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それは祝福と呼ばれている。  作者: 高山 墨人


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第五章 小さな花

夢の中で、ノアは廊下に立っていた。


足元は冷えている。けれど、その冷たさが自分の足に触れているのか、床の方が勝手に冷たいと告げているのか、うまく分からなかった。


館は眠っていた。


窓の外には夜があり、廊下の奥には、見覚えのない扉があった。


そこだけ、妙に暗い。


ノアはその扉を知っている気がした。知らないはずなのに、手を伸ばせば、取っ手の冷たさまで分かるような気がした。


開けてはいけない。


そう思った。


けれど夢の中の身体は、いつも少しだけ自分のものではない。


指が動く。


扉が開く。


中に、ベッドはなかった。


寝室ならあるはずのものが、どこにもない。柔らかな布も、枕も、香油の小瓶もない。ただ、天井から縄が垂れていた。


縄の先に、エマがいた。


首を吊っている。


白い足は床から浮いている。ストールは外されていて、金色の髪が肩へこぼれていた。顔は見えない。けれど、恐ろしいほど静かだった。


ノアは叫ぼうとした。


声は出なかった。


かわりに、エマの手が動いた。


ぶら下がったまま、ゆっくりと、こちらを指さす。


その指の先を見た。


台の上に、小さな皿があった。


皿の上には、薄く削られた木片が積まれている。


それは朝食のパンのように、綺麗に並べられていた。


ノアは瞬きをした。


次の瞬間、木片は白いパンに見えた。


もう一度瞬きをすると、また木片に戻った。


喉の奥が詰まる。


夢の中なのに、吐き気がした。


エマの声がする。


「ご主人様」


首を吊ったまま、エマが言う。


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


目が覚めた。


ノアは寝台の上で身体を起こした。


部屋は朝だった。


窓の外には淡い光があり、カーテンは静かに揺れている。縄もない。見知らぬ扉もない。皿の上の木片もない。


それなのに、喉の奥にはまだ、乾いた味が残っていた。


「……夢」


声に出して、ようやく少し落ち着く。


けれど、手が震えていた。


ノアは自分の手を見る。


白い指。細い爪。いつも通りの手。


そう見える。


そう見えなければ、困る。


「ご主人様」


扉の向こうから声がした。


ノアは肩を揺らした。


「……起きてるわ」


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


いつもの言葉だった。


いつもの、気遣うような声。


けれど、夢の中で聞いたばかりだったからか、その言葉は少しだけ耳に残った。


「大丈夫」


短く返す。


扉の向こうで、エマは少し黙った。


「朝食をご用意しております」


「……あとで行くわ」


「承知しました」


足音が遠ざかる。


ノアはしばらく動けなかった。


昨日の夜、紅茶を飲まなかった。


眠りは浅かった。夢は悪かった。起きた今も、頭の奥が重い。


それでも、紅茶を飲めばよかったとは思えなかった。


あの紅茶を飲むと、何もかもが曖昧になる。


眠れる。


確かに、眠れる。


でも、眠っている間に何が起きているのか、今のノアには分からなかった。


朝食の席につくと、エマはいつも通りにそこにいた。


ストールを巻き、髪を整え、白い指で食器を並べている。


その手元に目が行く。


綺麗だ。


綺麗すぎる。


「ご主人様」


「……なに?」


「本日は、あまりお顔の色がよくありません」


「よく眠れなかっただけ」


「やはり、昨夜の紅茶を――」


「その話はしないで」


思ったより強い声が出た。


エマは口を閉じる。


責めるでも、傷つくでもなく、ただ命令を受け取ったように。


「承知しました」


ノアはスプーンを取った。


スープは白く、湯気を立てている。


いつもなら、まず香りがした。温かさがあった。エマが作ったのだと思える安心があった。


今日は違った。


一口、口へ運ぶ。


柔らかいはずだった。


でも舌の上で、ざらりとした。


ノアは喉を動かした。


飲み込む。


飲み込めた。


でも、飲み込んだあとに、木を噛んだような乾いた感触が残る。


「……」


「お口に合いませんか?」


「いいえ」


即答した。


これ以上、エマに何かを聞かれたくなかった。


ノアはもう一口食べる。


同じ味。いや、味はある。温かい。問題はない。


そう思えば、問題はなかった。


食事を終えた後、エマが言った。


「本日は、回収札が出ています」


「……そう」


「お支度を」


「自分でやるわ」


エマの手が、ほんの少し止まる。


「ですが、ご主人様の正装は――」


「自分でできると言ったの」


エマは黙って頭を下げた。


「承知しました」


ノアは立ち上がる。


ローブ、手袋、仮面。


