友達とおかずを交換し合うことにひそかに私はあこがれていた。今はその夢が毎日のように叶っている。
食事時、私は会話をしながら食べることが出来ないため、諒との食事はほとんど会話がない。けれど諒は、そんな私に陽気に話しかける。
「私の今日のお昼代は、300円。そして、ここ一週間ほぼ300円前後をキープしております。これは、私の金遣いから考えると快挙であります!」
諒は黙々と食べる私をチラッと見ては、何かを期待しているような眼差しを送った。どうやら、私に拍手を望んでいるようだ。
そこで私は口にたくさんの食べ物を入れてもぐもぐと噛み砕きながら、手を叩いて彼女を祝った。
諒はニヤッと笑って、再び話を始めた。
「私はお金の遣いが荒いばっかりに、おろおろと涙を流し嘆いてばかりおりました。しかしこれから私は、そんな昔の自分とはおさらばしてお金のある裕福な自分になろうと思います! 私は毎日300円以上は使わないと決め、節約の毎日を送りたいと存じます!」
諒はお弁当を持って立ち上がり、まるで選挙の演説のように大きく力強く感情たっぷりに決意を述べていた。しかしその内容はくだらないものだった。
「本当にできる?」
食事の終わった私は彼女を見上げて尋ねる。
「ふふん、私に不可能はないのだよ」
「でも、いつも決意して出来てないよ」
諒は私の指摘に一瞬笑顔が固まった。
「そ、そんなこともあるさ。でも今日から私は変わる、いや変わってみせる」
グッとコブシを胸の前に挙げて、彼女はどこか空中を見ていた。
その様子を私は冷めた目で見上げていた。
「……あのさ、そういえば笹原さんとか会いに来ないね」
諒はすぐにふざけた態度をやめ、コンクリートの地面に座った。
「うーん、私がいつもいるからじゃないの? ほら、柏原さんは一人のときに話しかけてくるって言ってなかった?」
あの柏原さんの謝罪と警告から、もう今日で一週間は経っていた。
「じゃあ、一人でいなければ大丈夫?」
「それは、確かにそうだけど、根本の解決にならないんじゃないかな?」
「どうすればいいの?」
私は冷えた体を暖めようと少し日陰から出た。風はそよそよと吹く程度だ。
「ユッキーが自分でやめて欲しいって意思表示するんだよ。でも、たぶんそれだけじゃやめないと思う。だけど、それは嫌がらせとかを止めてもらうきっかけにはなる」
諒も私にならって建物の蔭から出てきた。
「……言える、かな?」
「大丈夫。私もそばにいるから」
諒の笑顔に私は勇気をもらったような気がして、少し不安が消えた。
諒は時間を気にして携帯を開いた。
「もう昼休みが終わるね。私、トイレ行きたくなちゃった。少し早めに帰ろう?」
「いいよ、私も体冷えたから中に入りたい」
私たちは弁当の箱をそれぞれ手に持ち、屋上を出た。
諒がトイレに入った後、私はトイレの前の廊下で待っていた。
私の前を人が通って行く。通行人の大半が生徒で、たまに教師や用務員が通る。
もうすぐ昼休みの時間が終わる。みんな次の授業に備えて教室に戻るのだろう。
屋上で冷やされた体は、廊下でただ立っているだけで、血が通って暖かくなっていった。
次は何の授業だったかな? なんだか眠くなってきちゃったな。
私は少しあくびをして、なんとはなしにトイレ近くにある階段を見た。
階段から誰かが会話をしながら上がってくる。声は階段や壁を反響して、私の耳に届く。
それは、聞き覚えのある声だった。私がつい最近まで毎日のように恐ろしく思いながらも聞いていた声だ。
私は上がってくる二人が現れるであろう場所を、知らずに凝視していた。
そして、楽しげに会話をしながら笹原さんと橋本さんが上がってきた。
二人はすぐに廊下で一人待つ私に気づいて、会話が止まった。
彼女らは立ち止まって私を見つめていた。私も彼女たちを見つめて動きを止めた。
どうすればいいの? どうしたらいいの?
私の頭は笹原さんと橋本さんに対する恐怖と、混乱でいっぱいだった。
そのとき、私の脳裏に柏原さんの警告の言葉がよみがえった。
――絶対に一人でいないで。一人になったときは逃げて。
そうだ、逃げなくちゃ!
