③
改稿しました。
トビアス十六歳、盛夏 (四年前)
旅の疲れと、シャーロットと二人で過ごせた安心感で昼近くまで眠り込んでしまった。
幸福な夢を見た。
目覚めた時トビアスは思わず微笑みを浮かべた。
今日も、明日もシャーロットに会えると思い込んでいたからだ。
食堂で遅い朝食をとりながらまたシャーロットを思った。
昼間は部屋から出て来ないのだろうか。
夕食では会えるだろうか。
そして昨夜のように呼び出せばまた厩舎に来てくれるだろうか。
一日、同じような事ばかり繰り返し思い、過ごした。
─そして夕食。
いくら待ってもシャーロットが現われない。
ひしひしと不安が胸に忍び寄って来る。
叔父か叔母に聞いてみようか…でもどういう風に?
いや、また後で部屋の窓を伺う方がいいか。
彼女が入って来ないかと、食堂の扉を何度も窺い見る。
何故、現われない?
シャーロット、部屋に居るのか…?確かめに行きたい。
不安が徐々に苛立ちと恐れに変わる。
湧き上がる焦燥感にトビアスは周りが見えていなかった。
「……ビアス……トビアス!」
はっ、と我に返る。
叔父の声だった。
「どうかしたのか?トビアス」
何度か呼ばれていたのだろうか…叔父が不審そうに眉をしかめている。
ベアトリスとデイジーはもう居ない。
トビアスは二人が引き上げた事にさえ気付いていなかった。
「い、いえ。別に、少しぼっとしてたみたいです」
慌てて取り繕った。
「で、では僕も、もう…」
「あ、トビアス!」
食堂を出ようと立ち上がると叔父に引き留められた。
…何?眉間に皺が寄った。
シャーロットを求め苛立っていたトビアスは内心で舌打ちをしてしまっていた。
それに気付かず、叔父は隣に座る夫人と視線を交わした。
「聞いて欲しい事…いや願いたい事があるんだ」
トビアスはなんとなく嫌な予感を覚えた。
「……何でしょうか」
「実はベアトリスの婚姻が決まったんだ」
叔父は少し困ったように眉を下げた。
「婚約破棄の揉め事が片付くまでは表沙汰には出来ないが、バレン伯爵にね、嫁ぐ」
…やはり。
オーレリアが倒れた時、ベアトリスは近隣中で一番に駆けつけ心を尽くしたのだった。
感激したオーレリアは献身に報いたいと申し出た。
ベアトリスは一度は固辞を示したが最終的にはバレン家への嫁入りを望んだ。
「実は昔からデイビッド様をお慕いしておりました」と。
「願っても無い事だわ…」
ベアトリスの願いに一も二も無くオーレリアも応えた。
デイビッドは最初、幼い頃を知る女性を妻とするのを渋ったようだった。
しかし連日のように母を慰めに来て自分にも懸命に愛を乞う健気な姿に絆されてしまった。
破棄問題も近々片付きそうな今、辺境伯もベアトリスの願いに頷いたのだ。
「それで…なのだが」
叔父は改めてトビアスを見た。
「ベアトリスが嫁ぐ事になった今、跡はデイジーに婿を充てがって継がせたいんだ」
「……」
やはりシャーロットは蚊帳の外なのだな、と虚しさを覚えながらトビアスは頷いた。
辺境伯夫妻は揃ってトビアスを見つめている。
「…トビアス、君が婿に入ってくれないか?辺境伯を継いで欲しいのだ」
「……は?」
間抜けな声が出たきり暫く二の句が継げなかった。
「君とデイジーは従兄妹で血が少々近いが、貴族間では儘ある事だ。問題は無いと思う…」
真剣に訴える叔父の姿に面食らう。
「待って下さい。家督の為にそんな無茶を仰るのですか?当事者の気持ちは!?」
「だから今、君に願っているし、デイジーは既に承知している」
トビアスは目眩を感じた。
いったい何を言っている?皆正気なのか…。
「無理です。…僕はデイジーとは結婚出来ません」
やっと言った。
「ええ⋯わかるわ」
今まで黙っていた叔母が言う、まるで宥めるような口調で。
「でもベアトリスとデイビッド様もそうだったの。今はデイジーを妹にしか思えなくても…」
突然、頭に登っていた血が氷のように冷えた気がして叔母が言い終わる前に言葉を返していた。
「アリス叔母様はよく御存知ですよね。僕は母に伴侶は心で選べと教えられて育ちました。貴族家では珍しいですがバートンはそう言う家です」
そして叔父と叔母を交互に見てから硬質な声音で告げた。
「僕はデイジーを妹だと思った事など一度もありません!」
腹がたっていた。
昨夜のシャーロットの言葉が蘇る。
〚信じてくれてたの?〛
〚私は辺境一の嫌われ者よ〛
誰も信じてやらなかったのか?
