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それは祝福と呼ばれている。  作者: 高山 墨人


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第六章 明日なら

目が覚めた時、ノアはしばらく天井を見つめていた。


朝だった。


窓の外は薄く明るい。カーテン越しの光は柔らかく、いつもの館の朝と何も変わらない。埃が光の中でゆっくり揺れていて、遠くで木々が風に鳴っている。


けれど、胸の奥だけが重かった。


眠っていたはずなのに、眠れた気がしない。


指先を動かす。


動く。


それだけのことを確かめてから、ノアはゆっくり息を吐いた。


「……馬鹿みたい」


自分の手を見て怯えるなんて、どうかしている。


そう思ったのに、視線は指から離れなかった。手袋をしていない、寝起きの素手。白く、細く、見慣れた手。傷もなく、節もなめらかで、どこにもおかしなところはない。


ないはずだった。


なのに、昨夜リリィが言った言葉が耳に残っている。


手、見せて。


ただそれだけの言葉なのに、何かを剥がされるような気がした。


「ご主人様」


扉の外から、エマの声がした。


いつもと同じ声。


やわらかく、控えめで、こちらの起床を待っていたような声。


「お目覚めでしょうか」


「……ええ」


返事をしてから、ノアは少し遅れて身体を起こした。


扉が開く。


エマが立っていた。今日もストールを首に巻いている。淡い色の布が、いつものようにきちんと胸元へ落ちていた。


その姿を見るだけで、少し前までは安心していた。


今は違う。


安心したいのに、視線が勝手にストールへ行く。


首元に巻かれた布。柔らかく、綺麗で、何の不自然もない。


それなのに、なぜか目を逸らしたくなる。


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


エマが言った。


いつもの言葉だった。


心配しているだけ。そう受け取ればいい。


それだけのことなのに、ノアの胸の奥で何かがざらりと鳴った。


ざらり。


その音は、耳には聞こえない。


けれど身体の内側で、確かに鳴った。


エマは変わっていない。


いつものように、手には温かい布を持っている。髪紐も、花飾りも、今日着る服も、すべて揃っている。


何も変わっていない。


変わったのは、ノアの見方だけだ。


「お顔を拭きますか」


エマが布を差し出す。


ノアはそれを受け取らなかった。


「自分でやるわ」


「はい」


エマは素直に布を差し出したまま待っている。


受け取るまで、待っている。


その姿が、責めているわけではないのに、ノアには耐えがたかった。


ノアは布を取る。


温かい。


ちょうどいい温度。


いつも通り、完璧だった。


顔を拭くと、目元が少し楽になる。楽になってしまう。


それが嫌だった。


「ご主人様、髪を」


「今日はいい」


エマの手が止まる。


ほんの少し。


「そうですか」


「ええ」


「では、花飾りだけでも」


「いらない」


言ったあとで、ノアは自分の声が少しきつかったことに気づいた。


エマは怒らない。


悲しむ顔もしない。


ただ、花飾りを両手で持ったまま、静かに目を伏せる。


その沈黙に、ノアの胸が痛んだ。


傷つけたくない。


けれど触れられたくない。


その二つが同時にあることが、ノアをひどく疲れさせた。


「……大丈夫よ」


「そうですか。良かったです」


エマは微笑む。


何も変わらない。


変わらないことが、今は少し怖かった。


食卓には、朝食が並んでいた。


湯気の立つスープ、薄く焼いたパン、果物を煮たもの。見た目はいつも通りだった。香りもある。温かさもある。


けれど、席に着いた瞬間、ノアは喉の奥が狭くなるのを感じた。


昨日までなら、せめて一口は普通に食べられた。


今日は、スプーンを持つ前から、胃が拒んでいる。


「召し上がらないのですか」


「……少し、待って」


「はい」


エマは素直に頷いた。


その横で、リリィが椅子に腰掛けていた。


いつの間に来たのか分からない。


小さな身体を椅子の上に乗せ、足を揺らしている。昨夜と同じように、白い花のような服を着ていた。髪は柔らかく、目は澄んでいて、そこだけ見れば本当にただの小さな少女だった。


