第三章 壊された庭
朝、外へ出て、最初におかしいと思ったのは柵だった。
「……何これ」
庭の端に立っていた木の柵が、二本ほど内側へ倒れている。
風で倒れたのかと思った。けれど近づいてみると、杭の一本が途中で折れていた。
折れた木の先は新しい。
昨日までは何ともなかった。
「また?」
呟いてから、庭を見る。
そこで足が止まった。
花壇の土が散らされていた。
植えてあった花が何本か抜かれ、葉の上に土がかぶっている。端に置いていた小さな鉢は横倒しになり、中身が半分ほどこぼれていた。
見覚えのある芽が、土の上で折れている。
「あ」
前にスプリガンが勝手に持ってきたものだった。
どこから持ってきたのか聞いても知らないふりをして、抜くと言えば怒った芽。
しゃがみ込む。
茎の途中から潰れていた。
「……これは無理かな」
触ってみたが、立て直せそうにない。
背後に気配がした。
振り返る。
スプリガンがいた。
「おはよう」
返事はない。
いつもなら庭へ入っただけで、水が多いだの、そこを踏むなだの何かしら言ってくる。
今日は私を見なかった。
折れた芽の前へしゃがみ込む。
小さな手で茎を持ち上げた。
倒れる。
もう一度持ち上げる。
また倒れた。
「たぶん、それは……」
言いかけてやめた。
スプリガンは黙ったまま、茎の根元へ土を寄せ始めた。
私は立ち上がった。
「先に柵を起こすね」
返事はなかった。
物置から縄と金槌を持ってくる。折れていない方の杭を起こし、土を踏み固める。倒れた板は使えそうだったので、いったん端へ寄せた。
一本は交換しないと駄目そうだった。
「面倒だなあ」
いつものように言ってみた。
スプリガンは何も言わなかった。
それが少し嫌だった。
庭をある程度片付けてから畑へ向かう。
こっちは大丈夫であってほしかった。
駄目だった。
畝の一つが崩されている。
土の上には靴の跡がいくつも残り、育ち始めていた葉が踏まれていた。何本かは根ごと抜けて、少し離れたところへ投げられている。
「……ほんと、何してるの」
籠を置く。
まだ助かりそうなものから拾った。根についた土を落とさないように戻し、穴を掘る。
そこでノームが土から出てきた。
「おはよう」
ノームは私を見なかった。
荒れた畝を見ている。
「これ、戻せるかな」
『戻す』
「じゃあ手伝って」
ノームが土へ手を入れ、崩れたところを押し戻し始めた。
私も隣で作物を植え直す。
一本。
二本。
三本。
四本目は茎が完全に折れていた。
手の中で少し眺める。
「これは駄目ね」
畑の端へ置いた。
ノームが動きを止める。
『捨てる?』
「仕方ないでしょ」
『育てた』
「うん」
『毎日』
「うん」
短い返事しか出なかった。
ノームは折れた作物を見ている。
「また植えよう」
『同じ?』
「同じのが育つかは分からないけど」
『これ』
ノームが指を差す。
「これは戻らないよ」
言ったあとで、少し後悔した。
ノームは何も答えなかった。
土へ潜る。
いつもなら、そのまま別のところから顔を出したり、私が抜こうとした草へ文句を言ったりする。
今日は戻ってこなかった。
私は植え直した作物の根元へ土を寄せた。
畝を直す。
散らされた土を戻す。
踏まれた葉を取り除く。
やることは分かっている。
だから、やればいい。
壊れたなら直す。
駄目になったなら植え直す。
籠を隠されたときだって、見つけて洗えば済んだ。
石を投げ込まれたときも、拾えば済んだ。
今回も、それだけのはずだった。
水を汲みに井戸へ向かう。
ウンディーネはいつものように水面から顔を出したが、今日は水を飛ばしてこなかった。
「どうしたの」
『庭』
「見たの?」
頷く。
「今直してる」
『畑も』
「そっちも」
『壊した』
「……うん」
桶へ水を汲む。綱を引くと、途中から軽くなった。
ウンディーネが底を押している。
「ありがと」
返事はない。
桶を持って庭へ戻る。
縁側にはサラマンダーがいた。竈ではなく、珍しく外に出ている。
「朝ごはんならまだだけど」
『いらない』
「あなたが?」
思わず聞き返した。
『今日は』
「そう」