誰も庇ってやらなかったのか?
それではあなた方が追い詰めたようなものじゃないか!
まるで復讐でもするような気分で畳み掛けた。
「もちろん女性として好意を抱いた事もありません。最近はむしろ、嫌悪に近い気持ちになっています」
トビアスは自分が蒼白になっているのに気づいていた。
目眩がする。
「…絶対にデイジーだけは無理です!」
呆気に取られたように言葉を失くす辺境伯夫妻。
彼らの目に隈を作った窶れた様子に気づく余裕も無かった。
わざとらしく、ことさら深く礼を取ってからトビアスは振り向く事もせず部屋を出た。
逸る気持ちでシャーロットの部屋に向かう。
深呼吸をしてノックをした。
何の反応も無い。
二度、三度とノックを繰り返してから不信に思いドアノブを回した。
すると呆気無く開いたドアの中はがらんどうだった。
空気は冷えて家具には白い布が掛けられている。
動転したトビアスは廊下を駆け戻り最初に出くわしたメイドを捕まえた。
怒鳴る勢いで問う。
「シャーロットは?シャーロットは何処にいるっ?」
メイドは驚いて縮み上がった。
「け、今朝早くに、ご出立になりました」
「何処に?!」
「お、王都だと伺っております」
「王都の何処だ!」年若いメイドは最早涙ぐんでいる。
「存じません…!お、王都のお邸なのでは?」
呆然と立ち尽くしたトビアス。
メイドは急いで逃げ出して行った。
部屋に戻ったトビアスは焦燥と絶望を抱いて蹲りシャーロットの面影だけを虚しく追った。
そしてまんじりともしない夜を越えた。
翌、早朝。
厩舎から勝手に馬を引き出して王都に向け辺境伯領を出た。
トビアスは怒りと悲しみで自分を見失っていた。
シャーロット18歳、夏
領地屋敷の近くで待機していた王宮の迎えの馬車は早朝にやって来た。
玄関を出たシャーロットは屋敷を振り返る。
トビアスの居る部屋の窓が見えた。
しばらく見つめてから振り切るように向き直る。
俯向いたまま馬車に乗り込んだ。
せめて最後にトビアスに会いたい。
その思いで懸命に理由をこじつけて出立を引き延ばして来た。
やっと会えて想いを遂げる事が出来た。
昨夜、厩舎で熱く抱き締められたあの温もりが蘇る。
思わず自分の身体に腕を回す。
もう一度だけでもトビアスの顔を見たかった。
だが引き延ばしはもう限界だっただろう。
小さく名を呟いた。
「…トビアス」
駄目。
ああ、もう考えては駄目!
王都に向かう道は安全で揺れも少ない。
現辺境伯の父トーマスが領を継いで成した道路整備事業の賜物だ。
交易は大きく広がり、領地は豊かになった。
民の暮らしも格段に良くなっている。
父は民の為の方策を数多行う善良で偉大な領主だ。
シャーロットはそんな父を敬愛している。
だから直ぐにベアトリスの話に納得がいったのだ。
〚あなたの事で辺境伯家が積を負う事は一切無いわ〛
〚なぜなら…あなたにはマーシャルの血が流れていないから〛
ベアトリスは幼い頃、古参の侍女から密かに耳打ちされたと言う。
──お嬢様、シャーロットの事は妹として扱ってはなりません
──あれには下賤の血しか流れておりませんから
──領地の娼館の女が捨てた子を憐れんだ旦那様が自分の子として育てておられるだけでございます
その言葉が不思議だった。
ずっと普通に妹だと思って来た。
だからベアトリスは両親に尋ねた。
そして翌日、その侍女は解雇され、屋敷を去った。
あの時、ベアトリスは両親が何も答えなかったことで、かえってその話を真実だと思ったらしい。
そして婚約破棄を思い付いた時、自分でも調べた。
結果は侍女の言葉を裏付けるものだった。
〚私でも調べられることを、揉め事になった時に相手が調べないはずがないわ〛
シャーロットの立場が使用人と同等だと知れる。
使用人に誘惑され乗ってしまったなら責は子息にある。
公式の場でマーシャル家を責める材料にはなり得ない。
──そういう事だったのか…。
その事実に周囲が真っ白になって崩れて行く幻を見ながらも妙に納得する自分を感じていた。
ベアトリスはシャーロットを見て涙を流した。
『領地の益と、デイビッド様への未練……我欲のために、あなたを犠牲にするような真似をしてしまった』
『きっと私には、いつか天罰が下るわ』
