表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
それは祝福と呼ばれている。  作者: 高山 墨人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/8

第一章 夜更かしはダメですよ?

それは、普通の朝だった。


朝の光が、やわらかく差し込んでいた。


古びた館の窓は、外の森を薄い緑色に透かしている。白いカーテンが静かに揺れ、磨かれた床の上に、淡い光の帯が落ちていた。


ノアはその光の端を眺めながら、寝台の上でしばらくぼんやりとしていた。


この館は静かだ。


静かすぎるほどに。


けれどノアは、その静けさが嫌いではなかった。


街の喧騒も、よその家の生活音も、ここまではほとんど届かない。聞こえるのは、木々が揺れる音と、たまに廊下の向こうを歩くエマの足音くらいだ。


館は古いけれど、荒れてはいない。壁紙は深い葡萄酒のような色で、窓枠には黒檀の細工が施され、廊下には夜の森を思わせる緑の絨毯がまっすぐ伸びている。古い屋敷特有の重たさはあるが、エマが毎日磨いているせいか、暗さよりも落ち着きの方が勝っていた。


壁際には真鍮の燭台が等間隔に並んでいる。朝なので火は入っていないが、皿の縁には昨夜の蝋が薄く固まり、油壺の口には布で丁寧に栓がされていた。夕暮れになると、エマが一つずつ油を足し、火を灯して回る。そうすると館全体が、赤銅色の光を吸って、昼とは違う顔になる。


小卓の上には、昨日エマが棚の奥から見つけた薄い絵本が伏せられていた。花の中に住む小さな妖精と、白い角を持つ獣が描かれた、子供向けの古い本だ。街の新聞には、竜害の記事が珍しくもなく載っている。妖精の一匹や二匹いても、不思議ではないのだろう。それでも、そういう本をエマが大切そうに撫でていたことの方が、ノアには少しおかしかった。


「ご主人様」


扉の向こうから、控えめな声がした。


「お目覚めでしょうか」


「……ええ。起きているわ」


返事をすると、扉が静かに開いた。


エマが入ってくる。


金色の髪をきちんと結い、白い花飾りをつけ、今日も首元には淡い色のストールを巻いていた。朝の光を受けて、その姿は絵の中の従者のように整って見える。


手には、きれいに畳まれた布。


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


「朝から大げさね。少し寝起きが悪いだけよ」


「それなら、よかったです」


エマは心底安心したように微笑んだ。


その顔を見ると、こちらまで気が抜ける。


「顔を拭きますか?」


「自分でできるわ」


「はい。では、こちらを」


差し出された布は、ちょうどよい温度に湿っていた。


ノアはそれを受け取って顔を拭く。温かさが目元に染みて、ようやく頭がはっきりしてきた。


「朝食は?」


「ご用意できています」


「相変わらず早いのね」


「従者ですので」


エマは胸を張るでもなく、ただ当然のこととしてそう言った。


ノアは小さく笑い、寝台から下りた。


食堂へ向かう廊下は、いつものように整っていた。


壁際の花瓶には昨日と違う花が活けられている。白い小花と、淡い紫の花。エマの好みなのか、ノアに合わせているのかは知らないけれど、館の古さにはよく似合っていた。


廊下の途中には、背の低い飾り棚がある。飴色に艶の出た古い木製で、扉には翼を広げた小さな竜の彫りが入っていた。棚の上には銀の呼び鈴と、使われなくなった香炉が置かれている。香炉には海辺の町で採れる人魚香がわずかに残っていて、近づくと潮と花を混ぜたような匂いがした。


