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それは祝福と呼ばれている。  作者: 高山 墨人


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第三章 扉の前の椅子

朝の光は、昨日と同じように窓から差し込んでいた。


薄いカーテンを透かした色はやわらかく、部屋の隅に置かれた椅子も、机の脚も、床に落ちた影も、すべてがいつも通りに見えた。


だからこそ、ノアはしばらく目を開けたまま動けなかった。


何も変わっていない。


変わっていないはずだった。


なのに、胸の奥だけが落ち着かなかった。


昨夜見た夢のせいだ、という言葉が胸の奥に浮かんだ。


夢の中で、自分はどこか知らない場所にいた。薄暗い部屋だった。灯りはなく、けれど見えた。自分の手が目の前にあった。白く、細く、いつも通りの手のはずなのに、指を曲げるたび、内側で乾いた音がした。


ぱき、と。


木の枝が折れるような音だった。


思い出した瞬間、ノアは指を握った。


動く。


何もおかしくない。


白い肌。細い指。爪も、関節も、見慣れたものだ。


「……馬鹿らしい」


小さく呟く。


それでも、手を離すまでに少し時間がかかった。


「ご主人様」


扉の向こうから声がした。


エマの声だった。


「お目覚めでしょうか」


「……ええ。起きているわ」


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


いつもと同じ声。


やわらかく、少しだけ心配そうで、聞いているだけなら可愛らしい声。


ノアはその扉を見つめた。


昨日までなら、何も考えずに返事をしていた。


今も、何かがあるわけではない。


ただ、同じ言葉なのに、ほんの少しだけ胸の奥に引っかかった。


「大丈夫よ」


返事をすると、扉の向こうでエマがほっとしたように息をついた気配がした。


「良かったです。朝食のご用意ができています」


「すぐ行くわ」


ノアはベッドを降りた。


足元はしっかりしている。


手も、足も、体も、自分のものだ。


そう確かめるように、ゆっくり歩いた。


食堂に行くと、エマはすでにテーブルのそばに立っていた。


白いブラウスに淡い色のスカート。首元には、いつものストール。


ノアが贈ったものだ。


以前、何気なく「似合うと思ったから」と渡しただけのものを、エマは今でも大切そうに巻いている。


その姿を見ると、胸の奥が少しだけやわらいだ。


「おはようございます、ご主人様」


「おはよう、エマ」


エマは嬉しそうに微笑んだ。


テーブルには、スープとパン、柔らかく煮た野菜が並んでいる。


何もおかしなところはない。


湯気は立っているし、香りもする。器も清潔で、ナプキンも整えられている。


昨日の夢など、やはりただの夢だ。


ノアは椅子に腰掛けた。


「今日は少し遅かったのね」


「申し訳ありません。ご主人様がよくお休みでしたので、起こさないようにしていました」


「そう」


「よくお休みになれましたか?」


「……ええ」


返事をしながら、ノアはスプーンを取った。


スープを一口運ぶ。


温かい。


味もある。


けれど、舌の奥に、ほんの少しだけざらつきが残った。


ノアは動きを止めた。


「……ご主人様?」


「何でもないわ」


もう一口。


今度は普通だった。


優しい味。少し甘く、少し塩気がある。いつものエマの味だった。


「……悪くないわ」


そう言うと、エマはぱっと顔を明るくした。


「ありがとうございます」


その喜び方は、相変わらず少し大げさだった。


ただ料理を褒めただけなのに、まるで何かを許されたみたいに喜ぶ。


以前は可愛いと思った。


今も、可愛いと思う。


思うはずなのに。


その笑顔が少しだけ長く続くと、ノアは視線を外したくなった。


「……あなたは食べないの?」


何度もした質問だった。


しかし、口に出してから、ノアは自分でも驚いた。


