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それは祝福と呼ばれている。  作者: 高山 墨人


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第二章 甘い紅茶

朝の光は、いつも通りやわらかかった。


窓の外では森が静かに揺れている。白いカーテンは夜の名残を払うように膨らみ、机の上に置かれた本の背を淡く照らしていた。


何も変わっていない。


昨日と同じ朝。


昨日と同じ部屋。


昨日と同じ静けさ。


それなのに、ノアはしばらく起き上がれなかった。


「……」


まぶたの裏に、昨夜のエマの声が残っていた。


夜更かしは禁忌ですから。


大げさな言い方だと思った。


そう思ったはずなのに、妙に耳に残っている。


エマは時々、古い本からそのまま抜き出したような言葉を使う。従者はこうするものです、とか、ご主人様のためです、とか。だから、あれも同じようなものだろう。


眠る前の、少し真面目すぎる冗談。


そう片づけようとして、ノアは小さく息を吐いた。


「ご主人様」


扉の向こうから声がした。


「お目覚めでしょうか」


「……ええ。起きているわ」


返事をすると、扉が控えめに開く。


エマが入ってきた。


今日も金色の髪を丁寧に結い、花飾りをつけ、首元にはあのストールを巻いている。昨日ノアが抱き寄せた時の反応など、もうどこにも残っていないような顔をしていた。


いつも通り。


それが、少しだけありがたかった。


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


「またそれ?」


思わず笑う。


エマは不思議そうに瞬きをした。


「昨日のお仕事で、お疲れではないかと思いまして」


「大丈夫よ。眠ったら戻ったわ」


「よかったです」


エマは本当に安心したように微笑んだ。


その表情を見ていると、昨夜の妙な言葉も、ただの過保護に思えてくる。


「顔を拭きますか?」


「ええ、もらうわ」


エマが差し出した布は、今日もほどよい温度に湿っていた。


ノアはそれを受け取り、目元に当てる。温かさがじんわりと染みて、頭の奥の重さが少しずつほどけていく。


「朝食は?」


「ご用意できています」


「今日は何?」


「きのこのスープと、焼いたパンと、甘い果物です」


「随分まともね」


「昨日もまともでした」


「そうだったかしら」


「はい。ご主人様に、悪くないわ、と言っていただきました」


細かい。


そう思って、ノアは小さく笑った。


「そんなことまで覚えているのね」


「はい。ご主人様に褒めていただいたことは、覚えています」


「褒めたつもりはないのだけれど」


「では、良いことを言っていただきました」


「言い換えただけでしょう」


エマは嬉しそうに目を細めた。


会話をしていると、こちらの方が根負けする。いつものことだった。


食堂へ向かう途中、ノアはふと廊下の壁に目をやった。


花瓶、絵画、古い燭台。毎日見ているものばかりだ。


けれど、何か足りない気がした。


「……」


「どうかされましたか?」


「いいえ」


何が足りないのか、すぐには分からなかった。


考えようとして、やめる。


朝から些細なことに引っかかるのは、きっと昨日疲れたせいだ。


食卓には、エマの言った通りの料理が並んでいた。


きのこの香りがする。パンはまだ温かく、果物は薄く蜜をまとっている。


ノアは席に着き、スプーンを取った。


「いただくわ」


「はい」


スープを口に運ぶ。


味は、いつも通りだった。


温かくて、やさしい。


けれど一瞬だけ、舌の奥に小さなざらつきが残った。


「……」


「お口に合いませんでしたか?」


エマがすぐに聞いてくる。


早い。


ノアが止まったのは、ほんの一瞬だったはずだ。


「いいえ。少し熱かっただけ」


「申し訳ありません」


「謝るほどではないわ」


もう一口飲む。


今度は何も感じなかった。


さっきのざらつきは、きのこの欠片か何かだろう。


「あなたは本当に食べないの?」


昨日と同じ問いを、ノアはまた口にしていた。


エマは、やはり迷わず答える。


「私は従者ですので、ご主人様の給仕が終わった後にいただきます」


「毎回それね」


「はい」


「毎回同じように答えるのね」


「同じことですので」


「……そう」


間違ってはいない。


間違ってはいないのに、なぜか少しだけ引っかかる。


けれど、エマの顔はいつも通りだった。ノアの食事を見守るその表情は、心配と喜びの混ざった、見慣れたものだ。


「ご主人様」


「何?」


「本日はお休みになさいますか?」


「仕事はないの?」


「急ぎの回収はありません」


「珍しいわね」


「昨日、十分に回収できましたので」


「そう」


ノアはパンをちぎる。


十分に回収できた。


その言い方が、少しだけ曖昧に聞こえた。


何を十分に?


