第四章 こっちへおいで
柵の壊れたところへ板を当ててみた。
少し曲がっている。
「……これでいいかな」
『よくない』
足元から声がした。
スプリガンが腕を組んでいる。
「倒れなければいいでしょ」
『曲がってる』
「見れば分かる」
『直して』
「だから直してるの」
板を外した。
スプリガンは納得したらしく、傷んだ花の方へ戻っていく。
前より口を出すようになった。
たぶん、まだ怒っている。
庭には植え直したものがいくつかあった。畑の畝も直した。駄目になった作物は抜いた。
全部が元に戻ったわけではない。
戻らないものもある。
それでも朝になれば水をやるし、伸びた草は抜く。
サラマンダーは竈にいる。
ウンディーネは水場にいる。
シルフは勝手に洗濯物を揺らす。
そういうところは変わっていなかった。
変わったのは、私がときどき考えるようになったことだった。
ここを出ることを。
『森の奥なら、人はあまり来ない』
シルフが言っていた。
『水もある』
ウンディーネも言った。
『土もある』
ノームも言った。
「土がないところの方が珍しくない?」
『いい土』
「それなら大事ね」
ノームは頷いた。
人がほとんど来ない場所。
森があって、水があって、畑を作れる。
妖精や精霊もいる。
ここより魔素も濃いらしい。
暮らせないとは思わなかった。
むしろ今より楽なこともあるのかもしれない。
誰かが籠を隠すこともない。
畑へ石を投げ込まれることもない。
庭を荒らされることもない。
誰もいないところで、畑を作る。
朝になったら水を汲む。
野菜を育てて、森へ入って、必要なものを採る。
サラマンダーが竈を占領して。
ノームが野菜の大きさへ文句をつけて。
シルフが洗濯物を飛ばす。
たぶん、暮らせる。
悪くないと思った。
だから余計に困った。
「リーナ」
声がして振り返った。
道の向こうから、近所の女が歩いてきた。
前に薬草を欲しがっていた人だ。
「おはよう」
「おはよう。……まだ直してたの?」
「うん」
女は柵を見る。
「これ、あんたがやったの?」
「途中まで」
「曲がってるじゃない」
「スプリガンにも言われた」
「何?」
「こっちの話」
「ああ、いつものね」
女は柵へ近づき、板を押す。
ぐらりと動いた。
「駄目じゃない」
「倒れなければいいかなって」
「倒れるでしょ、これ」
「今のところ立ってるよ」
「そういう問題じゃないわよ」
言いながら、女は袖を捲った。
「何してるの?」
「板、押さえて」
「いいよ。自分でやる」
「できてないから言ってるの」
「できる途中だったの」
「じゃあその途中を手伝う」
勝手だった。
仕方なく板を押さえる。
女は釘を抜き、位置を直した。
「もう少し上」
「ここ?」
「そこ。動かさないでよ」
「はいはい」
「返事が軽い」
「重くした方がいい?」
「いいから押さえてて」
言われた通りにする。
少しして、板はさっきよりずっと真っ直ぐになった。
女が揺らしてみる。
今度は動かない。
「ほら」
「すごい」
「そのくらい普通よ」
『さっきよりいい』
スプリガンがいつの間にか戻っていた。
「スプリガンも褒めてる」
「それ、褒めてるの?」
「たぶん」
「ならよかったわ」
女には見えていない。
それでも普通に答えた。
「他も見る?」
「いいよ」
「遠慮?」
「本当にいい。畑は自分でできるから」
「そう」
女はそれ以上言わなかった。
服についた土を払う。
「でも、また何かあったら言いなさいよ」
「何で?」
「何でって……知ってる相手の家が壊されてたら、普通は気になるでしょ」
そう言われた。
私は少し考えた。
「そういうもの?」
「そういうもの」
「じゃあ覚えとく」
「そこはちゃんと覚えといて」
前にも似たようなことを言われた気がする。
女は帰っていった。
私は直った柵を見る。
スプリガンも見ている。
『真っ直ぐ』
「うん」
『最初からそうして』
「次からね」
『次はない』
「そうだといいけど」
スプリガンは返事をしなかった。
◇
数日ぶりに市場へ出た。
