第四章 手袋の下
翌朝、ノアは食卓の前に座ったまま、しばらく手を動かせなかった。
目の前には、いつもと同じ朝食が並んでいる。
白い皿。薄く湯気を立てるスープ。焼き色のついたパン。小さく切られた果物。銀の匙は磨かれていて、窓から差す光をやわらかく返していた。
何も変わっていない。
変わっていないはずだった。
けれど、匙を持つ指先が、どうしても動かなかった。
「ご主人様」
エマの声がした。
いつもの位置。いつもの距離。食卓の斜め後ろで、ノアが食べるのを待っている。
「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」
その声は、やさしい。
少し心配そうで、けれど焦ってはいない。昨日も、一昨日も、その前もずっと聞いてきた声だった。
だからこそ、ノアはすぐに返事ができなかった。
「……大丈夫よ」
ようやく答えると、エマはほっとしたように微笑んだ。
「よかったです」
その一言が、胸の奥にひっかかった。
よかった。
何が。
何を確認して、何を安心したのか。
そんなふうに考えた自分に、ノアは軽く眉を寄せる。
馬鹿げている。エマはただ、いつも通り心配しているだけだ。自分が変な夢を見て、勝手に怯えているだけ。
ノアは匙を取った。
スープをすくう。薄い黄金色。香りはやさしい。口に運べば、きっといつものように温かい。
そう思って、口に入れた。
「……」
舌の上で、何かがざらりとした。
ほんの一瞬だった。
次の瞬間には、スープはちゃんとスープの味をしていた。塩気も、野菜の甘みも、香草の香りもある。
けれど、その前にあった感触を、ノアは消せなかった。
乾いたものを噛んだような。
細かな屑が舌に触れたような。
「……ご主人様?」
「何でもないわ」
ノアはすぐに言った。
早すぎる返事だった。
エマが、少しだけ首を傾げる。
「お口に合いませんでしたか?」
「そうではないわ」
言いながら、ノアはもう一度匙を口に運んだ。
今度は普通だった。温かくて、やわらかくて、何もおかしくない。
だから余計に気持ち悪かった。
おかしいのは食事ではない。
自分の方だ。
そう考える方が、まだ納得できた。
「今日は、あまり食が進まないようですね」
エマが静かに言う。
「そんな日もあるでしょう」
「はい」
エマは素直に頷いた。
「無理はなさらないでください」
その言い方が、昔なら少し嬉しかったかもしれない。
今は、どうしても耳に残る。
無理をしないで。
休んで。
眠って。
大丈夫ですか?
それらの言葉が、全部同じ場所へ向かっているような気がする。
午前の間、ノアは書斎にいた。
本を開いても文字が目に入らない。頁をめくる音だけが、ひどく大きく聞こえる。
窓には薄いカーテンがかかっている。
外の森は淡く揺れ、陽射しはいつも通り穏やかだ。
ふと、ノアは窓辺に立った。
窓硝子に自分の姿が映るかもしれないと思った。
けれど、カーテン越しの窓は白く曇っていて、影の輪郭すら曖昧だった。
館の窓は、いつもそうだっただろうか。
「……」
鏡がない。
その考えがまた浮かぶ。
この館には鏡がない。
寝室にも、廊下にも、食堂にも、書斎にも。
不便だと思ったことはなかった。
髪を整える時はエマが見てくれる。服も、ローブも、手袋も、すべてエマが整える。
自分の顔を自分で見る必要が、そもそもなかった。
それを今まで不自然だと思わなかったことが、不自然だった。
「……考えすぎね」
声に出す。
声に出せば、少しだけ現実に戻れる気がした。
その時、背後で扉を叩く音がした。
「ご主人様」
「……何かしら」
「本日は、回収札が出ています」
いつもの言葉。
それでもノアは、すぐに立ち上がれなかった。
「……そう」
「お支度をいたします」
エマが入ってくる。
手には、外出用のローブ、手袋、仮面。
この仕事では正装だ。