『許してとは言わない。…そうよ、あなたは私を許さなくていい。一生、憎みなさい』
ベアトリスの暗い目を思い出す。
彼女は幼い頃から私が他人と知って…でもずっと優しい姉として接してくれていた。
そして父母を思う。
あの可愛らしい母を愛してやまない父が他の女性に目を移し庶子を儲けるなどあり得ない事だったのに。
そんなことに疑問すら持たず、私はずっと両親の愛を当たり前のように受けて育った。
何も知らなかった。
知らないまま、幸せだった。
だから今、私が全てを引き受ければいい。
そうすれば、両親を苦しめている問題は全て片付く。
父がトビアスを、デイジーの婿として後継に望んでいたことを最近になって知った。
貴族の血さえ持たない私にトビアスとの結婚が許されるはずなどなかったのだ。
私が王のもとへ行けば、マーシャル家は安泰。
育ててもらった恩も返せる。
それでいい。
それが私の幸せなのだと自分に言い聞かせた。
けれど。
また、昨夜のトビアスが鮮明に蘇った。
自分を見つめる瞳。
優しい声。
抱き締めてくれた腕。
…胸が締めつけられる。
――トビアスのところへ帰りたい!
幻の自分が馬車を飛び降り地を蹴って帰り道を駆けて行く。
だが。
叶わない願い。俯向くシャーロットは唇を噛みしめる。
上質なドレスに、一滴。
また一滴。
涙が染みを作っていく。
……トビアス
名を呼んだが今度は、声にさえならなかった。
トビアス十六歳、盛夏 (四年前)
天蓋付きベッドの上に二人の男がいた。
絡み合って深いくちづけを交わしている最中だった。
「オーランド!」
突然大きな声と音を立てて両開きの扉が開いた。
同時に振り向いた二人は目を見開いたまま固まった。
男の一方は先程まさにトビアスが呼んだ名の人であった。
「……オ…オーランド…?」
声が震えた。
──何?。兄が?。この男は…?
何も分からない。
予想外すぎる光景に頭の中が真っ白になった。
トビアスはその場にへたり込んだ。
次の瞬間に、堪えていたものが全て崩れ落ちた。
「……っ」
涙が溢れる。
止めようとしても止まらない。
唇を噛んでも、拳を握っても、涙は次々と零れた。
「う……うぅ……っ」
とうとう大きな声を上げて泣き出してしまう。
その声で二人の男、オーランドとエヴァンスは我に返った。
とりあえずガウンを羽織る。
オーランドが泣き崩れる弟の前に屈んだ。
「……おまえ、一体どうやってここに入って来たんだ?」
聞かれたトビアスは、しゃくり上げながら必死に答えようとする。
「げ、玄関を……何度も……っ、何度も叩いて……っ」
「ああ…」
「そ、そしたら……ひっ……床を磨いてたメイドが……開けてくれて……」
「……開けてくれたのか」
トビアスは何度も頷いた。
「それで、この部屋の扉は? どうやって開けた?」
「…な…何も……押したら…開いた……」
オーランドの顔が固まった。
ゆっくりと見上げる。
そこには、扉を閉めに行ったエヴァンスが立っていた。
「昨夜、遅くなって後から入ってこられたのは…あなたの方でしたよね」
「…うん」
エヴァンスは少し俯向いてから姿勢をただした。
「申し訳ございません。鍵の確認を怠った私の責任でございます。玄関を開けたメイドの再教育も早急に」
それを聞いたオーランドは居心地悪そうな顔になる。
「とにかく僕はこいつを居間に連れて行くから……」
襟首を掴まれた。
トビアスは昨日早朝に辺境伯領を出た。
馬を駆り馬を替えまた駆けて不眠不休の駆け通しで王都に着いたのだ。
泥と埃にまみれた服。
隈を浮かせた青白い顔。
それを見てオーランドが顔を顰めた。
居間でトビアスはソファーに座らされている。
向かいには服を整えたオーランド。
その後ろにはエヴァンスが控えている。
「オーランド、その人って…」
夏前に初めてこの家を訪ねた時オーランドに付き従うこの男の事はただの使用人だと思っていた。
「僕たちのことはどうでもいい」
オーランドがまた顔を顰めた。
「それより、おまえのその有り様と状況を説明しろ」
鋭い目を向けられ、トビアスはまた泣きそうになった。
歯を食いしばる。
泣いている場合じゃない。
シャーロットを探さなければ。
するとエヴァンスが静かに口を挟んだ。
「オーランド様。あまり怖い顔をなさらずに。……かなり疲れておいでのようです」