庭を見る。
スプリガンはまだ折れた芽のそばにいる。起こした鉢へ土を戻したらしい。
けれど、いつも勝手に持ってきた種を埋めているときとは違った。
ただ座っている。
私は桶を置いた。
「水いる?」
『いらない』
「じゃああとで」
返事はなかった。
風が吹いた。
干してあった布が揺れる。
「シルフ?」
『いる』
「飛ばさないでね」
『飛ばさない』
素直だった。
今日はみんな変だった。
いや。
変なのは当然なのかもしれない。
私は壊れた柵の前へ戻った。縄を結びながら、使えそうな板を合わせる。
少しくらい曲がっていても、あとで直せばいい。
『リーナ』
シルフの声がした。
「何?」
『誰がやったの?』
「知らない」
『探す?』
「探さない」
『どうして?』
「探してどうするの」
返事がない。
「直せるところは直せるし」
『また来る』
手が止まった。
「来ないかもしれない」
『来るかもしれない』
「それはそうだけど」
縄を引く。
うまく締まらなかった。
やり直す。
「今はこれ直す方が先」
『違う』
珍しく強い声だった。
顔を上げる。
シルフの姿は見えない。
風だけが庭に残っている。
「何が?」
『リーナだけじゃない』
その言葉の意味が、すぐには分からなかった。
視線を落とす。
スプリガンがいた。
折れた芽の横。
いつもなら自分の庭みたいな顔で歩き回っている場所で、今日はずっと同じところに座っている。
畑の方を見る。
ノームはまだ出てこない。
「……そっか」
口から出た。
庭は私の庭だった。
畑も私の畑だった。
家も柵も、私が暮らすためのものだった。
そう思っていた。
でも、スプリガンは毎日ここにいた。
水が多いと言い、枝を切りすぎだと怒り、勝手に種を持ってきた。
ノームも毎日土の中にいた。
私が抜こうとした草を止めたり、野菜の大きさに文句をつけたりしていた。
私が育てた。
でも、私だけが育てたわけではない。
「……ごめん」
誰に言ったのか、自分でもよく分からなかった。
スプリガンが顔を上げる。
『なんで?』
「私が気にしなければいいと思ってたから」
『リーナが?』
「うん」
『私は気にする』
「……うん」
『ノームも』
畑を見る。
「うん」
『みんな気にする』
サラマンダーが縁側から降りた。
『ここ、やだ』
「ここ?」
『人間が来る』
「人間ならどこにでもいるでしょ」
『いないところもある』
ウンディーネが井戸の方から顔を出している。
『水の奥』
「私は水の中で暮らせないよ」
『そば』
「それなら分かるけど」
風が髪を揺らした。
『森の奥もある』
シルフの声。
『人間、少ない』
「ドライアドのところ?」
『もっと奥』
「そんなところ、畑あるの?」
『作ればいい』
ノームだった。
いつの間にか畑の端から顔を出していた。
「出てきたの」
『土はある』
「土があればいいってものでもないんだけど」
『水もある』
ウンディーネが言う。
『火も』
サラマンダー。
「あなたはどこでもついてくる気?」
『竈があれば』
「結局竈なんだ」
少しだけ笑いそうになった。
でも、うまく笑えなかった。
みんな、本気だった。
人間が来るから嫌なのではない。
私がまた何かされるのが嫌なのだ。
そのことくらいは分かった。
『もうここにいなくていい』
スプリガンが言った。
折れた芽に触れたまま。
『人間の来ないところへ行こう』
風が静かに通り抜ける。
『私たちのところで暮らそう』
誰の声だったのかは分からなかった。
一つではなかった気もする。
私は返事をしなかった。
壊れた庭を見る。
直しかけの柵。
起こした鉢。
土をかぶった花。
植え直したばかりの畑。
ここにいれば、また同じことがあるかもしれない。
人間のほとんど来ないところなら、たぶん今より静かだ。
妖精や精霊たちもいる。
畑だって、土があるなら作れるのかもしれない。
「……少し、考える」
それだけ言った。
誰も急かさなかった。
私は直しかけの柵の前へ座り込み、手にしていた縄を膝の上へ置いた。
今日はまだ、直さなければならないものがたくさん残っていた。