なぜまた聞いたのだろう。


エマはすぐに答える。


「私は従者ですので、ご主人様の給仕が終わった後にいただきます」


「毎回それね」


「はい」


「……一緒に食べればいいのに」


ノアは自分でも意外なことを言っていた。


エマも少し驚いたように目を瞬かせた。


「よろしいのですか?」


「別に。嫌ならいいけれど」


「嫌ではありません」


即答だった。


「ご主人様と一緒にいるのは、幸せです」


「……そう」


エマは空の皿を一枚持ってきた。


しかし、そこに料理をよそうことはなかった。


ただ、ノアの隣に座る。


きちんと背筋を伸ばして、何も置かれていない皿の前に座った。


ノアは眉を寄せた。


「食べないの?」


「はい。ご主人様のお食事を見守ります」


「それは一緒に食べるとは言わないのだけれど」


「そうなのですか?」


エマは本当に不思議そうに言った。


ノアは言葉に詰まる。


「……まあ、いいわ」


それ以上言う気になれなかった。


だが、隣でエマが何も食べずに座っている時間は、思ったより長く感じた。


スプーンを口に運ぶたび、エマの視線を感じる。


食べているか。飲み込んでいるか。むせていないか。


まるで一つ一つを確認されているようだった。


「見すぎよ」


思わず言う。


「申し訳ありません」


エマはすぐに目を伏せた。


その反応が早すぎて、ノアは逆に少し気まずくなる。


「怒っているわけではないわ」


「はい」


「……本当に?」


「はい。ご主人様はお優しいので」


「今のどこが優しいの」


「気にかけてくださいました」


エマは微笑む。


ノアはスープに視線を落とした。


温かいはずなのに、喉の奥に冷たいものが残った。


食事のあと、ノアは自室へ戻った。


理由はなかった。


ただ、なんとなく自分の顔を見たくなった。


寝不足のせいで顔色が悪いのか、あるいは昨夜の夢のせいで目つきがおかしくなっているのか、確かめたかった。


けれど部屋には鏡がない。


化粧台はある。櫛も、髪紐も、香油の小瓶も、エマが毎朝きちんと整えている。だが、そこに鏡だけがない。


今まで、それを不便だと思ったことがなかった。


ノアは引き出しを開けた。小さな手鏡でも入っているかと思ったのだ。


ない。


次の引き出しにもない。


棚にも、壁にも、窓辺にもない。


代わりに銀の匙が一本あった。いつから置かれているのか分からない。ノアはそれを手に取り、表面に顔を映そうとした。


歪んだ光が揺れる。


頬の輪郭らしきもの。目のあたりの影。けれどすぐに形が崩れて、何も分からなくなる。


「……馬鹿みたい」


ノアは匙を戻した。


戻した匙は、小さく揺れて、引き出しの中でかすかな音を立てた。


金属の触れ合う音。


それだけなのに、部屋の静けさが一段深くなった気がした。


ノアは引き出しを閉める。


閉めてから、もう一度開けた。


やはり、鏡はない。


化粧台に鏡がないというのは、考えてみれば奇妙だった。櫛も、髪紐も、香油も、細い銀のピンも、すべて揃っている。まるで鏡だけを外したように、そこだけが空いている。


鏡があったはずの場所。


そう思うと、木の板の色がそこだけ少し浅いようにも見えた。


気のせいだ。


古い家具なのだから、色にむらくらいある。


「ご主人様。お召し物を整えに参りました」


扉の向こうの声は、いつも通りだった。


いつも通りだからこそ、ノアは少しだけ遅れて返事をした。


「……入って」


エマが入ってくる。


手には櫛と髪紐。いつものように、ノアが何を必要としているか最初から知っているような顔だった。


「どうかされましたか?」


「別に」


ノアは引き出しの取っ手から手を離した。


エマの視線が、一瞬だけ化粧台へ落ちる。


ほんの一瞬。


けれど確かに見た。


「鏡を探していましたか?」


「……なぜ分かるの」


「ご主人様が、こちらをご覧になっていましたので」


「それだけ?」


「はい」


エマは答え、ノアの後ろへ回った。


櫛が髪に入る。