そしてトビアスに優しく微笑む。
「まずはお風呂に入り、お食事を召し上がりませんか? その後、少しお休みになれば――」
その笑顔に見入り、頷きそうになってからハッとした。
激しく頭を振る。
「そんな場合じゃないんだ!」
「トビアス様――」
「シャーロットが…シャーロットがいないんだ!」
声が震える。
「どこにもいない。探さなきゃ…早く探さないと……!」
「落ち着け!」
オーランドの一喝が響いた。
「何があったのか話せと言っている。この役立たずが!」
トビアスは飛び上がった。
それから、ようやく途切れ途切れに話し始めた。
まず、シャーロットのこと。
辺境伯家で起きたこと。
王都のマーシャル邸にシャーロットの所在を尋ねたが怪しんだ執事に丁重に追い払われた。
疲れ果て頭も廻らなくなった。
切羽詰ってオーランドの別邸を思い出し駆け込んで来たのだ。
話しているうちに、また涙が零れた。
「……それで、おまえは何日寝ていない?」
全てを聞き終えたオーランドが尋ねた。
トビアスは少し考えた。
指を折る。
「二日と…半分……」
そして首を傾げる。
「あ……もうすぐ三日?」
オーランドは額に手を当て、天を仰いだ。
「馬鹿が……」
エヴァンスも困り笑顔で眉を寄せた。
「それでは、トビアス様の方が先に王都へ着いた可能性が高いですね。女性を連れた馬車でしたら、辺境伯領から王都まで三日ほどかかるでしょう」
「あ、あ、そうか、そうだね。じゃ僕もう一度マーシャル邸へ」
立ち上がろうとしたところで、オーランドが怒鳴った。
「馬鹿が!」
「……!」
「行ってどうする!」
トビアスが固まる。
「先ずはシャーロットが何故王都へ来ることになったのか、それを知らなければ探しようがないだろう!」
「でも…でも、どうやって……?」
「母上だ」
眉間に皺をよせたオーランドは答えた。
「母上なら、叔母上から事情を聞いている可能性がある。僕がこれからバートン邸へ行って、母上に話を聞いてくる」
「あ、じゃ、じゃ僕も…」
「要らん!」
また、立ち上がったトビアスをオーランドは一喝で制した。
「いいか?今、世界中で一番役立たずなのはお前だ。何故お前の為に動く僕の邪魔をしようとする?」
「…引っ込んでいろ」
立ち上がったオーランドはトビアスを一睨みしてから音を立てて扉を閉めて出て行った。
呆然と立ち竦むトビアス。
「どうぞご入浴を…その間に消化の良い軽食を用意させます」
声をかけたのはエヴァンスだ。
お食事のあとは睡眠をお取り下さい」
「でも僕は…そんな場合じゃ」
「いいえ。オーランド様の仰る通りです。このままだとお倒れになります」
優しい声だった。
「お兄様を信じお任せを…戻られ次第お起こし致しますから安心してお休みください」
トビアスはしばらく俯いていた。
けれど、もう身体には力が残っていなかった。
エヴァンスに促されるまま客室へ向かう。
そしてベッドに辿り着くより早く、張り詰めていた糸が切れた。
そのまま崩れるように眠りへ落ちていった。
シャーロット十八歳、晩夏 (四年前)
王宮の敷地内にある瑠璃宮と呼ばれる小さな離宮に入って、二週間ほどが経った。
二人の若い専属メイドと、王宮の作法を教えるための中年の奥仕えの侍女が、常に傍に傅いている。
すぐに王の妾として仕えなければならないのだと覚悟して宮に入ったシャーロットだったが、どうやら幾つかの段取りがあるらしい。
まずは作法を覚え、王宮での生活にある程度慣れる。
その後、上位貴族だけを招く小さな夜会で王のエスコートを受ける。
そこで公妾として認知され、内輪の承認を受けてから王に侍るのだという。
公妾が王に害意を抱いていないか。
邪な我欲を持って王を籠絡しようとしていないか。
そういったことを見極めるためだと説明された。
たかが一度きりの夜会で、いったい何が判断できるのだろう。
形ばかりの儀式なのかもしれない。
ありがたいような、ありがたくないような話だった。
王の褥に侍るのは、正直に言えば嫌だった。
けれど、だからといって先延ばしになれば嬉しいのかと言えば、そうでもない。
先延ばしにされればされるほど、その日が近づいて来ることを考えてしまう。
夜になると眠れない。