「おはよう、ノア」


「……おはよう」


リリィは嬉しそうに笑った。


その笑顔を見ると、胸の重さが少しだけ薄れる。


エマと違って、リリィは分かりやすかった。


近い。触りたがる。見たがる。こちらに興味がある。何を考えているのか全部が分かるわけではないけれど、少なくとも何も言わずに見つめ続けるエマよりはましだった。


そう思っている自分に、ノアは気づいていた。


気づいていて、止められなかった。


「食べないの?」


リリィが首を傾げる。


「食べるわよ」


「でも、嫌そう」


「そう見える?」


「うん」


正直な返事だった。


ノアはスプーンを取る。


スープを掬う。


口へ運ぶ。


「……」


温かい。


味はある。


けれど、舌に触れた瞬間、ほんのわずかにざらついた。


砂ではない。


骨でもない。


もっと乾いたもの。


木の皮を噛んだら、こんな感触なのかもしれない。


「……っ」


飲み込む。


喉に引っかかる。


「ご主人様」


エマがすぐに近づいた。


「お体は――」


「言わなくていい」


言葉が思ったより強く出た。


エマが止まる。


リリィも動きを止めた。


ノアは自分の声に驚いた。


「……ごめんなさい」


すぐにそう言った。


「少し、気分が悪いだけ」


「承知いたしました」


エマは静かに引いた。


怒らない。


傷ついた様子もない。


それがますます、ノアを苛立たせた。


怒ってくれればいいのに。


なぜそんなことを思ったのか、自分でも分からなかった。


リリィが椅子から降りる。


小さな足音で近づいてきて、ノアの膝に手を置いた。


「無理しなくていいよ」


「……あなたに言われるとは思わなかったわ」


「ノアが嫌なら、嫌でいいと思う」


その言葉は、あまりにも簡単だった。


嫌なら嫌でいい。


エマはそんなふうに言わない。


エマなら、必要だからです、と言う。


正しいことです、と言う。


大丈夫です、と言う。


ノアは、気づけばリリィの頭に手を伸ばしかけていた。


途中で止める。


リリィはその手を見上げた。


「触ってくれるの?」


「……違うわ」


「そう」


リリィは残念そうに目を伏せた。


その仕草が可愛らしくて、ノアは胸が痛くなった。


可哀想だと思った。


そんなふうに思える相手がいることに、少しだけ救われた。


その日の回収に、リリィは当然のようについてきた。


当然のように、ということが、もうおかしかった。


昨日までは、回収の仕事に誰かを連れていくなど考えたこともなかった。エマは見送る側で、ノアは外へ出る側だった。その役割はいつも変わらなかった。


リリィは、その線を簡単に越えてくる。


「外、怖くないの?」


「怖いもの、どれ?」


「森とか、知らない道とか」


「森は匂いが多いから好き。道は、ノアが歩くからついていく」


その答えは軽い。


軽いのに、ノアの胸に引っかかる。


エマなら、危険です、と言う。お気をつけください、と言う。早いお戻りを、と言う。


リリィは戻ることを言わない。


ただ、ついていく。


それがひどく自由に見えた。


同時に、ひどく危なかった。


エマは止めなかった。


ただ、ローブを整え、手袋を渡し、仮面を差し出した。


「本日もお気をつけください」


「……ええ」


ノアは手袋を嵌める。


リリィはその指先をじっと見ていた。


「まだ見せてくれないの?」


「しつこいわね」


「見たいから」


「どうして」


「分からない。でも、見たい。触りたい」


リリィの問いには、恥じらいも悪意もなかった。


ただ、本当に分からないという顔をしている。


ノアは答えられなかった。


扉を開ける。


外の光が入る。


リリィが先に一歩出る。雨上がりの庭を見て、嬉しそうに笑った。


「外、いい匂い」


「雨の匂い?」


「ううん」


リリィは振り返る。


「ノアの匂いの方がいい」


エマが背後にいた。


無言でこちらを見ている。


ノアはその視線に気づいて、なぜか悪いことをしているような気分になった。


「行くわよ」


リリィの手を取る。


小さな手だった。


リリィは嬉しそうに握り返した。


エマの視線は、扉が閉まるまで消えなかった。


回収場所は、以前よりも遠かった。


館の裏手から森を抜け、古い石橋を渡る。そこには、半分崩れた小屋があった。昔は倉庫だったのかもしれない。扉は斜めに外れ、屋根には苔が生えている。


ノアは迷わず中へ入った。


迷わない自分が、最近は怖い。


なぜ場所が分かるのか。


誰から聞いたのか。


札はどこから来るのか。