「必要でしたら、私が見ます」


「それ、答えになっていないわ」


「そうなのですか?」


エマは本当に不思議そうだった。


ノアは鏡のない化粧台を見た。


そこにはノアの姿は映らない。


代わりに、後ろに立つエマの気配だけが、髪を整える指先の感触として伝わってくる。


「この部屋、鏡がないのね」


「必要ですか?」


「普通はあるでしょう」


「ご主人様は、お綺麗です」


「そういうことではないわ」


エマは困ったように微笑む。


「ご主人様のお姿は、私が整えます。ですから、問題ありません」


言い方は優しい。


けれど、少しだけ奇妙だった。


自分の姿を、自分で確かめる必要はない。


そう言われているようだった。


「……そう」


ノアはそれ以上、追及しなかった。


櫛がゆっくり通る。


その感触は心地よい。


けれど、鏡がないせいで、ノアにはエマの顔が見えなかった。


背後にいるエマが、どんな表情で自分を見ているのか分からない。


そのことに気づいた瞬間、首筋が少し冷えた。


「痛くありませんか?」


「ええ」


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


「……髪を梳いているだけでしょう」


「はい」


エマは当然のように頷いた。


「ですが、ご主人様のお体は大切ですので」


ノアは返事をしなかった。


櫛の音だけが、静かな部屋に続いていた。


その日の回収は、午後からだった。


エマはいつも通り、ローブと手袋、仮面を用意した。


ノアが袖を通す間、エマは後ろに回って布の皺を伸ばす。


その手つきは丁寧で、指先が背中をかすめるたび、以前ならただくすぐったいと思った。


今日は少しだけ肩が強張った。


「ご主人様?」


「何でもないわ」


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


また、それだ。


ノアは小さく息を吐く。


「大丈夫だと言ったでしょう」


「はい。念のためです」


「そんなに壊れやすく見える?」


冗談のつもりだった。


けれどエマは、少しだけ真面目な顔をした。


「ご主人様は、大切ですので」


答えになっているようで、なっていない。


ノアは仮面を手に取った。


装飾の少ない白い仮面。目元だけが開き、顔の大部分を覆う。


この仕事では正装だ、とエマは以前言った。


そう言われれば、そういうものだと思っていた。


けれど、ふと疑問が浮かぶ。


誰が決めたのだろう。


この仕事、とは何だろう。


「エマ」


「はい、ご主人様」


「私の仕事って、いつからしていたのかしら」


エマは手を止めなかった。


ローブの襟元を整えながら、穏やかに答える。


「ずっとです」


「ずっと?」


「はい」


「その札は、誰から出ているの?」


「回収は、ご主人様のお仕事です」


また、答えが少しずれた。


「それは知っているわ。その札は、誰から来るの」


エマは首を傾げる。


「回収するものがある時に、札に示されます」


「……誰かに頼まれているわけではないの?」


「お仕事です」


同じ言葉。


ノアは仮面を顔に当てた。


それ以上聞いても、欲しい答えは返ってこない気がした。


「もういいわ」


「はい」


エマは嬉しそうでも、困った様子でもなかった。


ただ、いつも通りだった。


それが少しだけ嫌だった。


外は曇っていた。


明るいのに、空気は重い。


館を出る時、ノアは無意識に壁際へ視線を向けた。


そこに鏡はない。


当然だ。


館に鏡はない。


化粧台にも、廊下にも、食堂にも、寝室にも。


今まで気にしたことがなかった。


けれど一度気づくと、妙に気になった。


人の住む家に、鏡が一枚もないのは普通なのだろうか。


ノアは足を止めかけて、やめた。


回収へ行かなければならない。


そういう予定だ。


回収場所は、森を抜けた先の古い小屋だった。


そこへ向かう道を、ノアは迷わず歩いた。