そう教えられている。
そう理解している。
でも、誰に教えられたのだったか。
エマだ。
ノアは自分で答えを出し、立ち上がった。
「お願い」
「はい」
エマはローブを広げる。
背後に立ち、ノアの肩へ布をかける。
その手が、肩に触れた。
「……っ」
ほんの短い接触だった。
いつもなら何でもない。朝も夜も、エマはそうやって服を整える。髪に触れ、袖を直し、肩に手を置く。
けれど今は、その手が肌の上ではなく、もっと深いところに触れたような気がした。
「……ご主人様?」
エマの手が止まる。
「どうかされましたか」
「……いえ」
ノアは息を整えた。
「少し、寒かっただけ」
「では、もう一枚羽織られますか」
「必要ないわ」
「はい」
エマは疑わなかった。
何も追及しなかった。
だからこそ、ノアは胸が苦しくなった。
手袋を渡される。
指先を隠す白い手袋。外では必ずつけるもの。
ノアはそれを自分ではめた。
いつもはエマが手伝う。けれど今日は、自分でやりたかった。
手袋の内側に指を入れる。
布が指に沿う。
ぴったりと収まるはずなのに、どこか指の形が合っていないような気がした。
「……」
握る。
開く。
問題ない。
見た目も、動きも、いつも通り。
「仮面を」
エマが差し出す。
ノアは受け取った。
顔に当てる前に、少しだけその内側を見た。
何もない。
ただ、顔を隠すためのもの。
それなのに、仮面の内側が妙に落ち着いた。
自分の顔を隠している方が、安心する。
その感覚が嫌だった。
回収場所は、古い礼拝堂の跡だった。
森の奥に半分埋もれるように建っている。屋根は落ち、壁には蔦が絡み、床には湿った葉が積もっていた。
ノアは一人で中へ入った。
外の光は、壊れた窓から斜めに差し込んでいる。仮面の内側で息をする。呼吸の音が、自分のものではないように響いた。
回収物は、祭壇だった場所の下にあった。
どうして分かるのかは知らない。
でも、分かる。
そこにある。
取らなければならない。
ノアは屈み、崩れた石の隙間へ手を入れた。
指先に触れる。
冷たい。
乾いている。
軽い。
「……」
引き出す。
掌に乗ったそれは、小さな包みのように見えた。
古い布で巻かれている。表面は黒ずみ、乾いて硬くなっている。
ノアは包みを開けなかった。
開けてはいけないと思った。
けれど、その隙間から、何か細いものが見えた。
木のささくれのような。
乾いた骨のような。
それとも、ただの枝の欠片のような。
「……何なの」
自分でも驚くほど小さな声だった。
当然、答えはない。
ノアはそのまま包みを布袋へ入れた。
回収は終わり。
いつも通り。
そう思おうとした。
礼拝堂を出ようとした時、床の黒い溜まりが目に入った。
雨漏りの跡だろう。黒く濡れたものが、壊れた窓の下に溜まっている。
そこに、自分の影が映るかもしれない。
ノアは足を止めた。
仮面越しに見下ろす。
濁った表面は、かすかに揺れている。映るのは黒いローブと仮面の白だけ。
それでも、肩のあたりに妙な丸みが見えた気がした。
「……」
ノアは黒い溜まりを踏みつけた。
揺れる表面が壊れる。
影も消える。
「馬鹿みたい」
そう吐き捨てた声が、礼拝堂の中で小さく反響した。
館に戻ると、エマは玄関で待っていた。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
いつもの声。
いつもの微笑み。
ノアは答える前に、少しだけ足を止めた。
帰ってきた。
ただいま。
おかえり。
以前なら、その言葉に安堵していた。胸の奥がやわらかくなって、何も考えずにエマを抱き寄せていた。
でも今は、同じ声が少し怖い。
「……ただいま」
遅れて返す。
「回収は無事に終わりましたか」
「ええ」
「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」
