第一章 夜更かしはダメですよ?
それは、普通の朝だった。
朝の光が、やわらかく差し込んでいた。
古びた館の窓は、外の森を薄い緑色に透かしている。白いカーテンが静かに揺れ、磨かれた床の上に、淡い光の帯が落ちていた。
ノアはその光の端を眺めながら、寝台の上でしばらくぼんやりとしていた。
この館は静かだ。
静かすぎるほどに。
けれどノアは、その静けさが嫌いではなかった。
街の喧騒も、よその家の生活音も、ここまではほとんど届かない。聞こえるのは、木々が揺れる音と、たまに廊下の向こうを歩くエマの足音くらいだ。
館は古いけれど、荒れてはいない。壁紙は深い葡萄酒のような色で、窓枠には黒檀の細工が施され、廊下には夜の森を思わせる緑の絨毯がまっすぐ伸びている。古い屋敷特有の重たさはあるが、エマが毎日磨いているせいか、暗さよりも落ち着きの方が勝っていた。
壁際には真鍮の燭台が等間隔に並んでいる。朝なので火は入っていないが、皿の縁には昨夜の蝋が薄く固まり、油壺の口には布で丁寧に栓がされていた。夕暮れになると、エマが一つずつ油を足し、火を灯して回る。そうすると館全体が、赤銅色の光を吸って、昼とは違う顔になる。
小卓の上には、昨日エマが棚の奥から見つけた薄い絵本が伏せられていた。花の中に住む小さな妖精と、白い角を持つ獣が描かれた、子供向けの古い本だ。街の新聞には、竜害の記事が珍しくもなく載っている。妖精の一匹や二匹いても、不思議ではないのだろう。それでも、そういう本をエマが大切そうに撫でていたことの方が、ノアには少しおかしかった。
「ご主人様」
扉の向こうから、控えめな声がした。
「お目覚めでしょうか」
「……ええ。起きているわ」
返事をすると、扉が静かに開いた。
エマが入ってくる。
金色の髪をきちんと結い、白い花飾りをつけ、今日も首元には淡い色のストールを巻いていた。朝の光を受けて、その姿は絵の中の従者のように整って見える。
手には、きれいに畳まれた布。
「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」
「朝から大げさね。少し寝起きが悪いだけよ」
「それなら、よかったです」
エマは心底安心したように微笑んだ。
その顔を見ると、こちらまで気が抜ける。
「顔を拭きますか?」
「自分でできるわ」
「はい。では、こちらを」
差し出された布は、ちょうどよい温度に湿っていた。
ノアはそれを受け取って顔を拭く。温かさが目元に染みて、ようやく頭がはっきりしてきた。
「朝食は?」
「ご用意できています」
「相変わらず早いのね」
「従者ですので」
エマは胸を張るでもなく、ただ当然のこととしてそう言った。
ノアは小さく笑い、寝台から下りた。
食堂へ向かう廊下は、いつものように整っていた。
壁際の花瓶には昨日と違う花が活けられている。白い小花と、淡い紫の花。エマの好みなのか、ノアに合わせているのかは知らないけれど、館の古さにはよく似合っていた。
廊下の途中には、背の低い飾り棚がある。飴色に艶の出た古い木製で、扉には翼を広げた小さな竜の彫りが入っていた。棚の上には銀の呼び鈴と、使われなくなった香炉が置かれている。香炉には海辺の町で採れる人魚香がわずかに残っていて、近づくと潮と花を混ぜたような匂いがした。
こういう古いものに囲まれていると、外の世界が少し遠くなる。けれど、その遠さがこの館には似合っていた。
食卓には、すでに朝食が並んでいた。
湯気の立つスープ。薄く焼いたパン。果物の蜜煮。香草を添えた小さな皿。
見た目だけなら、街の宿で出されるものよりよほど上品だ。
「今日はまともね」
席に着きながら言うと、エマの顔がぱっと明るくなった。
「はい、ちゃんとしました」
「前はちゃんとしていなかったの?」
「していませんでした」
あまりにも迷いのない返事だったので、ノアは思わず笑ってしまった。
「自覚はあるのね」
「あります」
「結構なことだわ」
エマは嬉しそうに椅子を引いた。
「どうぞ、ご主人様」
「ええ」