初めて来る場所ではない。だが、いつ来たのかは思い出せない。


道は濡れていた。


昨日雨が降ったのかもしれない。木の根が地面から浮き、落ち葉が泥に貼り付いている。


ノアはローブの裾を少し持ち上げた。


手袋越しに感じる布の感触が、今日はやけに遠い。


小屋に着くと、扉は半ば壊れていた。


中は暗い。


それでも、奥に何かがあるのは分かった。


分かることが、少し嫌だった。


「……ここね」


独り言が響く。


小屋の中には古い棚と、割れた瓶と、倒れた椅子があった。


人の気配はない。


なのに、机の上にそれは置かれていた。


黒ずんだ包み。


布に包まれているのか、土がこびりついているのか、よく分からない。


ノアは近づいた。


手を伸ばす。


触れる直前、指が止まった。


嫌だ。


理由は分からない。


ただ、触りたくなかった。


「……仕事でしょう」


自分に言い聞かせる。


手袋越しに掴む。


軽い。


予想よりもずっと軽い。


中身があるのかないのか分からないほどだった。


しかし、持ち上げた瞬間、鼻の奥に微かな匂いが残った。


木の匂い。


乾いた土。


そして、ほんの少し、焦げたような匂い。


ノアは包みを見た。


布の隙間から、細い欠片が覗いている。


骨のようにも見えた。


木片のようにも見えた。


瞬きをする。


次に見た時には、ただの黒い包みに戻っていた。


「……気のせい」


ノアは包みを鞄に入れた。


小屋を出る。


外の空気を吸っても、胸の奥の重さは取れなかった。


帰り道、ノアは一度だけ人とすれ違った。


背の曲がった老人だった。


薪を背負い、森の道をゆっくり歩いている。


ノアが近づくと、老人は顔を上げた。


仮面を見たのか、ローブを見たのか、老人はすぐに視線を逸らした。


そして道の端へ寄る。


妙に大きく距離を取った。


ノアは歩みを緩める。


「こんにちは」


声をかけた。


老人は曖昧に頭を下げた。


しかし返事はなかった。


そのまま、早足で通り過ぎていく。


ノアは立ち止まり、背中を見送った。


何か言おうとしたが、言葉が出なかった。


人に避けられた。


そう思った。


いや、仕事着なのだから仕方ない。仮面をしているのだから、警戒されるのは当然だ。


ノアはそう結論づけた。


けれど、自分の顔を隠している理由が、急に分からなくなった。


館に戻ると、エマは玄関で待っていた。


いつものように、そこにいた。


「おかえりなさいませ、ご主人様」


その声を聞いた瞬間、ノアは少しだけ安心した。


安心したことに、また少し苛立った。


「ただいま」


「回収は無事終わりましたか?」


「ええ」


ノアは鞄から包みを取り出す。


エマは両手で受け取った。


大切そうに、丁寧に。


その包みに何が入っているのか、エマは聞かなかった。


当然のように受け取る。


「……それ、どこへ持っていくの?」


ノアは思わず聞いた。


エマは包みを見下ろす。


「必要なところへ」


「必要なところ?」


「はい。ご主人様のための場所です」


当たり前のように。


ノアは包みを見た。


黒い布。乾いた匂い。木片のような何か。


必要。


その言葉だけが、妙に耳に残った。


「どこなの」


エマは少し考えた。


考える必要があることなのか、と喉の奥で言葉が詰まった。


「ご主人様が、よくお過ごしになれる場所です」


言い方が、ひどく丁寧だった。


そのせいで、余計に気味が悪い。


「……そう」


ノアは無理に頷いた。


「なら、お願い」


「はい」


エマは微笑んだ。


ノアはその笑顔から目を逸らした。


食堂で待つ間、ノアは落ち着かなかった。


台所の方から物音がする。


液体を注ぐ音。布を置く音。何かを細かく砕くような音。


普段なら気にしない。


今日は一つ一つが耳に残る。


ノアは立ち上がった。


台所へ行こうとして、廊下の途中で足を止める。


自分は、台所に入ったことがあっただろうか。


ない。


たぶん、ない。


なぜ?