そう聞こうとして、口を閉じる。


仕事なのだから、必要な分を回収したということだ。それ以上の意味などない。


食後、ノアは書斎へ向かった。


エマは片付けを終えると、いつものように紅茶を用意し、ノアの机の横に置いた。


「今日は書類を?」


「少しだけね。昨日の記録をまとめておくわ」


「お手伝いします」


「字を書くのは私がやる。あなたはそこにいて」


「はい」


エマは机の横に立った。


立つだけで、本当に何もしない。


ノアはペンを取り、昨日の廃礼拝堂のことを書き始めた。


北の森。崩れかけた石壁。祭壇の下。古びた包み。


そこまでは覚えている。


けれど、包みの中身を思い出そうとした時、ペンが止まった。


「……」


何を回収したのだったか。


重さは、あった。両手で包んだ。布越しに冷たかった。


形は。


色は。


匂いは。


「ご主人様?」


エマの声で、ノアは我に返った。


「何でもないわ」


「お疲れでしたら、休憩を」


「大丈夫」


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


「本当に今日はよく聞くわね」


「気になりますので」


ノアはペン先を紙に戻す。


結局、回収品の詳細には触れず、「北の廃礼拝堂より一件回収」とだけ書いた。


それで十分だろう。


仕事の記録は、いつも簡潔で良い。


頁の端には、乾いた指の跡のような染みがいくつも残っていた。


自分の指の跡なのか、昔の誰かのものなのかは分からない。けれどノアは、その染みを見ているうちに、何度も同じ机で同じことを書いてきた気がした。森から戻り、面を外し、手袋をエマに渡し、紅茶を飲む前に記録をつける。そういう流れが、いつからか生活の一部になっていた。


だが、記録帳の中のノアは、まるで別人だった。


簡潔すぎる。余計な感想がない。危険だったとも、疲れたとも、奇妙だったとも書かれていない。ただ、場所と件数だけが淡々と並んでいる。


それは仕事の記録としては正しいのだろう。


けれど、自分の過去としては冷たすぎた。


ノアは一つ前の記録を指でなぞった。


旧薬草師宅より一件回収。


その場所には行った。たしかに行ったはずだ。草の匂いのする倉庫。湿った床板。古い棚。そこまでは思い出せる。


では、何を持ち帰ったのか。


思い出そうとした瞬間、頭の中に湯気が立った。


温かいスープ。焼いたパン。果物の蜜煮。美しく切り分けられたもの。皿の上に置かれた、食べやすい形。


違う。


思い出したいのは食事ではない。


回収品だ。


ノアは指を止める。


紙の上の文字が、少し滲んで見えた。


回収したものの正体を忘れているのではない。


最初から、思い出さないようにしている気がした。


その感覚は、どこか紅茶を飲んだ後の眠気に似ていた。考えようとすると、やわらかい膜がかかり、意識が別の場所へ流される。


ノアは帳面を閉じた。


音が大きく響いた。


エマが振り返る。


「ご主人様?」


「何でもないわ」


いつもの言葉。


最近、自分もそればかり言っている。


何でもない。


大丈夫。


悪くない。


そう言ってしまえば、エマは安心する。エマが安心すれば、話はそこで終わる。


終わることが、ひどく楽だった。


昼前、エマがノアの髪を整えた。


今日は外に出る予定もないのに、彼女はそういうことを怠らない。


「そこまでしなくてもいいわ」


「ご主人様はいつでも綺麗でいらっしゃいますので」


「それは整える理由になっているの?」


「はい。綺麗なものは、綺麗にしておくべきです」


「また妙なことを言う」


エマは櫛を入れながら、真面目に頷いた。


彼女の手つきは丁寧だった。髪を引っ張ることもなく、花を飾る位置も迷わない。


ノアは椅子に座ったまま、少しだけ首を傾げる。


「鏡がなくても、よく分かるのね」


口にしてから、ノアは自分で少し驚いた。


そうだ。


この館には、姿見がない。


その事実は、言葉にした途端、部屋の隅々へ広がっていった。


今まで気づかなかった、というより、気づく必要がなかった。ノアが朝に顔を拭けば、エマが髪を整える。襟元の乱れを直し、花飾りの位置を決め、ローブの肩を払う。外へ出る時も、面の紐の長さまでエマが見ていた。