心の中の危険を知らせる私が、警報を発した。その途端私は弾かれたように後ろを向いて、走り出していた。
「あ。待て!」
私の耳に笹原さんの鋭い声が入るのと同時に、二人の私を追いかける足音が聞こえてきた。
廊下を歩く人の間をぬうように私は走った。私を見る人々はみんな驚いた顔をしている。
走りながら後ろを一瞬見ると、もうすぐそこまで彼女たちが迫っていた。
私は角を曲がって、階段を降りる。二段飛ばしで下りて、最後の三段は飛んで下に着く。そして、また角を曲がって真っ直ぐ廊下を走る。
息が上がる。汗が頬を横に流れる。
私を追いかけてくる足音は、すぐに間近までにやってきた。
また、私は速度が落ちると分かっていながら、後ろを振り向いた。
後ろを一メートルくらいの所で走っている笹原さんと橋本さんの姿が見えた。
目をいっぱいに開いて、私は息をのんだ。
速く速く、速く走らなければ。
焦って前を向いた時、突然目の前に人が現れた。そしてぶつかった。
「あ」
「うわ」
ぶつかった拍子に私は、尻餅をついた。相手の男子生徒は後ろへよろける。
私がしまった! と思ったときには、もう私の後ろに息を切らして立つ二人の気配があった。
「……や、っと、つか、まえた」
息継ぎをしながら喋る声が、尻餅をついた私の頭上から降ってくる。
私の心臓はドクンドクンと脈打ち、身体中の血液が熱を持っているかのように駆け巡った。浅い呼吸を繰り返し、必死で息を整える。
早く、笹原さんたちよりも早く、体力を戻さなくては!
私は流れる血液の音を聴きながら、彼女たちの回復が遅いことを願った。
廊下の通行人たちは私たちを避け、いぶかしげに見ていく。
私がぶつかった際に歩きを止めてしまった彼は、私と橋本、笹原さんの様子に何かを感じたようで逃げるように行ってしまった。
しばらく立ち上がれずにいた私は心臓が落ち着くのを待つと、不意に肩に重みを感じた。彼女たちのどちらかが私が逃げること恐れて手を置いたのだろう。
私は立ち上がった。もう逃げられないと覚悟を決めて。
もうほとんどの生徒たちは廊下を歩いていない。五時間目を告げるチャイムは既に鳴り終わった。
「何で、逃げたの? 櫻井」
後ろに向いたままの私に猫なで声で笹原さんは尋ねる。
私は、ごくりとのどを鳴らして、ゆっくりと彼女の前に振り返った。
「ま、また、怖いこと、されたく、なかったから」
彼女たちの顔を見ることが出来なくて、私はジッと服を握り締める自分の指先に目を向けていた。
「ふーん、ホントにそれだけ? 本当は自分がやったことがばれるのが怖くて逃げたんじゃないの?」
「私がやったこと?」
私は彼女が何を言ってるのか分からなくて、思わず顔を上げた。
「とぼけんの? とぼけても意味無いから。もうお前がやったことは知ってるんだよ。そういう演技やめたら」
橋本さんが笑顔なのに笑っていない瞳で、私の理解できないことを言った。
二人の瞳は目を背けたくなるほどの強い力を持っていた。
諒は、トイレから出るとすぐに廊下で待っているはずの由紀がいないことに気付いた。
そこで諒は、もう一度トイレに戻り中を確認したり、近くの教室を覗いてみたりとしばらく由紀を探してみた。
しかし、由紀の姿は何処にも見当たらなかった。
由紀は先に教室に戻っているのかもしれない。そう判断した諒は、二年の教室まで階を下りていった。
教室に戻る途中、諒は何か廊下が騒がしいように思えてならなかった。すれ違う生徒たちの会話のほとんどが同じ話題についてのようだった。
「さっき追っかけられてたのって櫻井さんじゃない?」
「うん、櫻井さんだった。追いかけてるのは笹原さんと橋本さんだよね。どうしたんだろうね?」
「ねぇねぇ、その櫻井さんはどっちに走っていったの?」
諒は廊下の反対から歩いてくる二人の女生徒の会話が気になって、思わず話しかけていた。
二人は当然驚いた顔をしていたが、すぐに諒の質問に答えてくれた。
どうやら彼女たちに追いかけられている由紀は、諒が下りてきた階段とは反対を使い猛ダッシュで下りていったらしい。
それ聞いた諒はすぐに由紀の走った経路を辿りながら、彼女を追いかけ始めた。
「ちょっと話がある」と笹原さんに言われて、私は二人に挟まれながら彼女らの後をついていった。
私はまた何かされるんじゃないかという恐怖はあったが、着いていくことにした。それは、私が彼女たちに何をやったのかという好奇心の方が勝ったせいだ。
階段を一階まで下りて行って、昇降口から校庭へ向かい、そのまま右手に建物に沿って校舎の裏へまわった。
体育館に向かっているんだ。何でそんなところで話すのだろう。
私はだんだん彼女たちに着いていったことを後悔し始めていた。