スープを一口飲む。温かく、舌にやさしい。朝に重すぎず、けれど薄すぎもしない。
「……悪くないわ」
「本当ですか?」
「嘘を言う理由がないでしょう」
「嬉しいです」
エマは、褒められた子供みたいに笑った。
そのままノアの横に立ち、食卓の上をじっと見ている。
「……何?」
「見ています」
「それは分かるわ」
「ご主人様が、ちゃんと召し上がっているか確認しています」
「私は子供じゃないのだけれど」
「はい」
「はい、じゃなくて」
エマは少しだけ首を傾げた。
「では、心配です」
「余計に子供扱いされている気がするわ」
「そうでしょうか」
「そうよ」
ため息をつくと、エマは困ったように笑った。
ノアはパンをちぎり、皿の端を指で示す。
「座れば?」
「よろしいのですか?」
「立たれていると落ち着かないの」
「かしこまりました」
エマは少しだけ嬉しそうに、ノアの斜め向かいに腰掛けた。
座っているだけなのに、背筋がぴんと伸びている。食事の席というより、式典に出ているみたいだった。
「緊張しすぎよ」
「失礼のないようにと思いまして」
「今さらでしょう」
「そうかもしれません」
また笑う。
エマの笑い方は静かだ。声を立てることは少ない。でも目元がやわらかくなるので、笑っていることはすぐに分かる。
「あなたは食べないの?」
ノアが尋ねると、エマはいつものようにすぐ答えた。
「私は従者ですので、ご主人様の給仕が終わった後にいただきます」
「毎回それね」
「はい」
「本当に食べているの?」
「本当です」
迷いがない。
ノアはそれ以上聞かなかった。
このやりとりも、もはや日課のようなものだった。
食後、エマは皿を片付け、ノアは窓辺の椅子へ移動した。
窓の外では、森の奥へ続く道が光を受けている。今日は外に出る予定がある。天気は悪くない。むしろ、回収に向く日だ。
「本日は、北の廃礼拝堂の回収札が出ています」
エマが食器を片付けながら言った。
「そう。いつもの回収ね」
「はい、ご主人様」
「札には?」
「北の廃礼拝堂と記されています。古い魔具の回収です」
エマが差し出したのは、黒い封の印が押された小さな紙片だった。紙の端には、礼拝堂の名が細い文字で書かれている。
「分かったわ」
回収の仕事は、面白いものではない。
古くなった魔具や、役目を終えた護符、家に置いておくには扱いに困るものを引き取る。危険なものは少ないが、何も知らない者が触るには厄介な品もある。
だから、決まった装いで行く。
エマはノアの外出用のローブを用意した。
濃い紺色の長いローブ。手袋。顔を半分ほど覆う、薄い装飾のついた面。
この仕事では、こういう服装をするものだと昔から決まっている。
「今日も面を?」
「はい。正装ですので」
「分かっているわ。少し息苦しいだけ」
「紐を緩めますか?」
「いいえ。見苦しくなければそれでいい」
「ご主人様は、何を着てもお綺麗です」
「そういうことは言わなくていいの」
「思ったことです」
「なおさらよ」
エマは納得しているのかいないのか、静かにうなずいた。
それから手袋を差し出してくる。
「どうぞ」
「ええ」
手袋をはめると、エマは指先の皺を一つずつ直した。丁寧すぎるくらい丁寧に。
「そこまでしなくていいわ。私は子供じゃないのだから」
「存じております」
「本当に? それなら、もう少し雑でもいいのに」
照れ隠しのように言っただけだった。
けれどエマは、少しだけ背筋を伸ばした。
「雑にはできません」
迷いのない答えだった。
「そういうところが、律儀すぎるのよ」
「そうなのですか?」
「……もういいわ」
ノアはその様子を見下ろして、ふと彼女の首元に目を留めた。
「……まだ、そのストールを使っているのね」
エマの手が止まる。
彼女は自分の首元に触れ、少しだけ目を丸くした。
「はい」
「だいぶ前にあげたものでしょう。別のものもあるのに」
「ご主人様からいただいた、大切なものですから」
あまりにも真っ直ぐ言うので、こちらの方が困ってしまう。
「大げさね。ただのストールよ」
「ただのものではありません」