どれも見慣れている。いつもの仕事の正装。何もおかしくはない。


そう思おうとするほど、手袋が気になった。


素肌を隠す白い手袋。


どうして、いつもこんなものをしていたのだろう。


外へ出るのに必要だから。


この仕事の正装だから。


エマがそう言ったから。


では、この仕事とは何だったのか。


「……行ってくるわ」


玄関でそう言うと、エマは少しだけ顔を上げた。


「いってらっしゃいませ、ご主人様」


いつも通りだった。


それなのに、今日は、そのいつも通りが少しだけ怖かった。


外は薄曇りだった。


雨はまだ降っていないが、空気は湿っている。土の匂いが濃く、森の奥から霧が流れてきていた。


ノアは館を振り返らないように歩いた。


背後に視線がある気がした。


振り返れば、エマが扉の前に立っているのだろう。あるいは、もういないかもしれない。


どちらでも嫌だった。


回収場所は、森の奥の古い温室だった。


以前は誰かの庭だったのだろう。錆びた門は半分倒れ、蔦が絡んでいる。ガラスはほとんど割れていて、残った破片だけが曇った空を映していた。


鏡ではない。


ただのガラスだ。


ノアはそう思い、目を逸らす。


中に入ると、むっとするような花の匂いがした。


季節外れの花が、湿った土の上に咲いている。


色は淡い。白、薄紫、くすんだ黄色。


美しいはずなのに、どこか息苦しい。


奥へ進む。


いつものように、あるべきものの場所は分かっていた。


温室の中央に、古い台がある。


その上に、黒ずんだ小箱が置かれていた。


ノアは箱を開ける。


中には、乾いた花の塊のようなものがあった。


花弁にも見える。木屑にも見える。何かの残骸にも見える。


見つめていると、形が定まらなくなる。


「……これね」


布に包もうとした時だった。


背後で、小さく声がした。


「あなた」


ノアは振り返った。


温室の入口近くに、少女が立っていた。


ただし、人間の子供ではなかった。


ノアの膝より少し高いくらい。大きめの抱き人形を、そのまま立たせたような、小さな人型だった。


掌に乗る妖精ではない。けれど、普通の子供と呼ぶにはあまりに小さい。


淡い髪。白い肌。薄い花びらを重ねたような服。足元は濡れた土の上にあるのに、汚れていない。


絵本に出てくる妖精みたいだと思った。


けれど、ノアはその考えをすぐに打ち消す。妖精など、そう簡単に温室の入口に立っているものではない。


「……誰?」


少女は答えず、じっとノアを見ていた。


その目は、紫がかった薄い色をしていた。


「あなた、いい匂いがするわね」


最初の言葉が、それだった。


ノアは眉を寄せる。


「……匂い?」


「ええ」


少女は少しだけ近づく。


足音が軽い。


「雨の前の木みたい。甘いのに、乾いてる」


「意味が分からないわ」


「私にも、よく分からない」


少女はそう言って笑った。


その笑い方は、エマと違った。


エマの笑みは整っている。正しく、乱れがない。


この少女の笑みは、少しだけ崩れていた。


人間らしい、と思った。


そのことに、ノアは自分で少し驚く。


「ここで何をしているの」


「見てたの」


「何を」


「あなたを」


「……会ったこと、あったかしら」


「ないわ」


「なら、どうして」


少女は首を傾げる。


「だって、いい匂いがしたから」


それは答えになっていない。


でも、エマの答えにならない答えとは少し違った。


エマの言葉は、すでに決められた場所へ戻っていく。役目、必要、正しさ。そこにしか落ちない。


この少女の言葉は、ただ分からないだけだった。


だから、少しだけ楽だった。


「名前は?」


ノアは聞いた。


少女は、また首を傾げる。


「名前」


「あなたの名前よ」


「あると思う?」


「私に聞かれても困るわ」


少女はくすくす笑った。


「じゃあ、あなたが呼びたいように呼んで」


「……ずいぶん適当ね」


「名前って、呼ばれるためのものでしょう?」


ノアは少し考えた。


足元に白い花が咲いている。


少女の髪にも、同じような小さな花が絡んでいた。


「リリィ」


「りりぃ」


「花みたいだから」


少女は、ぱっと顔を明るくした。


「それ、好き」


「そう」


「あなたがくれた名前ね」


その言い方が、少しだけ引っかかった。


名前をつけただけだ。


道端の花を見て、似ていると思っただけ。


それなのにリリィは、まるで大切なものをもらったように笑っている。


「名前なんて、誰でも持っているでしょう」


「そうなの?」


「そうよ」


「でも、あなたが呼んでくれたもの」


リリィは胸元に手を当てた。


小さな手だった。


その手の仕草だけを見ると、本当に普通の少女のように見える。


雨に濡れた髪。白い花。薄い色の瞳。足元の泥を気にせず、ノアを見上げる顔。


森の中に迷い込んだ子供。


そう思えば、そう見える。


「ノア」


「何」


返事をしてから、ノアは少しだけ眉をひそめた。


「……私、あなたに名前を教えたかしら」


リリィは首を傾げる。


「教えてない?」


