第七章 ストールの下
目を覚ました時、窓の外は夕焼けに染まっていた。
朝はとっくに過ぎていた。
昼も、もう終わっていた。
ノアは、寝台の上でしばらく目を開けていた。
薄い天蓋の向こうに、赤い光が滲んでいる。
見慣れた天井。
見慣れた部屋。
見慣れた静けさ。
何も変わっていない。
そう思おうとした。
けれど、手袋の下の手首には、昨夜リリィの指が触れた感覚が残っていた。
見たいの。
中、見せて。
少しだけ。
あの声は、耳元ではなく、頭の内側に残っている。
甘く、幼く、無邪気で、それでいてどこか湿っていた。
「……嫌な夢」
呟いてから、夢ではなかったことを思い出す。
リリィは、隣にいた。
昨夜からずっと、部屋のどこかに気配があった。
扉の向こうには、エマらしい足音もあった。
誰も何もしなかった。
ただ見ていた。
見られていた。
眠ったのか。
気を失っていたのか。
それすら、よく分からない。
分かるのは、目を覚ましても身体の奥が冷えたままだということだけだった。
ノアは起き上がった。
手袋を外す気にはならなかった。
指を曲げる。動く。人間の指として、正しく動いている。そう見える。そう感じる。
それなのに、どこか遠い。
自分のものではない何かを、糸越しに動かしているような鈍さがあった。
糸。
その言葉が、どうして浮かんだのか分からなかった。
ノアは手首を見た。
白い肌。細い指。爪の先。見慣れた手。
どこにも糸などない。
ないのに、指を曲げるたびに、どこか遠くで誰かが同じ動きをなぞっているような気がした。
自分が動かしている。
そのはずだ。
ノアは拳を握る。
少し遅れて、内側がついてくる。
ほんのわずかな遅れ。
今までなら気づかなかったような、些細なずれ。
けれど一度気づくと、そのずれがすべてを曇らせる。
まぶたを閉じる。
指を開く。
見なくても分かるはずの動きが、見ていなければ信用できない。
それが怖かった。
廊下の向こうで、小さな火が灯る気配がした。
ひとつ。
またひとつ。
エマが館の燭台に火を移しているのだと分かった。
夜が始まろうとしている。
そのことに気づいた瞬間、ノアの手は一瞬だけ止まった。
エマなら、きっと正しく整えるのだろう。
髪も、服も、紅茶の温度も、眠る時間も、ノアの体調も。
灯りの数も、夜の始まりも。
すべてを、ノアよりよく知っている顔で整える。
そのことに、安心してきた。
安心していたから、疑わなかった。
ノアは手を下ろした。
自分の手なのに、自分のものだと信じるために力を込めなければならない。
そんな夕暮れだった。
「ご主人様」
扉の外から声がした。
エマだ。
「お目覚めでしょうか」
いつもと同じ声。
その声に安心しかけて、ノアは自分を嫌悪した。
「……起きているわ」
「失礼いたします」
扉が開く。
エマはいつものように、控えめな足取りで入ってきた。
淡い色のドレス。
首元のストール。
穏やかな笑み。
その全部が、昨日までと同じだった。
「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」
ノアは一瞬、答えられなかった。
その言葉は、これまで何度も聞いている。
朝、外出の前、帰宅した時、紅茶の後、少し顔色が悪い時。
エマはいつもそう聞いた。
以前なら、うるさいと思いながらも、どこかで悪くないと思えた。
今は違う。
大丈夫かと聞かれるたびに、自分が何かの状態を確認されているようで、胸の奥がざらつく。
「……大丈夫よ」
エマは嬉しそうに微笑んだ。
「良かったです」
その表情に嘘はなかった。
嘘がないことが、余計に嫌だった。
「お食事のご用意ができております」
「……今日は、いらない」
ノアは即座に言った。
エマの笑みは崩れない。
「では、紅茶だけでも」
「それもいらない」
「ご主人様」
少しだけ、エマの声が柔らかくなる。