「そう?」
「はい。ご主人様からいただいたものです」
エマは、そこだけは譲らないという顔をした。
ノアは少しだけ目を逸らす。
「……好きにしなさい」
「はい」
嬉しそうだった。
首元にある柔らかな布を、エマは本当に大切そうに整えた。
外へ出ると、空気は少し冷たかった。
館の周囲には誰もいない。森の道を抜け、古い石畳の残る小道へ出る。礼拝堂までは歩いて半刻ほど。人通りは少ないが、たまに荷車の跡が残っている。
エマは玄関の前で見送ってくれた。
「お早いお戻りをお待ちしております」
「従者は家で主人の帰りを待つもの、だったかしら?」
「はい。従者は家のことをして、ご主人様の帰りを待つものです」
「あなたらしいわね」
「温かい紅茶もご用意しておきます」
「それは楽しみね」
そう言うと、エマは目を細めた。
「お気をつけて、ご主人様」
「ええ。行ってくるわ」
礼拝堂での回収は、何事もなく終わった。
古い石造りの建物は、外から見るほど荒れてはいなかった。エマが渡した回収札には、小さな古い鍵が結ばれていた。ノアはそれで扉を開け、祭壇脇の小部屋から、封のされた小箱と、割れた香炉を引き取った。
小箱には簡単な封印がかかっていた。危険なものではない。古いだけだ。
香炉も同じ。かつて祈りに使われていた魔具で、放っておくと周囲の灯りを吸う性質があるらしい。だから専門の回収が必要になる。
こういう品には、物語がついている。
誰かの祈り。誰かの願い。誰かが忘れた習慣。けれどノアは、必要以上にそれを知ろうとは思わなかった。
仕事は仕事だ。
持ち帰り、記録し、所定の場所へ納める。
それで十分。
館へ戻るころには、昼を少し過ぎていた。
扉を開けると、すぐに声がした。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
エマが玄関に立っていた。
まるで、ノアが扉を開ける瞬間を知っていたみたいに。
「ただいま」
自然に言葉が出る。
その声を聞いただけで、外の冷たさが少し遠のいた気がした。
「回収は無事終わりましたか?」
「ええ。何も問題なかったわ」
「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。少し歩いただけ」
「お疲れでしたら、すぐに紅茶を」
「あなた、本当に紅茶のことばかり考えているのね」
「ご主人様がお戻りになるので」
理由になっているようで、なっていないような言い方だった。
でも、今はそれでよかった。
エマはノアのローブを脱がせ、手袋を外し、面を丁寧に布で拭いた。
指先が器用に動く。結び目を解くのも、襟を整えるのも、ノアよりずっと上手い。
「あなたは、こういうことだけは本当に上手ね」
「こういうことだけ、ですか?」
「褒めているのよ」
「ありがとうございます」
エマは素直にうなずいた。
嫌味が通じない、というわけではない。ただ、ノアの言葉を悪く受け取ろうとしない。
それが時々、少しだけ眩しく感じる。
昼食は軽いものだった。
香草の入ったパンと、温かいミルク。薄切りの果物。甘い菓子が一つ。
エマはノアが席に着くまで待ち、カップを置いた。
「甘いものは珍しいわね」
「ご主人様がお疲れかと思いまして」
「だから大丈夫だと言ったでしょう」
「はい。ですが、念のためです」
「念のためが好きね」
「ご主人様のことですので」
また、その言い方。
ノアは小さく肩をすくめて、菓子を一口食べた。
「……悪くない」
「よかったです」
エマは自分が食べたわけでもないのに、満足そうにしていた。
午後は、回収品の記録をつけた。
机に向かっている間、エマは少し離れた場所で布を畳んでいた。ときおり本棚を整え、花瓶の花を整え、ノアのカップが空になるとすぐに注ぎ足す。
何も言わなくても、必要なものが出てくる。
慣れすぎていて、時々それが当たり前になっていることに気づく。
「エマ」
「はい、ご主人様」
「あなた、私が何も言わなくても動くわね」
「ご主人様が何を必要とされるか、考えていますので」