「教えていないわ」


「でも、ノアはノアでしょう」


「どうして分かるの」


リリィは少し考えた。


「匂いが、そういう音だったから」


「意味が分からないわ」


「私にも、よく分からない」


リリィは笑った。


「でも、ノアって呼びたかったの」


ノアは返事に迷った。


ご主人様。


エマの声が頭の奥で響く。


丁寧で、柔らかく、いつも同じ温度の呼び方。


リリィの「ノア」は、それとは違う。


短くて、軽くて、少し乱暴で、けれど息がしやすい。


「……好きにしなさい」


「うん」


リリィは嬉しそうに笑った。


ノアは、その笑顔を見てから、少しだけ後悔した。


名前を許しただけのはずだった。


けれど、リリィの声で呼ばれると、また一つ、触れられる場所が増えたような気がした。


「呼び方くらい、好きにしなさいと言っただけよ」


「それでも嬉しいわ」


リリィはそう言って、ノアのそばへ来た。


近い。


エマとは違う近さだった。


エマは、必要な位置にいる。視界の端、背後、手の届く場所。いつも整った距離に立つ。


リリィは、ただ近づいてくる。


距離の測り方を知らないみたいに。


「……近いわ」


「そう?」


「そうよ」


「ごめんなさい」


素直に一歩下がる。


ノアは少し拍子抜けした。


エマなら、謝る。けれど、その謝罪の後も同じ距離に立つ。


リリィは本当に下がった。


それだけのことが、妙に安心した。


「あなたは、ここに住んでいるの?」


「住んでないわ」


「では、どこから来たの」


「分からない」


「またそれ?」


リリィは困ったように笑う。


「気づいたら、花の匂いがしたの。歩いていたら、あなたの匂いがしたの。だから来たの」


「……危ないでしょう、そんな理由で」


「危ないの?」


「普通はそうよ」


「普通」


リリィはその言葉を、珍しいものみたいに繰り返した。


ノアは少しだけ目を細める。


普通。


その言葉を口にするたび、自分の足元が揺れる気がする。


「帰る場所がないなら、雨が降る前にどこかへ行きなさい」


「あなたのところは?」


「私のところ?」


「うん」


リリィは当たり前のように言った。


「あなたの匂いがするところ」


「……勝手に決めないで」


「だめ?」


ノアは答えなかった。


その時、温室のガラスに雨粒が当たった。


ぽつり。


ぽつり。


すぐに音は増えた。


雨が降り出す。


リリィは空を見上げる。


「雨ね」


「見れば分かるわ」


「雨の匂いも好き」


「あなたは匂いの話ばかりね」


「だって、匂いは嘘をつかないでしょう?」


ノアは、その言葉に返せなかった。


雨が強くなった。


このまま帰れば、ローブの裾が濡れる。回収物も濡れる。別にそれだけのことだ。


でも、リリィを置いていくことに、なぜか少し抵抗があった。


「……雨が弱くなるまでなら」


「ついていっていいの?」


「雨宿りだけよ」


リリィは嬉しそうに笑った。


その笑顔は、普通に可愛かった。


少なくとも、その時のノアにはそう見えた。


館に戻る頃には、雨は細くなっていた。


リリィはノアの少し後ろを歩いている。


途中で何度か、ノアのローブの裾を掴もうとして、やめた。


触れてもいいか迷っているようだった。


その遠慮が、エマとは違って見えた。


エマは触れる前に迷わない。


必要だと思えば、手袋の皺を直す。髪に触れる。肩にかかった埃を払う。熱を確かめるように額へ手を伸ばす。


それは丁寧で、優しい。


けれど、そこに迷いはない。


リリィは違った。


触れたいのに触れない。


近づきたいのに、一歩手前で止まる。


その不器用さが、少しだけ人間らしく見えた。


人間らしい、という言葉を思い浮かべてから、ノアは自分で少しおかしくなった。


リリィが人間かどうかなど、まだ何も知らない。


知っているのは、小さくて、変で、無遠慮なのに、妙なところで臆病だということだけだ。


「ノア」


「何?」


「ここ、あなたの家?」


「そうよ」


「好き?」


唐突な問いだった。


ノアは館の扉を見上げた。


古い木の扉。黒い金具。いつもエマが磨いているので、錆はない。館は静かで、冷たくて、けれど帰る場所だった。


「嫌いではないわ」


「好きじゃないの?」


「そういう聞き方をしないで」


「どうして?」


「答えにくいから」


リリィは少し考えた。


「じゃあ、ノアは誰が好き?」


「誰って……」


ノアは言いかけて、言葉を止めた。


最初に浮かんだのは、エマだった。


朝に髪を梳く手。


夜に紅茶を差し出す声。


ご主人様、といつも同じ温度で呼ぶ、あの柔らかな響き。


「……あなた、本当に遠慮がないわね」


「だって、気になったの」


ノアは答えなかった。


好き、という言葉は簡単すぎる。


嫌い、という言葉はもっと違う。


エマは当たり前だった。


朝の光や、廊下の燭台や、眠る前の紅茶のように、そこにあるものだった。


だから、好きかどうかを考える必要がなかった。


「ノア?」


「聞かないで」