考え始めると、足元が崩れるような感覚になる。


だから考えない。


「ここも、匂いする」


リリィが言った。


「嫌な匂い?」


「違う。近い匂い」


「何に?」


「ノアに」


ノアは振り返った。


リリィは小屋の隅にしゃがんでいた。


そこには、布で覆われた小さな箱があった。回収するべきものだと、ノアには分かる。


分かってしまう。


「手を出さないで」


自分でも驚くほど強く言っていた。


リリィの手が止まる。


「どうして?」


「危ないから」


「危なくないよ」


「分かるの?」


「うん」


リリィは箱に顔を近づける。


「だって、いい匂い」


「……離れて」


ノアは箱を布ごと掴み、袋へ入れた。


その瞬間、手袋越しにざらりとした感触が走る。


固い。


乾いている。


軽い。


そして、妙に馴染む。


「……」


袋を閉じる。


中を見ない。


リリィが隣から覗き込んでくる。


「ノアは、それをどうするの?」


「持ち帰るのよ」


「食べる?」


ノアの喉が詰まった。


「……何を言っているの」


「違うの?」


「違うわ」


「そう」


リリィは不思議そうに首を傾げた。


「でも、匂いがするものは、食べるんじゃないの?」


その言葉が、ノアの中に深く刺さった。


匂いがするものは、食べる。


リリィにとっては、きっと簡単なことなのだろう。


花が咲けば近づく。甘ければ舐める。よい匂いがすれば口に入れる。


それだけだ。


けれどノアの中では、その言葉が別のものを引きずり出した。


朝食の皿。


夢の中の木片。


回収した小箱。


エマが丁寧に並べていた、パンでも果物でもないもの。


違う。


あれは夢だ。


食事は食事で、回収品は回収品だ。


ノアはそう考えようとした。


けれど、袋の中の固い感触が、手袋越しにまだ残っている。乾いていて、軽くて、どこか馴染む。


持ち帰るもの。


保管するもの。


片づけるもの。


食べるもの。


それらの境目が、一瞬だけぐにゃりと曲がった。


「ノア?」


リリィが下から覗き込んでくる。


「顔、変」


「あなたの言うことが変だからよ」


「変じゃないわ」


「変よ」


「ノアは、匂いがするものを食べないの?」


「食べるものと食べないものがあるの」


「誰が決めるの?」


ノアは答えられなかった。


誰が。


自分が決めている、と思いたかった。


けれど、食卓に並ぶものをノアが選んだことはない。紅茶の甘さをノアが決めたこともない。回収札に書かれた場所を、ノアが選んだこともない。


いつも、決められたものが先にある。


ノアはそれに従って、歩き、持ち帰り、食べ、眠ってきた。


「……帰るわよ」


声が少し掠れた。


リリィは素直についてくる。


その素直さが、また怖かった。


冗談ではない。


リリィは本気で言っている。


「帰るわよ」


帰る。


そう言った瞬間、自分がどこへ帰るのかを思い出した。


館。


エマ。


食卓。


紅茶。


待っている声。


おかえりなさいませ、ご主人様。


その言葉を聞くために歩いているはずなのに、今はその言葉が少し怖い。


ノアは袋を抱え直した。


中の箱は軽い。


軽いのに、手から離れない。


リリィは隣を歩いている。


時々ノアの顔を見上げ、何か言いたそうにして、結局何も言わない。


珍しく静かだった。


「何」


「怒ってる?」


「怒っているわ」


「私に?」


「あなたにも」


「他にも?」


ノアは答えなかった。


他にも。


リリィはたぶん、分かっていない。


ノアが怒っている相手は、リリィだけではない。


エマにも、館にも、食事にも、紅茶にも、そしてそれらをまだ手放せない自分にも怒っている。


「ノア」


「何」


「手、繋ぐ?」


「繋がない」


「そう」


リリィは残念そうに手を引っ込める。


それだけだった。


無理に触れない。


許されなければ、引く。


そのことに、ノアはまた少し救われた気がしてしまう。


リリィは危ない。


危ないはずなのに。


彼女の方が、今はノアの拒絶を聞いてくれているように見えた。


リリィは、ノアが黙っていても勝手に正解を置かない。待つことは下手で、我慢も下手で、欲しいものを欲しいと言う。けれど、拒まれれば一度は手を引く。


その一度が、今のノアにはひどく大きかった。


エマは違う。


エマは無理に触れない。命じない。怒らない。けれど、ノアが拒む前から、拒まなくて済む形を整えてしまう。食事も、紅茶も、寝台も、毛布も、全部が先に用意されている。ノアが選ぶより早く、ノアにふさわしい形が置かれる。