まただ。
ノアは、エマを見た。
エマの表情は変わらない。心配している。少なくとも、そう見える。
「……そればかりね」
「ご主人様のお体は大切ですから」
「私が少し疲れているだけで、そんなに気になる?」
「はい」
即答だった。
「ご主人様が損なわれることは、避けなければなりません」
損なわれる。
その言葉が、ひどく冷たく聞こえた。
「……大げさよ」
「そうでしょうか」
「そうよ」
ノアはローブを脱ごうとした。
エマがいつものように手伝おうと手を伸ばす。
その手が近づいた瞬間、ノアは半歩下がった。
エマの手が空を切る。
「……」
沈黙。
ノアは自分の動きに驚いた。
エマは少しだけ手を止め、それから静かに下ろした。
「失礼いたしました」
「……違うわ」
ノアはすぐに言った。
「違うの。今のは……」
何が違うのか、自分でも分からない。
「少し、疲れているだけ」
「はい」
エマは微笑んだ。
「では、触れないようにいたします」
その言い方が、どうしてか胸に刺さった。
触れないようにする。
触れないでほしいと思ったのは自分なのに、エマがそれを受け入れると、なぜか責められたような気分になる。
「……別に、そこまでしなくていいわ」
「はい」
「……もういい。自分でやる」
ノアはローブを乱暴に脱いだ。
手袋も外す。
指先が空気に触れる。
自分の手。
白く、細く、人間の手に見える。
ノアはそれを握りしめた。
見える。
そう、見えている。
なら問題ない。
問題ないはずだった。
夕方、ノアは一度だけ台所の前まで行った。
台所の扉は閉まっていた。
中から音はしない。
でも、何も聞こえない。
ノアは扉に手を伸ばした。
その瞬間、背後から声がした。
「ご主人様」
「……っ」
ノアは振り返った。
エマが立っていた。
音もなく。
「何かお探しですか」
「……別に」
声が硬くなる。
「少し、落ち着きたかっただけ」
「では、私がご用意いたします」
「いいわ。自分で――」
言いかけて、ノアは止まった。
それだけのことが、なぜかひどく怖かった。
「……やっぱり、いらない」
「そうですか」
エマは変わらない。
「何か必要でしたら、いつでもお申し付けください」
「ええ」
ノアは台所から離れた。
背中に、エマの視線がある。
振り返らなくても分かる。
見られている。
そう思った瞬間、足が早くなった。
夕食は、見た目だけは美しかった。
白い皿に盛られた煮込み。焼いた根菜。薄く切られた肉。香草の浮いたスープ。
香りもある。
温かい。
でも、ノアは匙を持ったまま動けなかった。
「召し上がらないのですか」
「……食欲がないの」
「お体の具合が悪いのでしょうか」
また。
「違うわ」
少し強く言ってしまった。
エマは一瞬だけ黙る。
「失礼いたしました」
「謝らないで」
自分でも驚くほど苛立った声が出た。
「何でもすぐに謝らないで。私が悪いみたいじゃない」
「ご主人様は悪くありません」
「……そういうことを言っているんじゃないの」
ノアは匙を置いた。
金属が皿に触れ、澄んだ音を立てる。
「もう食べない」
「はい」
エマは皿を下げようとした。
その瞬間、ノアの目が皿の上に落ちる。
煮込みの中に、何かが見えた。
細い繊維。
薄い破片。
木目のような筋。
「……」
瞬きする。
ただの肉だった。
よく煮込まれた肉の繊維。
ただの肉。
そう思えば、そう見える。
柔らかく煮込まれ、香草の香りをまとい、皿の上で湯気を立てている。エマが作った、いつもの食事。
けれど、一度見えてしまったものは、目を逸らしても残る。
細い繊維。
薄い破片。
木目のような筋。
ノアは水を飲んだ。
水は冷たく、喉を通る感覚ははっきりしている。それなのに、さっき飲み込んだものだけが、喉の奥に引っかかっている気がした。
「お下げしますか?」
エマが聞く。
「いいえ」