こういう古いものに囲まれていると、外の世界が少し遠くなる。けれど、その遠さがこの館には似合っていた。


食卓には、すでに朝食が並んでいた。


湯気の立つスープ。薄く焼いたパン。果物の蜜煮。香草を添えた小さな皿。


見た目だけなら、街の宿で出されるものよりよほど上品だ。


「今日はまともね」


席に着きながら言うと、エマの顔がぱっと明るくなった。


「はい、ちゃんとしました」


「前はちゃんとしていなかったの?」


「していませんでした」


あまりにも迷いのない返事だったので、ノアは思わず笑ってしまった。


「自覚はあるのね」


「あります」


「結構なことだわ」


エマは嬉しそうに椅子を引いた。


「どうぞ、ご主人様」


「ええ」


スープを一口飲む。温かく、舌にやさしい。朝に重すぎず、けれど薄すぎもしない。


「……悪くないわ」


「本当ですか?」


「嘘を言う理由がないでしょう」


「嬉しいです」


エマは、褒められた子供みたいに笑った。


そのままノアの横に立ち、食卓の上をじっと見ている。


「……何?」


「見ています」


「それは分かるわ」


「ご主人様が、ちゃんと召し上がっているか確認しています」


「私は子供じゃないのだけれど」


「はい」


「はい、じゃなくて」


エマは少しだけ首を傾げた。


「では、心配です」


「余計に子供扱いされている気がするわ」


「そうでしょうか」


「そうよ」


ため息をつくと、エマは困ったように笑った。


ノアはパンをちぎり、皿の端を指で示す。


「座れば?」


「よろしいのですか?」


「立たれていると落ち着かないの」


「かしこまりました」


エマは少しだけ嬉しそうに、ノアの斜め向かいに腰掛けた。


座っているだけなのに、背筋がぴんと伸びている。食事の席というより、式典に出ているみたいだった。


「緊張しすぎよ」


「失礼のないようにと思いまして」


「今さらでしょう」


「そうかもしれません」


また笑う。


エマの笑い方は静かだ。声を立てることは少ない。でも目元がやわらかくなるので、笑っていることはすぐに分かる。


「あなたは食べないの?」


ノアが尋ねると、エマはいつものようにすぐ答えた。


「私は従者ですので、ご主人様の給仕が終わった後にいただきます」


「毎回それね」


「はい」


「本当に食べているの?」


「本当です」


迷いがない。


ノアはそれ以上聞かなかった。


このやりとりも、もはや日課のようなものだった。


食後、エマは皿を片付け、ノアは窓辺の椅子へ移動した。


窓の外では、森の奥へ続く道が光を受けている。今日は外に出る予定がある。天気は悪くない。むしろ、回収に向く日だ。


「本日は、北の廃礼拝堂の回収札が出ています」


エマが食器を片付けながら言った。


「そう。いつもの回収ね」


「はい、ご主人様」


「札には?」


「北の廃礼拝堂と記されています。古い魔具の回収です」


エマが差し出したのは、黒い封の印が押された小さな紙片だった。紙の端には、礼拝堂の名が細い文字で書かれている。


「分かったわ」


回収の仕事は、面白いものではない。


古くなった魔具や、役目を終えた護符、家に置いておくには扱いに困るものを引き取る。危険なものは少ないが、何も知らない者が触るには厄介な品もある。


だから、決まった装いで行く。


エマはノアの外出用のローブを用意した。


濃い紺色の長いローブ。手袋。顔を半分ほど覆う、薄い装飾のついた面。


この仕事では、こういう服装をするものだと昔から決まっている。


「今日も面を?」


「はい。正装ですので」


「分かっているわ。少し息苦しいだけ」


「紐を緩めますか?」


「いいえ。見苦しくなければそれでいい」


「ご主人様は、何を着てもお綺麗です」


「そういうことは言わなくていいの」


「思ったことです」


「なおさらよ」


エマは納得しているのかいないのか、静かにうなずいた。


それから手袋を差し出してくる。


「どうぞ」


「ええ」


手袋をはめると、エマは指先の皺を一つずつ直した。丁寧すぎるくらい丁寧に。


「そこまでしなくていいわ。私は子供じゃないのだから」


「存じております」


「本当に? それなら、もう少し雑でもいいのに」


照れ隠しのように言っただけだった。


けれどエマは、少しだけ背筋を伸ばした。


「雑にはできません」


迷いのない答えだった。


「そういうところが、律儀すぎるのよ」


「そうなのですか?」


「……もういいわ」


ノアはその様子を見下ろして、ふと彼女の首元に目を留めた。


「……まだ、そのストールを使っているのね」


エマの手が止まる。


彼女は自分の首元に触れ、少しだけ目を丸くした。


「はい」


「だいぶ前にあげたものでしょう。別のものもあるのに」


「ご主人様からいただいた、大切なものですから」


あまりにも真っ直ぐ言うので、こちらの方が困ってしまう。


「大げさね。ただのストールよ」


「ただのものではありません」


「そう?」


「はい。ご主人様からいただいたものです」


エマは、そこだけは譲らないという顔をした。


ノアは少しだけ目を逸らす。


「……好きにしなさい」


「はい」


嬉しそうだった。


首元にある柔らかな布を、エマは本当に大切そうに整えた。


外へ出ると、空気は少し冷たかった。


館の周囲には誰もいない。森の道を抜け、古い石畳の残る小道へ出る。礼拝堂までは歩いて半刻ほど。人通りは少ないが、たまに荷車の跡が残っている。


エマは玄関の前で見送ってくれた。


「お早いお戻りをお待ちしております」


「従者は家で主人の帰りを待つもの、だったかしら?」


「はい。従者は家のことをして、ご主人様の帰りを待つものです」


「あなたらしいわね」


「温かい紅茶もご用意しておきます」


「それは楽しみね」


そう言うと、エマは目を細めた。


「お気をつけて、ご主人様」


「ええ。行ってくるわ」


礼拝堂での回収は、何事もなく終わった。


古い石造りの建物は、外から見るほど荒れてはいなかった。エマが渡した回収札には、小さな古い鍵が結ばれていた。ノアはそれで扉を開け、祭壇脇の小部屋から、封のされた小箱と、割れた香炉を引き取った。