エマが支度をしてくれるから。


従者の仕事だから。


ご主人様が入る場所ではないから。


いくつもの答えが浮かぶ。


どれもそれらしく、どれも薄かった。


ノアが台所の扉に手をかけようとした時、扉が内側から開いた。


「ご主人様」


エマだった。


ノアは思わず手を引っ込めた。


「……早いのね」


「はい。もう少しで支度が整います」


「中を見てもいい?」


エマは微笑んだまま、ほんの少しだけ間を置いた。


「危ないですから」


「何が」


「火を使っています」


「……そう」


火の匂いはしなかった。


煮える匂いも、焦げる匂いも、油の跳ねる音もしない。


ただ、扉の隙間の奥で、ロウソクほどの小さな火がひとつ、かすかに揺れていた。


ノアはそれを言わなかった。


「ご主人様は、食堂でお待ちください」


エマの声は優しい。


拒絶ではない。


命令でもない。


けれど、そこから先に入ることを許さない響きがあった。


「分かったわ」


ノアは引き下がった。


自分でも驚くほど素直に。


背中を向ける直前、台所の隙間から中が一瞬だけ見えた。


中は薄暗かった。


小さな火は、調理台の端をわずかに照らしているだけだった。


鍋も、釜も、火にかけられてはいない。


白い布が敷かれている。


その上に、細かい木屑のようなものが散っていた。


次の瞬間、扉が閉まる。


「……」


ノアは食堂へ戻った。


何も見なかった。


そう思うことにした。


夕食は、いつも通り美しかった。


白い皿に盛られた料理。香草の香り。温かいスープ。柔らかく煮込まれた肉のようなもの。


ノアはそれをじっと見た。


「どうかされましたか」


「いいえ」


スプーンを取る。


一口。


味は、ある。


けれど噛むと、奥に固いものが当たった。


細い欠片。


すぐに消える。


もう一度噛む。


今度は何もない。


ノアは飲み込んだ。


喉が少しだけ引っかかる。


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


エマが心配そうに身を乗り出す。


「……大丈夫」


「紅茶をお持ちしましょうか」


「いらないわ」


「ですが」


「いらない」


少し強く言ってしまった。


エマはすぐに口を閉じる。


「失礼いたしました」


ノアはスプーンを置いた。


食事の途中だった。


「……ごめんなさい。少し疲れているだけ」


「はい」


エマは微笑む。


「ご主人様がお疲れの時は、早くお休みになるのがよろしいと思います」


「また紅茶?」


「はい。よくお休みになれますので」


「あなたは、そればかりね」


「ご主人様に、よくお休みいただきたいのです」


ノアは返事をしなかった。


食事を続けようとしたが、もう喉を通らなかった。


夕食のあと、エマが食器を下げていく背中を、ノアは黙って見ていた。


いつもなら、そのまま任せていた。


従者の仕事。


そういうもの。


けれど今日は、エマが扉の向こうへ消えた後も、どうしても視線を外せなかった。


台所へ行けば分かる。


何を見たいのかは分からない。


ただ、分からないままなのが嫌だった。


ノアは立ち上がる。


足音を殺すつもりはなかった。


だが、なぜか自然と静かに歩いていた。


台所の扉は完全には閉まっていなかった。細い隙間から、白い光が漏れている。


ランプの光ではない。もっと淡く、冷たい光。


ノアは息を潜める。


中から、こつ、こつ、と乾いた音がした。


何かを小さく割る音。


そのあと、さらさらと細かいものが落ちる音。


「……エマ?」


声をかけようとして、やめた。


隙間から中を覗く。


エマの背中が見えた。


白い指先が、黒い包みの中身を取り出している。


それは一瞬、乾いた枝のように見えた。


次の瞬間には、白い布に隠れて見えなくなる。


エマは歌うように小さく何かを呟いていた。歌ではない。言葉でもない。


祈りのようにも、数を数えているようにも聞こえた。


ノアの足元が、かすかに軋んだ。


エマの手が止まる。


「ご主人様」


振り返らないまま、エマが言った。


ノアは喉を詰まらせた。


「……起きていらしたのですね」


エマはゆっくり振り返る。


その顔は、いつもと同じだった。


「何をしているの?」


「後片付けです」


「それだけ?」


「はい」


「……今、何かを割っていたでしょう」


「食事の支度に使ったものを、整えていました」


また、整える。


その言葉が嫌だった。


「私が見てもいい?」


エマは微笑む。


「ご主人様は、お休みください」


「答えになっていないわ」


「お疲れです」


「疲れていない」


「ご主人様」


声は柔らかい。


だが、その一言で、ノアはそれ以上踏み込めなくなった。


エマが一歩近づく。


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