「召し上がらないと、お体に障ります」
「障るって、何に?」
自分でも、思ったより鋭い声だった。
エマは首を傾げる。
「ご主人様のお体に、です」
「……」
答えになっていない。
いつもなら流していた。
そういうものだと思っていた。
でも今は、その隙間が気になって仕方がない。
お体。
エマは、いつもそう言う。
ノア、と言わない。
ノアの気分でも、ノアの心でもなく、体。
「エマ」
「はい」
「私の体って、何?」
エマは、ほんの一瞬だけ黙った。
それは考えているようにも見えたし、言葉の置き場所を探しているようにも見えた。
「ご主人様のお体です」
「……もういい」
ノアは寝台から降りた。
エマは一歩引く。けれど部屋を出ていこうとはしない。
「リリィは?」
ノアが聞くと、エマは視線だけを扉の方へ向けた。
「お部屋の外に」
「……ずっと?」
「はい」
「あなたも?」
「私は、ご主人様のおそばにおりました」
その答え方が、怖かった。
ノアは立ち上がり、扉へ向かった。
エマがついてくる。
足音は静かだ。
いつものように、邪魔にならない距離。
廊下へ出ると、リリィが壁にもたれていた。
小さな身体。柔らかな髪。薄い花弁のような服。
赤い夕暮れの中でも、ぱっと見れば昨日までと変わらない。
けれど、その目だけが違った。
こちらを見ている。ノアではなく、ノアの奥を見ているような目だった。
「起きたんだ、ノア」
リリィは笑った。
「……待っていたの」
「うん」
リリィは悪びれない。
「ノアが、明日ならいいって言ったから」
「……そんな意味で言ってない」
「でも、もう夕方だよ」
リリィは窓の赤い光を見た。
「今日、終わっちゃう」
ノアの背筋が冷える。
「だから、少しだけにする」
「何を」
「見るだけ」
ノアの背筋が冷える。
エマが静かに一歩前へ出た。
「リリィ様」
その声は穏やかだった。
「ご主人様がお嫌がりです」
リリィはエマを見た。
少しだけ、不思議そうに。
「どうして?」
「ご主人様が、そう仰っています」
「でも、ノアはいい匂いがする」
リリィはごく自然に言った。
「中も、きっといい匂い」
ノアは反射的に一歩下がった。
リリィの唇が笑みに変わる。
「ねえ、ノア」
声は甘い。
「手袋、外して」
「嫌よ」
「少しだけ」
「嫌」
「じゃあ、私が外す」
リリィの指は細かった。
小さくて、折れてしまいそうで、けれど迷いがなかった。
その指が、ノアの手袋の縁にかかる。
布越しなのに、触れられた場所だけが冷えた。
皮膚ではないものの上を、何かが這っているような感覚がした。
「やめて」
声はもう、命令ではなかった。
懇願に近かった。
リリィは不思議そうに瞬きをする。
「どうして?」
「嫌だから」
「嫌でも、少しだけなら大丈夫」
「大丈夫じゃない」
「見たいだけだよ」
その声はあまりにも素直だった。
悪意がない。
だから余計に怖い。
リリィは、自分が何をしようとしているのか、本当に分かっていないのかもしれない。
あるいは、分かっていても、それを止めるための何かが最初から欠けているのかもしれない。
エマが一歩、間に入ろうとした。
「リリィ様」
静かな声。
それでも、その声にだけはわずかな硬さがあった。
「ご主人様が、そう仰っています」
リリィの顔から、笑みが消えた。
消えた、というより、動かす意味を失ったみたいだった。
「邪魔しないで」
声は可愛いままだった。
可愛いまま、完全に拒絶していた。
リリィが動いた。
それは小さな少女の動きではなかった。
床を蹴った音が、妙に軽い。
ノアの胸元へ、リリィの手が伸びる。
「来ないで!」
ノアは咄嗟にリリィを突き飛ばした。
小さな身体が廊下を滑り、壁にぶつかる。
乾いた音がした。
動かなくなる。
時間が止まった。
「……」
ノアは自分の手を見た。
突き飛ばした。
リリィを、突き飛ばした。
あの小さな身体が壁にぶつかる音は、まだ耳の奥に残っている。