「外れることもあるでしょう」
「あります」
「認めるのね」
「はい。もっと上手になります」
まっすぐだった。
ノアは羽根ペンを置き、椅子の背にもたれた。
「どうして、そこまで世話を焼くのかしら」
朝も似たことを聞いた気がする。けれど、もう一度聞きたくなった。
エマは手を止めた。
ほんの少し考えて、それから言う。
「幸せだからです」
「……幸せ?」
「ご主人様のお世話をしている時間が、一番幸せです」
ノアは返事に迷った。
重い、と言えばいいのか。変わっている、と言えばいいのか。
どちらにしても、エマは傷つかなさそうだった。
「変な子ね」
「はい」
「そこは否定しなさい」
「ご主人様がそう思われるなら、そうなのだと思います」
「そういうところよ」
エマは困ったように笑った。
「でも、本当です」
「何が」
「私は、ご主人様がここにいてくださることが嬉しいです」
あまりにも素直な言葉だった。
ノアは視線を机に落とす。
「……そう」
「はい」
それ以上は、聞かなかった。
翌日は雨だった。
回収の予定はなく、館の中で過ごすことになった。
雨の日の館は、いつもより少し暗い。窓を叩く雨音が、部屋の中の静けさをかえって深くしていた。
ノアは読書をしていた。
魔術史の本。古い言い回しが多くて読みにくいが、眠気覚ましにはなる。
エマはノアの足元に近いところで、裁縫箱を開いていた。
ローブのほつれを直している。
「そこまでしなくても、買い替えればいいのに」
「まだ使えます」
「あなたは物持ちがいいわね」
「ご主人様のものですから」
「私のものだから捨てられないの?」
「はい」
即答だった。
ノアは本から目を上げる。
「じゃあ、私がいらないと言ったら?」
「……保管します」
「いらないと言ったのに?」
「いつか必要になるかもしれません」
「ならないかもしれないわ」
「それでも、保管します」
少し頑固だった。
ノアは呆れながらも、どこか可笑しくなる。
「私のものに関してだけ、妙に意地を張るのね」
「大切ですから」
エマは針を動かしながら言った。
「ご主人様のものは、私にとっても大切です」
雨音が間を埋めた。
ノアは本を閉じる。
「そのストールも?」
エマは顔を上げた。
「はい」
「本当に気に入っているのね」
「首元にあると、落ち着きます」
「そういうもの?」
「はい。ここにあるのが自然です」
エマは首元の布にそっと触れた。
その仕草が、あまりに大切そうだったので、ノアはそれ以上からかうのをやめた。
「似合っているわ」
言ってから、自分でも少し驚いた。
エマはもっと驚いた顔をした。
「……本当ですか?」
「嘘を言う理由がないでしょう」
エマは、ぱっと笑った。
その顔は、花が開くようだった。
「ありがとうございます、ご主人様」
「そんなに喜ぶこと?」
「はい」
「……そう」
ノアはまた本を開く。
文字を追いながら、なぜか少しだけ顔が熱かった。
昼過ぎ、ノアはうっかり椅子の脚に足をぶつけた。
大した痛みではない。少し音がしただけだ。
けれど、エマはすぐに駆け寄ってきた。
「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。ただぶつけただけ」
「お怪我は?」
「ないわ」
「確認してもよろしいですか?」
「よろしいわけないでしょう」
「そうですか」
しゅん、とした顔をした。
ノアはため息をつく。
「……本当に大丈夫だから、そんな顔をしないで」
「はい」
「心配しすぎよ」
「ご主人様のことですので」
「またそれね」
エマは、いつものように小さく微笑んだ。
雨の日は、時間が長い。
外へ出ない分、館の中の細かな音がよく聞こえる。ペン先が紙を擦る音。エマが布を畳む音。茶器が触れ合う小さな音。
ノアは午後の半分を、エマに髪を梳かせて過ごした。
「少し伸びましたね」
「切った方がいいかしら」
「ご主人様は、長い髪もお似合いです」
「あなたに聞くと、何でも似合うと言われそうね」
「はい」
「否定しなさい」