ノアは匙を取った。
自分でも驚くくらい、手は自然に動いた。
食べなければならない。
そう思った。
誰がそう思ったのかは分からない。
ノア自身なのか、エマの視線なのか、この館の食卓に染みついた習慣なのか。
分からないまま、一口を運ぶ。
舌に触れた瞬間、味はきちんと食事だった。
温かく、柔らかく、朝に食べるには少し重い程度の、普通の煮込み。
けれど噛むと、奥で乾いた音がした気がした。
ぱき、と。
骨ではない。
それが余計に嫌だった。
「ご主人様?」
「……見ないで」
思わずそう言っていた。
エマはすぐに視線を下げる。
「失礼いたしました」
違う。
そうではない。
謝ってほしかったわけではない。
けれど、ノアは何を言えばいいのか分からなかった。
皿の上では、湯気だけが何も知らないように揺れていた。
「……下げて」
「はい」
エマは静かに皿を下げる。
その手元を見ないように、ノアは窓の方を向いた。
窓にはカーテンがかかっていて、やはり自分の姿は映らなかった。
その夜、紅茶はいつも通り出された。
「本日の紅茶です」
エマは両手でカップを差し出す。
白い指。整った爪。少し伏せられたまなざし。
その姿だけ見れば、本当に献身的な従者だった。
ノアはカップを受け取らなかった。
エマの手が宙で止まる。
「……ご主人様?」
「今日は、いらないわ」
言った瞬間、部屋の空気が少し変わった気がした。
エマは表情を変えない。
「お休みになれません」
「眠くなったら寝るわ」
「ご主人様は、近頃お疲れです」
「だから?」
「きちんとお休みいただく必要があります」
必要。
また、その言葉。
「あなたは何でも必要と言うのね」
「必要なことですので」
「私が眠ることも?」
「はい」
「私が食べることも?」
「はい」
「回収も?」
「はい」
「あなたがそばにいることも?」
「はい」
迷いがない。
ノアは笑いそうになった。
笑えなかった。
「……そう」
エマはカップを持ったまま、ノアを見つめている。
その沈黙に耐えられなくなって、ノアは結局カップを受け取った。
「飲めばいいのでしょう」
「ご無理はなさらないでください」
「今さら何を言っているの」
口調が少し荒れた。
エマはそれでも、ただ静かに立っている。
ノアは紅茶を一口飲んだ。
甘い。
温かい。
落ち着く。
そのことが、腹立たしかった。
飲み進めるうちに、いつものようにまぶたが重くなる。
「……」
身体が沈む。
思考が鈍る。
エマが近づいてきた。
カップを受け取るために手を伸ばす。
指が触れた。
「……っ」
ノアは反射的に手を引いた。
カップの中身が少し揺れ、紅茶が受け皿へこぼれる。
「失礼いたしました」
「……違う」
違う。
エマが悪いわけではない。
でも触れられた瞬間、夢の中の縄の感触が首に戻った。
木の指が軋む音が、耳の奥で鳴った。
「……触れないで」
声は小さかった。
それでも、はっきり聞こえたはずだった。
エマは止まる。
「はい」
その返事が、あまりにも素直だった。
「ご主人様が望まれるなら」
望まれるなら。
ノアは俯いた。
望んでいるのだろうか。
自分は本当に、エマに触れられたくないのだろうか。
分からない。
分からないのに、身体だけが拒絶している。
眠りは深かった。
深すぎるほどだった。
ノアは夢を見た。
暗い部屋にいた。
知らない部屋だった。
いや、知らないはずなのに、何度も見た気がする部屋だった。
ベッドがない。
代わりに、天井から縄が垂れている。
床には古い本が開かれていた。読めない文字。黒い線。乾いたしみ。
その部屋の中央に、エマが立っていた。
白い寝衣。
ほどけた髪。
首元には何も巻いていない。
ノアは声を出そうとした。
出なかった。
エマは縄に手をかける。
何の迷いもなく、それを首に回す。
やめて。
そう言いたかった。
でも、夢の中のノアは動けなかった。