人を傷つけた音にしては軽すぎて、だから余計に現実味がなかった。
やってしまった。
そう思った直後、背後からエマの声がした。
「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」
ノアは振り返った。
エマはノアのすぐ横にいた。
いつからそこにいたのか分からなかった。
リリィを見て、ノアを見て、それからまたリリィを見る。
その目に怒りはない。
恐怖もない。
ただ、確認するような静けさがある。
「……エマ」
ノアが名を呼ぶより早く、リリィが起き上がった。
壁にぶつかったはずの身体が、あり得ないほど軽く持ち上がる。
床についた手が、少女の手に見えなかった。
細い。
関節が多い。
白い指の隙間から、脚のようなものが覗いた。
「邪魔」
リリィが言った。
可愛い声のままだった。
けれど、口が裂けていた。
笑っているのではない。
口の端が、耳に届きそうなほど横へ開いている。
唇の内側は暗く、濡れていて、花の香りではなく、湿った土のような匂いがした。
「ノアは、私が見つけたの」
リリィの肩が震える。
服の下で、何かが羽ばたく音がした。
薄い羽音。
小さな、薄い膜が擦れる音。
「私が、先に、いい匂いって思ったの」
ノアは動けなかった。
リリィの目は、ノアの顔を見ていない。
胸元。
手。
喉。
服の下。
どこを開けば奥に届くのか、探している目だった。
エマが、ノアの前に立った。
自然に。
まるで、そこにいるのが当然であるかのように。
「どいて」
リリィが言う。
エマは動かない。
「ご主人様がお嫌がりです」
「だから?」
「おやめください」
「やだ」
リリィの身体が沈む。
次の瞬間、跳ねた。
音は一つだけだった。
鈍く、軽く、乾いた音。
エマの身体が横へ飛ばされる。壁に叩きつけられ、床に落ちた。
「エマ!」
ノアの声が廊下に響いた。
エマは倒れたまま動かない。
ストールはまだ首に巻かれている。少しだけ乱れてはいたが、その下は見えない。
腕が、変な方向に曲がっていた。
人間なら叫んでいるはずだった。
でもエマは叫ばない。ただ、かすかに唇を動かした。
「ご主人様……」
それだけ言って、意識を失った。
「これで、ふたりきり」
リリィが近づいてくる。
口は裂けたままだった。
なのに、声だけは嬉しそうだった。
「大丈夫。怖くないよ」
「……来ないで」
ノアの声は震えていた。
命令ではなかった。勇気でもなかった。逃げ場を失ったものが、ただ後ずさる時の声だった。
「少しだけ」
「いや」
「中、見せて」
「やめて」
リリィは首を傾げた。
「どうして?」
どうして。
その問いが、いっそう怖かった。
リリィは分かっていない。
自分の口が裂けていることも、ノアが怯えていることも、近づくほど何かが壊れていくことも、きっと何も分かっていない。
それなのに、欲しがっている。
ノアを。
ノアの中を。
リリィは、少し前までノアの救いだった。
エマより分かりやすく、欲しいと言い、近づき、笑っていた。
ノアはその分かりやすさに救われていた。
そのリリィが今、裂けた口で近づいてくる。
ノアの中身を見たいと言っている。
触れられたら終わる。
何が終わるのかは分からない。
ただ、あの小さな手が手袋に届いた瞬間、身体の奥まで覗かれるような気がした。
「ノア」
リリィが手を伸ばす。
その指先が、ノアの手袋に触れた。
ノアは叫んだ。
自分の声だとは思えなかった。
何を叫んだのかも分からない。
気づいた時には、ノアの手がリリィの胸元を掴んでいた。
フリルのついた白い布ごと、その下の小さな胴を握り込む。
軽かった。
子供の重さではなかった。
抱き人形を持ち上げた時のような、けれど中身の足りない、嫌な軽さだった。
リリィは、掴まれても笑っていた。
「やっと、触ってくれた」
その言葉が終わる前に、ノアはリリィを床へ叩きつけた。