ノアは、自分で自分を見るより先に、エマの目を通して自分を知っていたのだ。


そのことに気づくと、胸の奥が少し冷えた。


エマの目は優しい。いつもやわらかい。ノアの欠点を探す目ではなく、ノアを整えるための目だ。だから安心していた。けれど、安心とは別の言い方をすれば、任せきっていたということでもある。


自分の顔。


自分の髪。


自分の体。


それらを自分で確かめなくても平気だったのは、エマが見ていたからだ。


「……変ね」


小さく言って、ノアは笑おうとした。


けれど笑いにならなかった。


姿見がないだけだ。古い館なら、そういうこともある。街の屋敷のように何でも揃っているわけではない。必要なら新しく買えばいい。


そう思う。


そう思うのに、ではなぜ今まで買わなかったのか、という問いが残った。


ノアが欲しいと言えば、エマはたぶんすぐに用意する。花も、紅茶も、毛布も、髪紐も、ノアが望む前から用意するような子だ。


なら、鏡だけがないのは、誰も必要としなかったからではない。


必要にさせなかったからではないか。


そこまで考えて、ノアは首を振った。


考えすぎだ。


エマを疑うようなことを、朝から考えるものではない。


そう言い聞かせる声が、なぜかノア自身の声ではないように聞こえた。


少なくとも、ノアの部屋にも、書斎にも、廊下にもない。


「エマが見て整えておりますので」


エマは当然のように答えた。


「不便ではないの?」


「私が見ます」


「……答えになっているような、いないような」


「ご主人様は、今日もお綺麗です」


「そう」


それ以上、鏡のことは考えなかった。


必要ならエマが見てくれる。昔からそうだった気がする。


この館にはないものが多い。街の家とは違う。それだけのことだ。


それだけのことだと決めてしまうと、少し楽だった。


この館には、街の家にあるようなものがない。


客間はあるのに客は来ない。広い食堂はあるのに、食卓につくのはノアだけだ。廊下には絵があるのに、描かれている人物の名前をノアは知らない。


不便かと問われれば、そうでもない。


エマがいるからだ。


必要なものは、ノアが必要だと思う前に用意される。必要でないものは、最初から存在しないものとして片づけられている。


鏡も、その一つなのだろう。


ノアはそう考えた。


「ご主人様?」


エマが櫛を止める。


「何でもないわ」


「髪を引きましたか?」


「いいえ」


「痛くありませんか?」


「痛くないと言っているでしょう」


「はい」


櫛がまた髪を通る。


エマの手つきは柔らかい。けれど、迷いはない。ノアが自分の顔を見られなくても、エマは知っている。どこに髪を流せばいいか、花飾りをどの位置に置けばいいか、頬に落ちる影をどう整えればいいか。