エマが椅子に足をかける。
いや、椅子ではない。台だ。儀式のためにそこに置かれたもの。
縄が張る。
エマの身体が宙に浮く。
なのに、エマは苦しまない。
足も暴れない。
ただ、静かにぶら下がっている。
それがあまりにも自然で、ノアは怖くなった。
次の瞬間、視界が変わる。
自分の手が見えた。
木の手だった。
節があり、指の関節は丸く、爪は塗られただけの線だった。
その手が、皿に何かを乗せている。
木片。
黒ずんだ欠片。
乾いた細いもの。
それを、丁寧に皿へ並べている。
綺麗な料理のように。
誰かの声がした。
ご主人様が、受け入れやすいように。
ノアは目を逸らそうとした。
でも夢の中の手は止まらない。
皿の上の木片が、やがて白い湯気を立てるスープに変わる。
焼いたパンに変わる。
果物に変わる。
そして、その皿が自分の前へ置かれる。
いただきます。
自分の声がした。
ノアは叫んだ。
目が覚めた。
暗い。
部屋は暗かった。
息が荒い。
胸が上下している。
手が震えている。
「……」
ノアは自分の手を見た。
白い手。
人間の手。
そう見える。
ノアは爪を立てるように、自分の掌を握った。
痛みがある。
薄いけれど、確かにある。
「……夢」
夢だ。
夢に決まっている。
でも、夢の中で見た部屋の空気が、まだ鼻の奥に残っている気がした。
縄。
魔法書。
ベッドのない部屋。
首を吊るエマ。
そして、自分の木の手。
「……っ」
吐き気がした。
ノアはベッドから降りた。
紅茶を飲めば落ち着くかもしれないと思った。
廊下へ出る。
館は静かだった。
夜の館は、昼よりもずっと広い。
エマの部屋はどこだろう。
ふと、そんなことを考えた。
知らない。
ノアは立ち止まった。
エマはいつもいる。食堂に、廊下に、寝室の前に、玄関に。どこにでもいる。
でも、エマの部屋を知らない。
従者の部屋くらいあるはずだ。
休む場所があるはずだ。
でも知らない。
「……」
夢の部屋が頭をよぎる。
ベッドのない部屋。
縄。
ノアは首を振った。
「馬鹿げてる」
紅茶を用意するだけだ。
そう思って廊下を進もうとした時、背後で床板が鳴った。
ノアは振り返る。
エマがいた。
ストールを巻き、髪を整え、いつも通りの姿で。
「ご主人様」
静かな声。
「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」
ノアは、言葉を失った。
今、何時なのか。
エマはどこから来たのか。
眠っていたのではないのか。
何も聞けなかった。
「……紅茶を」
やっと、それだけ言った。
「はい。すぐにご用意します」
エマは微笑む。
ノアは、その笑顔を見て思った。
怖い。
初めて、はっきりとそう思った。
翌朝、食卓にはまた料理が並んでいた。
美しい朝食。
湯気。香り。白い皿。
ノアは席についたまま、何も食べなかった。
エマは隣に立っている。
昨日言った通り、触れない距離にいる。
それが余計に苦しかった。
「ご主人様」
「……何」
「お食事を召し上がらないのですか」
「食べたくないの」
「そうですか」
責めない。
怒らない。
悲しまない。
ただ、受け入れる。
「では、後ほど別のものをご用意いたします」
「いらない」
「はい」
ノアは顔を上げた。
「エマ」
「はい、ご主人様」
「あなたの部屋は、どこだったかしら」
エマは、ほんの少しだけ黙った。
本当に短い沈黙。
普通なら気づかない程度。
でも、ノアには分かった。
「私の部屋ですか」
「ええ」
「ご主人様が入られる必要はありません」
答えになっていない。
「そういうことを聞いているんじゃないわ」
「整えておりませんので」
「……従者の部屋でしょう。散らかっていても構わないわ」
「ご主人様をお迎えする場所ではありません」
穏やかな声だった。
でも、壁を置かれた気がした。