小箱には簡単な封印がかかっていた。危険なものではない。古いだけだ。


香炉も同じ。かつて祈りに使われていた魔具で、放っておくと周囲の灯りを吸う性質があるらしい。だから専門の回収が必要になる。


こういう品には、物語がついている。


誰かの祈り。誰かの願い。誰かが忘れた習慣。けれどノアは、必要以上にそれを知ろうとは思わなかった。


仕事は仕事だ。


持ち帰り、記録し、所定の場所へ納める。


それで十分。


館へ戻るころには、昼を少し過ぎていた。


扉を開けると、すぐに声がした。


「おかえりなさいませ、ご主人様」


エマが玄関に立っていた。


まるで、ノアが扉を開ける瞬間を知っていたみたいに。


「ただいま」


自然に言葉が出る。


その声を聞いただけで、外の冷たさが少し遠のいた気がした。


「回収は無事終わりましたか?」


「ええ。何も問題なかったわ」


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


「大丈夫よ。少し歩いただけ」


「お疲れでしたら、すぐに紅茶を」


「あなた、本当に紅茶のことばかり考えているのね」


「ご主人様がお戻りになるので」


理由になっているようで、なっていないような言い方だった。


でも、今はそれでよかった。


エマはノアのローブを脱がせ、手袋を外し、面を丁寧に布で拭いた。


指先が器用に動く。結び目を解くのも、襟を整えるのも、ノアよりずっと上手い。


「あなたは、こういうことだけは本当に上手ね」


「こういうことだけ、ですか?」


「褒めているのよ」


「ありがとうございます」


エマは素直にうなずいた。


嫌味が通じない、というわけではない。ただ、ノアの言葉を悪く受け取ろうとしない。


それが時々、少しだけ眩しく感じる。


昼食は軽いものだった。


香草の入ったパンと、温かいミルク。薄切りの果物。甘い菓子が一つ。


エマはノアが席に着くまで待ち、カップを置いた。


「甘いものは珍しいわね」


「ご主人様がお疲れかと思いまして」


「だから大丈夫だと言ったでしょう」


「はい。ですが、念のためです」


「念のためが好きね」


「ご主人様のことですので」


また、その言い方。


ノアは小さく肩をすくめて、菓子を一口食べた。


「……悪くない」


「よかったです」


エマは自分が食べたわけでもないのに、満足そうにしていた。


午後は、回収品の記録をつけた。


机に向かっている間、エマは少し離れた場所で布を畳んでいた。ときおり本棚を整え、花瓶の花を整え、ノアのカップが空になるとすぐに注ぎ足す。


何も言わなくても、必要なものが出てくる。


慣れすぎていて、時々それが当たり前になっていることに気づく。


「エマ」


「はい、ご主人様」


「あなた、私が何も言わなくても動くわね」


「ご主人様が何を必要とされるか、考えていますので」


「外れることもあるでしょう」


「あります」


「認めるのね」


「はい。もっと上手になります」


まっすぐだった。


ノアは羽根ペンを置き、椅子の背にもたれた。


「どうして、そこまで世話を焼くのかしら」


朝も似たことを聞いた気がする。けれど、もう一度聞きたくなった。


エマは手を止めた。


ほんの少し考えて、それから言う。


「幸せだからです」


「……幸せ?」


「ご主人様のお世話をしている時間が、一番幸せです」


ノアは返事に迷った。


重い、と言えばいいのか。変わっている、と言えばいいのか。


どちらにしても、エマは傷つかなさそうだった。


「変な子ね」


「はい」


「そこは否定しなさい」


「ご主人様がそう思われるなら、そうなのだと思います」


「そういうところよ」


エマは困ったように笑った。


「でも、本当です」


「何が」


「私は、ご主人様がここにいてくださることが嬉しいです」


あまりにも素直な言葉だった。


ノアは視線を机に落とす。


「……そう」


「はい」


それ以上は、聞かなかった。


翌日は雨だった。


回収の予定はなく、館の中で過ごすことになった。


雨の日の館は、いつもより少し暗い。窓を叩く雨音が、部屋の中の静けさをかえって深くしていた。


ノアは読書をしていた。


魔術史の本。古い言い回しが多くて読みにくいが、眠気覚ましにはなる。


エマはノアの足元に近いところで、裁縫箱を開いていた。


ローブのほつれを直している。


「そこまでしなくても、買い替えればいいのに」


「まだ使えます」


「あなたは物持ちがいいわね」


「ご主人様のものですから」


「私のものだから捨てられないの?」


「はい」


即答だった。


ノアは本から目を上げる。


「じゃあ、私がいらないと言ったら?」


「……保管します」


「いらないと言ったのに?」


「いつか必要になるかもしれません」


「ならないかもしれないわ」


「それでも、保管します」


少し頑固だった。


ノアは呆れながらも、どこか可笑しくなる。


「私のものに関してだけ、妙に意地を張るのね」


「大切ですから」


エマは針を動かしながら言った。


「ご主人様のものは、私にとっても大切です」


雨音が間を埋めた。


ノアは本を閉じる。


「そのストールも?」


エマは顔を上げた。


「はい」