自分の顔なのに、エマの方が詳しい。


そう思った瞬間、ノアは少しだけ落ち着かなくなった。


「エマ」


「はい」


「私、今日も綺麗?」


冗談のつもりだった。


けれどエマは、櫛を置いてから答えた。


「はい。今日もお綺麗です」


「見なくてもそう言うでしょう」


「見ています」


「あなたが、でしょう」


「はい」


会話は成り立っている。


それなのに、どこか遠回りをしているような気がした。


ノアはそれ以上何も言わず、髪を梳かれる音だけを聞いていた。


昼食の後、ノアは書斎の本棚を眺めていた。


魔法に関する古い本。礼拝堂の記録。森の古地図。読めない言語の背表紙も混ざっている。


エマは少し離れた場所で、ほつれたリボンを直していた。


「器用ね」


「ありがとうございます」


「そういえば、あなたは縫い物が得意だったかしら」


「必要なことは覚えます」


「便利な答えね」


「便利でしょうか」


「ええ。何でもそれで済みそう」


エマは少しだけ考えた。


「では、ご主人様のために便利でありたいです」


「……あなた、本当にそういうことを恥ずかしげもなく言うわね」


「恥ずかしいことですか?」


「普通は少しは照れるものよ」


「では、照れます」


「命令みたいに言わないの」


エマは困ったように笑った。


可笑しくて、ノアはつい笑ってしまう。


こういうところは本当に変わっている。けれど、変わっているだけで、悪い子ではない。


むしろ、あまりにも真っ直ぐすぎて、こちらが時々困るだけだ。


「ストール、少しほどけているわ」


ノアが指摘すると、エマは首元に触れた。


「失礼しました」


「別に。少しずれているだけよ」


エマは丁寧に巻き直す。


その所作を見ながら、ノアは何気なく尋ねた。


「首元、暑くないの?」


「大丈夫です」


「夏でも巻いているのに?」


「はい。首元には、あるのが自然ですので」


「……自然?」


「はい」


エマはそう言って、少しだけ嬉しそうにストールの端を撫でた。


「それに、ご主人様からいただいた、大切なものですから」


その一言で、ノアは何も言えなくなった。


不意に、昨日抱き寄せた時の感触を思い出す。細い肩。驚いて強張った身体。触れていただけて嬉しいです、と言った声。


「……大げさね」


「大切です」


「分かったわ」


エマは満足そうに頷いた。


首元にストールが戻ると、彼女はどこか落ち着いた顔になる。


それが少しだけ可笑しくて、ノアは窓の外へ目を逸らした。


午後は、庭に出た。


雨の前の空気は湿っていたが、まだ降り出してはいない。館の裏手には小さな温室がある。古いガラスで囲われたそこには、エマが世話をしている花が並んでいた。


「あなた、こういうことまでしていたのね」


「はい。ご主人様のお部屋に飾る花を育てています」


「買えばいいでしょう」


「ご主人様のおそばに置くものなので、私が用意したいのです」


「本当に変なところで律儀ね」


「嬉しいです」


「褒めていないわ」


「では、嬉しくありませんか?」


「……好きに受け取りなさい」


エマは満足そうに頷き、白い花を一輪選んだ。


温室のガラスは古く、ところどころ歪んでいる。外の森も、花棚も、そこに立つノア自身の影も、ぼんやりと曲がって見えた。


ノアは何となく、そのガラスに近づいた。


「ご主人様?」


「何でもないわ」


映っているのは、ただの影だった。


金色の髪のエマと、黒い服のノア。輪郭は歪んでいて、細部など分からない。


それでも一瞬、そこに映る自分の肩のあたりが、変に角ばって見えた。


「古いガラスね」


「はい。歪んでいます」


「直さないの?」


「壊れてはいませんので」


「歪んでいるのに?」


「映すためのものではありませんから」


エマはそう言って、花の茎を切った。


小さな鋏の音が、温室の中で軽く響く。


「映すためのものではない、ね」


「はい。光を入れるためのものです」


言われてみればその通りだった。


ノアは自分の影から目を離す。妙なことに引っかかるのは、寝不足のせいだ。


花棚の間を歩いていると、薔薇の棘が指先に触れた。


小さく痛みが走る。


「……あ」


見ると、指先に赤い点ができていた。


大した傷ではない。けれどエマは、花を置いてすぐにこちらへ来た。


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


「ただの棘よ」


「見せてください」


「大げさだと言っているでしょう」


「見せてください」


いつになく譲らない声だった。


ノアは少し呆れながら手を差し出す。エマは両手でノアの指を取った。


その触れ方は、とても丁寧だった。傷口に息を吹きかけるわけでも、慌てるわけでもない。ただ、赤い点をじっと見て、白い布で押さえる。


「本当に小さい傷よ」


「小さい傷でも、傷は傷です」


