第五章 今日もここで暮らします
朝、庭へ出ると、直したばかりの柵にスプリガンが座っていた。
新しく打ち直した板は、そこだけ色が明るい。まだ土のついたところもあるし、折られた花の中には戻らなかったものもある。
スプリガンは足をぶらぶらさせながら、私を見た。
『決めた?』
「朝一番に聞く?」
『昨日は聞かなかった』
「それは偉いね」
『偉い』
胸を張った。
少し離れた畑では、ノームが畝の端を直している。こちらを見ていないふりをしているけれど、たぶん聞いている。
私は柵へ手を置いた。
新しい板は、古い板よりざらざらしていた。
「行かないよ」
スプリガンの足が止まった。
ノームの手も止まった。
「ここに残る」
『なんで?』
すぐに返ってきた。
「決めたから」
『それは答えじゃない』
「面倒くさいなあ」
『大事な話』
そう言われると弱い。
私は柵から手を離した。
昨日まで、ずっと考えていた。
人の来ない場所。
森と水があって、畑も作れる場所。
妖精や精霊がいて、ほかの人には見えないものと話しているだけで、変な目を向けられることもない。
たぶん暮らせる。
今より楽かもしれない。
それでも、行きたいとは思わなかった。
「ここがいいから」
スプリガンが首を傾げる。
『ここ、壊されたよ』
「うん」
『また壊されるかもしれない』
「そうだね」
『また嫌なことされるかもしれない』
「それも、あるかもね」
ノームが顔を上げた。
『それでも?』
「それでも」
自分で言ってから、少し考えた。
嫌な人がいないわけじゃない。
ここにいれば、これから先も腹の立つことくらいあるだろう。
また何か壊されることだって、絶対にないとは言えない。
でも、それと、ここを離れたいかどうかは別だった。
竈にはサラマンダーがいる。
井戸へ行けばウンディーネがいる。
風が吹けばシルフが勝手に洗濯物へ触る。
畑にはノームがいて、庭にはスプリガンがいる。
村へ行けばパンを買う店があって、顔を合わせれば挨拶する人がいる。
森へ続く道も、海へ向かう道も知っている。
靴を直してもらう工房もある。
別の場所へ行けば、また別の暮らしを作れるのだと思う。
それはきっと、悪いものではない。
でも。
「私は、ここが好きだから、ここにいる」
言葉にすると、思っていたより簡単だった。
スプリガンは何も言わなかった。
ノームも黙っている。
風が吹いた。
髪が頬へかかる。
「……シルフ?」
『いるよ』
耳元で声がした。
「聞いてた?」
『聞いてた』
「勝手に?」
『いつも勝手』
「そうだった」
風が少し笑った気がした。
スプリガンが柵から飛び降りる。
『でも、心配』
「うん」
『リーナ、すぐ「平気」って言う』
「言うね」
『平気じゃなくても言う』
これは反論できなかった。
ノームまで頷いている。
「今回は、みんなまで巻き込んだしね」
『違う』
ノームが言った。
『巻き込まれたんじゃない』
土のついた手で、畑を示す。
『ここ、最初から使ってた』
少しだけ言葉に詰まった。
「……そうだね」
私が勝手に、自分の問題だと思っていただけだった。
庭も畑も、ずっと私一人だけのものではなかった。
だったら、これからのことも、私一人で決めて終わりじゃない。
「ねえ」
『なに?』
スプリガンが見上げてくる。
「私、ここに残るけど」
『うん』
「みんなは?」
スプリガンが瞬いた。
『みんな?』
「これからもいる?」
『いるけど』
あっさりしていた。
聞いた私の方が拍子抜けした。
「……そう」
『なんで聞くの?』
「いや」
私は目を逸らした。
言わなくてもいると思っていた。
今までは、それでよかった。
サラマンダーは勝手に竈へ入り、シルフは勝手に洗濯物を揺らし、スプリガンは勝手に庭へ芽を持ち込む。
私も勝手に文句を言っていた。
たぶん、これからもそれでいい。
でも、一つだけ違った。
「私が、いてほしいから」
スプリガンが黙った。
