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②改稿しました。
シャーロット十七歳、盛夏 (五年前)
背中を押したのがきっかけだったのか、あれからベアトリスはバレン伯爵を訪ねたようだった。
だが両親に何かを打ち明ける様子はなかった。
シャーロットは密かに気にしていた。
余計なお世話だったかも知れないと。
つれない返事を貰った可能性もあった。
来週には王都を訪れベアトリスの婚約者と家族の顔合わせをする予定だと聞かされていた。
ベアトリスはいったいどうするつもりなのだろう。
彼女の事で気を揉みながらも一方では王都でトビアスに会えそうな事に期待していた。
王都で彼の違う一面を見る事が出来るかも知れない。
期待を胸に秘めシャーロットは七月の中頃に辺境伯のタウンハウスに着いた。
でも、デイジーの入学手続きに始まり、王都での諸々の雑事に追われる母。
実家を訪れる時間は無くトビアスに会える機会も無かった。
やっと姿を見る事が出来たのは八月に王宮で開かれた現国王の生誕パーティでだった。
王都中の貴族が集まる大規模な催しは田舎育ちのシャーロットには荷が重く気分が悪くなりそうだった。
それでも必死で目を走らせる。
すると、人波の向こう、壁際に立つトビアスの姿が見えた。
目が合った瞬間、胸の奥が跳ねる。
――いた。
それだけで、先ほどまで重かった身体が少し軽くなった。
けれど、嬉しさに笑みかけたシャーロットは息を止めた。
タキシードに身を包んだ彼に目を奪われる。
背が伸びて 肩幅も広くなっている。 以前のような幼さを脱ぎ捨てた立派な青年の姿だ。
一緒に遊ぶと一番楽しい気の合う男の子。
そう思っていた彼なのに。
「……トビアス」
無意識に名前を呟いてしまう。
今の気持ちが後ろめたい物の気がして目を逸らそうとした。
なのに、逸らせない。
胸の奥が妙に苦しくて、頬が熱くなる。
─何故。
去年までこんなふうに彼を見つめたりしなかったのに。
シャーロットは今初めて、自分の中に生まれていたものに気づいた。
幼い頃に心を許した大切な人。
その「大切」が、いつの間にかはらんでいた別の感情。
もう、ただの幼馴染として見れない。
――私は、トビアスに恋してる。
シャーロットはトビアスに駆け寄りたかった。
でも自分を取り巻く数多の貴族の誘いに阻まれて身動きが取れない。
結局、断り切れない三人とだけダンスを踊った。
父の代理でエスコートを頼んだ寄子貴族の中年男性。
例のベアトリスの婚約者。
これはベアトリスに強引に頼まれて仕方が無かった。
そして最後にはなんと現国王。
辺境貴族の田舎娘が珍しかったのかもしれない。
壁際にはもうトビアスの姿は無かった。
シャーロットは疲れ果てて肩を落としたのだった。
その後はシャーロット宛にあらゆる招待状が届いた。
母に選んで貰った無難な所に数度、出席したがいずれもひどく疲れた。
トビアスには会えず王都で出会う大半の貴族男性の目に不快感しか抱けない。
どんどん疲弊して行く気力。
だから気づけなかった。
絡みつくベアトリスの婚約者の視線に。
帰る間際やっとバートン邸で会えたトビアス。
懸命に話す機会を伺った。
「僕と結婚して」
貰えた言葉に舞い上がる。
そして帰りの馬車の中、ベアトリスは言った。
「…ごめんなさい。私あなたの言葉に甘えるわ」
王都での疲れとトビアスへの想いが、ないませになってシャーロットは不安定だった。
「…え?ああ、うん」
ベアトリスの言葉を素通りさせてしまったのだ。
トビアス十六歳、晩冬 (四年前)
王都では夏頃、数回現れてその後プツリと姿を消した“黒繻子の妖精姫”の噂が暫く消えなかった。
虜になった男達が黒髪の辺境伯令嬢をその名で呼び、祭り上げたのだ。
そして熱に浮かされたようにその美しさを語ったのである。
それが裏目に出たのは年末あたりだったようだ。
「ベアトリス姉様の婚約が破棄されたわ」
新学期が始まった頃、従妹のデイジーがトビアスにとんでもない話を伝えて来た。
「王都でちやほやされて勘違いしたシャーロットが姉様の婚約者を横取りしたのよ」
トビアスは驚いて聞き返した。
「え、何……?何だって」