「本当に気に入っているのね」


「首元にあると、落ち着きます」


「そういうもの?」


「はい。ここにあるのが自然です」


エマは首元の布にそっと触れた。


その仕草が、あまりに大切そうだったので、ノアはそれ以上からかうのをやめた。


「似合っているわ」


言ってから、自分でも少し驚いた。


エマはもっと驚いた顔をした。


「……本当ですか?」


「嘘を言う理由がないでしょう」


エマは、ぱっと笑った。


その顔は、花が開くようだった。


「ありがとうございます、ご主人様」


「そんなに喜ぶこと?」


「はい」


「……そう」


ノアはまた本を開く。


文字を追いながら、なぜか少しだけ顔が熱かった。


昼過ぎ、ノアはうっかり椅子の脚に足をぶつけた。


大した痛みではない。少し音がしただけだ。


けれど、エマはすぐに駆け寄ってきた。


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


「大丈夫よ。ただぶつけただけ」


「お怪我は?」


「ないわ」


「確認してもよろしいですか?」


「よろしいわけないでしょう」


「そうですか」


しゅん、とした顔をした。


ノアはため息をつく。


「……本当に大丈夫だから、そんな顔をしないで」


「はい」


「心配しすぎよ」


「ご主人様のことですので」


「またそれね」


エマは、いつものように小さく微笑んだ。


雨の日は、時間が長い。


外へ出ない分、館の中の細かな音がよく聞こえる。ペン先が紙を擦る音。エマが布を畳む音。茶器が触れ合う小さな音。


ノアは午後の半分を、エマに髪を梳かせて過ごした。


「少し伸びましたね」


「切った方がいいかしら」


「ご主人様は、長い髪もお似合いです」


「あなたに聞くと、何でも似合うと言われそうね」


「はい」


「否定しなさい」


「難しいです」


櫛が髪を通る。


エマの手つきは丁寧で、力加減も悪くない。いつの間に覚えたのか、編み込みも上手かった。


「器用ね」


「ご主人様のお役に立てることは、覚えたいので」


「またそういうことを言う」


「変でしょうか」


「……少し」


「では、少し変です」


ノアは笑ってしまった。


エマも、つられるように笑う。


雨の日の午後に、こんなふうに笑うことがあるのだと、その時初めて気づいた。


翌朝、雨は上がっていた。


けれど庭の草はまだ濡れていて、窓の外には小さな水滴が残っていた。光を受けるたびに、草の先がきらきらと光る。


ノアは食後、珍しく庭へ出た。


館の裏手には、手入れされた小さな庭がある。大きな庭ではない。白い石の小道と、季節ごとの花を植えた花壇、それから古びたベンチが一つ。エマがよく手入れをしているらしく、雨の後でも荒れた様子はなかった。


「足元が滑ります。お気をつけください」


エマが後ろから声をかけてくる。


「あなたは本当に、そればかりね」


「ご主人様が転ばれたら大変ですので」


「そんなに簡単には転ばないわ」


「はい。ですが、もし転ばれたら、私が支えます」


「あなたの方が小さいでしょう」


「頑張ります」


真面目に言うので、ノアはまた笑ってしまった。


エマは何がおかしいのか分からないという顔をしている。


「頑張るだけで支えられるなら、世話はないわ」


「では、もっと頑張ります」


「そういう意味ではないの」


庭の奥では、雨に濡れた花が少しだけ頭を下げていた。エマはそれに気づくと、すぐに近づいて、茎の下に小さな支えを立てる。


その手つきは慎重だった。花びらを傷つけないように、指先だけでそっと触れる。


「花の世話も上手なのね」


「ご主人様が見る場所ですので」


「私が見なかったら?」


「それでも整えます」


「どうして?」


「整っている方が、ご主人様にふさわしいと思います」


「……それ、褒めているつもり?」


「はい」


エマは振り返って笑った。


ノアは返事をする代わりに、花壇の前でしゃがむ。


白い小花の間に、淡い紫の花が混じっている。昨日、花瓶に活けてあったものと同じ種類だ。


「これ、あなたが選んだの?」


「はい。ご主人様に似合うと思いました」


「花が私に?」


「はい」


「褒め方が独特ね」


「失礼でしたか?」


「いいえ。悪くないわ」


エマは嬉しそうに目を細めた。


少しして、彼女は一本だけ折れてしまった花を拾い上げる。


「こちらは、後で机に飾ってもよろしいですか」


「好きにしなさい」


「はい」


その「はい」は、命令を受けた従者というより、贈り物を許された少女のようだった。


部屋に戻ると、エマは本当にその花を小さな瓶に挿し、ノアの机の端に置いた。


書類の山の横に花があると、少しだけ部屋がやわらかく見える。


「……悪くないわね」


「ありがとうございます」


「あなた、今日は何回礼を言ったか覚えている?」


「数えていません」


「でしょうね」


「次から数えましょうか?」


「やめてちょうだい」


エマはこくりとうなずいた。


その日は、書庫の整理もした。


館の書庫は古い本が多く、背表紙の文字がかすれているものもある。ノアが仕事で使う魔術目録や、回収品の記録帳、礼式の本、古い地図。それらを分類し直すのは、思っていたより骨が折れた。