「うん」


リリィは素直に頷いた。


本当に聞かなかった。


そのことに、ノアは少しだけ救われた気がした。


館の扉を開ける。


すぐに、エマの声がした。


「おかえりなさいませ、ご主人様」


エマは玄関に立っていた。


いつも通り、ストールを巻き、背筋を伸ばしている。


その視線が、ノアからリリィへ移る。


リリィもエマを見る。


数秒、沈黙があった。


「……その方は」


「雨宿り」


ノアは短く答える。


「リリィというの」


「リリィ様」


エマはすぐに頭を下げた。


あまりにも自然に。


「ようこそお越しくださいました」


リリィはエマをじっと見た。


「あなたは、あんまり匂いがしないのね」


ノアはぎょっとした。


エマは表情を変えなかった。


「失礼がございましたか」


「ううん」


リリィは首を振る。


「きれいな匂い。けど、遠い」


遠い。


その言葉に、エマは反応しなかった。


まるで自分に向けられた言葉ではなく、窓の外の天気でも聞いたように、静かに微笑んでいる。


「遠いとは、どういう意味ですか」


「遠いの」


リリィはエマの横へ、一歩だけ回り込んだ。


エマは動かない。


その姿勢のよさが、急に人形めいて見えた。


ノアはすぐにその考えを打ち消す。


エマはただ礼儀正しいだけだ。


リリィが失礼なだけだ。


「リリィ、やめなさい」


「見てるだけ」


「失礼だと言っているの」


「だって、エマは近くにいるのに遠いわ」


リリィは本当に不思議そうに言った。


ノアは言葉を失った。


近くにいるのに遠い。


それは、ノアが感じてはいけないことを代わりに言われたようだった。


エマはいつも近くにいる。


部屋の隅、廊下の向こう、扉の外、食卓の横。


近くにいる。


近すぎるほどに。


けれど、その近さの奥に何があるのか、ノアは知らない。


「リリィ様は、匂いで物事を判断されるのですね」


エマが言う。


「うん」


「それは便利ですか」


「分からないわ。そういうものだもの」


「そういうもの、ですか」


エマは静かに頷いた。


納得したように見える。


けれど本当に納得したのか、ただそういう形を取っただけなのか、ノアには分からなかった。


「……リリィ」


ノアはたしなめるように名を呼ぶ。


リリィはすぐにこちらを向いた。


「なに?」


「そういうことを人に言わない方がいいわ」


「そうなの?」


「そうなの」


「分かった」


素直に頷く。


エマは微笑んでいた。


けれど、その笑みがいつもより薄く見えたのは、気のせいかもしれない。


「ご主人様」


「なに?」


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


リリィを見た後で、その言葉を聞くと、妙に硬く響いた。


「……大丈夫」


「濡れていらっしゃいます」


「雨だから」


「お着替えを」


「自分でできるわ」


エマの手が止まる。


ノアはそれを見て、自分の声が少し尖っていたことに気づいた。


でも、訂正しなかった。


「リリィの分を用意して」


「承知しました」


エマは頭を下げる。


「客間を整えます」


「客間なんてあったのね」


「ございます」


「そう」


疑問だけが、胸の奥に残った。


エマの部屋は知らないのに、客間はあるのか、と。


その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥が冷えた。


考えない。


今は考えなくていい。


リリィは館の中を珍しそうに見回していた。


「静かなところね」


「そうかしら」


「うん。眠ってるみたい」


「館が?」


「ううん。全部」


ノアは返事をしなかった。


その日の夕方、リリィは食堂に現れた。


エマが用意した椅子には座らず、ノアの椅子の横に立っている。


「座れば?」


「ここがいい」


「そこでは食べられないでしょう」


「食べなくてもいい」


ノアは手を止めた。


「食べなくても?」


「今はお腹が空いてないの」


「そう」


それだけなら、普通の返事だった。


しかし、エマと同じだと思った瞬間、ノアの胸がざわついた。


リリィはエマとは違う。


違うはずだ。


「あとで何か持っていかせるわ」


「ありがとう」


リリィは嬉しそうに笑った。


その笑顔は、ちゃんと人に向けられているように見えた。


ノアはそのことにほっとした。


エマは少し離れた場所に立っていた。


手は前で揃えられている。いつもの姿勢。


ノアはそれを見て、ふいに苛立った。


「エマ」


「はい、ご主人様」


「今日は下がっていていいわ」


エマは一瞬だけ目を伏せた。


「ですが、給仕が」


「必要なら呼ぶ」


「承知しました」


エマは頭を下げ、食堂を出ていった。


扉が閉まる。


音は小さい。


それだけで、食堂の空気が少し軽くなった気がした。


リリィがノアを見る。


「あの人、いつも見てるのね」


「……そうね」


「嫌なの?」


「分からない」