まだ畑の作物は減っていたので、いつもより籠は軽い。
向かいの男が私を見るなり眉を寄せた。
「大丈夫だったのか?」
「何が?」
「畑だよ」
「ああ」
「聞いたぞ。庭もやられたんだろ」
「少しね」
「少しじゃないだろ」
「直してる途中」
男は何か言いかけて、やめた。
「……困ったら言えよ」
「野菜買ってくれる?」
「それはいつも買ってる」
「じゃあ助かる」
「そういう意味じゃねえんだけどな」
「違うの?」
「もういい」
呆れられた。
それから、いつもの客にも聞かれた。
「畑、大丈夫?」
「大丈夫。駄目になったのもあるけど」
「そう。嫌ねえ」
「うん」
「今日これ二つもらうわ」
「はい」
話はそれで終わった。
別の客が来る。
野菜を渡す。
代金を受け取る。
いつもの市場だった。
誰も私を囲まなかった。
誰も代わりに怒鳴りに行こうとは言わなかった。
ただ、知っている人が少し心配して、それからいつもの買い物をした。
帰りにパン屋へ寄る。
「今日は昨日のある?」
「あるけど、先に聞くことあるだろ」
「何?」
「お前の家だよ」
「ああ」
「大丈夫なのか?」
「直してる」
「そうか」
店主はそれ以上聞かなかった。
棚の下からパンを出す。
「昨日のが一つ。半分でいい」
「もう一つは?」
「普通の値段」
「じゃあ両方」
「やっぱり食うなあ」
「私だけじゃないから」
「知ってるよ。見えない連中だろ」
「分かってきたね」
「分かってはいない」
パンを包んでもらう。
いつもと同じだった。
私は代金を払った。
「また来る」
「おう」
店を出た。
それだけのやり取りなのに、少しだけ立ち止まった。
振り返る。
店主はもう次の客を相手にしていた。
「……何してるんだろ」
そのまま帰った。
◇
家へ戻る道を、少しゆっくり歩いた。
いつも通る道だった。
脇には草が生えている。
少し先に森へ入る道が分かれている。
そちらへ行けばドライアドがいる。
反対へ進めば村。
もっと向こうには海へ出る道がある。
海へ行けばセイレーンがいる。
工房にはレプラコーンがいる。
家へ帰れば竈にはサラマンダー。
庭にはスプリガン。
畑にはノーム。
水場にはウンディーネ。
風が吹けば、たまにシルフが混ざっている。
今まで、そこにいるから会っていた。
道があるから歩いていた。
店があるから買い物をしていた。
近所に住んでいるから挨拶していた。
それだけだった。
家へ着く。
直した柵の一部だけ、板の色が違っている。
庭ではスプリガンが植え直した花を見ていた。
畑にはまだ土の色が乱れているところがある。
全部きれいには戻っていない。
たぶん、しばらくかかる。
「ただいま」
誰に言ったのかは分からない。
『遅い』
竈の方からサラマンダーの声がした。
「まだ火つけてないでしょ」
『待ってた』
「自分でつければいいのに」
『ご飯は?』
「今から」
パンを机へ置く。
窓が鳴った。
『パン』
シルフが来たらしい。
「まだ食べないよ」
『今食べよう』
「嫌」
いつもの声だった。
私は椅子へ座った。
人の来ない場所へ移っても、たぶん同じように暮らせる。
畑を作って。
水を汲んで。
妖精や精霊と喋って。
今より静かで、安全かもしれない。
それは悪い暮らしではない。
そう思う。
それでも、さっき通ってきた道がなくなる。
市場へ行かなくなる。
パン屋で昨日のパンを買わなくなる。
工房へ靴を持っていかなくなる。
森へ行く道も、海へ行く道も、今とは違うものになる。
この庭も。
この畑も。
この家も。
置いていくことになる。
それを思った。
「……嫌だな」
『何が?』
窓の方からシルフが聞く。
「何でもない」
『変なの』
「うるさい」
椅子から立った。
夕食を作らないといけない。
竈ではサラマンダーが待っている。
外では風が吹いていた。
直したばかりの柵の向こうに、いつもの畑が見える。
安全な場所へ行く方がいいのかもしれない。
その考えは、まだ間違っているとは思わなかった。
ただ。
私は、ここを出ていきたくない。