その言葉が、今は少し怖かった。


「……大丈夫」


「良かったです」


エマは本当に安心したように笑う。


ノアはそれ以上何も言えず、食堂へ戻った。


背中の向こうで、台所の扉が静かに閉まる。


閉まる音は、思ったより重かった。


夜の紅茶は、いつもより甘く感じた。


エマはカップを両手で差し出す。


その仕草は相変わらず可愛らしい。


ノアは受け取った。


飲まなければ、エマが悲しむ気がした。


悲しむ、というより、困る。


どちらなのか分からない。


「……毎晩、これを用意しているのよね」


「はい」


「どうして?」


「ご主人様が、よくお休みになれるように」


「私が眠らないと困る?」


エマはすぐに答えなかった。


ノアはその沈黙を聞いていた。


「夜更かしは、お体に障ります」


「それだけ?」


「はい」


返事は短い。


けれど、どこか閉じていた。


ノアは紅茶を見下ろす。


薄い琥珀色。


紅茶の表面に、自分の顔が映るかと思った。


けれどカップの中は揺れていて、輪郭は曖昧だった。


鏡ではない。


ただの紅茶。


ノアはゆっくり飲んだ。


まぶたが重くなる。


いつも通り。


いや、いつもより早い。


「……エマ」


「はい、ご主人様」


「あなたは、夜、どこで寝ているの?」


エマは少しだけ目を瞬かせた。


「自室です」


「あなたの部屋、どこにあったかしら」


「奥です」


「奥?」


「はい」


「……見たことがないわ」


「ご主人様がお越しになる場所ではありませんので」


ノアはカップを持つ指に力を入れた。


「なぜ?」


「従者の部屋ですから」


正しい。


たしかに、従者の部屋へ主人が勝手に入るものではない。


でも、その答えが正しいからこそ、妙に腹立たしかった。


「私に見られて困るものでもあるの?」


「いいえ」


「なら」


「ご主人様は、お休みください」


エマは静かに言った。


強い声ではない。


けれど、そこに妙な確かさがあった。


「夜更かしはダメですよ?」


まただ。


ノアは笑おうとした。


うまく笑えなかった。


「夜更かしは、禁忌ですから」


エマは微笑んでいる。


ノアはカップを置いた。


「……大げさね」


そう言った声は、自分でも思ったより小さかった。


その夜、ノアは夢を見た。


夢の中で、ノアは起き上がっていた。


寝室ではない。


台所だった。


けれど、そこはノアの知っている台所ではなかった。


暗い。


棚がある。


調理台がある。


けれど、鍋も、皿も、包丁もない。


白い布が敷かれ、その上に黒い欠片が並んでいる。


木片。


焦げた枝。


細く砕いた何か。


ノアはそれを手に取った。


自分の手は白い手袋をしていた。


でも、手袋の隙間から見える指が、木でできているように見えた。


ぱき、と乾いた音がした。


ノアはその欠片を皿に並べる。


次の瞬間、それは柔らかく煮た肉になった。


湯気が立つ。


香りがする。


エマの声がどこかで聞こえる。


ご主人様が召し上がれるように。


ノアは叫ぼうとした。


声が出なかった。


そのまま場面が変わる。


廊下。


知らない扉。


扉の向こうから、ぎい、と何かが軋む音がする。


揺れている。


何かが、ゆっくり揺れている。


ノアは扉を開けようとした。


手が伸びる。


木の手だった。


扉が少し開く。


中に、天井から垂れた縄が見えた。


その下に、白い足先。


誰かが吊られている。


顔を上げようとした瞬間、目が覚めた。


ノアはベッドの上で息をしていた。


荒い呼吸。


胸が上下している。


自分の手を見る。


人間の手だ。


指を曲げる。


動く。


手袋などしていない。


木ではない。


「……夢」


声に出す。


そうしなければ、夢ではない気がした。


部屋は暗い。


窓の外も暗い。


だが、廊下の方から微かな音が聞こえた。


ぎい、と。


夢と同じ音。


ノアは身体を起こした。


寝室の扉を見る。


行ってはいけない。


そう思った。


理由は分からない。


だが、行かなければならない気もした。


ベッドから足を下ろす。


床が冷たい。


扉に手をかける。


その時、廊下の向こうからエマの声がした。


「ご主人様」


ノアは固まった。


扉の外。


近い。


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


心臓が跳ねた。


「……エマ?」


「はい」


「あなた、そこにいるの?」


「はい。ご主人様がうなされていたようでしたので」


ノアは扉を開けられなかった。


開ければ、何かを見てしまう気がした。


「……大丈夫よ」


ようやく答える。


「そうですか」


エマの声は穏やかだった。


「では、お休みください」


「……あなたは?」