「分からないこと、たくさんあるのね」


ノアは苦笑した。


「あなたに言われたくないわ」


リリィは楽しそうに笑う。


ノアも、少しだけ笑った。


その夜、エマは紅茶を持ってきた。


リリィはノアの部屋にいた。


正式には、客人が夜に主人の部屋にいるのはよろしくないのだろう。けれどリリィは気にしていないし、ノアも追い出す気になれなかった。


リリィは窓際に座り、雨上がりの庭を見ている。


エマはカップを置いた。


「本日の紅茶です」


「……今日は薄めにして」


ノアが言うと、エマは少しだけ首を傾げた。


「薄め、でございますか」


「眠りすぎるのは嫌なの」


「承知しました」


本当に分かっているのかは分からなかった。


リリィが振り返る。


「それ、毎日飲むの?」


「ええ」


「眠るため?」


「そう」


「眠らないといけないの?」


ノアは答える前に、エマを見た。


エマは静かに立っている。


「……普通は、眠るものよ」


「普通」


リリィはまた、その言葉を面白がるように繰り返した。


エマが言う。


「夜更かしは、お体に障ります」


「分かってるわ」


ノアはカップに口をつける。


甘い。


いつもより少し薄い気がした。


それがエマの加減なのか、自分の気のせいなのかは分からない。


リリィが近づいてくる。


「少しだけ」


「飲みたいの?」


「匂いを」


リリィはカップへ顔を寄せた。


香りを嗅ぐ。


そして、少しだけ眉をひそめた。


「甘いけど、眠い匂い」


「何よ、それ」


「眠い匂いは眠い匂いよ」


ノアは思わず笑った。


笑ってから、エマの視線に気づいた。


エマは笑っていなかった。


怒っているわけでもない。


ただ、見ていた。


ノアが笑ったことを、記録しているみたいに。


「エマ」


「はい」


「もういいわ。下がって」


「承知しました」


エマは出ていく。


扉が閉まる。


リリィは小さく言った。


「あの人、あなたのことしか見ないのね」


「従者だから」


「従者って、そういうもの?」


「……そういうものだと思っていたわ」


「今は?」


ノアは返事をしなかった。


リリィは無理に聞かない。


それがありがたかった。


数日、リリィは館にいた。


雨が続いたから、という理由だった。


実際には、雨が止んだ日もあった。それでもリリィは出ていかなかったし、ノアも追い出さなかった。


リリィはよくノアのそばにいた。


近すぎる時もある。けれど、近いと言えば下がった。


エマと似ている。


そう思う瞬間がある。


でも違う。


エマは必要な位置にいる。リリィは、ただそこにいたいからいるように見えた。


それが、ノアには少しだけ救いに思えた。


「ノア」


ある午後、リリィがそう呼んだ。


ノアは本から顔を上げる。


「……何」


返事をしてから、少しだけ遅れて気づく。


リリィは、いつもノアを名前で呼ぶ。


ご主人様ではなく、ノア、と。


短くて、軽くて、礼儀も何もない呼び方だった。


「呼んでいい?」


「今さらでしょう。もう呼んでいるじゃない」


「うん。でも、いい?」


許可など、今さら必要ないはずだった。


それなのに、そう聞かれると、何かを差し出すような気がした。


「……好きにしなさい」


「うん」


リリィは嬉しそうに笑った。


ノアは、その笑顔を見てから、少しだけ後悔した。


名前を許しただけのはずだった。


けれど、リリィの声で呼ばれると、また一つ、触れられる場所が増えたような気がした。


その日の夕方、リリィはノアの手袋に触れた。


ほんの少し。


指先で、白い布をつまむように。


「これ、外さないの?」


「正装だから」


「館の中でも?」


「……癖になっているの」


「手、見たい」


ノアの喉が詰まった。


「今日はだめ」


リリィはすぐに手を離した。


「うん」


あっさりしている。


その素直さに、ノアは少しだけ息をついた。


けれど、リリィの目はまだ手袋に残っていた。


白い布の下を、見えない指でなぞるような目だった。


「そんなに見ないで」


「見てないわ」


「見ているでしょう」


「見てるかも」


リリィは笑った。


その笑い方は、子供っぽい。


悪気がない。


だからこそ、ノアは強く叱れなかった。


ノアは手袋の上から、自分の手を握った。


布の下で指が動く。


普通に動く。


それを確かめることが、いつの間にか習慣になっている。


リリィは、そんなノアの仕草を見ていた。


「ノアは、自分の手が嫌いなの?」


「嫌いではないわ」


「じゃあ、大事なの?」


ノアは答えに詰まった。


大事なのか。


隠したいのか。


自分でも、もう分からなかった。


リリィはそれ以上聞かなかった。


聞かれないことにほっとして、ほっとした自分が少し嫌だった。


けれどノアには、薄い布越しに皮膚の下を覗かれたように聞こえた。


「……変なことを言わないで」


「変?」


「変よ」


「じゃあ、言わない」


リリィはすぐに頷いた。