人気のないところへ向かっているんだ。授業がなければこの時間は誰も通らない場所。
私たちは体育館に入るとまっすぐ横断して、建物の外についている倉庫に近づいていく。そして、笹原さんは短いスカートのポケットから鍵を取り出して倉庫の扉を開けた。
「ほら、入って」
始めに笹原さんが入り、後ろから私を橋本さんが押して、入ってきた。
私が入った後私の背後で橋本さんが扉を閉めたのが分かった。
中は扉を全て閉じると、薄暗かった。倉庫に一つだけある小さな窓から、格子の間を通して光がもれている。
その光に照らされるのは、一定の秩序をもって置かれた体育道具たち。大小のボール類は蓋つきの籠の中でそれぞれ分けられている。ラケット類やテニス、バレーボール、バトミントンなどの試合で使う網や、羽もまとめてしまわれている。
三人が立って話すだけのスペースしか空いていない。どこもかしこも道具類で埋まっている。
私は薄暗い倉庫の中で自分の目が慣れていくのを感じながら、二人が話し始めるのを待っていた。
彼女たちは何故か私にはいら立っているように見えた。眉間にしわを寄せて、むっつりと押し黙っているのだ。
「……櫻井は、まじないをやったことはある?」
「まじない? あの、それはどういう……」
笹原さんの突然の質問に戸惑って、私は聞き返すのだが彼女の険しくなる表情を見て最後まで言えなくなってしまった。
「やったことあんだろ! そうやってとぼけんなよな!」
「やったことは正直に答えなくちゃ」
ビクリと私は怒鳴り声に肩を揺らした。
橋本さんの正直に答えるとは、どういうことだろう?
私は全く何を怒られているのか見当もつかなかった。
「あの、やったことは、あるけど、でも、ちょっとしたもので――」
「ちょっとしたものだって? ふざけんじゃないよ!」
笹原さんは我慢ならないとばかりに叫んで、私を突き飛ばした。そのせいで近くにあったバスケットボールの籠を横に倒して、外へボールを転がせてしまった。
「わ、私は、何をした、の?」
床に倒れこんだ私は彼女たちを見上げて、震える声で言った。
「何をしたかだって? まだ白を切る気? あんたは私たちに呪いをかけたじゃない!」
「呪い? わ、私、人を呪うおまじないなんて、やったことない。ただの、遊びのまじないしか……」
「あんたにとっては、遊びでもね、私たちにとってはそれが呪いなんだよ」
橋本さんの冷めた言葉が、私をよけい混乱させた。
お天気占いとか小さい頃遊びでやるようなおまじないが、人を呪うまじない?
不安と恐怖、それに薄暗く埃っぽい倉庫は、心をひどく揺らした。汗ばむ制服、額を流れる汗。瞳から今にも零れ落ちそうな涙。
何を言われてるのか本当に分からない。
私はどうすれば許してもらえるの?
頭に浮かぶのはただただ疑問ばかり。
俯く私の頭の上で二人はため息をつきあった。
「痛い思いさせないと分からないみたい」
「そうだね、白状させるにはそれしかないね」
ポツリとこぼす二人の言葉に、背筋を凍らせた。私はこれから起こる最悪を想像する。
この二人なら私に今まで行ってきた暴力なんて、考えられないものが出来るだろう。
笹原さんが私の近くに転がるサッカーボールを掴むと、橋本さんもそれに倣うようにしてボールを持ち上げる。
ボールは投げたり蹴ったりついたりするものだ。それが私にどう使われるのかなんて、すぐに想像出来る。
私は口元は笑っているのに険しい表情をした二人がボールを上に持ち上げるのを見た。
そしてすぐ体に痛みが走った。
「ほら、白状する気になった?」
どちらかが言った言葉を聞きながら、私は彼女たちからの猛攻撃にひたすら耐えていた。
すぐに終わる。すぐに飽きて終わらせてくれる。
心の中で何度も何度も私はそう呟いた。
次から次へと投げつけられるボールは膝や頭を防ぐ腕や、腹または腕が防ぎ切れなかった後頭部に当たっていった。
幾度も強く当てられるので、私の体がゆらゆらと揺れた。
「強情だな。こんなこともう疲れるから終わりにしたいんっ――だけど!」
そう言った二人のうちどちらかのボールが、私の腕の防御からもれた耳に丁度命中した。
「あっ」
私はそのボールの勢いに弾かれて、のけぞった。私のお腹は守られずに、無防備になってしまった。突然、私の視界には上履きが見え、そして腹に激痛が襲った。
少し遅れて私は腹を蹴られたことを理解した。
「――っ、がは」
痛さと苦しさに腹を抱えて、私は咳き込んだ。
「……どう? あなたがやったんでしょ。認める気になった?」
悶絶しながら私は、彼女たちの声とは違う何かも一緒に聞いていた。
何の声? 何処から聞こえるの?