「あなた、怪我を見るといつもそんな顔をするの?」


「ご主人様の傷ですので」


「……他の人なら?」


エマは少しだけ考えた。


「必要なら、手当てします」


「私は必要以上なのね」


「はい」


即答だった。


ノアは思わず笑ってしまった。


「そこは否定しなさい」


「否定することではありません」


エマは布を外し、傷が止まったことを確認すると、ようやくノアの手を離した。


指先に残った彼女の体温は、少しだけ冷たかった。


温室の空気のせいだろう。


「今日は、花を一つだけでいいわ」


「はい。お部屋に飾ります」


「あなたの好きな花にしなさい」


「では、ご主人様に似合う花にします」


「結局私基準なのね」


「はい」


エマは当然のように答えた。


その素直さに、ノアはまた少しだけ笑った。


夕方近くになって、エマが廊下の掃除を始めた。


ノアは退屈しのぎに、その後ろを歩いていた。


彼女は掃除をしている時も静かだ。床を拭く音も、棚を整える音も、ほとんど立てない。


「見られていると、やりづらくないの?」


「いいえ」


「そう」


「ご主人様に見ていただけるのは、嬉しいです」


「またそれ」


「はい」


ノアは呆れて肩をすくめる。


けれど、彼女が嬉しいならそれでいいのかもしれない。


廊下の奥にある小さな物置の前で、ノアは足を止めた。


扉の下に、薄く光が差している。西日がどこかの窓から入り込んでいるのだろう。


「この部屋、何を置いていたかしら」


「古い布や、使わない箱です」


「そう」


扉に手をかけようとした時、エマがそっと声をかけた。


「ご主人様」


「何?」


「埃っぽいので、私が後で整えておきます」


「少し見るだけよ」


「ご主人様のお召し物が汚れてしまいます」


「あなた、時々私を過保護に扱いすぎるわ」


「ご主人様は大切ですので」


何の迷いもない声だった。


ノアは取っ手から手を離す。


「……分かったわ。では任せる」


「はい」


エマは嬉しそうに微笑んだ。


ノアは少しだけ不思議に思った。


あの部屋に何があるのか、特に気になっていたわけではない。


それなのに、止められると、逆に少しだけ気になった。


けれどすぐに忘れた。


自室へ戻ると、温室で摘んだ花が小さな花瓶に挿されていた。


いつの間に、と言いかけて、やめる。エマはそういうことが早い。


「花瓶、そこに置いたのね」


「はい。朝、目に入りやすい場所かと思いまして」


「あなたは本当に、私の視界をよく見ているのね」


「ご主人様がどこを見るかは、大切ですので」


「また妙な言い方」


「妙でしょうか」


「ええ」


ノアは花瓶の前に立った。


白い花びらの中央に、淡い黄色がある。可愛らしい花だった。自分に似合うかどうかは分からない。


「ねえ、エマ」


「はい」


「もし私が、この花は嫌いだと言ったら?」


「別の花にいたします」


「では、あなたが好きな花を私が嫌いだと言ったら?」


エマは少しだけ考えた。


「ご主人様が嫌いなものは、おそばに置きません」


「自分の好みは?」


「ご主人様のおそばに置けるものが、好きです」


「……それは、好みと言えるのかしら」


「言えませんか?」


「分からないわ」


エマは不思議そうに首を傾げた。


そういう顔をされると、こちらが難しいことを言っているような気になる。


「まあ、いいわ。嫌いではないもの」


「よかったです」


エマはほっとしたように笑った。


その笑顔を見ると、花のことなど、どうでもよくなった。


夜になる前、雨が降った。


大粒ではない。細い雨が、窓を淡く濡らしている。


ノアは食堂で夕食を取った。


昼間に感じた妙な引っかかりは、すっかり薄れていた。


「今日は館の中にいただけなのに、随分疲れた気がするわ」


「雨の日は、お休みになりやすいそうです」


「あなたも?」


「私は、ご主人様がお休みになるなら、休みます」


「それは違うと思うわ」


「違いますか」


「ええ」


エマは少し考えて、微笑んだ。


「では、そういたします」


「そうしなさい」


「はい」


ノアは何気なく彼女を見る。


食事の席にいるのに、エマの前には皿がない。


それはいつものことだ。


いつものことなのに、今日は少しだけ目についた。


「本当に後で食べるのよね」


「はい」


「何を?」


聞いてから、変な質問だと思った。


エマは少しだけ首を傾げる。


「食事を」


「……そうね。そうよね」


ノアは笑って誤魔化すようにスープを飲んだ。


今日は少し味が薄い気がした。


雨のせいだろう。


湿気が多い日は、匂いも味もぼんやりする。


夕食後、ノアは書斎へ戻った。


雨音を聞きながら本を開く。古い民話集だった。森に住む獣、道に迷った子供、声を失った人魚、燃え尽きない蝋燭。


何度も読んだ本のはずなのに、今日は文字が少し目に滑る。


「ご主人様」