それを優しさと呼ぶなら、リリィの危うさは何なのだろう。


ノアは答えを出せなかった。


リリィは隣で、相変わらず袋を見ていた。ときどき鼻を鳴らす。子犬のようで、けれど子犬ではない。匂いを追う目は、どこまでも素直だった。


「……見ないで」


「うん」


リリィはすぐに顔を上げた。


それだけで、ノアはまた救われそうになる。


救われそうになる自分が、何より嫌だった。


ノアはリリィの手を引いた。


リリィは素直についてくる。


けれど、帰り道の間ずっと、袋の方を見ていた。


館に戻ると、エマが玄関で待っていた。


「おかえりなさいませ、ご主人様」


「ただいま」


ノアは袋を差し出す。


エマは丁寧に受け取った。


「回収、完了しました」


まるで報告を受ける係のように言う。


その言い方に、ノアは小さく眉を寄せた。


「……あなた、私が何を持って帰ったか知ってるの?」


「はい」


「中を見てもいないのに?」


「ご主人様が回収されたものですから」


「答えになってないわ」


エマは少しだけ首を傾げた。


「失礼いたしました」


「……」


謝ってほしいわけではない。


ノアは唇を噛む。


リリィがノアの袖を引いた。


「ノア、疲れた?」


「……少しね」


「じゃあ、座ろう」


リリィは当たり前のようにノアを引く。


エマは何も言わない。


ただ見ている。


視線が背中に刺さる。


食堂で、リリィはノアの隣に座った。


エマが紅茶を用意する。


今日の紅茶は、まだ夜ではないのに出された。


「飲まないわ」


ノアはカップを見る前に言った。


エマの手が止まる。


「ご気分が優れないのですか」


「違う」


「では、なぜ」


「飲みたくないから」


短く言う。


エマはカップを下げなかった。


ただ、そのまま静かに立っている。


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


「……それ、やめて」


ノアは顔を上げた。


声が震えたのが分かった。


「その言葉、聞きたくない」


エマは瞬きをした。


傷ついた顔ではない。


困った顔でもない。


ただ、意味を考えているような顔。


「承知いたしました」


そう言って、カップを下げる。


それだけだった。


リリィがノアの手袋に触れた。


「ノア」


「何」


「怖いの?」


「……分からない」


「エマが?」


ノアは答えなかった。


エマはすぐ近くにいる。


聞こえているはずだった。


それでも、エマは何も言わない。


リリィは手袋の上で指を止めた。


「ごめんね」


素直に手を引く。


その素直さが、ノアを少しだけ落ち着かせた。


そう思いたかった。


夜になる前、ノアはリリィと温室へ行った。


エマはついてこなかった。


それでも、廊下の奥に気配があった。


見ている。


見張っている。


そう感じる。


温室には花が咲いていた。白い花、淡い紫の花、小さな黄色い花。ガラス越しの光は弱く、葉の影が床へ落ちている。


リリィは花の間を歩いた。


「ここ、好き」


「花が好きなの?」


「うん。でも、ノアの方が好き」


ノアは返事をしなかった。


リリィの言葉は、だんだん重くなっている。


最初は可愛かった。


今は、好きという言葉の奥に、別のものが混じっている気がする。


「リリィ」


「なあに」


「あなたは、どうして私に近づいたの」


「いい匂いがしたから」


「それだけ?」


「うん」


リリィは頷いた。


「それだけで、人は近づかないわ」


「そうなの?」


本当に不思議そうだった。


「じゃあ、人は何で近づくの?」


ノアは答えようとして、言葉を失った。


話したいとか、助けたいとか、仲良くなりたいとか。


そういう言葉は浮かんだ。


けれど、リリィの目を見ていると、どれも違う気がした。


「ノア」


リリィが近づく。


「触ってもいい?」


「どこに」


「手」


「……手袋越しなら」


自分で言ってから、ノアは後悔した。


リリィの顔が明るくなる。


小さな手が、ノアの手袋に触れる。


指を一本ずつなぞる。