音がした。
骨の音ではなかった。
薄い箱を踏み潰したような、乾いた音だった。
リリィの身体が跳ねる。
それでもまだ、顔だけがこちらを向いていた。
ノアはもう一度、同じ場所を掴んだ。
今度は布の下の胴が、指の形にへこんだ。
へこんだまま、戻らなかった。
叩きつける。
ぱき、と何かが割れた。
肉が潰れたのではない。
人間の骨が折れたのでもない。
リリィの腹のあたりが、内側の空洞ごと折り畳まれるように潰れた。
遅れて、白く濁ったものが裂け目から滲んだ。
糸のように細いものが、そこから何本も伸びる。
それは血ではなかった。
臓物でもなかった。
ただ、リリィの中に入っていた何かだった。
ノアは三度目を叩きつけた。
今度は、音が軽かった。
壊れるものが、もうほとんど残っていないみたいな音だった。
それでも、リリィだったものは、まだ終わらなかった。
白い服が透明な液体を吸って重くなっていく。
腕だったものは、関節から曲がったのではなく、途中でへこんだ。
中身がないから、形だけが保てなくなったように、ぺしゃりと折り畳まれる。
小さな胸が割れる。
内側は暗くなかった。
白かった。
白いものが、ぎっしりと詰まっている。
それらは、潰された瞬間に一斉に目を覚ましたみたいに動き出した。
細い脚。糸みたいな胴。羽になる前の薄い膜。顔のない小さな頭。
ざわ、という音がした。
声ではない。
羽音でもない。
たくさんの柔らかいものが、互いを押しのけて動く音だった。
リリィの髪だけが、まだ綺麗だった。
雨の日に出会った時と同じ、柔らかな髪。
その髪が床に広がった粘液に濡れて、花弁のように貼りついている。
その下で、顔だったものがこちらを見ていた。
潰れている。
歪んでいる。
口のあった場所は、もう言葉を作れる形ではなかった。
けれど、目だけは残っていた。
その目はまだ何かを言おうとしているように見えた。
もし口が残っていたら、何と言ったのだろう。
痛い、ではない気がした。
やめて、でもない。
もっと近い言葉。
もっと欲しがる言葉。
ノアはそれを想像しかけて、すぐにやめた。
ノアは、それを聞きたくなかった。
聞こえないはずなのに、聞こえそうだった。
ノアの指の間から、透明な粘液が糸を引いた。
服の中から、白く細いものが溢れる。
それは虫に似ていた。
そう思った瞬間、ノアは自分の認識を疑った。
こんなものが、人の中にいるはずがない。いてはいけない。いたなら、その人はもう人ではない。
けれど、それは確かに動いていた。
違う。
虫に似た、何か。
ノアは手を離した。
リリィの顔だったものが、こちらを向いている。
潰れているのに、目だけが残っていた。
その目が、なぜか嬉しそうに見えた。
ノアの手には、感触が残っていた。
柔らかかった。
軽かった。
そして、どうしようもなく薄かった。
あれほど近くにいた少女が、腕に頬を寄せてきた少女が、雨音の中で「いい匂い」と笑った少女が、床に広がるだけのものになっている。
リリィが人間ではなかったとしても。
それでも、話した。
笑った。
名前を呼んだ。
ノアは、あの子をリリィと呼んだ。
自分が与えた名前のあるものを、叩き潰した。
その事実が、遅れて内側へ入ってくる。
吐き気よりも冷たいものだった。
床に広がったものの一部が、遅れて蠢く。
細い糸のようなものが、暗い隙間へ逃げていった。
ノアは立ち尽くした。
何をしたのか、理解が追いつかない。
ノアはエマを抱え上げた。
腕の中のエマは、思っていたよりもずっと軽かった。
人間の身体を抱き上げたことなど、ほとんどない。
だから比べようがないはずだった。
それでも、違和感だけは分かった。
重さが、足りない。
骨の重さ。
血の重さ。
内臓の重さ。
そういうものが、エマには欠けている気がした。
布と皮膚と、何か柔らかいものだけを抱いているようだった。