本当に言わなくなる。


けれどその目は、まだノアの手を見ていた。


その夜、夢を見た。


ノアは台所にいた。


そこは知っているはずの場所なのに、棚の位置も、机の高さも、何もかもが違って見えた。


目の前に、自分の手がある。


白い手袋はしていない。


木の指だった。


その指で、皿の上に何かを並べている。


薄く削った木片。黒ずんだ花。乾いた欠片。いつか回収した小箱の中身。


それらを、皿の上に美しく整える。


パンのように。果物のように。肉のように。


背後でエマが言う。


「ご主人様が受け入れやすい形に」


ノアは振り返ろうとする。


でも、身体は振り返らない。


自分の身体なのに、動かしているのは自分ではない。


木の指が、また一枚、乾いた欠片を皿に置く。


目が覚める。


ノアは荒く息をした。


朝ではなかった。


部屋の中は薄暗く、窓の外には夜が残っていた。


眠ったはずなのに、身体はまったく休まっていない。指先が冷たく、喉が乾いている。夢の中で見た木片の白さが、まだ目の裏に貼りついていた。


ノアは寝台から下りようとして、足を止める。


床に触れるのが怖かった。


自分の足が、ちゃんと床を冷たいと感じるのか、確かめるのが怖かった。


廊下の向こうから、かすかな足音がした。


エマだ。


そう分かった瞬間、ノアはほっとした。


ほっとしてしまった。


それがまた嫌だった。


「ご主人様」


扉の外から声がする。


「お休みになれませんか」


いつからいたのだろう。


いつから、こちらが目を覚ましたことを知っていたのだろう。


「……少し、夢を見ただけよ」


扉は開かない。


エマは勝手に入ってこない。


その節度が、今は少しだけありがたい。


「紅茶をお持ちしましょうか」


「いらない」


答えは思ったより早く出た。


廊下の向こうが静かになる。


ノアは、自分が何かひどいことを言ったような気がした。


ただ紅茶を断っただけだ。


それなのに、胸の奥が落ち着かない。


「かしこまりました」


エマの声は変わらない。


怒りも、落胆も、責める響きもない。


だから余計に、ノアは扉から目を離せなくなる。


しばらくして、足音が遠ざかった。


ノアは寝台の端に座り、暗い部屋で両手を握った。


紅茶を飲まなかった夜は、どう眠ればいいのか分からなかった。


夜のままだった。


部屋の隅に、リリィが座っていた。


「……リリィ?」


「うん」


「何してるの」


「起きちゃったの?」


「それはこっちの台詞よ」


リリィは窓際に座ったまま、こちらを見ている。


「夢、怖かった?」


「……見てたの?」


「ううん。でも、匂いが変わったから」


ノアは顔をしかめる。


「あなた、夜に人の部屋へ来るのはやめなさい」


「ごめんなさい」


すぐ謝る。


それだけで、強く怒る気が削がれた。


「……いつからいたの」


「少しだけ」


「少しって?」


「エマが出ていった後」


ノアは息を止めた。


「エマが?」


「うん。ここに来てた」


「何をしていたの」


「見てた」


「私を?」


「うん」


ノアは寝台の上で身体を起こす。


背中が冷えていた。


「それで?」


「出ていった」


「どこへ」


「分からない。あっち」


リリィは廊下の奥を指した。


ノアはその方向を見た。


エマの部屋があるのかもしれない。


ノアは立ち上がろうとして、やめた。


今行ってはいけない。


そう思った。


理由は分からない。


リリィが近づいてくる。


「大丈夫?」


その言葉に、ノアは少し笑った。


「あなたまでそれを聞くの」


「聞いちゃだめ?」


「だめじゃないけど」


エマの同じ言葉とは違う。


リリィのそれは、ただ心配に聞こえた。


ノアは自分でも驚くほど、その違いに救われた。


「……大丈夫よ」


「本当に?」


「たぶん」


「じゃあ、そばにいる」


「勝手にしなさい」


リリィは嬉しそうに寝台のそばへ座った。


近すぎる。


でも今は、その近さが少しだけ怖くなかった。


次の日、ノアはエマに聞いた。


「昨夜、私の部屋に来た?」


朝食の席だった。


エマはスープを置きながら、静かに答える。


「はい」


あまりにあっさりと認めたので、ノアは言葉を失った。


「……何をしていたの」


「ご主人様のお体を確認しておりました」


またそれだ。


「寝ている時に?」


「はい」


「私に言わずに?」


「お休みを妨げてはいけませんので」


理屈は通っている。


通っているのが気持ち悪かった。


「今後はやめて」


ノアは言った。


「私が眠っている時に、部屋へ入らないで」


エマは少しだけ黙った。


「承知しました」


あまりにも簡単に受け入れた。


本当にやめるのか。


それとも、ノアが覚えていないだけで続けるのか。


分からない。


リリィは隣で、ノアの顔を見ていた。


その視線には、監視ではなく、心配があった。


そう思いたかった。


その日から、ノアはリリィと過ごす時間が増えた。