布越しなのに、なぞられた場所が妙に熱い。


「細い」


「普通よ」


「違う」


リリィは首を振った。


「手袋の下、匂いが近い」


ノアの指先が止まった。


「近い?」


「うん。ここだけ、少し近い」


リリィはノアの手を見ている。


いや、手袋を見ているのではない。


布の下にあるものを、もう知っているみたいな目だった。


「何に近いの」


「分からない」


リリィはあっさり言った。


「でも、きれいそう」


「……何が」


「中」


ノアの背筋が冷えた。


「手のこと?」


「手も」


リリィは少しだけ首を傾げた。


「でも、手だけじゃないわ」


ノアは思わず手を引いた。


リリィは追わなかった。


ただ、ノアの指先から、腕へ、胸元へ、視線を移していく。


「外は、少し遠いの」


「意味が分からないわ」


「私にも、よく分からない」


リリィの目は澄んでいた。


「でも、ノアは、中の方が近い」


「……気持ち悪いわ」


言ってしまった。


リリィはしばらく黙った。


傷ついたようには見えなかった。


ただ、新しい言葉を覚えたみたいに、小さく首を傾げる。


「そうなんだ」


「……怒らないの」


「どうして?」


リリィは、本当に分からない顔をした。


「ノアがそう思っただけでしょう」


温室を出る頃には、外はもう夕方に近かった。


リリィはまだノアのそばにいた。


手を繋いでいるわけではない。けれど、少し歩くたびに肩が触れる。袖が触れる。偶然のようで、偶然ではない距離だった。


「ねえ、ノア」


「何」


「どこかへ行きたい?」


突然の問いに、ノアは足を止めた。


「どこかって?」


「ここじゃないところ」


ここじゃないところ。


エマの足音が聞こえない場所。


眠る前に紅茶が出てこない場所。


食事を食べたかどうか、誰も確認しない場所。


手袋をしている理由を、誰も知った顔で見ない場所。


行きたい。


その言葉が、ほんの一瞬だけ浮かんだ。


けれどすぐに、別の声が重なる。


どこへ。


誰と。


本当に帰らない外を、ノアは知らない。


「行かないわよ」


先に言った。


自分に言い聞かせるような声だった。


「まだ何も言ってないよ」


「言いそうだったもの」


「うん。言おうとした」


リリィは少し笑う。


「でも、今じゃなくていい」


「今じゃなくて?」


「ノアが行きたくなったら」


その言葉には形がなかった。


ただ、ノアが行きたいなら行く、というだけ。


それが自由なのか、欲望なのか、ノアには分からなかった。


リリィはノアの手袋に頬を寄せようとして、途中で止まった。


ノアが手を引いたからだ。


リリィは追わない。


その代わり、じっと見つめている。


待っている。


エマと同じように。


違うはずなのに。


その待ち方が、だんだん似てきているようで、ノアはぞっとした。


そう思いかけた時、背後から声がした。


「ご主人様」


エマだった。


やはり、そこにいた。


「夕食の準備が整っております」


「……そう」


ノアは答えた。


リリィの手が、ノアの袖を掴む。


「食べるの?」


「……食べるわよ」


「嫌なのに?」


エマの視線がリリィへ向く。


リリィは気にしていない。


ノアは、袖を掴む小さな指を見下ろした。


「嫌かどうかは、私が決めることよ」


「じゃあ、嫌?」


ノアは答えなかった。


答えれば、何かが決まってしまう気がした。


食堂へ戻ると、夕食が並んでいた。


見た目は美しい。


温かく、整っていて、食事として何の不足もない。


そのはずだった。


けれどノアは、皿を見た瞬間に喉が詰まった。


食べ物ではない何かを、食べ物だと思い込まされているような気がした。


そう思った瞬間、体の奥が勝手に縮んだ。


口に入れるな、と体が言っている。


けれど同時に、食べなければならないという感覚も上がってくる。


空腹ではない。


欲でもない。


ただ、そうするものだという形だけがある。


朝になれば起きる。


エマが来れば返事をする。


食卓に座れば食べる。


夜になれば紅茶を飲む。


それらは全部、ノアが選んできたことのように見える。