エマは脚立に上ろうとするノアを見て、すぐに眉を下げた。


「ご主人様、私が取ります」


「届くわ」


「危ないです」


「届くと言っているでしょう」


「はい。ですが、危ないです」


同じ調子で返され、ノアは脚立の上でため息をついた。


「あなたは時々、意外と頑固ね」


「ご主人様の安全に関しては、そうかもしれません」


「それを自覚しているのなら、少し控えなさい」


「難しいです」


「即答しないで」


結局、ノアは脚立から降りて、エマに本を取らせた。


エマはそれはもう嬉しそうに、棚の上段から目録を取り出した。


「これでよろしいですか?」


「ええ」


「他にもありますか?」


「そんなに働きたいの?」


「ご主人様のお役に立てるなら」


「……分かったわ。では、その棚の古い地図もお願い」


「はい」


エマはすぐに手を伸ばす。


背はノアより低いのに、不思議と細かな作業はノアよりずっと丁寧だ。


彼女が地図を広げると、古い紙の匂いがした。


「あなた、本は読むの?」


「ご主人様が必要とされる本は読みます」


「そうではなくて、あなた自身が読みたい本は?」


エマは少し考えた。


「礼儀作法の本でしょうか」


「あなたらしいわね」


「従者として足りないところがあるかもしれませんので」


「十分だと思うけれど」


言った瞬間、エマの手が止まった。


彼女はゆっくりこちらを見た。


「……本当ですか?」


「ええ。少なくとも、私には過ぎた従者よ」


言い終えてから、少し照れくさくなる。


エマはしばらく動かなかった。


それから、両手で地図を抱えたまま、深く頭を下げる。


「ありがとうございます」


「大げさ」


「嬉しいです」


「……そう」


「とても」


「分かったから、地図を潰さないで」


「あ」


エマは慌てて地図を机に置いた。


その様子があまりに真剣で、ノアはまた笑った。


昼過ぎになると、少し眠くなった。


雨上がりの庭、古い本の匂い、暖炉の火。すべてが眠気を誘う。


ノアは居間の長椅子に腰掛け、いつの間にかうとうとしていたらしい。


目を開けると、膝に薄い毛布がかかっていた。


エマがすぐそばに座り、手元で糸を巻いている。


「……寝ていた?」


「少しだけ」


「起こせばよかったのに」


「お疲れのようでしたので」


「また心配?」


「はい」


エマは迷いなく答えた。


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


「大丈夫よ。少し眠かっただけ」


「よかったです」


その声が、あまりにやさしかった。


ノアは毛布の端を指でつまむ。


「これ、あなたが?」


「はい。冷えるかと思いまして」


「気が利きすぎると、かえって落ち着かないわ」


「申し訳ありません」


「謝らなくていいの。褒めているのよ、多分」


「多分、ですか」


「ええ。多分」


エマは少し考えてから、控えめに笑った。


「では、多分ありがとうございます」


「変な返し」


「ご主人様の真似をしました」


「私、そんなに変なことを言っている?」


「少し」


「言うようになったわね」


エマは、しまったという顔をした。


「申し訳ありません」


「いいわ。少しくらい言い返せる方が、人間らしいもの」


何気なく言った言葉だった。


エマはそれを大切そうに受け取った。


「人間らしい、ですか」


「何よ、その顔」


「嬉しいです」


ノアはまた困って、毛布をかぶり直した。


「……寝るわ」


「はい。おそばにおります」


「そこまでしなくていい」


「では、少し離れたところにおります」


「……好きにしなさい」


「はい」


目を閉じる前に、エマがそっと暖炉の火を弱めるのが見えた。


眠りに落ちる直前、胸の奥に静かな安堵だけが残った。


こういう静かな日が、これからも続いていくような気がした。


その夕方、ノアはエマの髪を結い直すことになった。


きっかけは些細なことだった。庭仕事の途中で風に吹かれたらしく、エマの編み込みが少しだけ崩れていたのだ。


「そこ、ほどけているわ」


ノアが指摘すると、エマは自分の髪に触れた。


「失礼いたしました。すぐ直します」


「自分では見えないでしょう。こっちへ来なさい」


「……よろしいのですか?」


「何が?」


「ご主人様のお手を煩わせてしまいます」


「髪を結ぶくらいで大げさね」


椅子を指さすと、エマはおそるおそる腰掛けた。


まるで何か特別な儀式でも始まるみたいに、両手を膝の上で揃えている。


「そんなに緊張しないで」


「緊張しています」


「正直ね」


「ご主人様に髪を触っていただくのは、初めてですので」


「……そうだったかしら」


「はい」


エマはほんの少しだけ、声を弾ませていた。


ノアは彼女の髪飾りを外し、金色の髪に指を通す。柔らかく、ほどけやすい髪だった。いつも自分で丁寧に結っているのだろう。少し乱れているだけで、櫛を通すとすぐに整った。