涙でぼやけた目で、腹をおさえながら倉庫内を密かに探る。
彼女たちは私への攻撃を一旦中止して、しばらく私を無視し二人だけでひそひそと何かを相談しあっているようだった。
声は上の方から聞こえた気がする。
私の目線は天井や棚の上、メジャーや大量の釘が入ったケース、バレー・バトミントンの支柱、何個も重ねられている三角コーンに向けられていった。
あ! あそこだ!
ぼそぼそとよく聞こえない声は、私がそこを見ると話す内容が次第にはっきりと聞こえだした。
声は、耐震用に壁に固定された鉄筋の棚の上から発せられていた。
――殺してやる
「え」
殺してやるだって!
その恐ろしい声は、押し殺した女の人のものだった。
急に室内の気温が下がったような気がした。
「櫻井ぃ、まだ自分のやったこと認めてないのに、何くつろいでんだよ。まだ、終わってないからな」
「お前がはかないならずっとこのままだっていいだよ」
笹原さんに同意するように後から橋本さんが言った。二人の話し合いはどうやら終わったようだ。
「く、くつろいでなんか……そ、それよりここ、危ないから、早く出た方がいいよ」
私は何となくこのままここにいるのは危険な気がした。
あの声は誰かを恨む声だったのだ。
「ここから出るだって? もしかしてそう言って、私たちをごまかして逃げようとしてんじゃないだろうな」
笹原さんはいらだったように眼を見開いた。
「そ、そういうつもりじゃないよ。わ、私、本当にこの倉庫が危険だと思ったから」
「今度は、逃げるための嘘をつくのね」
にこにことほほ笑む橋本さんは後ろに振り向いてほうきを取った。そして、そのほうきをひっくり返して彼女は持ち上げる。
――殺してやる
また声が聞こえた。
近づく彼女の笑顔。私はその顔から目が離せなかった。
吐く息が白くなっていく。
後ろに逃げたいのに体が、動かない。
体が冷えていく。
暗い倉庫内に何故かぼんやりと白く輝く光。私の頭に直接届く声の主が棚の上で光っていた。
それは、ニヤリと笑った。
私の頭上に落とされるほうきの柄が、とてもゆっくり見える。
「あ、ああ」
私の口から声が漏れた。
バーン!
突然、激しい爆発音が響いた。
衝撃のあと、橋本さんの後ろの棚が彼女に倒れこんできた。壁に固定されていたはずの金具が無理やり何か強い力によってはじけ飛んだのだ。その棚は白く輝く何かがいた鉄筋の棚だった。
「きゃあああああああああ!」
笹原さんのつんざくような叫び声が私の耳を貫いた。
自分の目の前には、鉄筋の重たい棚の下敷きになる彼女がいた。
「濡れてる」
床についていた手が黒い液体で染まった。液体は私の靴下や上履きを湿らせていった。
鉄筋につぶされた彼女からどろりとしたものが流れ出ていた。
「あ、あ、あ、あ、あ」
私はその生暖かい液体が何か分かった。けれど、言葉に出なくて、ただ無意味な声だけしか音声にならなかった。
その時、いきなり倉庫の扉が勢いよく開かれた。
大量の光が室内に入って、私はこの惨状をしっかりと目の当たりにした。
私の手のひらが真っ赤に染まっていた。
「……これは、何が……」
聞いた声を聞いた気がして、私は顔を上げた。
扉の前に立っていたのは諒だった。
「由紀! 大丈夫?」
慌てたように諒は私の前までやってきてかがんだ。彼女は私の赤い掌をはじめに探り、次に足を触っていった。
「大丈夫? どこか怪我してない?」
放心状態の私の顔を覗き込んで尋ねる顔は、泣きそうだった。
「は、は、ははは、橋本さんが、橋本さんが……」
私の小さなつぶやきと震える指でさす方向に、諒は目を向けた。
そこにいたのは扉から漏れる光には照らされずに鉄に押しつぶされる橋本さんだった。そして、その橋本さんの横にはへたり込んで座り、震える笹原さんがいた。