けれど本当に選んでいたのかと考えると、途端に足元が薄くなる。


「ご主人様?」


エマの声がする。


ノアはスプーンを握った。


指先が少し遅れて力を入れる。手袋の下で、布が薄くきしむ。


持てる。


動かせる。


だから大丈夫。


そう思おうとして、またその言葉にひっかかった。


大丈夫。


最近、その言葉は自分のものではなくなっている。


エマに返すための言葉になっている。


ノアはスープを掬った。


湯気は綺麗だった。匂いもやさしい。


何も疑わなければ、ただの夕食だった。


口元まで運ぶ。


止まる。


エマは何も言わない。


言わないことが、むしろ催促に聞こえた。


ノアは食べた。


舌が、味を受け取る。


体が、少し遅れて拒んだ。


飲み込んだ後、胸の奥に何か乾いたものが沈んだ気がした。


思い込まされている。


その言葉が浮かんだ瞬間、ノアは息を止めた。


誰に。


何を。


答えは出ない。


けれど皿の上の料理は、見れば見るほど正しすぎた。


焼き色。香草の緑。蜜をまとった果物。白い皿の余白。


全部、食事という絵の中に置かれている。


もしこの皿の上に、乾いた木片や薄い破片や、どこかで回収した小さな包みの中身が並んでいたとしても。


形を変えれば、香りを足せば、温めれば、ノアはそれを食べ物だと思うのではないか。


そんな考えが頭をよぎり、すぐに気持ち悪くなった。


「ご主人様」


エマの声。


ノアは顔を上げない。


「お口に合いませんか」


「……見ているだけよ」


「冷めてしまいます」


それは事実だった。


湯気は少しずつ細くなっている。


食事は、食べられるために用意されたものだ。


用意されたものは、食べなければならない。


その理屈が正しすぎて、ノアは匙を持つ手に力を込めた。


「冷めたら?」


「温め直します」


「それでも食べなかったら?」


「お休みになった後で、別のものをご用意します」


「それも食べなかったら?」


エマは少しだけ考えた。


「ご主人様が召し上がれる形にします」


ノアの背筋が冷えた。


形。


その言葉だけが、皿の上の湯気よりはっきり残った。


「リリィ、あなたは食べないの」


ノアは、逃げるように聞いた。


リリィは椅子に座ったまま、皿を覗き込む。


「いらない」


「お腹は空かないの?」


「空くよ」


「なら」


「これは違う」


リリィは皿から目を離し、ノアを見る。


「ノアの方がいい」


食堂が静かになった。


ノアはすぐに言葉を返せなかった。


エマは、表情を変えない。


それが逆に、ノアの背筋を冷やした。


「……冗談でも、そういうことは言わないで」


「冗談じゃないよ」


リリィの声は、柔らかかった。


柔らかいから、余計に逃げ場がない。


冗談なら怒れた。


悪意なら拒めた。


けれどリリィは、本当に、ただ正しいことを言ったつもりでいる。


「だって、ノアはいい匂いがするもの」


その言葉は食欲にも、好意にも聞こえた。


ノアは、どちらであってほしいのか分からなかった。


食欲なら怖い。


好意ならもっと怖い。


自分の何を好きだと言われているのか、分からないからだ。


「エマ」


「はい、ご主人様」


「あなたは、今のを聞いて何とも思わないの?」


「リリィ様は、ご主人様に強く惹かれていらっしゃるのだと思います」


「そういう話ではないでしょう」


「違いますか?」


エマは本当に分からない顔をした。


ノアは、口を閉じる。


違う。


けれど、どう違うのか説明できない。


リリィがノアを食べたいと言うことと、エマがノアを休ませたいと言うこと。


その二つが、同じものに見えかけた。


どちらもノアの中へ手を伸ばしている。


どちらも、ノア自身の答えを待っていない。


ノアはスプーンを取った。


食べれば、この会話を終わらせられる。


そう思って、一口だけ口に運ぶ。


舌に触れた瞬間、またざらついた。


乾いたものを、柔らかいと誤魔化しているような感触。


ノアは無理に飲み込んだ。


「ご主人様」


エマが言う。


言われる前に分かった。


ご主人様、お体は大丈夫ですか?