「動かないで」


「はい」


「痛かったら言いなさい」


「痛くありません」


「まだ引っ張ってもいないわ」


「ご主人様なら大丈夫です」


「信用が重いのよ」


エマは小さく笑った。


ノアは髪を二つに分け、ゆっくり編み直していく。人の髪を結うことなんてほとんどない。少し不格好になるかもしれないと思ったが、エマは終始、嬉しそうにしていた。


「これでいいかしら」


最後に花飾りをつけ直す。


エマは両手で自分の髪に触れた。


「ありがとうございます」


「この角度だと、仕上がりは保証しないわよ」


「ご主人様が結んでくださったので、それで十分です」


「本当に、あなたはそればかりね」


「はい」


エマは振り返って笑う。


その顔があまりに幸せそうだったので、ノアは少し困った。


結い終えた髪を、エマは何度も指先で確かめていた。


きっと、仕上がりそのものを気にしているのではない。


ノアが触れた場所を、消さないようにしているのだ。


「そんなに触っていたら、かえって崩れるわよ」


「崩れても、今日のものですので」


「今日のもの?」


「はい。ご主人様が結んでくださった、今日だけの髪です」


まるでその一日を、そっと栞に挟んでしまうような言い方だった。


ノアは、呆れるより先に、少しだけ胸の奥がくすぐったくなった。


「髪なんて、明日にはほどくでしょう」


「はい」


「それでもいいの?」


「はい」


エマは迷わない。


そういうところが、時々ずるいと思う。


大切にされているのは分かる。けれど、その大切にされ方があまりに真っ直ぐで、逃げ道がない。


茶器も、手袋も、ストールも、ローブも、ノアの机に飾られる折れた花も。


エマはすべてを、同じように丁寧に扱う。


違うのは、それがノアに関わるものだという一点だけだった。


「ねえ、エマ」


「はい、ご主人様」


「あなたは、私があげたものなら何でも大切にするの?」


「はい」


「壊れていても?」


「はい」


「使えなくなっても?」


「はい」


即答だった。


「……理由は?」


「ご主人様のものですので」


「答えになっていないわ」


そう言いながら、ノアはもう、それ以上を聞かなかった。


聞けばきっと、エマはまた少しずれた答えを返す。


けれど今は、そのずれをただ可愛いと思っていたかった。


「……変なら後で直しなさい」


「直しません」


「なぜ」


「今日はこのままがいいです」


ノアは言葉に詰まる。


それから、仕方なく肩をすくめた。


「好きにしなさい」


「はい」


その日の夜、エマは本当に、その少しだけ不格好な編み込みのままでいた。


花飾りがいつもより少し傾いていたけれど、本人は気づいていないのか、気づいていて直さないのか、終始ご機嫌だった。


夕食の後、ノアは机に向かって回収記録をまとめた。


エマは隣で、今日使った外出用の手袋を手入れしている。


「あなた、手袋の手入れまでしているの?」


「はい。ご主人様が次に使われる時、気持ちよくお使いいただけるように」


「私、そこまで気にしたことがないわ」


「では、私が気にします」


「そういうもの?」


「はい」


エマは何の迷いもなく言った。


ノアはペンを置く。


「もし私が、もうそんな世話はいらないと言ったら?」


エマの手が少し止まった。


それでも彼女はすぐに答える。


「ご主人様がそう望まれるなら、控えます」


「本当に?」


「はい」


「そのわりに、ひどく寂しそうな顔をしているけれど」


「……寂しいです」


素直すぎる。


ノアはまた困る。


「でも、控えるの?」


「ご主人様が望まれるなら」


「では、望まないわ」


エマはぱっと顔を上げた。


「よろしいのですか?」


「あなたがそんな顔をするからよ」


「どんな顔でしょうか」


「面倒な顔」


「面倒でしたか」


「ええ、とても」


そう言うと、エマはなぜか嬉しそうに笑った。


「では、これからもお世話してよろしいですか」


「好きにしなさい」


「はい」


返事が早い。


ノアは呆れたふりをして、またペンを取った。


それからまた数日、穏やかな日が続いた。


小さな回収札が一つ。古い封じ札が二枚。古い魔具の整理。庭の花の入れ替え。変わったことは何もない。


エマは毎朝、ノアより早く起きているようだった。ノアが食堂へ向かう頃には食事が用意され、外出の日にはローブと手袋が揃えられている。


ある朝、ノアは少しだけ意地悪を言った。


「あなた、たまには寝坊したら?」


「寝坊、ですか」


「ええ。従者だって寝坊くらいするでしょう」


「ご主人様が困ります」


「困らないわ。自分で起きるし、自分で食事も取れる」


「……」


エマが黙った。


珍しい。


「どうしたの」


「ご主人様が、ご自分で全部なさったら」


「ええ」


「私は、少し寂しいです」


その言い方が、あまりにも小さかった。


ノアはスプーンを置く。


「……冗談よ」


「冗談でしたか」


「ええ。あなたが困った顔をするから」


「困りました」


「でしょうね」


「ですが、冗談ならよかったです」


エマは本気でほっとしていた。


ノアは何となく、胸のあたりがむずがゆくなる。


「あなたは本当に、私の世話が好きね」


「はい。とても」