「シャーロットが本性を現したって言ってるの。立場を弁えない恩知らずだって皆言ってるわ」
タウンハウスに居るデイジーには詳細な事情など分からない筈なのに。
使用人や周りの貴族から耳にする話はシャーロットを誹謗する内容ばかりだったようだ。
デイジーはそれを鵜呑みにする。
ベアトリス贔屓なのか王都で持て囃されたシャーロットへの嫉妬心なのかは分からない。
“黒繻子の妖精姫”に入れ込んだ婚約者は長女と次女の交替を望んだらしい。
同じ辺境伯の娘なんだから家督を継ぐのに問題は無いと言って。
とんだ愚か者だった。
当然、辺境伯は怒ってはねのけた。
円満な婚約解消では済まない、賠償金がらみの婚約破棄である。
たちまち噂は広まる。
だが何故か矛先はシャーロットにばかり向いてしまった。
庶子如きが家督欲しさに本妻の娘である姉の婚約者を誘惑したと言う酷いものが殆どだった。
デイジーは拳を震わせて涙ぐむ。
「詳しい事情もわからないのに。そんなにシャーロットばかり責めるなよ」
──シャーロットがそんな事、する筈が無いだろ。
それどころか辛い思いをしてる筈だ。
確信がある。
今すぐにでも慰めに行きたい。
だがまだ学生の身の自分には何をする権限もなかった。
無力感に苛まれながら暗い顔で俯くトビアスをデイジーは睨んだ。
「婚約破棄のあと、お姉様は髪を地味に引っ詰めて喪服のような暗い色の服ばかりお召になるそうよ。きっととても傷付いてらっしゃるんだわ」
憎々しげに唇を噛み締める。
「シャーロットなんて絶対、許せ無い!」
シャーロット十八歳、仲冬 (四年前)
「あなたはさっさとどこかの後妻に行って、領地は私にまかせなさいよ」
シャーロットは婚約者を奪ってそう言った。
ベアトリスは泣き崩れていたらしい。
今は毎日喪服を身に付け泣き暮らしている。
そんな噂がマーシャル家の使用人の口から、辺境伯領内へ、近隣の貴族へと広まって行った。
シャーロットが言った言葉とは春頃の二人の会話を聞き齧った誰かが湾曲して流したものだろう。
今やシャーロットは“傲慢で恩知らずな不貞娘”であった。
庶子とはいえど辺境伯家の美しい令嬢にちらほら来ていた縁談も全て断ち消えた。
でもそんな事はどうでも良かった。
この噂は王都に居るトビアスの耳にも入るだろう。
その事に怯えた。
嫌われたくない!
でも…
釈明したくても方法がない。
誰にも見咎めらず出せる文など無い。
まして会う方法なんてある筈も無かった。
思い余ってベアトリスを問い詰めた。
「噂は嘘だと知っているのに何故否定してくれないの?
王都ではあなたが進んで自分の婚約者と私を踊らせた」
先に破談を望んだのはどちらなの?
「なぜ私を庇ってくれないの?」
何故かわざと傷ついたふりをするベアトリス。
「ごめんなさいシャーロット。心から申し訳無いと思っているわ。でもあなたは力になるって言ってくれた」
「…けどあれは」
シャーロットは首を振る。
そういう意味で言った訳ではない。
私にも大切な物はあるのにと。
ベアトリスは俯いて溜息をもらした。
「私がうんと傷ついていて一方的に向こうが悪い事にする必要があるの。…辺境伯領の為に」
この縁談は政略というよりも取り引きに近かった。
爵位や家格は低いが事業の成功で唸るほど金がある家の次男、それが元婚約者だった。
婿入る事で辺境伯の地位を得る。
代償は辺境の山脈に眠る金銀の掘削費用の提供をする事。
実際にもう試掘は始まっていた。
「今さら手を引かれては我が領には莫大な損失だけが残る。せめて賠償と言う形で鉱山開発費用の出資を継続させたいのよ」
政略結婚で共同事業を興す計画かあるとは聞いていた。
だがそれ程の規模だとは…
シャーロットは黙らざるをえなかった。
「あなたがデイビッド様との事を励ましてくれた時…それでも無理な話だと諦めようとしたわ」
今更、婚約を止めれば我が領は破産だ。民も路頭に迷う。
でも気持ちに区切りを付けようと訪ねた筈のバレン家でデイビッドの顔を見て逆に想いが募っていた。
「そして、あなたを見る彼の目に気付いたの」
何故こんな浮気男の為に私が我慢しなければならないのか。
「彼がもっとあなたの虜になれば…と思い付いたわ」
聞いたシャーロットはきつく目を閉じた。