エマが紅茶を運んできた。


「まだ寝るには早いわ」


「はい。ですが、温かいものをと思いまして」


「気が利くのね」


「ご主人様の従者ですので」


「それも毎回聞いている気がする」


「はい」


カップを受け取る。


香りはいつも通りだった。


口に含むと、身体の奥が緩む。


疲れていたのだろう。雨音と紅茶の温度が、やけに心地よかった。


「……少しだけ眠くなったわ」


「お休みになりますか?」


「まだ本を読みたいのだけれど」


「夜更かしは、よくありません」


エマは穏やかに言った。


その言葉に、昨夜の声が重なる。


禁忌ですから。


「……エマ」


「はい」


「昨日のあれ、どういう意味?」


「あれ、とは」


「夜更かしは禁忌、というの」


エマは少しだけ考えた。


考えている顔だった。困っているようにも見えた。


「夜更かしは、お体に悪いので」


「禁忌とまでは言わないでしょう」


「ご主人様のお体に悪いことは、よくないことです」


「それで禁忌?」


「はい」


「……大げさね」


「ご主人様は、大切ですから」


また、それだ。


ノアは本を閉じた。


責める気にはならなかった。エマは本気でそう思っているのだろう。


けれど、ほんの少しだけ、胸の奥に引っかかるものが残る。


「分かったわ。今日は早めに休む」


「はい」


エマは嬉しそうだった。


あまりにも素直に喜ぶので、ノアは苦笑する。


「そんなに嬉しい?」


「はい。ご主人様がちゃんとお休みになるのは、嬉しいです」


「あなたは私の母親か何かなの?」


「私は、ご主人様の従者です」


「分かっているわ」


ノアは寝室へ向かった。


エマはカップを片付け、扉の前まで見送る。


「ご主人様」


「何?」


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


「大丈夫よ」


「よかったです」


「本当に、今日はそればかりね」


「大切ですので」


「はいはい」


軽く手を振ると、エマは小さく頭を下げた。


「おやすみなさいませ」


「おやすみ、エマ」


扉を閉める。


雨音が少し遠くなる。


ベッドに横になると、眠気はすぐに来た。


紅茶のせいだろう。雨のせいかもしれない。


どちらでもいい。


ノアは目を閉じた。


夢を見た。


夢の中で、ノアは廊下を歩いていた。


館の廊下だった。


けれど、いつもより暗い。


壁際の花瓶も、絵画も、燭台も、輪郭だけしか見えない。


手元を見る。


ノアの手は、白い手袋をしていなかった。


肌が見えている。


そのはずだった。


けれど、指の表面に、細い木目のような線があった。


「……」


夢の中のノアは、それを不思議に思わなかった。


指を曲げる。


少し遅れて、乾いた音がする。


廊下の奥から、何かを置く音が聞こえた。


台所だ。


ノアはそちらへ向かう。


エマがいた。


背を向けて、何かを準備している。


明日の朝食だろう。


机の上に並んでいるのは、パンでも果物でもなかった。


小さな木片。


乾いた欠片。


黒ずんだ包み。


それをエマは丁寧に皿へ並べている。


ノアは声をかけようとした。


けれど声が出なかった。


エマが振り返る。


いつも通りに微笑んでいた。


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


そこで目が覚めた。


「……」


部屋は暗かった。


雨音はまだ続いている。


ノアはしばらく天井を見つめていた。


夢だ。


ただの夢。


そう繰り返しても、夢の残りは消えなかった。


目が覚めた部屋は暗く、窓の外では雨が細く続いている。寝台の上の布は柔らかく、枕はいつもの匂いがした。全部、現実の形をしている。


それなのに、喉の奥だけが夢のままだった。


乾いた欠片を飲み込んだような感覚が残っている。


ノアは水差しに手を伸ばした。


水を飲む。


冷たい。


それでも、舌の奥にあるざらつきは消えなかった。


廊下の向こうで、小さな音がした。


木の軋みか、雨音か、エマの足音か。


ノアは耳を澄ます。


音はもうしない。


この館では、音のないことの方が多い。エマは歩くのも静かで、扉を閉める時も、茶器を置く時も、ほとんど音を立てない。


その静けさを、ノアはずっと心地よいものだと思っていた。


今は、少しだけ違った。


音がしないということは、誰かがいないという意味ではない。


誰かが、音を立てずにいるという意味でもある。


「……馬鹿みたい」


自分に言い聞かせる。


怖がるようなことは何もない。


ただの夢。


雨の日に見た、少し悪趣味な夢。


エマが明日の朝、いつものように扉を叩けば、きっと全部笑える。


そう思いながらも、ノアはなかなか目を閉じられなかった。


ただの夢。


手を見る。