食事も次第に喉を通らなくなった。
そして、その恐怖と比例するように、トビアスへの想いばかりが募っていく。
少しずつ痩せ、青白くなっていくシャーロットを、王はむしろ好ましいと思っているようだった。
暇を見つけては贈り物を携えて瑠璃宮を訪れ、透き通るような肌と細い腰に目を細める。
「もうすぐ、あなたと添えると思うと胸が高鳴る」
そんな言葉を掛けられるたび、シャーロットの肌は粟立った。
それでも嫌悪を悟られぬよう、不器用な作り笑いを浮かべるしかなかった。
そんなある日のことだった。
「後日、お客様がお見えになります」
奥仕えの侍女が告げた。
「今は離宮から出ることも叶わない公妾様のご無聊をお慰めしたいと申し出たご夫人がおられまして、王がお許しになったとか……次期ブレア公爵夫人、ペネロープ様でございます」
次期ブレア公爵。
その名を聞いて、シャーロットの胸が小さく跳ねた。
オーランドのことだ。
最後に会ったのは、もう随分と前になる。
彼の結婚式にも、シャーロットは出席していない。
出席したのは両親だけだった。
だから、その夫人とは面識がない。
それでも。
少しでもトビアスに連なる人に会える。
それだけで、沈み切っていた心がほんの少し浮き立つような気がした。
そして一週間ほど経った頃。
瑠璃宮を訪れた次期公爵夫人ペネロープは、大層美しい婦人だった。
アップに仕上げた、緩くカールするプラチナブロンドの髪。
青空を映したような大きな青い瞳。
一通りの挨拶を終えると、その瞳を細めて微笑んだ。
「夜会まで、あと一週間足らずでございますわね。今日は予定されているドレスを伺って、それに似合う装飾品のアドバイスをと思い、参りましたの」
そしてシャーロットの背後に控える侍女へ、ちらりと視線を向ける。
「ほら…王宮の侍女などは、何かとセンスが古くて野暮ったい物をお勧めしがちでございましょう?」
躊躇いもなく言ってのけ、澄ました顔をする。
侍女の眉が僅かに動いた。
「で、見せていただけるかしら?」
「…え? あの……」
口籠るシャーロットを飛び越すように、ペネロープは侍女へ視線を向けた。
「ドレスでございますわ。ここへ持って来ていただける?」
少し躊躇ったものの、侍女はペネロープの視線に気圧されたように衣装室へ下がって行った。
その姿を見送ったペネロープは、突然早口になった。
「時間がございませんから、単刀直入にお伺いしますわね」
先ほどまでの笑顔のまま。
けれど、その声だけが低い。
「あなたは、真摯に想い合う方に、何故こんな酷い仕打ちをなさいますの?」
シャーロットは息を呑んだ。
あまりにも予想外の非難だった。
しかも、扉の傍には専属メイドがいる。
ペネロープは表情を変えず、菓子を勧めるように皿へ手を伸ばした。
その皿と一緒に、小さく折り畳まれた紙片をシャーロットへ差し出す。
「早く、お仕舞い下さいませ」
小声で急かす。
シャーロットは反射的に紙片を受け取った。
そして慌ててドレスのスリットへ押し込む。
その瞬間。
ペネロープが、再び言葉を投げつけた。
「それに――」
「あなたがスケベジジイの玩具になって誰が一番傷付くとお思い?」
シャーロットは、その衝撃的な言葉に蒼白になった自分を感じた。
指先と唇を震わせながら、ようやく言葉を絞り出す。
「私では…許されないと思って。私の身分は彼に釣り合わない。誰の子かさえ分からない、卑しい生まれだから……そう思って」
するとペネロープは、シャーロットを咎めるように眉を顰めた。
「あら? お言葉ですけれど、私の父親だって誰だかわかりませんのよ。たぶん、どこかの下民ですわ」
「…え?」
驚いて顔を上げたシャーロットに、ペネロープは平然と自分の腹部へ手を当てた。
「それに私、今三か月ですのよ」
「……!」
「何なら、この子の父親も夫ではございませんわ」
あまりにも淡々と告げられてシャーロットは言葉を失った。
ペネロープはそんな彼女を見つめ、ふっと笑う。
「でも、私はあなたより余程、誠実に生きている自信がございますわね」
そう言いながら、部屋の扉へ目を向けた。
ちょうど侍女が戻って来たところだった。
「誠実である方が、親や身分より価値がありますわ」