ノームがこちらを見る。
風も止まった。
静かすぎる。
「何か言ってよ」
『もう一回』
「嫌」
『もう一回』
「絶対嫌」
スプリガンが笑った。
『聞いた』
「ならいいでしょ」
顔が少し熱い。
こんなことなら、黙っていればよかった。
けれど、黙っていたら伝わらなかった。
私は庭を見た。
まだ土が乱れているところがある。
畑にも植え直したばかりの苗がある。
柵も一部だけ新しい。
全部が元通りになったわけではない。
それでも、ここにある。
「私がみんなのところへ行くんじゃなくてさ」
スプリガンが首を傾げる。
「みんなが、ここで一緒に暮らせばいいんじゃない?」
『ここ?』
「ここ」
私は庭だけを指ささなかった。
指さしても仕方がない。
「別に、全員ここに住めって意味じゃないよ。狭いし」
『狭くない』
「増えたら狭い」
『森は?』
「ドライアドは森にいればいいでしょ」
『海は?』
「セイレーンは海」
『工房』
「レプラコーンはあそこが好きなんだから、あそこ」
スプリガンはしばらく考えていた。
『じゃあ、今までと同じ?』
「だいたいね」
『何が違うの?』
私は少し考えた。
「私が、そうしたいって決めたところ?」
スプリガンはまた考える。
今度はノームを見る。
ノームは畑を見て、それから私を見た。
『分かった』
「早いね」
『土、まだ直すところある』
そう言って、作業へ戻っていった。
「それ関係ある?」
『ある』
「どこが?」
返事はなかった。
スプリガンは柵の上へ戻る。
『じゃあ、いる』
「うん」
『ずっと』
「それは長いね」
『嫌?』
「別に」
風がまた吹いた。
「シルフも?」
『いるよ』
「聞いてない」
『聞かれたと思った』
「思ってない」
笑い声と一緒に風が抜けた。
私はため息をついた。
たぶん、こういうところも変わらない。
それでよかった。
◇
翌朝、竈へ火を入れようとして、私は手を止めた。
「どいて」
『いや』
サラマンダーが真ん中を占領していた。
「火を使いたいんだけど」
『使えば?』
「あなたがいると薪が入らない」
『工夫して』
「出て」
『いや』
朝からこれだった。
結局、薪を押し込むまでに少し時間がかかった。
水を汲みに行けば、ウンディーネが井戸の縁へ座っていた。
畑ではノームが昨日の続き。
庭ではスプリガンが、いつの間に持ってきたのか知らない芽を植えようとしている。
「それ、何?」
『花』
「どこから?」
『向こう』
「向こうってどこ?」
『向こう』
聞くだけ無駄だった。
家へ戻ると、窓辺に小さな影が二つ増えていた。
さらに風が入り込み、卓上に置いてあった布を持ち上げる。
「増えすぎ」
言ってみた。
誰も気にしなかった。
仕方なく布を押さえ、朝食を済ませる。
外へ出た。
新しくなった柵の一部が朝の光を受けている。
まだ直した跡は分かる。
畑の苗も、庭の花も、全部が前と同じになったわけではない。
それでも、ノームは土を触っているし、スプリガンはまた勝手な場所へ何か植えている。
村へ向かう道では、すれ違った人といつものように挨拶をした。
その人には、私の横を飛んでいるものは見えていない。
たぶん、それでいい。
森へ続く道の先にはドライアドがいる。
海からは風が来る。
海へ行けばセイレーンがいる。
靴職人の工房へ行けば、たぶんレプラコーンもいつものように仕事を覗いている。
全員が私の家にいるわけではない。
これからも、そうはならない。
それぞれ好きなところにいて、私は必要ならそこへ行く。
向こうから来ることもある。
勝手に竈へ入る。
勝手に庭へ植える。
勝手に風を吹かせる。
そして私は、たぶんこれからも文句を言う。
昨日までと、そんなに変わっていない。
私は畑へ向かった。
ノームがこちらを見て、何も言わずに土のついた手を上げる。
私も片手を上げた。
今日も、いつもの一日が始まる。
精霊が見える私は、今日もここで暮らします。