「即答しないで」


「考えても同じです」


ここまで真っ直ぐ言われると、からかう方が負けた気分になる。


ノアはパンをちぎりながら、視線を逸らした。


「……なら、今日もよろしく」


「はい、ご主人様」


エマの声は、朝の光みたいに明るかった。


その日の午後、ノアはエマに文字を書かせた。


理由は、回収記録の写しが必要だったからだ。いつもならノアが全部書くが、今日は量が多かった。


「手伝える?」


そう尋ねると、エマは驚いたように顔を上げた。


「私が、ですか」


「他に誰がいるの」


「はい。お手伝いします」


返事は早かったが、ペンを持つ手は少しぎこちなかった。


エマの字は綺麗だ。几帳面で、線がまっすぐで、癖が少ない。ただ、時々こちらを見ては、これで合っているかと確認してくる。


「そんなに不安そうにしなくても、読める字よ」


「ご主人様の記録に残るものですので」


「私の字より綺麗なくらいだわ」


「そんなことはありません」


「あるわ」


「ありません」


「あなた、こういう時だけ強情ね」


エマは少しだけ困った顔をした。


「ご主人様の字は、綺麗です」


「整っているとは思えないけれど」


「私には読めます」


「それは慣れているだけでしょう」


「慣れていることも、嬉しいです」


ノアは返事をし損ねた。


エマは何でも嬉しがる。ノアの癖も、面倒な仕事も、待つことも、世話を焼くことも。


その単純さが可愛くもあり、少しだけ困ったものでもあった。


しばらく二人で黙って書き写した。


窓の外では、午後の光が傾いている。


同じ部屋で同じ机に向かっているだけなのに、妙に穏やかな時間だった。


「ご主人様」


「何?」


「また、お手伝いしてもよろしいですか」


「字を書くのが気に入ったの?」


「ご主人様の隣にいられるので」


「……本当にあなたは」


ため息をつく。


けれど、不思議と嫌ではなかった。


「必要な時は頼むわ」


「はい」


エマは、まるで褒美をもらったみたいに笑った。


数日が過ぎた。


その間も、生活は何も変わらなかった。


朝、エマが起こしに来る。食事を用意する。ノアは仕事へ出る日もあれば、館で書類を片付ける日もある。夜には紅茶が出る。


淡々としている。


けれど退屈ではない。


その日の回収は、森の外れにある古い倉庫だった。


朝、エマが差し出した札には、閉鎖された薬草師の倉庫と記されていた。そこに残る魔具を引き取ることになっている。


ノアはいつものローブを羽織り、手袋をつけ、面をつけた。


エマは最後に襟元を整える。


「今日は少し遠いわね」


「はい。お戻りは夕方になるかと」


「夕食は遅くていいわ」


「温かいものをご用意しておきます」


「私の話を聞いている?」


「聞いています」


「なら、遅くていいと言ったのだけれど」


「遅くなっても、温かいものをご用意します」


どうしてもそこは譲らないらしい。


ノアは諦めて、小さく笑った。


「好きにしなさい」


「はい」


出発しようとした時、エマがノアの袖を軽く摘まんだ。


「ご主人様」


「何?」


「お帰りを、お待ちしています」


「分かっているわ」


「はい」


「そんなに不安そうな顔をしなくても、帰ってくるわよ」


「不安ではありません」


「そう?」


「はい。待つのは、従者の務めですので」


務め、と言うわりに、その顔は少し寂しそうだった。


ノアは短く息を吐く。


「エマ」


「はい」


「戻ったら、紅茶を飲むわ」


エマの表情が明るくなる。


「はい。ご用意しておきます」


「だから、そういう顔をするほどのことではないでしょう」


「私には、とても嬉しいことです」


ノアは返事に困って、背を向けた。


「行ってくるわ」


「いってらっしゃいませ、ご主人様」


倉庫での仕事は少しだけ時間がかかった。


魔具は多くなかったが、湿気で封紙が傷んでいたため、一つずつ包み直す必要があった。外は夕方へ近づき、森の中は早くも薄暗くなり始めていた。


帰り道、ノアは少し足を急がせた。


理由は分からない。


ただ、エマが待っていると思うと、あまり遅くなりたくなかった。


館に戻った時、窓には灯りがともっていた。


扉を開ける。


「おかえりなさいませ、ご主人様」


エマの声がした。


その声が、胸の奥にすとんと落ちる。


「ただいま」


ノアはそう言って、少しだけ笑った。


エマは一瞬、驚いたように瞬きをした。


「どうしたの?」


「いえ」


「変な顔をしているわ」


「ご主人様が、少し嬉しそうに見えましたので」


「気のせいよ」


「そうですか」


エマは嬉しそうだった。


気のせいだと言ったのに。


エマは、受け取った包みを胸に抱くようにして持った。


重いものではないはずなのに、両手で支えている。大切そうに、けれど少しだけ急ぐように。


「それ、そんなに丁寧に持つ必要があるの?」


「回収品ですので」


「壊れ物だったかしら」


「ご主人様がお持ち帰りになったものです」


「……またそれ」


ノアは呆れたように言った。


エマはまったく悪びれずに微笑む。


外の森では、夕方の風が濡れた葉を揺らしていた。館の中に入ると、その冷たさが背中から剥がれていく。代わりに、燭台に灯った火と、厨房から漂う温かな匂いがノアを包んだ。