けれどノアは、その違和感を考えなかった。
考えれば、腕の中のエマまで信じられなくなる。
それだけは、嫌だった。
リリィは壊れていた。
リリィは自分を食べようとした。
その時、前に出たのはエマだった。
それだけが、今のノアに残された確かな事実だった。
廊下を歩く間、エマの髪がノアの腕に触れた。
柔らかい。
いつも整えられていた金の髪。
夕暮れの光の中では花のように見えた髪。
それが今は、少し乱れている。
ノアは、その乱れに胸を締めつけられた。
「ごめんなさい」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
「あなたに、ひどいことを言った」
エマは答えない。
「触れられるのが嫌だなんて、思った」
足が震える。
それでも落とさないように、腕に力を込める。
「あなたは、ずっと私のそばにいただけなのに」
その言葉を口にした時、なぜか胸の奥が少しだけ痛んだ。
そばにいただけ。
本当に、そうだったのか。
その疑問が浮かびかけて、ノアは奥歯を噛んだ。
今は考えない。
今はエマを助ける。
どこへ運べばいいのか、一瞬迷う。
エマの部屋。
そう思ったのに、場所が分からなかった。
エマはずっとこの館にいた。
毎朝、毎晩、ノアのそばにいた。
食事を用意し、紅茶を差し出し、ストールを巻き、ノアを見送った。
なのに、ノアはエマの部屋を知らない。
その事実が、ひどく冷たかった。
「……私の部屋でいいわね」
誰に言うでもなく呟き、ノアはエマを自分の寝室へ運んだ。
寝台に寝かせる。
いつも自分が眠っていた寝台に、エマを寝かせるのは奇妙だった。
エマはいつも、ノアが眠る側ではなく、眠りを見届ける側にいた。
紅茶を渡し、布団を整え、灯りを落とし、扉の外へ出ていく。
エマが横たわる姿を、ノアは初めて見た。
あまりにも似合わなかった。
眠っているように見えるのに、眠っているとは思えない。
呼吸の上下が分からない。
胸に耳を当てる勇気はなかった。
ノアは掛布をかけようとして、途中で手を止めた。
布をかければ安心できると思った。
傷ついた人間には、そうするものだと思った。
けれど、エマの身体に布が触れた瞬間、何かを覆い隠すような感覚がした。
見ないようにしている。
自分はまた、何かを見ないようにしている。
「……違う」
ノアは首を振る。
「手当てをするだけよ」
手当て。
その言葉も、急に頼りなく感じた。
エマに手当てなど必要なのか。
エマは痛みを感じているのか。
そもそも、今まで怪我をしたことがあったのか。
疑問は次々に浮かぶ。
けれどそのたびに、リリィの裂けた口が脳裏に戻る。
違う。
今は、エマを疑う時ではない。
ノアは掛布を胸元まで上げた。
その指先が、エマのストールに触れた。
いつもの布。
いつもの首元。
それだけで、少しだけ安心しそうになる。
その自分が、怖かった。
薄い掛布をかける。
顔色は白い。
呼吸は分からない。
でも、今は考えない。
「待っていて」
ノアは立ち上がった。
布。包帯。何か、手当てに使えるもの。
台所へ向かう途中、何度も同じ言葉が頭の中を巡った。
エマは守ってくれた。
ノアは、あの子を疑った。
怖がった。
触れられるのを嫌がった。
見られるのを拒んだ。
でも、リリィが本当に危険だった時、前に出たのはエマだった。
「……ごめんなさい」
廊下に、声が落ちた。
「疑って、ごめんなさい」
台所の扉を開ける。
中は暗かった。
ノアは棚を開ける。
そこにあるべきものを探した。
包帯。清潔な布。何か、手当てに使えるもの。
けれど、最初に目についたのは、あまりにも整然とした空白だった。
調理台がある。
けれど、使われた形跡が薄い。
鍋がない。
包丁がない。
皿は、見慣れた数よりずっと少ない。
食材を置く場所には、乾いた欠片のようなものが入った箱があるだけだった。
淡い琥珀色の油が入った小瓶。