「……そう」
ノアは視線を落とした。
聞いてはいけなかった。
そう思わせる返答だった。
エマは、いつも通り微笑んでいる。
「ご主人様」
「何」
「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」
その言葉が、今度こそ耐えられなかった。
「大丈夫だと言っているでしょう」
声が強くなった。
エマが黙る。
ノアはすぐに後悔した。
でも、言葉は止まらない。
「何度も何度も、同じことばかり。私はそんなにおかしい? そんなに壊れそうに見える?」
「ご主人様は――」
「答えなくていい」
遮った。
エマの言葉を聞きたくなかった。
きっとまた、ずれた答えが返ってくる。
やさしくて、正しくて、だから気持ち悪い答えが。
「……少し、一人にして」
「はい」
エマは静かに下がる。
その従順さが、ノアにはもう痛かった。
扉が閉まる。
ノアは食卓に残された料理を見た。
美しい。
完璧に整っている。
けれど、それが何でできているのか、もう考えたくなかった。
ノアは席を立ち、皿から目を逸らした。
エマに触れられたくない。
エマの作るものを食べたくない。
エマの言葉を聞きたくない。
それなのに。
エマがいなくなると、館はあまりにも静かだった。
静かすぎて、自分が本当にここにいるのか分からなくなる。
ノアは自分の手を握った。
白い指。
人間の手。
そう見える手。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせる。
「私は、大丈夫」
返事はなかった。
その沈黙の方が、エマの声より怖かった。
午後になっても、ノアは食堂へ戻らなかった。
書斎の机に向かい、白い紙を一枚広げる。
何かを書き出せば、少しは落ち着くと思った。
食事。
夢。
鏡。
エマの部屋。
紅茶。
回収。
そこまで書いて、手が止まる。
並べてみると、どれも馬鹿げていた。
ただの夢。少し体調が悪いだけ。館に鏡がないのも、台所に入らないのも、従者の部屋を知らないのも、考えればいくらでも理由はつく。
それなのに、紙に書かれた文字は、まるで告発文のように見えた。
ノアは苛立って紙を丸めた。
暖炉へ投げ込む。
火は弱かったが、紙の端をゆっくり舐めた。
黒く縮れていく紙を見ていると、ふと、妙な感覚が胸の奥に落ちた。
燃える。
乾いたものは、簡単に燃える。
「……何を考えているの」
ノアは自分の額に手を当てた。
考えたくないことばかり、勝手に浮かんでくる。
その時、扉の向こうで足音が止まった。
「ご主人様」
エマの声だった。
ノアは返事をしなかった。
扉は開かない。
エマは入ってこない。
ただ、扉の向こうにいる。
「先ほどは、失礼いたしました」
静かな声。
「ご主人様が一人を望まれるのであれば、私は外で待っています」
胸が痛んだ。
待っている。
いつものように。ずっと。
それが優しさなのか、習性なのか、もう分からない。
「……待たなくていいわ」
扉越しに言った。
「ですが」
「いいから」
少し強くなる。
しばらく沈黙があった。
「承知しました」
足音が遠ざかる。
それでほっとするはずだった。
なのに、ノアはすぐに椅子から立ち上がりかけた。
呼び止めそうになった。
自分が何をしたいのか分からない。
近づいてほしくない。けれど、離れていくのも嫌だった。
矛盾している。
ノアにも分かっていた。
エマの足音が遠のくと、胸の奥がすうっと冷える。けれど近づかれると、肌の内側を確かめられるようで息が詰まる。
どうして、こんなふうになったのだろう。
少し前まで、エマの手はただ優しかった。
髪を梳く手。手袋の皺を直す手。紅茶のカップを置く手。ノアが眠りかけると毛布をかける手。
それらを、ノアは当たり前のものとして受け取っていた。
今は、そのどれもが少しだけ違うものに見える。