「私は、こちらにおります」


「どうして」


「ご主人様が心配ですので」


その言葉は、優しい。


優しいはずだった。


でもノアは、扉越しに立っているエマの姿を想像して、背中が冷えるのを感じた。


「もう平気」


「はい」


「だから、戻って」


「承知しました」


足音が遠ざかる。


軽い足音。


けれど、途中で足音が消えた。


ノアは扉に耳を寄せる。


何も聞こえない。


しばらくして、また遠くで、ぎい、と何かが軋んだ。


ノアは扉から手を離した。


ベッドへ戻る。


眠れるはずがなかった。


だが、まぶたは重かった。


紅茶の甘さが、まだ喉に残っている気がした。


翌朝、エマはいつも通りだった。


笑顔で朝食を並べ、椅子を引き、ノアの体調を尋ねた。


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


ノアはその顔を見つめる。


昨夜の音。


夢の縄。


台所の木片。


黒い包み。


全部、夢だ。


夢でなければ困る。


「大丈夫よ」


「良かったです」


エマは心から安心したように笑った。


ノアはその笑顔を見て、何も言えなくなった。


その笑顔は、昨日までと同じだった。


何一つ変わっていない。


変わっていくのは、いつも自分の方だけだった。


ノアはスープを見下ろす。


湯気が立っている。


香りがする。


美しい食事だった。


そして、どうしても口をつける気になれなかった。


「……今日は、いらないわ」


エマが少しだけ目を瞬かせる。


「召し上がらないのですか」


「食欲がないの」


「では、紅茶を」


「いらない」


思ったより強い声が出た。


エマは黙る。


ノアは自分の声に驚いた。


「……ごめんなさい」


「いいえ」


エマは微笑んだ。


「ご主人様がお望みなら、それで大丈夫です」


その言葉に、ノアは救われるべきだった。


けれど、救われなかった。


大丈夫。


大丈夫。


エマはいつもそう言う。


何が大丈夫なのか、一度も分からないまま。


昼過ぎ、ノアは書庫にいた。


本を読もうと思ったのだ。


別のことを考えたかった。


エマのことも、回収のことも、夢のことも、考えたくなかった。


棚には古い本が並んでいる。


魔法の基礎、植物図鑑、地方の風習、古い童話、禁忌目録。


最後の一冊に目が止まった。


禁忌。


背表紙にその文字があるだけで、喉が締まる。


ノアは手を伸ばしかけ、やめた。


なぜやめたのか、自分でも分からない。


「ご主人様」


背後から声がした。


ノアは本当に肩を跳ねさせた。


振り返る。


エマが立っていた。


「驚かせてしまいましたか」


「……少しね」


「申し訳ありません」


「謝らなくていいわ」


ノアは本棚に背を向ける。


エマの視線が、一瞬だけ禁忌目録の背表紙を通った気がした。


「何か用?」


「本日は、回収札は出ておりません」


「そう」


「ですので、ご主人様にはお休みいただければと思いまして」


「私はそんなに弱って見える?」


エマは首を横に振る。


「弱っているのではありません」


「では?」


「大切だからです」


いつもの言葉。


ノアは目を閉じた。


その言葉が嫌いではなかった。


むしろ、少し前までは嬉しかった。


今でも嬉しいと思いたい。


でも、その大切が何を指しているのか分からない。


「エマ」


「はい」


「あなたにとって、私は何?」


聞いてから、ノアは後悔した。


エマは答える。


「ご主人様です」


「それは役割でしょう」


「はい」


「そうじゃなくて」


言葉が続かない。


何を聞きたいのか、自分でも分からない。


エマはじっと待っている。


急かさない。


苛立ちもしない。


ただ、待つ。


「……もういいわ」


「はい」


エマは微笑んだ。


それで会話は終わった。


終わってしまった。


ノアはふと、エマの首元を見た。


淡い色のストールが、今日もきちんと巻かれている。


朝も、昼も、夜も。


暑い日も、館の中でも、エマはそれを外さない。


「……そのストール」


「はい」


「苦しくないの?」


エマは一瞬だけ目を丸くした。


それから、少し嬉しそうに布の端へ触れる。


「苦しくありません」


「ずっと巻いているでしょう」


「はい。ご主人様からいただいた、大切なものですから」


その答えは、以前なら素直に可愛いと思えたはずだった。


実際、エマは本当に大切そうにしている。


布を撫でる指先はやわらかく、頬もわずかに緩んでいる。


ノアは視線を逸らしかけ、しかしもう一度見た。


「でも、寝る時くらい外すものじゃない?」


「そうなのですか?」


「普通は、そうでしょう」


エマは少しだけ考えた。


「首元にあると、落ち着きます」


「……そう」


「ここにあるのが、自然な気がします」


何気ない言葉だった。


ただの好み。