リリィはよく笑い、分からないことは分からないと言った。


近い。不用意に触れる。けれど、やめてと言えばやめる。


それを繰り返すうちに、ノアは自分が本気で怒っていないことに気づいた。


エマに触れられるのは嫌なのに。


リリィに触れられると、嫌悪と同じくらい、安堵があった。


役目ではなく、確認でもなく、必要だからでもなく、ただ触れたいから触れる。


ノアは、その違いに縋りかけていた。


翌日、ノアはリリィを連れて外へ出た。


回収札が出ている、とエマが告げたからだった。


リリィを館に置いていくつもりでいた。けれど玄関まで来た時、リリィが当然のようについてきた。


「どこへ行くの?」


「仕事」


「仕事って?」


「回収よ」


「何を回収するの?」


ノアは答えようとして、言葉に詰まった。


何を。


何を回収しているのか。


いつもなら、そこで考えは止まる。お仕事です、とエマが答え、ノアはそれで納得していた。


けれどリリィは、エマではない。


答えにならない答えで、勝手に納得してくれない。


「……必要なもの」


結局、ノアはそう言った。


「誰に必要なの?」


「私に」


そう言ってから、違う気がした。


自分に必要なのか。


エマに必要なのか。


それとも、誰か別のものに必要なのか。


「ふうん」


リリィは深く考えた様子もなく頷いた。


「じゃあ、私も見る」


「遊びじゃないわ」


「遊ばないわ」


「危ないかもしれない」


「危ないのは嫌いじゃない」


「……そういう問題ではないのだけれど」


ノアが言い返す前に、エマが一歩近づいた。


「ご主人様」


「何」


「リリィ様をお連れになるのでしたら、道中お気をつけください」


止めないのか。


ノアは思わずエマを見た。


エマはいつも通りに微笑んでいる。


「お体に障ることがありましたら、すぐにお戻りください」


また、身体。


また、それだ。


「……分かってる」


ノアは短く答えた。


リリィはエマの言葉を気にした様子もなく、ノアの袖を軽くつまんだ。


「行きましょう」


「引っ張らないで」


「ごめんなさい」


すぐに離す。


ノアはため息をついた。


それでも、館を出る足取りは、昨日より軽かった。


リリィは森の中でもよく喋った。


花の匂い。土の湿り気。鳥の声の形。


意味の分からないことばかりだった。


けれど、聞いていられた。


エマの言葉のように、役目や正しさへ戻っていかないからだ。


「ノアは、ずっとここにいるの?」


ふいに、リリィが言った。


その問いは、花の間に落ちた小石のようだった。


大きな音はしない。けれど、静かな水面に輪だけが広がる。


ずっといる。


ノアはその言葉を、今までほとんど考えたことがなかった。


館は古く、森は深く、回収の仕事はいつもどこかから来る。エマは朝に扉を叩き、夜に紅茶を持ってくる。


それらは季節のように繰り返されるものだった。


だから、ずっといるのだと思っていた。


それは望んだからではない。


そういうものだったからだ。


「……どうしてそんなことを聞くの」


「気になったから」


「ノアは、ここが好き?」


「嫌いではないわ」


「好きじゃないの?」


「そういう聞き方をしないで」


「どうして?」


「答えにくいから」


リリィは少し考えた。


「じゃあ、ノアは誰が好き?」


「誰って……」


ノアは言いかけて、言葉を止めた。


最初に浮かんだのは、エマだった。


朝に髪を梳く手。


夜に紅茶を差し出す声。


ご主人様、といつも同じ温度で呼ぶ、あの柔らかな響き。


「……あなた、本当に遠慮がないわね」


「だって、気になったの」


リリィは悪びれずに笑った。


その足音は軽かった。


エマの足音のように、廊下の先で待っている気配を連れてこない。


ただ、隣に来るだけだった。


回収場所は、森の奥の小さな祠だった。


石造りの古い祠。屋根は苔に覆われ、入口には枯れた蔦が垂れている。


中は暗い。


ノアはいつものように中へ入った。


リリィもついてこようとする。


「外で待っていなさい」


「どうして?」


「狭いから」


「私は小さいわ」


「そういう意味じゃない」


リリィは少しだけ唇を尖らせた。


ノアはそれを見て、なぜか胸が痛んだ。


「……入口までなら」


リリィはすぐに笑った。


許された範囲がどれほど狭くても、許されたこと自体が嬉しいらしい。


祠の奥には、小さな布包みがあった。


回収札に記されていたものだ。


ノアは手袋を確かめてから、それを拾い上げた。


軽い。


中身は分からない。


開けてはいけない気がした。


「それ、いい匂いがするの?」


入口からリリィが覗き込む。


「私は分からない」


「貸して」


「だめ」


「どうして」


「仕事のものだから」


リリィは素直に手を引いた。


けれど、少しだけ顔を近づけ、布越しに匂いを嗅いだ。


「……これは、あまり好きじゃない」


「そう」


「きれいだけど、遠いわ」


「遠い?」


「ノアの方が近い」


ノアは布包みを握る手に力を入れた。