そして瀬戸際の抵抗を口にしてみた。
「でも私が誘惑したと言われれば辺境伯家の落ち度よ。反撃材料にされるのでは…」
ベアトリスは一瞬、目に憐れみの色を浮かべてから静かに言った。
「本当にごめんなさい。これから酷い事を言うわ……あなたは…」
トビアス十六歳、春 (四年前)
雪が溶けて若葉が芽吹き始めた頃バートン伯爵夫妻がバレン伯領に出向く事になった。
オーレリアが倒れ半身が不自由になったと年明け頃に文が届いていたからだ。
両親にとって大恩ある人で二人は心を痛めていた。
雪解けの街道の安全が担保できて、伯爵の仕事の区切もついた今、二人で見舞いに出掛ける事にしたようだ。
バレン伯領はマーシャル辺境領の隣である。
「辺境領にはお寄りにならないのですか?」
シャーロットの様子が知りたい。
わずかな手がかりでもいいから分からないものか。
トビアスはそんな気分で聞いた。
「そうね。アリスには会いたいけれど、やはり時間が足りないわね」
母の答えは否であった。
バレン領までの往復時間を入れ十日足らずで両親は王都に帰還して来た。
「オーレリア小母様は思ったよりお元気そうでしたわ」
「車椅子になられたのはお気の毒ですね」
両親と長兄のクロードがバレン伯領の事を話すのをトビアスは聞いていた。
クロードも幼い頃のオーレリア小母様の記憶があるらしく心配顔だ。
「小母様の夫君も真摯に寄り添っていたし、ベアトリスも手伝っていた。じきに回復されるだろう。」
「あの代官だったと言う小母様の事実上の夫君ですか?良い人でしたよね」
クロードはそこを聞いたがトビアスはベアトリスの方が気になった。
「あの…ベアトリスがマーシャル領からわざわざ?」
隣といえど馬車で半日近くはかかる距離だ。
まして自身の婚約破棄騒動の渦中なのに…
「そうよ。小母様を心配して三日に空けずやって来ては手伝っているらしいわ」
母は笑って言ったがトビアスは引っ掛かりを感じた。
それ程の精神的余裕がなぜ今の彼女に…?
もしかして…いや、考え過ぎか?でも……。
トビアス二十歳、初秋
オーランドは薄手のガウンのままトビアスの向かいのソファーに座った。
エヴァンスが急いで自分の上着を脱いでその肩に被せる。
気温が低い訳ではない。
やはり肌の露出や身体のラインを隠したいのだろう。
それはそうだ。
もしシャロンが薄着で人前に出たら、やはり自分もそうするだろうから。
その上着を被せた手を取りオーランドは自分の側に引き寄せた。
「いえ…私はオーランド様の分のお茶を…」
「後でいいよ」
強引に隣に座らせた。
寄り掛かってその肩に自分の頭を乗せる。
「…オーランド様。あのトビアス様が」
困って固まるエヴァンス。
「こいつには全部バレてるから今更でしょ。僕は今日、ずっとレオの側に居るって決めてる」
困り顔だが甘い瞳でオーランドを見つめ、エヴァンスが謝る。
「うちのオーランド様が…申し訳ありません」
うちの…私のと言う意味だろう。
世間で氷の次期宰相閣下と畏怖されるオーランド。
そんな口を利くのを許すのはこの世界でエヴァンスただ一人なんだろう。
微笑ましい二人だとトビアスは思う。
まったく…。僕はやはり早々にお暇しなければと。
以前、彼女を失いそうになり自分を制御出来なかった時があった。
その時、手を貸してくれたのはオーランドだ。
彼には返し切れない恩がある。
思い返せば長兄クロードの婚約解消の時もオーランドが助け舟を出して事無きを得たのだった。
本当にいろいろと中身と外面の差の激しさに半端がない次兄である。
「…それで?後三ケ月程で士官学校は卒業だろう。近衛を希望するのが得策だが?」
まだ頼りなく見えるのかトビアスの進路を心配している。
「お前の経歴なら近衛を一年程度務めれば最速で騎士の称号が得られるだろう」
答えを返さない弟を見る。
「…違うのか?彼女をずっと養う気なんだろ?何処かの婿に入いる気が無いなら得れる爵位は騎士爵しかない」
トビアスは顔を上げて毅然と言った。
「それでは正式な結婚が出来ない」
シャロンを決して日陰の身になんかしない。
もし子が生まれたら、その子を庶子とは呼ばせない。
「僕は彼女に…いえ家族に、陰ひとつ、憂いひとつ無い幸福を贈りたいのです」