暗がりの中では、輪郭しか分からない。


ノアは指を動かした。


普通に動く。


何もおかしくない。


「……変な夢」


小さく呟いて、寝返りを打つ。


もう一度眠れば忘れる。


そう思った。


けれど、まぶたを閉じても、木目のような線だけがしばらく残っていた。


翌朝、ノアは少し寝坊した。


目覚めた時には、いつもより光が明るかった。


「ご主人様」


扉の外で、エマが待っていた。


「お目覚めでしょうか」


「……ええ」


声が少しかすれている。


夢のせいで、眠った気がしない。


エマが入ってくる。


手にはいつもの布と、朝の支度を載せた盆。


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


「……大丈夫」


「お顔色が少し」


「眠りが浅かっただけよ」


「夢を見られましたか?」


その言葉に、ノアは顔を上げた。


「どうして?」


「ご主人様が、少し苦しそうにされていましたので」


「見ていたの?」


「扉の外で、様子をうかがっておりました」


「……夜中に?」


「ご主人様がよくお休みになれているか、気になりましたので」


エマは悪びれない。


心配していただけ、という顔をしている。


実際、そうなのだろう。


そうなのだろうけれど。


「次からは、寝ているところまで心配しなくていいわ」


「はい」


素直に頷く。


その素直さに、かえって言葉を失う。


「朝食は?」


「ご用意できています」


「……そう」


食卓に向かう。


そこには、いつも通りの朝食が並んでいた。


温かなスープ。焼いたパン。果物。


夢で見た木片など、どこにもない。


ノアはほっとした。


自分でも、そのことに少し驚いた。


「どうかされましたか?」


「いいえ」


ノアは席に着き、スプーンを取った。


スープは温かい。


味もある。


昨日より少し濃いくらいだった。


「……悪くないわ」


「ありがとうございます」


エマは嬉しそうに微笑む。


いつもの朝だ。


何も変わらない。


そう思おうとして、ノアはスプーンを握る手に目を落とした。


夢の中の木目は、もちろんない。


あるはずがない。


「……」


「ご主人様?」


「何でもないわ」


ノアはスープを飲んだ。


少し熱かった。


喉を通る感覚が、やけにはっきりしていた。


その日は、急ぎではない回収に出ることになった。


雨は上がっていたが、森の道はまだ濡れている。


エマがローブを用意し、手袋を差し出した。


「本日は足元が悪いかもしれません」


「分かっているわ」


「ご無理はなさらないでください」


「しないわ」


「お体は」


「大丈夫」


先に答えると、エマは少しだけ目を丸くした。


「……はい」


「あなたが聞くと思ったの」


「聞こうと思っていました」


「でしょうね」


ノアは手袋をはめる。


指先まで白い布に覆われると、少し落ち着いた。


面をつけ、フードを深く被る。


「行ってくるわ」


「はい。お待ちしております」


扉を開ける。


外の空気は、雨上がりの匂いがした。


道はぬかるんでいた。


森の葉から、時折雫が落ちる。足元に気をつけながら歩くと、いつもより時間がかかった。


今日の回収場所は、西の古井戸の近くだった。


昔は村があったらしいが、今は石垣と崩れた井戸だけが残っている。


ノアは井戸のそばに立った。


水面は暗く、雨のせいで少し濁っている。


ふと、そこに自分の影が映った。


「……」


黒いローブ。深いフード。面。


輪郭は水で歪んでいた。


それだけなのに、一瞬だけ、見てはいけないものを見たような気がした。


すぐに視線を外す。


「馬鹿みたい」


水面など、歪んで見えるに決まっている。


鏡ではないのだから。


回収するものは、井戸の脇に埋まっていた。


土を少し掘ると、布に包まれた小さなものが出てくる。


冷たく、軽い。


形はよく分からない。


「……」


ノアはそれを鞄にしまった。


中身を確認する必要はない。


回収は回収だ。


帰り道、何度か足を滑らせそうになった。


そのたびに、エマの「足元にお気をつけください」という声を思い出す。


彼女は本当に何でも心配する。


それを可愛いと思うべきなのか、少し鬱陶しいと思うべきなのか、分からなかった。


館に戻ると、エマは扉の前にいた。


まるで、ノアが帰る時刻を知っていたみたいに。


「おかえりなさいませ、ご主人様」


「ただいま」


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


「……足を滑らせかけただけよ」


「お怪我は?」


「ないわ」


エマはほっとしたように息をついた。


「よかったです」


「本当に大げさ」


「ご主人様がご無事なのは、よいことです」


そう言って、エマはノアのローブを脱がせる。