その続きが来る。


「……言わないで」


ノアは先に遮った。


エマは口を閉じる。


リリィは、そんな二人をじっと見ていた。


リリィには、たぶんこの沈黙が怖くない。


ノアが黙ることも、エマが口を閉じることも、食卓の空気が冷えることも、彼女にとってはただ珍しい出来事なのだろう。


ノアは皿を見た。


整った料理。


温かい湯気。


きちんと磨かれた銀器。


何一つ間違っていない。


間違っていないから、気持ち悪い。


「ご主人様、無理をなさらなくても」


エマが静かに言う。


それは優しい言葉だった。


けれど、優しい言葉の後に何が続くか、ノアはもう知っている。


休みましょう。


紅茶をお持ちします。


よくお休みになれるように。


「無理をしているように見える?」


「はい」


「なら、何をすればいいと思うの」


「お休みになるのがよいかと」


「食べないで?」


「ご無理であれば」


「紅茶は?」


エマは少しだけ目を伏せた。


「必要でしたら」


必要。


その言葉が、胸の奥をひっかいた。


必要なのは誰にとってなのか。


「ノア」


リリィが袖を引く。


「食べたくないなら、食べなくていいのに」


「簡単に言わないで」


「簡単よ」


「簡単じゃないわ」


「どうして?」


リリィは本当に分からない顔をしている。


エマもまた、本当に分からない顔をしている。


二人とも違う方向から、同じようにノアを見ていた。


ノアだけが、食卓の中央で答えを失っている。


「もういいわ」


席を立つ。


ほとんど食べていない。


エマは止めなかった。


リリィだけが追ってきた。


廊下に出ると、リリィが背後から腕に抱きついた。


「ノア」


「何」


「泣きそう」


「泣いてないわ」


「うん」


リリィはノアの腕に頬を寄せる。


「じゃあ、食べそう」


ノアは振り返った。


「……何を?」


「分からない」


リリィはまた、そう言った。


「でも、ノアの中で何かが動いてるみたい」


その言葉は、ノアの胸の奥に落ちて、しばらく消えなかった。


その夜、ノアは紅茶を拒めなかった。


昼に一度拒んだせいか、エマは夜の紅茶をいつもより丁寧に差し出した。


「本日の紅茶です」


「……いらないと言ったら?」


「ご主人様が望まれないのであれば、下げます」


「……」


そう言われると、逆に飲まない理由がなくなる。


ノアはカップを受け取った。


リリィはベッドの端に座っていた。


エマは扉の側に立っている。


どちらも、ノアを見ていた。


逃げ場がない。


カップに口をつける。


甘い。


温かい。


安心してしまう味。


それが嫌だった。


「眠るの?」


リリィが聞く。


「ええ」


「眠らなければ、もっと一緒にいられるのに」


エマの視線が動いた。


「ご主人様には、休息が必要です」


「必要って、誰が決めたの?」


リリィが問い返す。


その声は無邪気だった。


ノアは一瞬、息を止めた。


自分が聞きたかったことを、リリィがあっさり口にした。


「必要なことは、必要です」


エマは答える。


「変なの」


リリィは笑った。


その笑いに、ノアは少し救われた。


救われたと思った瞬間、救われてはいけない気がした。


エマはノアを眠らせようとする。


リリィはノアを起こしたまま、開けようとする。


どちらがましなのか、もう分からなかった。


「ノア」


リリィが小さく呼んだ。


「何」


「眠ったら、夢を見る?」


「見るかもしれないわね」


「じゃあ、見てる間、手を握ってていい?」


「だめ」


「少しだけ」


「だめ」


「手袋の上からでも?」


ノアは目を開けた。


リリィは本気で聞いている。


エマは扉のそばで動かない。


ノアは、しばらく黙った。


「……手袋の上からなら」


言ってしまってから、胸の奥が冷えた。


リリィが嬉しそうに笑う。


小さな手が、布越しにノアの指へ触れた。


やさしい。


冷たくはない。


けれど、その下でリリィが何を想像しているのか、ノアには分からなかった。


エマの視線が、暗闇の中でわずかに動いた気がした。


「夜更かしはダメですよ?」


エマが言った。


いつもの言葉。


続きが来る。