トビアス十六歳、盛夏 (四年前)
シャーロットが気掛かりで堪らない。
学園の夏休み、直ぐに辺境領へ向かいたかった。
だが思わぬ邪魔が入った。
デイジーが帰郷時に一緒にと誘って来たのだ。
近頃シャーロットの悪口や不満しか言わない彼女。
長い道のりを共にする気は無い、きっと我慢出来ず怒鳴ってしまいそうだ。
仕方無くジリジリと王都で時間を潰した。
一週間遅れで辺境伯領に着いたトビアスは出迎えの中にシャーロットの姿が無い事に気付く。
理由を聞くのは悪手だろう、シャーロットがもっと悪く言われる可能性がある。
荷を解いて居間で寛ぐふりの後、散歩と称しやっと屋敷を抜け出した。
周りを気にしつつ一目散に厩舎に向かう。
干し草の陰にシャーロットの姿は無かった。
時間ギリギリまで待ってみたが彼女は現れない。
屋敷内に本当に居るのだろうか…
黒々とした不安が頭をもたげる。
だが夕食時の食堂に少し遅れてシャーロットがやっと現れた。
心から安心し暫し見詰めてしまい気が付いて急いで視線を逸らせた。
しかし夕食の間一切、彼女と視線が合う事は無かった。
彼女はトビアスを見るどころか顔を上げもしない。
家族も誰一人彼女には話し掛けなかった。
会話は辺境伯夫妻がバートン家の近況をぽつぽつと訊ねるばかりであった。
今夜は満月に近い星月夜で結構明るい。
夜更けてトビアスは庭に居て二階にあるシャーロットの部屋の窓を見上げている。
このまま話もせず状況が分からないまま眠れる気がしなかったからだ。
シャーロットの窓は半開きで薄い灯りが漏れていた。
思い切ってその窓に向かって小石を投げた。
石は何とかガラスを避け開いた部分をすり抜けて部屋に届いたようだ。
少ししてシャーロットが窓から顔を覗かせた。
そしてトビアスに気付いた。
暫し見詰めあってからトビアスが厩舎の方向を指差した。
踵を返して歩き出す。
厩舎の二階は真暗闇では無く斜めに切り取られた屋根の天窓から月明かりが漏れ入っていた。
それを見詰めながら暫く待っていると藁を踏む気配がしてやがてシャーロットが隣に座り込んだ。
「……元気だった?いや、大丈夫だった?」
薄暗い中白く浮かぶシャーロットの顔を覗き込んだ。
「会いたかったよ、話もしたかった…辛かったよね。ずっと心配してた」
「…トビアス」
泣き出しそうな、か細く儚い声だ。
「私を信じてくれてたの…?」
「勿論だよ。君以外誰を信じるっていうの?」
身を寄せて来たシャーロットの肩をトビアスは抱いた。
「約束通り君に結婚を申し込むつもりで来たんだ。明日ちゃんと叔父様に…」
「駄目よ!」
激しい否定だった。
驚いて顔を見詰めるトビアス。
「許される訳無いわ…あなたの立場まで無くなる」
シャーロットはくぐもった声で答えた。
「去年までとは違うの……今の私は辺境一の嫌われ者よ」
「そんな、だって君はただ巻き込まれただけだ…!」
そうだ。ここでそんな目で見られるんなら。
「…僕と一緒に王都へ行こう!」
シャーロットは目を見開き少し黙った。
「そんな風に言ってくれるのね…嬉しい」
優しい微笑みが浮かぶ。
「私昔からずっと、ずっとあなたを愛してたわ」
真剣な目で見詰めてくるシャーロット。
美しい瞳が月光に濡れたように輝く。
トビアスは胸が熱くなって少し開いた彼女の唇におずおずとくちづけた。
「僕も…愛してる」
二人はきつく抱き締めあって幾度もくちづけを交わした。
恋焦がれたシャーロットが腕の中に居る。
ドキドキするトビアスの耳にシャーロットの甘い声が響いた。
「私…今夜、トビアスに抱いて欲しい……」
「…でも僕、経験無いよ……」
怯えた訳では無い。
ただ同士を頼るような気持ちだった。
「私もよ…大丈夫。きっと何とかなるわ……」
トビアスはもう何も考えられない。
ただシャーロットへの愛しさに溺れた。
探り探りたどたどしく交わした愛。
互いを深く知り得た感動でトビアスに満足感が溢れる。
どれ程の時間が経ったか分からなかったが月光はまだ天窓から降っていた。
トビアスは幸福な気持ちでシャーロットに囁くように言った。
「ねえ…僕。もうずっとずっと君の事ばかり考えててさ…気が付いた事があったんだけど…」
「…なぁに?」