ペネロープは急いでそう言うと、何事もなかったように侍女へ顔を向けた。
「あら、ありがとう。まあ……素敵なドレスですわね」
呆気に取られたまま固まっているシャーロットへ、ペネロープは小さな声で囁いた。
「これ以上間違うと、本当に彼に釣り合わなくなりますわよ」
そして侍女に聞こえるよう、声を少し大きくする。
「選ぶ宝石を間違うと、陛下に釣り合いませんもの」
それからはドレスを眺めながら、当たり障りのない会話を交わした。
最後には優雅に一礼し、何事もなかったかのようにペネロープは部屋を出て行った。
「完璧な作法を弁えていらっしゃいますのに、言動が少し残念でらっしゃる……。末は筆頭公爵夫人という方ですのに…」
侍女がぶつぶつと文句を言っている。
けれど、シャーロットの耳には、何も入ってこない。
先ほど渡された紙片。
これを、どうすれば誰にも見咎められずに読むことができるのか。
そればかりを考えていた。
〝夜会の夜、これをあなたに渡した人の指示に従って。僕を信じて一緒に来て。君が必要〟
紙片には、確かに愛しいトビアスの字があった。
その直後、晩餐にやって来る王のために、ドレスを着替えさせられることになった。
その直前だった。
「紅茶を一杯いただける?」
シャーロットはそう頼み、窓際に佇むふりをした。
侍女が用意した紅茶を受け取る。
誰も見ていないことを確認して、紙片をさっと開いた。
一度だけ。
けれど、それで十分だった。
愛しい人の文字は、見間違えるはずがない。
シャーロットは小さく咳をするふりをして、紙片を口に含んだ。
そしてそのまま紅茶で飲み込む。
異物を飲み込んだはずなのに、不思議と嫌ではなかった。
トビアスの字だから。
彼が自分に書いてくれたものだから。
まるで彼の一部を、自分の中へ取り込んだような気がした。
シャーロットはそっとドレスの上から胃のあたりを撫でる。
「……トビアス」
小さく名前を呼ぶ。
胸の奥で、何かが震えた。
彼が―私を必要だと…。
シャーロットは涙を堪えながら、ほんの少しだけ顔を上げた。
トビアス十六歳、盛夏 (四年前)
「トビアス様…トビアス様!」
揺り起こされて目を開ければエヴァンスの顔があった。
「オーランド様がお戻りでございます」
ガバッと飛び起きる。
エヴァンスは笑って「先ず湯をお使い下さい」と言った。
「…でも」
焦るトビアスに「落ち着いて動く事が肝要です。今焦っても仕方が無い状況のようですから。」
そう言われても気が焦るトビアスは湯だけ被ってエヴァンスが用意してくれた服に着替えるとオーランドが待つという食堂に急いだ。
「…食事中に何をバタバタしている。おまえも早く席に着け、夕食時だ」
オーランドはスープを口に運びながら向かいの席を指で示した。
席に座るとエヴァンスが味の薄めの野菜スープと柔らかそうな白パンを運んで来た。
「おまえは今日はそれだけだ。急に食べると死ぬらしいからな…」
オーランドにムニエルの皿を運ぶエヴァンスが「…死にはしません、ニ、三日程度なら」と呟いた。
何か言うとまた怒られるとトビアスは察した。
無言になったオーランドと黙々と食事を終えた。
紅茶を飲みながらオーランドが徐ろに口を開いた。
「シャーロットはたぶん…いや、きっと王宮に居る」
トビアスは思い切り混乱した。
「は?え…え、何故?王宮…?」
「母上のご機嫌伺いに寄った息子がする《和やかな会話》にしてはなかなか難儀な話だったよ…」
オーランドは先ず聞いた。
「王宮で近頃流れる噂があるんですが。興味本位でお聞きするのではなく、ほら従姉妹の事なので…」
困り顔を装う。
「母上何か叔母様からお聞きでは?」
水を向けると目を見開いてから眉を顰めた。
「まあ…もう噂になっておりますの?王ともあろう方が年若い娘に無理を仰るからですわ…」
「え?」
何の話だ?
辺境伯家の婚約破棄についての噂のつもりで聞いていたのに。
「…それについて叔父様と叔母様は何と?」
申し訳ないがカマをかけて見た。
「勿論…何を言われてもお断りすると文にありました。可愛いシャーロットを妾になんて…あり得ませんわ…」
オーランドは仰天のあまり暫く二の句が継げなかった。
「…な…ぜ、そんな事を?王が?」
辺境伯のような歴史ある名家の娘をなぜ王たるものが貶める?