戻ってきたのだと思う。


ただの館に。


ただの古い家に。


エマがいて、紅茶があって、ノアのために温められた部屋がある場所に。


「ご主人様?」


「何でもないわ」


エマが首を傾げる。


ノアは、その顔を見ないようにローブの袖を払った。


外にいる間は、自分一人で何でもできると思っている。


回収札を読み、道を歩き、封のされた箱を持ち帰る。面をつけ、手袋をはめ、決まった形で仕事を終える。


けれど館へ戻ると、すぐにエマの手が伸びてくる。


襟を直す。


手袋を外す。


濡れた髪を払う。


それが少し悔しいほど自然で、ノアは自分がどこまでを自分でしていたのか、時々分からなくなる。


「冷えていらっしゃいます」


「森を歩いたのだから当然でしょう」


「すぐに温まるようにします」


「命令していないわ」


「はい」


「はい、ではなくて」


「したいので」


エマはそう言って、当たり前のように微笑んだ。


ノアは返事に困り、少しだけ視線を逸らした。


したいからする。


その単純さが、今はまだ、ただ優しかった。


「回収品を預かります」


「ええ」


包みを渡すと、エマは両手で受け取った。


それからノアのローブに手を伸ばす。


森を歩いたせいで、裾に葉がついていたらしい。


「少し汚れています」


「森を歩いたのだから当然でしょう」


「すぐに整えます」


エマはノアに背を向け、ローブを脱がせて衣紋掛けに掛けた。裾の葉を払い、濡れた部分を布で押さえ、面を外して机に置く。


その後ろ姿を、ノアはぼんやり見ていた。


細い背中。金色の髪。首元のストール。


ノアが贈ったものを、いつも大切に巻いている。


細い肩が、ノアのために忙しく動いている。


ふと、胸の奥がやわらかくなった。


外で聞いた風の音よりも、館の中のこの静けさの方が落ち着く。


エマの「おかえりなさいませ」が、思っていたよりずっと、ノアにとって当たり前になっている。


本当に、気まぐれだった。


ノアは一歩近づき、ローブを直しているエマを、後ろからそっと抱き寄せた。


「……っ」


エマの身体が小さく強張る。


驚いたのが、腕の中で分かった。


「……何をしているのかしら、私」


自分でも可笑しくなって、すぐに離そうとした。


「ごめんなさい。忘れて」


けれどエマは振り返らなかった。


少しだけ俯いたまま、かすかな声で言う。


「忘れたくありません」


「……エマ?」


彼女がゆっくり振り返る。


頬が、ほんのり赤い。


「驚きました」


「そうでしょうね」


「でも」


エマは、目元をやわらかくして笑った。


「触れていただけて、嬉しいです」


「……そう」


視線を逸らす。


どうにも落ち着かなかった。


「変なことをしたわね」


「いいえ」


「いいえ、じゃないでしょう」


「とても、良いことでした」


真面目な顔で言うものだから、ノアはそれ以上何も言えなくなった。


「……紅茶にしましょう」


「はい」


エマは、いつもより少し弾んだ声で答えた。


夕食は本当に温かかった。


帰りが遅くなったのに、湯気の立つ料理が並んでいる。ノアは呆れながらも、少し嬉しかった。


「準備が良すぎるわ」


「ご主人様がお戻りになると思っていましたので」


「帰ると言ったでしょう」


「はい。ですから、ご用意しました」


会話になっているのか、なっていないのか。


それでも、このやりとりが心地よかった。


夜が深くなる。


夕暮れには、エマがいつものように廊下の燭台へ火を入れていた。細い指で油差しを傾け、芯の長さを整え、火を移す。ひとつ灯るたびに、壁紙の深い赤がゆっくり沈み、緑の絨毯の模様が夜の草むらのように浮かび上がる。


ノアはその手際を横目で見ながら、ずいぶん慣れたものだと思った。エマは振り返り、少しだけ得意そうに微笑む。館の灯りを整えることも、主人の帰りを待つことも、彼女にとっては同じ務めなのだろう。


館の外はすっかり暗くなり、窓には室内の灯りだけが映っていた。ノアは書類を片付け、椅子から立ち上がる。


「今日はもう休むわ」


「はい、ご主人様」


エマは待っていたようにカップを用意していた。


「本日の紅茶です」


「……毎晩ね」


「はい」


「私がいらないと言ったら?」


「ご用意だけして、お待ちします」


「結局あるのね」


「はい。お休み前の紅茶は、心が静まりますから」


カップを受け取る。


紅茶は、かすかに甘かった。


喉を通ったあと、薄い膜のようなぬくもりが身体の奥に残る。


エマの優しさが、内側からそっと包んでくれるようだった。


乾いていたものが、ゆっくりほどけていく。


「……悪くないわ」


「ありがとうございます」


エマは嬉しそうに微笑んだ。


「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」


「今日はよく聞くわね、それ」


「ご主人様が遠くまでお仕事に行かれましたので」


「大丈夫よ」


「よかったです」


その言葉が、あまりにも素直だった。


ノアはカップを傾ける。飲み終える頃には、まぶたが少し重くなっていた。


「……よく効くわね」


「よくお休みになれるようにしておりますので」


「あなたが淹れる紅茶は、いつもそう」


「ご主人様にお休みいただきたいので」


ノアはカップを返した。


エマは両手で受け取り、大切なもののように茶器を下げる。


「そろそろ寝るわ」


「はい」


寝室へ向かおうとした時、エマが後ろから声をかけた。


「ご主人様」


「何かしら」


「夜更かしはダメですよ?」


「……分かっているわ」


ノアは軽く返す。


いつものように、エマは真面目な顔でノアを見ていた。


少しだけ間があった。


そして、エマは続けた。


「夜更かしは禁忌ですから」


ノアは振り返った。


エマは、いつも通りに微笑んでいる。


「……大げさね」


そう言って、ノアは寝室の扉を閉めた。


ベッドに横になる。


館は静かだった。


何もかもが、いつも通りだった。


ただ、胸の奥に、ほんの少しだけ。


言葉にできない何かが、残っていた。


寝台の中で目を閉じても、紅茶の甘さは喉の奥に残っていた。


濃い甘さではない。


舌に貼りつくほどでもない。


ただ、飲み終えたあともしばらく、身体の内側に薄く膜を張るような甘さだった。


エマの紅茶は、いつもそうだ。


温かく、やさしく、静かに沈む。


気づけばまぶたが重くなり、考えていたことが端からほどけていく。


嫌な感じではない。


むしろ、安心に近い。


安心していいのだと、身体の方から言われているような気さえした。


「……夜更かしは禁忌、ね」


小さく呟いて、ノアは自分で少し笑った。


エマらしい大げささだ。


けれど、その言葉を思い出すと、なぜか胸の奥が少しだけざらついた。


禁忌。


夜更かしに使うには、あまりに重い言葉。


古い魔法書か、壊れた封じ札にでも書かれているような響き。


そう思ったところで、思考はまた紅茶の温度に沈んだ。


明日の朝になれば、きっと忘れている。


エマが扉を叩き、いつもの声で起こしに来る。


顔を拭く布はちょうどよい温度で、食卓には温かい皿が並び、エマは首元のストールを大切そうに整える。


それがこの館の日常だ。


それ以上のことなど、何もない。


ノアはそう思おうとした。


思いながら、眠りに落ちた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