眠そうな小声がトビアスの腕の中から聞こえる。
「想い人とベアトリス…上手く行ったんじゃない?だから君のせいにして婚約から逃げたんだ」
動きを止めて黙ったシャーロットがふふっ⋯と笑った。
「凄いわトビアス。正解に近い。あなた賢いのね。ベアトリスの想い人が誰か分かった?」
「うん、たぶん。バレン伯爵?」
「すごい…正解」
「そう思った決め手はデイジーの言葉。ベアトリスが傷ついたせいで地味な服しか着ないって」
一本、指を立てる。
「で、僕思った。彼、うんと年上だから大人っぽくしたいんじゃない?って」
シャーロットは目を見開いて笑った。
「あ、そうね、そうかも。気が付かなかった。凄いわトビアス」
そして見つめ合い今度は二人で笑った。
それよりも、もっと聞きたい事があったけれど。
でも空が白む気配を感じた。
「戻らないと大変な事になるわ。早く…」
トビアスの腕を掴んで立ち上がらせるシャーロット。
「愛してるわ」
耳許で囁いてから素早く踵を返した。
そして振り向く事もせず梯子階段を降りて姿を消してしまった。
名残り惜しく佇むトビアスを一人残して。
シャーロット十八歳、初夏 (四年前)
「王命…と言う事ですか?」
困り果てて顔を顰め俯く辺境伯トーマス。
夫人のアリスは涙ぐんでいる。
「最初に照会状が届いた時から再三に渡って辞退を願った。それでも陛下が、お諦め下さらない」
シャーロットは昨年夏の王宮のパーティーで国王に見初められたらしい。
もう何度も王宮から使者が送られて来ていた。
だが、妾である。
国王は今年四十歳で妃は二十年前に隣国から嫁いで来た。
既に健康な王子が二人生まれている。
妃は役目を果たし終えたとし、褥を遠慮と称し拒否した。
国教は多妻を許していないので、王は妾を求めた。
令嬢にそれを望む訳にもいかない。
未亡人か高級娼婦上がり辺りが据えられる予定であった。
だが王には甚くお気に召した令嬢がいた。
その令嬢が最近、汚辱に塗れた噂を纏った。
しかも庶子。
付け込める。
そう思われたのだろう。
何度、否と返答しても諦めない。
遂に照会状から王命と同等の意味を持つ召喚状が送られて来たのだ。
辺境伯夫妻は娘の噂の真相を熟知している。
罪の意識で最近は眠りも浅く憔悴を隠せない。
「使者がもう拒否は許さないと…だが」
隈を浮かべた目で娘を見つめた。
「どうしても嫌なら何としても私が他の手段を考えよう」
無理にでも自分を鼓舞する言葉を吐く。
夫人はそんな夫の手を固く握り締めている。
「シャーロット本当にごめんなさい。わたくしあなた達を等しく愛して来たつもりだったのに」
瞳から大粒の涙をいくつも零す。
「今度の事でわたくし、ベアトリスの方に手を差し伸べてしまった。愚かで醜い母を許して…」
シャーロットには両親を恨む気持ちは微塵も無い。
本当に善良な二人なのだ。
母は正直で可愛い人だ。
他の二人の姉妹と差別された事も無いし、十分幸せに暮らさせて貰った。
これ以上二人を苦しめる事は出来ない。
「お父様、お母様、私は大丈夫です」
自分の声がひどく遠くに聞こえた。
「このままここに居ても嫁ぎ先もありませんし…憎まれ者で居るより光栄なことと思い王宮でお仕えいたします」
王宮に行けば、もうここには戻って来られない。
いや…。
戻って来てはいけないのだ。
ふいにトビアスのことが頭に浮かんだ。
「僕と結婚して」
幸せだったあの言葉。
けれど、それは許されない事だったのだ。
私が去れば彼は私を忘れてしまうだろうか?
私を忘れ祝福される幸せな…結婚を…
そこまで考えた時、胸の奥が引き裂かれるように痛んだ。
嫌だ。
トビアスの隣にいるのは私がいい。
優しい声も、笑った顔も、私だけの…。
――でも。
額に手を当て蹲るように肩を落す辺境伯。
泣き崩れる夫人。
シャーロットの胸の中を虚しさの風が吹き抜けた。
いっそこの風が恋情を吹き飛ばしてくれないものだろうか。
きっと私がいなくなれば、この父母は苦しまずに済む。
ベアトリスも、デイジーも。 領地も。民も。
シャーロットは小さく呟いた。
「私は……大丈夫」
「…大丈夫」
けれど、その言葉を幾度、繰り返しても胸の奥の痛みは増すばかりだった。
ああ……トビアス……
会いたい。