「……意味が分からないわ」


「私にも、よく分からない」


リリィは笑った。


その笑い方が、少しだけ怖かった。


ノアは布包みを袋に入れる。


回収する。持ち帰る。エマに渡す。


それで終わり。


ずっと、そうだった。


「ノアは、それを集めてどうするの?」


「持って帰る」


「帰ったら?」


「エマに渡す」


「エマは、それをどうするの?」


ノアは答えられなかった。


渡した後のことを、考えたことがなかった。


「……知らないわ」


リリィは責めなかった。


「知らないこと、たくさんあるのね」


「あなたもでしょう」


「うん」


リリィは笑った。


「でも、一緒ね」


その言葉が、妙に優しく聞こえた。


帰り道、リリィは何度かノアの手袋を見た。


何か言いたそうだったが、言わない。


ノアは気づいていた。


気づいていながら、聞かないふりをした。


館へ戻ると、エマが玄関で待っていた。


「おかえりなさいませ、ご主人様」


「ただいま」


「回収は無事に」


「終わったわ」


ノアは袋を差し出す。


エマは両手で受け取った。


その指が布包みに触れた瞬間、ほんの一瞬だけ、エマの表情が柔らかくなったように見えた。


喜んでいる。


そう見えた。


何に。


「……それ、どうするの」


ノアは聞いた。


エマは顔を上げる。


「必要なところへ」


「どこ」


「ご主人様のための場所です」


答えになっていない。


ノアの胸が冷える。


リリィが横から口を挟んだ。


「私、その匂いあまり好きじゃないわ」


エマはリリィを見る。


「そうでございますか」


「ノアの方がいい匂い」


「リリィ」


ノアは慌てて名を呼んだ。


エマは怒らなかった。


ただ、ノアを見た。


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


その言葉は、いつもより少しだけ低く聞こえた。


ノアは袋と、エマの手と、リリィの顔を順に見る。


「……大丈夫よ」


「承知しました」


エマは頭を下げる。


リリィは何も分かっていないように、ノアの袖を軽くつまんだ。


その小さな重みが、ノアを現実に繋ぎ止めた。


たぶん。


夕方、リリィはノアのそばにいた。


近すぎると思えば下がる。


けれど、離れすぎることはない。


その距離が、今のノアには少しだけ楽だった。


エマが少し離れた場所に立っている。


ノアはそれを知っていた。


知っていて、何も言わなかった。


「ご主人様」


「何」


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


同じ言葉。


エマの声は柔らかい。


なのに、リリィが隣にいるだけで、その言葉は少し冷たく響いた。


「大丈夫よ」


ノアは答える。


言ってから、自分で驚いた。


本当に大丈夫なのか、もう分からなかった。


その日の夕食で、ノアは初めて、エマが用意した皿をリリィの前にも置かせた。


リリィは皿へ顔を近づけ、匂いを確かめるようにしてから、首を傾げた。


「これは違うわ」


「違うって、何が」


リリィは答えず、ノアを見た。


その視線が、皿ではなく、ノアの手袋のあたりで止まる。


「リリィ」


「うん」


リリィは素直に目を伏せた。


エマは何も言わなかった。


その沈黙が、ノアには少しだけ気になった。


夜。


ノアは紅茶を飲んだ。


完全には拒めなかった。


ただし、エマには薄くするように言った。


エマは従った。


リリィはその様子をじっと見ていた。


「眠くなる?」


「少しはね」


「眠りたくないの?」


「眠るのが怖い日もあるわ」


「じゃあ、起きていればいいのに」


ノアは苦笑する。


「そうできたらいいのだけれど」


廊下の向こうで、エマの気配がした。


見なくても分かる。


リリィはノアの手袋に触れた。


今度は、前より長く。


「明日」


「何」


「手、見せて」


「……どうしてそんなに見たいの」


「分からない」


リリィは正直に答える。


「でも、見たいの」


ノアは手を引こうとして、引かなかった。


「考えておくわ」


「うん」


リリィは嬉しそうに頷く。


ノアは目を閉じた。


眠気が来る。


いつもより薄いはずなのに、身体は重い。


眠るのが怖い。


けれど、隣にリリィがいると思うと、少しだけましだった。


少なくとも、今夜は一人ではない。


そう思ってしまった。


それが救いなのか、もっと悪いものなのか、ノアにはまだ分からなかった。


眠りに落ちる直前、リリィの声が耳元で聞こえた。


「ノアは、いい匂い」


返事はできなかった。


暗くなる。


廊下の向こうで、誰かが立っている気配がした。


エマかもしれない。


そうでないかもしれない。


それでもノアは、リリィの気配の方へ意識を寄せた。


初めて、自分から何かに縋るように。


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