「シャーロットがたとえ庶子だとしても、余りにも…」
母は唇を噛んで沈黙を貫こうとした。
「母上。私の王宮での立場をご存知ですよね。何か力になれるかも知れません…」
頭を下げる。
「お話し下さい」
母は暫く逡巡した。
しかし他言無用を命じオーランドだけに…と話した。
「もしかしたらシャーロットの出自が王に露見したのでは無いかと疑っておりました…」
辺境伯トーマスは家督を継いでから精力的に領地改革を推し進めた。
その一環でスラム街の怪しげな店を一斉摘発した。
その時、無許可の売春宿でまだ十三歳の少女が見つかったのだ。
その少女には行き場が無かった。
密入国して来た親が食い詰めて娘を売ったらしかった。
十三歳の異国の少女を野に放っても獣の餌食になるだけだ。
そう考えたトーマスは領地屋敷の女中に雇った。
少女は真面目に懸命に働く性格の良い娘で屋敷の皆に可愛がられた。
特に夫人のアリスは身の回りの世話を任せるくらい気に入って傍に置いた。
最初に異変に気が付いたのはそのアリスだった。
本人はひた隠しにしていた。
だが体型や体調の変化に出産を終えたばかりで経験があるアリスが気付かない筈が無かった。
少女の腹はもう六ヵ月になっていた。
まだ下働きだったと言っていた。
客を取らされていた事を隠していたのだ。
露見すれば可愛がって頂いた奥様に顔向けが出来ず屋敷からも追い出されるだろうと怯えていたらしい。
──何て事…!
アリスは余りの残酷さに衝撃を受けた。
しかし。
今は身体を労ってやるしか方策は無いのだった。
アリスの心配を他所に少女は食欲も無く腹の大きさと反比例するようにどんどん痩せ衰えて行った。
……なのに。
奥さま、すみません。申し訳ありません。と懸命に謝る。
アリスは胸が引き千切れるような気がした。
そして、懸念は当たり月足らずで陣痛を迎えた。
産婆や周りの女達の助力も虚しかった。
アリスの祈りは届かず、子を残して儚くなってしまったのだ。
幼い身体で膨らむ腹を必死で隠し無理をして弱っていた。
産後の出血が止まらなかったのだ。
もっと早く身体の変化に気付いてやっていたら─
安心して打ち明けて貰えるように接していたら─
後悔に嘆き悲しみ、罪滅ぼしに子は自分が育てると言ってアリスは聞かなかった。
トーマスはそれを聞き入れた。
だが、長女との僅か過ぎる年の差、子の明らかな異国風の容姿。
実子としての届けは無理だった。
庶子として認知するに留めるしか無かったのだ。
シャーロットはこうしてマーシャル家の次女となった。
母との約束を破る事になるがこの事情をオーランドはトビアスに話して聞かせた。
「僕は王の近辺に探りを入れてみる。おまえは…」
オーランドはトビアスの瞳を覗き込むようにした。
「トビアス今おまえに出来る事は冷静になって強い気持ちでシャーロットを諦めない事だけだ…」
「わかるか?」
──諦めない、事。
焦燥と理不尽に怒り、煮え滾っていた心が一度跳ねた。
それから─静かに凪いでいくのを感じた。
諦めない事。
オーランドは正しい。
僕は何があっても彼女を諦め無ければいいんだ…
トビアスにとってそれは簡単な事だった。
シャーロットを諦める事なんて有り得ないからだ。
やっと落ち着いた様子を見せたトビアス。
それを見てオーランドは命じた。
─両親にマーシャル家への婿入りが嫌で帰って来たと言う事
─婿入り話は今後、全てに拒否を示す事
─シャーロットに関する事は決して口にしない事
「特にシャーロットの事は何を聞かれてもとぼけるんだ…出来るな?」
頷くトビアスを見てオーランドは今日初めて笑顔を見せた。
「よし、では明日の夜また来い。明日王宮で情報を取ってから作戦を立てる」
そしてトビアスをバートン邸に帰した。
シャーロット十八歳、晩夏 (四年前)
「私は宰相のブレア公爵をとても信頼していてね」
王は満面の笑顔でシャーロットに語る。
「宰相の娘夫婦との接見を願われて許したらあなたを見舞いたいと請われたのだ」
笑顔…
「夫婦でとの事だったが夫君は大変な美青年でね。あなたに会わせたくなくて、夫人のみ許したのだ」
笑顔でいなければ…
見つめて来る王にシャーロットは微笑んだ。
「…お心遣いありがとう御座いました。ペネロープ様とお話出来てとても楽しいひと時でした」
少し眉を下げる。
「ですが陛下、ペネロープ様の夫君はわたくしの従兄です。お顔は昔から存じ上げておりますわ…」
「うん…まあ、従兄と聞いてはいるが。あなたと彼は、その…本当に面識があったのか?」
王は少し言いにくそうにする。
「あの…申し訳ございません。お聞きしてよろしいなら、それはどういった意味で?」
冷える心を隠してシャーロットは笑った。
「うん。まあ、既にあなたは私の元へ来てくれたのだから、お話しするけれど……」
王は少し迷うように言葉を探した。
「あなたは、その…辺境伯家とは本来関係がない血筋だと聞いたものでね」
シャーロットの笑顔が強張る。
「あなたは魅力的だから…辺境伯が本当にあなたを娘として育てたのか、あなたが本当に彼と面識があるのか、少し疑わしくて」
優しげな笑顔のまま、王は続けた。
「だから、会わせたくなくてね。あなたを愛するあまりの嫉妬だと、笑っておくれ」
シャーロットは、顔が引き攣りそうになるのを必死で堪えた。
――嫉妬だと、笑えと?