ただの癖。


そう聞こえるはずだった。


けれどノアは、なぜかその首元から目を離せなくなった。


布の下に何かがあるわけではない。


あるはずがない。


エマはただ、ノアからもらったものを大切にしているだけだ。


「……変わっているわね」


「はい」


エマは微笑んだ。


「ご主人様にいただいたものですから」


同じような答え。


けれど、ほんの少しだけ違う。


ノアはその違いを言葉にできなかった。


その夜、ノアは紅茶を半分だけ残した。


エマは何も言わなかった。


ただ、カップを見た。


ほんの一瞬だけ。


「残してもいいでしょう?」


「はい。ご主人様がお望みなら」


「……本当に?」


「はい」


エマはカップを下げる。


その時、ノアは見た。


カップの底に、溶け残りのような白い跡がある。


砂糖だろう。


そう思った。


そう思うことにした。


寝室に入る前、エマがいつものように声をかける。


「夜更かしはダメですよ?」


ノアは振り返った。


「……どうして?」


「お体に障ります」


「それだけ?」


エマは笑う。


「夜更かしは、禁忌ですから」


ノアは返事をしなかった。


扉を閉める。


鍵に指をかけかけて、すぐに離した。


鍵をかける理由などない。


そう思った。


エマが勝手に入ってくるはずがない。


エマは従者だ。


優しくて、献身的で、ノアのことを大切だと言う。


鍵をかけるのは、まるでその全部を疑っているみたいだった。


けれど、寝台に入っても、胸の奥は落ち着かなかった。


しばらくして、ノアは起き上がった。


普段、エマに髪を梳かれる時に使っている椅子を、扉の前へ運ぶ。


背もたれの上端を扉の取っ手の下へ差し込み、脚を床に踏ん張らせるように、斜めに置いた。


試しに取っ手を押してみる。


椅子の背がつかえて、取っ手は下がらなかった。


頼りない。


本気で押されれば、すぐにずれるかもしれない。


それでも、鍵をかけるよりはよかった。


これは拒絶ではない。


ただ、少しだけ不安だっただけだ。


ノアはそう自分に言い聞かせて、寝台へ戻った。


扉の前の椅子を、しばらく見ていた。


そこにあるだけで、少しだけ息がしやすかった。


眠りは浅かった。


夢と現実の境目で、ノアはまたあの廊下にいた。


今度は、扉が開いていた。


部屋の中は見えない。


ただ、揺れる影だけがある。


ぎい。


ぎい。


何かが吊られている。


その下に、白いストールが落ちている。


いや、違う。


それは縄だ。


首に巻くもの。


そこにあるのが自然なもの。


誰かが笑っている。


嬉しそうに。


良いことだと。


ノアは目を覚ました。


扉の前の椅子は、昨夜と同じようにそこにあった。


背もたれを取っ手の下へ差し込んだまま、動いていないように見えた。


それを見て安心するはずだった。


なのに、安堵より先に、奇妙な疑問が浮かぶ。


自分は、何から守ろうとしているのだろう。


エマから?


それとも、エマに近づこうとする自分から?


ノアは答えを出せなかった。


扉が控えめに叩かれる。


「ご主人様。お目覚めでしょうか」


エマの声だった。


いつも通りの声。


だからこそ、ノアは扉の前の椅子を見た。


「……起きているわ」


返事をしてから、ノアは寝台を下りる。


椅子の脚を持ち上げ、取っ手の下から背もたれを外した。床を擦らないように、少しだけ横へずらす。


それから扉を開けた。


エマが立っていた。


手には、畳まれた布と櫛を持っている。いつもの朝の支度だった。


エマの視線が、ノアの後ろへ落ちる。


扉の脇に寄せられた椅子。


ほんの一瞬だけ。


けれど、何も言わなかった。


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


ノアは、扉の脇に残した椅子を背中で感じながら、エマを見た。


大丈夫。


その言葉が、だんだん分からなくなっていく。


「……ええ」


そう答えるしかなかった。


「よかったです」


エマはいつものように微笑んだ。


椅子のことは、何も聞かなかった。


なぜそこにあるのか。


どうして扉の前に置かれていたのか。


分かっていないのかもしれない。


あるいは、分かっていても、ノアがそうしたいならそれでいいと思っているのかもしれない。


どちらなのか、ノアには分からなかった。


ただ、エマは何も言わず、いつものように部屋へ入ってきた。


身支度を終えて食堂へ向かうと、朝食はいつものように並んでいた。


美しい食事。


整った器。


優しい香り。


何もおかしくない。


でも、もう信じられなかった。


エマも。


食事も。


夢も。


自分の手さえも。


信じられないものばかりが、いつも通りの顔をしてそこにあった。


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