濡れた裾を丁寧に拭き、手袋を外し、面を机に置いた。


その手つきは昨日と同じだった。


ノアはそれを黙って見ている。


「何かございましたか?」


「いいえ」


「ご主人様が、こちらを見ていらっしゃいますので」


「見ていただけで何かあると思うの?」


「少し嬉しいです」


「……そう」


言葉に困って、ノアは視線を逸らした。


廊下の壁にかかった絵が目に入る。


古い森の絵だ。


その隣には、花瓶。


その隣には燭台。


やはり、鏡はない。


そのことに気づいた瞬間、昨日の夢の手が頭をよぎった。


ノアはすぐにその考えを振り払う。


「紅茶にしましょう」


「はい」


エマは嬉しそうに答えた。


その夜、ノアは早めに寝るつもりだった。


夢を思い出したくなかったし、エマにまた夜更かしを心配されるのも面倒だった。


けれど、書斎で本を読んでいると、いつの間にか時間が過ぎていた。


「ご主人様」


扉の前にエマが立っていた。


手には紅茶。


「もうそんな時間?」


「はい」


「あなた、時計でも見ているの?」


「ご主人様がお休みになる時間ですので」


「答えになっていないわ」


エマは少しだけ困ったように笑った。


「本日の紅茶です」


ノアはカップを受け取る。


香りは昨日と同じ。甘さも同じ。


飲むと、すぐに身体の奥が緩んだ。


「……やっぱり、よく効くわね」


「ご主人様がよくお休みになれるようにしておりますので」


「眠れすぎるのも困るのだけれど」


「お体に悪いですか?」


「そういうわけではないけれど」


「では、よかったです」


エマは納得したように頷いた。


ノアは苦笑する。


この子には、時々本当に勝てない。


「エマ」


「はい」


「あなたは、私が眠った後、何をしているの?」


ふと、そんな問いが口から出た。


理由は分からない。


夢で、エマが台所にいたからかもしれない。


「片付けをします」


「それだけ?」


「翌日の準備をします」


「それから?」


「休みます」


「どこで?」


エマは一瞬、止まった。


ほんの一瞬。


すぐに微笑む。


「私の部屋で」


「あなたの部屋って、どこだったかしら」


「廊下の奥です」


「そう」


廊下の奥。


どの奥だろう。


この館にはいくつか使っていない部屋がある。


エマの部屋に入ったことがあっただろうか。


思い出そうとして、まぶたが重くなった。


「ご主人様」


「……何?」


「夜更かしはダメですよ?」


「分かっているわ」


少しだけ間がある。


ノアは先に言った。


「禁忌、でしょう?」


エマは嬉しそうに微笑んだ。


「はい」


その笑顔を見て、なぜか少しだけ胸がざわついた。


「……おやすみ」


「おやすみなさいませ、ご主人様」


寝室に戻り、ベッドに入る。


眠気はすぐに来た。


逆らう気もなかった。


夢を見た。


今度は、知らない部屋だった。


けれど、どこかで見たような気がした。


ベッドがなかった。


代わりに、天井から縄が垂れている。


床には、古い木の台のようなものがある。


壁際には本が積まれていた。


エマがいた。


ストールを外していた。


首元が見えそうになって、ノアはなぜか目を逸らす。


エマは縄の下に立つ。


それを首にかける。


「……エマ?」


声は出なかった。


エマは、こちらを見ない。


ただ、いつものように静かに微笑んでいるように見えた。


縄が揺れる。


次の瞬間、ノアは目を覚ました。


「……っ」


息が詰まっていた。


部屋は暗い。


雨は止んでいる。


何の音もしない。


ノアは自分の首に手を当てた。


何もない。


当たり前だ。


「夢……」


声が震えている。


ノアはしばらく動けなかった。


エマに言うべきだろうか。


変な夢を見たと。


でも、何と言えばいい。


あなたが首を吊る夢を見ました、なんて。


馬鹿げている。


縁起でもない。


きっと、昨夜の「禁忌」という言葉が変な形で夢に出ただけだ。


ノアはそう結論づけた。


そうしなければ、眠れそうになかった。


翌朝、エマはいつも通りだった。


ストールを巻き、花飾りをつけ、穏やかに微笑んでいる。


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


その声を聞いた時、ノアは少しだけ黙った。


「……大丈夫よ」


「よかったです」


エマは安心したように笑う。


その首元のストールは、昨日と同じように綺麗に巻かれていた。


ノアは、そこから目を逸らした。


何も変わっていない。


何もおかしくない。


そう思うことにした。


それでも、胸の奥に残った小さな違和感は、消えなかった。


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