──これを?
王家では最初から調べがついていたのだ。
それはそうだろうベアトリスが言っていたではないか。
私でも簡単に調べがついたと。
私に身分が無いから娼婦の子だから…
父が娘扱いしていた筈が無いと云う下衆な想像さえ足して私を貶めてもいいと判断したのか。
だから王はあれ程執拗に私を望んだのだ。
怒りよりも、悍ましさが込み上げた。
心の底から、この人の存在が気持ち悪い。
むかむかと胃がせり上がる。
食事を吐き戻しそうになり、シャーロットはそっとカトラリーを置いた。
顔色は蒼白になっているはずなのに、王は気づかない。
機嫌よく肉を咀嚼している。
シャーロットは口元を押さえて俯いた。
どうか、もう少しだけ、もう少しだけ、耐えられますように。
いったい、王はどの程度まで私を欲しているのだろう。
心など、一ミリも要らないのだろうか。
身体だけが欲しいのだとしても――。
この不調くらいは、気づいてほしかった。
もう、限界だった。
シャーロットは振り向いて侍女を呼んだ。
退出を願うと、侍女は困ったように王を見た。
シャーロットは小声で囁いた。
「陛下の前で吐き戻したら、あなたまでお叱りを受けてしまうわ」
その言葉が効いたのか、何とか退出を許された。
化粧室へ駆け込む。
そして――本当に吐いた。
胃の中のものがすべて出てしまったような気がした。
…ああ。
トビアスの字も、出て行ってしまったのだろうか。
跡形もなく。
扉の外では、侍女と王の侍従が様子を窺っている。
仮病だと疑われていたのかもしれない。
これで、少しは信じてもらえるだろうか。
許されて自室へ戻ると、シャーロットはベッドへ横になった。
涙が、頬を伝う。
侍女は傍で見張っている。
きっと、本当に体調を崩したのだと思っているのだろう。
けれどシャーロットの頭の中には、別の声が蘇っていた。
〚誰が一番傷ついたとお思い?〛
――ペネロープ様…。
そうだ。
私は、何て愚かだったのだろう。
自己犠牲を気取って、皆を傷つけていた。
嫌なら、嫌だと言えばよかった。
ベアトリスに、
〚私を憎みなさい〛
そう言われた時に、言えばよかったのだ。
――ええ、憎むわ。
――私をこんな目に遭わせて。
――だから、許してほしければ、今度は私を助けなさい!
父に、
〚何としても他の手段を考えよう〛
と言われた時も。
──お父様。私、どうしても嫌です。助けてください
そう言えばよかった。
母に、
〚愚かな母を許して〛
と言われた時も。
──許します、お母様
だから、また一から私を愛して抱き締めてください
そう言えばよかった。
きっと皆、その方が今よりずっと、ずっと楽だった筈だ。
そして――。
皆に言えばよかった。
「私、トビアスを愛しています!」
そう言って、彼の胸に飛び込めばよかった。
涙が次から次へと溢れた。
息が苦しい。
自分が背負えば…自分が我慢すれば皆が幸せになれると思っていた。
でも違う。
皆に罪悪感を押し付けて。
自分が一番不幸なのだと、自惚れていたのだ。
「ああトビアス……」
会いたい。
助けてほしい。
〚誰が一番傷つくとお思い?〛
そうよ。
私は、あなたを一番傷つけた。
一番大切なあなたを。
あまりにも愚かだった……私。
涙で視界が滲む、声が震える。
「助けて…お願い、助けに来て」胸元を握り締める。
馬鹿な私を…助けて。
「トビアス…!」