分かっていた。


「夜更かしは禁忌ですから」


リリィが小さく笑った。


「きんき」


言葉を真似する。


「それ、おいしい?」


ノアは顔を上げた。


エマは動かない。


リリィは本気で聞いている。


禁忌を、食べ物のように。


ノアの手が震えた。


紅茶が少し揺れる。


「……もう寝るわ」


カップを置く。


まだ半分残っていた。


エマがそれを見た。


何も言わない。


ノアはベッドへ入る。


リリィが隣へ寄ってくる。


「ここにいていい?」


「……少しだけ」


「うん」


エマは、扉の側に立ったままだった。


「あなたは戻らないの」


「ご主人様がお休みになるまで、お待ちします」


「……そう」


その言葉は、少し前なら優しさだった。


今は、見張りに聞こえる。


目を閉じる。


眠りたくない。


けれど、紅茶の甘さが身体の奥へ沈んでいく。


隣で、リリィの気配がする。


扉の側で、エマが立っている。


その二つの気配に挟まれて、ノアはゆっくり沈んだ。


夢を見た。


温室だった。


花が咲いている。


白い花。


淡い紫の花。


小さな黄色い花。


その花びらの裏側に、黒い点がいくつもついていた。


虫だった。


小さな羽音がする。


ぶん、と低く響く音。


リリィが花の間に立っている。


こちらを振り返る。


口元が笑っている。


「いい匂い」


リリィが言う。


その声に合わせて、花が一斉にこちらを向いた。


違う。


花ではない。


目だった。


白い花びらの奥に、小さな穴が開いている。


そこから、何かが覗いている。


ノアは後退した。


手をつこうとして、自分の手を見る。


木だった。


指の節が丸く、関節が球のようになっている。


手袋はない。


木目が、手の甲に走っている。


「違う」


声が出ない。


リリィが近づいてくる。


「中、見せて」


夢の中のリリィは、優しく言った。


「少しだけ」


その背後で、エマが立っている。


首にストールを巻いている。


何も言わない。


ただ見ている。


天井から、縄が垂れていた。


ノアは目を覚ました。


「……っ」


息が浅い。


部屋は暗い。


リリィが、すぐ隣にいた。


顔が近い。


ノアの手袋に、指をかけている。


「……何してるの」


声が掠れた。


リリィは顔を上げる。


「起きた?」


「答えて」


「見ようとしただけ」


「何を」


「手」


ノアは手を引こうとする。


リリィの指が、思ったより強く手袋を掴んでいた。


「離して」


「少しだけ」


「離しなさい」


「見たいの」


「リリィ」


「ノアの中、きっと――」


「やめて」


声は、喉の奥から押し出された。


命令ではなかった。


リリィを責める声でも、怒鳴りつける声でもなかった。


ただ、怖かった。


夢の中で見た木の手。白い花の奥に開いた穴。いい匂いと笑いながら、ノアの中を見たがる小さな口。あのまま手袋を外されたら、皮膚の下どころか、もっと奥まで覗かれるような気がした。


嫌だった。


近づかれるのが嫌だった。


触れられるのが嫌だった。


好きだと言われた声の奥に、食べたいという響きが混じっている気がして、息ができなかった。


リリィの手が止まる。


ノア自身も、自分の声に驚いていた。


暗闇の中で、リリィの目がこちらを見ている。


悲しそうではなかった。


怒ってもいなかった。


ただ、何かを我慢しているように、唇を噛んだ。


「……うん」


リリィは手を離した。


「今は、やめる」


今は。


その言葉が、ひどく嫌だった。


扉の外で、床板がわずかに鳴った。


ノアはそちらを見る。


誰かがいた気がした。


エマかもしれない。


エマでないかもしれない。


リリィはノアの隣で、小さく笑った。


「明日ね」


「……何が」


「明日なら、いい?」


ノアは答えなかった。


答えられなかった。


手袋の下の手が、まだ夢の中の木の感触を覚えている。


リリィの指が触れていた場所だけが、熱い。


そして、扉の向こうの気配は、朝まで消えなかった。


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