その隣に、白い粉の瓶。
それだけが、妙に丁寧に並べられていた。
棚の奥には、乾いた葉も、香草も、肉も、穀物もなかった。
そこにあるのは、用途の分からない布袋と、密封された小瓶と、表面の黒ずんだ欠片だけだった。
木片にも見える。
焦げた骨にも見える。
石にも見える。
見つめていると、何だったのか分からなくなる。
ノアは蓋を閉じた。
違う。
今は違う。
エマは自分を守った。
その事実だけを掴んでいなければ、立っていられなかった。
布を探す。包帯に使えそうなものを探す。
けれど、探せば探すほど、この場所は台所ではなくなる。
食事を作るための場所ではない。
何かを分け、砕き、乾かし、混ぜるための場所に見えてくる。
白い粉の瓶だけが、あまりにも清潔だった。
ノアはその瓶に触れなかった。
触れてしまえば、今かろうじてしがみついているものまで、指先から崩れていく気がした。
「……今は」
ノアは首を振った。
今はエマだ。
今は考えない。
考えたら、また何かが崩れる。
ノアは布と包帯に使えそうな細い布を探し出し、寝室へ戻った。
エマはまだ動かない。
ノアは布を折り、エマの額にそっと当てた。
肌は冷たくない。
人間なら、熱があるとか、血の気がないとか、そういう言葉で表せたのかもしれない。
でもエマの肌は、そのどちらでもなかった。
温かいようで、温かさが奥まで続いていない。
冷たいようで、死体の冷たさとも違う。
表面だけが、人間の温度を真似している。
そんな考えが浮かんで、ノアは慌てて否定した。
違う。
違う。
エマは守ってくれた。
エマは今、倒れている。
疑う方がおかしい。
濡れた布で頬を拭く。
閉じた瞼の上を、そっとなぞる。
その顔は、いつものエマだった。
何度も「ご主人様」と呼んだ顔。
ノアがストールを整えた時、嬉しそうに笑った顔。
後ろから抱き寄せた時、驚いて赤くなった顔。
その顔が、今は何も答えない。
ノアは、ようやく少し泣きそうになった。
「……起きなさいよ」
声は震えていた。
「いつもみたいに、鬱陶しいくらい心配しなさいよ」
返事はない。
けれど、温かいとも言い切れない。
柔らかく、滑らかで、人間の皮膚に見える。
ノアは腕の傷を拭こうとして、指を止めた。
折れた腕の付け根に触れた時、肌がへこんだ。
沈む。
人間の肉の弾力とは違う。
押したところが、形を失ったまま一瞬止まり、遅れて内側から盛り上がる。
何かが、下から押し返した。
ノアは息を止めた。
曲がっていたはずの腕の角度が、さっきより浅くなっている気がした。
壁に叩きつけられた直後は、もっとひどかった。
抱き上げた時も、どこを支えればいいのか分からないほどだった。
今は、少しだけ、人間の腕らしい位置へ戻っている。
治っている。
そう思いかけて、すぐに違うと思った。
戻されている。
誰かが、見えない内側から、人間の形に合わせて置き直している。
「……」
ノアは布を落としそうになった。
見なかったことにする。
そう思った。
でも、今度は首元が気になった。
気にしてはいけないと思うほど、そこだけが目に入った。
ストールは、いつも通りに見えた。
柔らかい布。淡い色。ノアがいつか渡したもの。
まだそのストールを使っているの、と聞いた時、エマは嬉しそうに答えた。
ご主人様からいただいた、大切なものですから。
その時のエマは、本当にかわいかった。
大切なものを、愛おしそうに見ていた。
今、その同じ布が、まったく別の意味を持っている。
隠している。
一瞬、そう思った。
けれどすぐに、違う気がした。
エマは、隠している顔をしていなかった。
見られて困るものを必死に覆っている人間の態度ではなかった。
ただ、そこに巻いている。
首にはそういうものがあるのだと、最初から信じているみたいに。
だから怖かった。
触れてはいけない。
けれど、見なければいけない。
その二つの感情が、同じ強さで胸の中を引っ掻いた。