髪を整えるのは、乱れを正すため。
手袋を直すのは、手を隠すため。
紅茶を置くのは、眠らせるため。
そう考えてしまう自分が嫌だった。
「……違う」
ノアは小さく呟いた。
エマはそんな子ではない。
エマはいつも、ノアのために動いている。
ノアが寒くないように。疲れないように。転ばないように。夜更かししないように。
全部、ノアのため。
そのはずだった。
なのに、胸の奥のどこかが、違うと言う。
ノアのためだけではない。
もっと別のものを守るために、エマはノアを見ている。
そこまで考えて、ノアは自分の思考を断ち切った。
ひどい考えだ。
エマに対して、あまりにひどい。
けれど、消えない。
優しさが怖い。
怖いのに、その優しさがなくなることも怖い。
ノアは膝の上で握った手に力を込めた。
白い指は、ちゃんと震えていた。
震えているなら、人間の手だ。
そう思いたかった。
ノアは椅子に座り直した。
両手を膝の上で握る。
白い指。
細い指。
その指先が、ほんの一瞬だけ、木の節を持っているように見えた。
「……っ」
瞬きをする。
いつもの手だった。
ノアは笑った。
声にならない、薄い笑いだった。
もう、自分の目さえ信じられない。
夕方、エマは扉の前に夕食を置いていった。
触れないように。
近づかないように。
ノアの望みを守るように。
盆の上には、温かいスープとパンがあった。
食堂ではなく、書斎の扉の前に。
ノアは扉を少し開けて、それを見た。
そこにエマはいなかった。
なのに、食事だけが置かれている。
綺麗に。完璧に。いつものように。
ノアは手を伸ばしかけ、やめた。
食べたくない。
でも、食べなければならないような気もする。
その「ならない」が、誰の声なのか分からなかった。
食べなければならない。
休まなければならない。
紅茶を飲まなければならない。
夜更かしをしてはならない。
考えてみれば、この館には「しなければならない」が多すぎる。
けれど誰も命令はしない。
エマはただ、用意する。
ノアが選ぶ前から、選ぶべき形が目の前に置かれている。
それを断ることもできる。
できるはずだ。
けれど断ると、何かが歪む。
ノアは扉の隙間から、盆の上をもう一度見た。
白い皿。
柔らかそうなパン。
温かいスープ。
完璧だ。
完璧すぎて、気持ち悪い。
ノアは盆の縁に指をかけ、すぐに離した。
食べるという形を選べば、自分がまだここにいると認めることになる。
エマが用意した形の中に、また戻ることになる。
それが怖かった。
けれど、何も確かめずにいれば、朝になれば、またいつもの自分に戻れるかもしれない。
その想像を、ノアはまだ捨てられなかった。
捨てられないことが、いちばん惨めだった。
扉を閉めても、皿は消えない。
ノアが見ないふりをしても、用意されたものは、いつか片づけられる。
音もなく。
痕跡もなく。
何事もなかったように。
ノアは扉を閉めた。
しばらくして、盆は消えていた。
いつの間にか。
音もなく。
エマが来たのだろう。
そう思うしかない。
ノアは扉に鍵をかけた。
この館で鍵をかけたのは、たぶん初めてだった。
それでも夜になると、部屋の外からいつもの声がした。
「ご主人様」
ノアは寝台に座ったまま、答えなかった。
「紅茶をお持ちしました」
「いらない」
少し間があく。
「お休みになれません」
「今日は眠れなくてもいい」
「夜更かしは――」
「言わないで」
ノアは遮った。
自分の声が震えている。
「お願いだから、それは言わないで」
扉の向こうで、エマはしばらく黙っていた。
「承知しました」
その返事だけを残し、気配が遠ざかる。
ノアは寝台に横になった。
紅茶を飲まなかった夜は、眠りが遅かった。
それでも、やがて意識は落ちる。
落ちる直前、言葉だけが浮かんだ。
今日は夢を見たくない。
けれど、願いは叶わなかった。