「少しだけ」
ノアは震える手でストールに触れた。
結び目をほどく。
指がうまく動かなかった。
布の結び目は、いつもエマが自分で整えていた。
ノアがほどくのは初めてだった。
見慣れているはずなのに、触れると知らないもののように固い。
一度目はほどけなかった。
二度目も指が滑った。
「……何をしているの、私は」
誰も答えない。
眠っているエマの顔は穏やかだった。
その顔に、許されているような気がした。
同時に、見てはいけないものを盗もうとしているような罪悪感があった。
ノアは息を止めて、もう一度、布の端を引いた。
布が滑り落ちる。
その動きは、とても静かだった。
ただ布が落ちただけ。
いつもなら、ノアが軽く笑って拾い上げるだけのものだった。
けれど今は、その布一枚が、部屋の空気を変えた。
エマの首元が露わになる。
最初に見えたのは、白い皮膚だった。
きれいだった。
人間の首に見えた。
だから、ノアは一瞬だけ安心しかけた。
馬鹿みたいに、何もなかったのだと思いかけた。
けれど、その白さの下に、古い線があった。
ただの傷跡ではない。
首を一周するような、細い裂け目。何度も同じ場所が傷つき、何度も無理に閉じられたものの跡。
新しい血の色だけではない。
乾いた赤黒さ。
皮膚の端に残る紫。
ところどころ、糸で引き寄せられたように不自然な皺。
リリィに吹き飛ばされてできた傷ではない。
もっと前からあった。
ずっと、そこにあった。
ノアの喉が鳴った。
毎晩。
その言葉が、どこからか浮かんだ。
何の根拠もないのに、分かってしまった。
これは、一度の傷ではない。
繰り返された傷だ。
そして、その奥で、何かが動いていた。
白く、半透明で、湿っている細いもの。
虫。
その言葉を頭が選んだ瞬間、ノアは自分の認識を疑った。
虫。
こんなものが、人の首の中にいるはずがない。
いてはいけない。
いたなら、その人はもう人ではない。
けれど、それは確かに動いていた。
いや、糸。
糸のような虫。
それらが傷の中を這い、皮膚の端を引き寄せ、奥の何かを押し戻していた。
縫っている。
最初はそう見えた。
でも違う。
治しているのではない。
開いたところから何かが漏れないように、外へ出ないように、内側へ戻している。
傷口の形を保ちながら、裂けたものを無理やり閉じている。
ひとつが、ノアの指先に触れた。
ぬるい。
生きている。
それは、ノアを噛まなかった。
刺しもしなかった。
ただ触れただけだった。
それなのに、ひどく親しげだった。
細い先端が、指の腹を探るように滑る。
爪の脇へ、少しだけ入り込もうとした。
爪と皮膚の境目を、細い先がなぞる。
痛みはない。
痛くないことが、かえって嫌だった。
拒むための痛みすらない場所を、当然のように探られている。
もしほんの少しでも皮膚が開いていたら、そのまま中へ滑り込んだのではないか。
そう思った瞬間、ノアは自分の指を自分のものだと思えなくなった。
入らなかった。
けれど、入れる場所を知っているみたいだった。
まるで、ノアというものを前から知っているみたいに。
その瞬間、指先から腕へ、嫌悪が駆け上がった。
傷口の奥では、別のものがゆっくり押し戻されていた。
肉ではない。
臓器でもない。
色の薄い、湿った繊維の束。
皮膚の下に隠れていたはずのものが、外へ出ようとするたびに、細いものたちがそれを引き戻す。
治しているのではない。
形から逃げようとするものを、形の中へ押し込んでいる。
外へ出ようとするものを、ここにいろと縫い留めている。
エマは、こんなものを首に抱えたまま、ずっとノアの隣にいた。
何もない顔で。
ご主人様と呼び、ストールを整え、紅茶を差し出し、食事を並べていた。
そのひとつひとつが、今見た首元へつながっていく。
「……っ」
吐き気が込み上げた。
ノアは寝台から離れ、部屋を飛び出した。