「難しいです」
櫛が髪を通る。
エマの手つきは丁寧で、力加減も悪くない。いつの間に覚えたのか、編み込みも上手かった。
「器用ね」
「ご主人様のお役に立てることは、覚えたいので」
「またそういうことを言う」
「変でしょうか」
「……少し」
「では、少し変です」
ノアは笑ってしまった。
エマも、つられるように笑う。
雨の日の午後に、こんなふうに笑うことがあるのだと、その時初めて気づいた。
翌朝、雨は上がっていた。
けれど庭の草はまだ濡れていて、窓の外には小さな水滴が残っていた。光を受けるたびに、草の先がきらきらと光る。
ノアは食後、珍しく庭へ出た。
館の裏手には、手入れされた小さな庭がある。大きな庭ではない。白い石の小道と、季節ごとの花を植えた花壇、それから古びたベンチが一つ。エマがよく手入れをしているらしく、雨の後でも荒れた様子はなかった。
「足元が滑ります。お気をつけください」
エマが後ろから声をかけてくる。
「あなたは本当に、そればかりね」
「ご主人様が転ばれたら大変ですので」
「そんなに簡単には転ばないわ」
「はい。ですが、もし転ばれたら、私が支えます」
「あなたの方が小さいでしょう」
「頑張ります」
真面目に言うので、ノアはまた笑ってしまった。
エマは何がおかしいのか分からないという顔をしている。
「頑張るだけで支えられるなら、世話はないわ」
「では、もっと頑張ります」
「そういう意味ではないの」
庭の奥では、雨に濡れた花が少しだけ頭を下げていた。エマはそれに気づくと、すぐに近づいて、茎の下に小さな支えを立てる。
その手つきは慎重だった。花びらを傷つけないように、指先だけでそっと触れる。
「花の世話も上手なのね」
「ご主人様が見る場所ですので」
「私が見なかったら?」
「それでも整えます」
「どうして?」
「整っている方が、ご主人様にふさわしいと思います」
「……それ、褒めているつもり?」
「はい」
エマは振り返って笑った。
ノアは返事をする代わりに、花壇の前でしゃがむ。
白い小花の間に、淡い紫の花が混じっている。昨日、花瓶に活けてあったものと同じ種類だ。
「これ、あなたが選んだの?」
「はい。ご主人様に似合うと思いました」
「花が私に?」
「はい」
「褒め方が独特ね」
「失礼でしたか?」
「いいえ。悪くないわ」
エマは嬉しそうに目を細めた。
少しして、彼女は一本だけ折れてしまった花を拾い上げる。
「こちらは、後で机に飾ってもよろしいですか」
「好きにしなさい」
「はい」
その「はい」は、命令を受けた従者というより、贈り物を許された少女のようだった。
部屋に戻ると、エマは本当にその花を小さな瓶に挿し、ノアの机の端に置いた。
書類の山の横に花があると、少しだけ部屋がやわらかく見える。
「……悪くないわね」
「ありがとうございます」
「あなた、今日は何回礼を言ったか覚えている?」
「数えていません」
「でしょうね」
「次から数えましょうか?」
「やめてちょうだい」
エマはこくりとうなずいた。
その日は、書庫の整理もした。
館の書庫は古い本が多く、背表紙の文字がかすれているものもある。ノアが仕事で使う魔術目録や、回収品の記録帳、礼式の本、古い地図。それらを分類し直すのは、思っていたより骨が折れた。
エマは脚立に上ろうとするノアを見て、すぐに眉を下げた。
「ご主人様、私が取ります」
「届くわ」
「危ないです」
「届くと言っているでしょう」
「はい。ですが、危ないです」
同じ調子で返され、ノアは脚立の上でため息をついた。
「あなたは時々、意外と頑固ね」
「ご主人様の安全に関しては、そうかもしれません」
「それを自覚しているのなら、少し控えなさい」
「難しいです」
「即答しないで」
結局、ノアは脚立から降りて、エマに本を取らせた。
エマはそれはもう嬉しそうに、棚の上段から目録を取り出した。
「これでよろしいですか?」
「ええ」
「他にもありますか?」
「そんなに働きたいの?」
「ご主人様のお役に立てるなら」
「……分かったわ。では、その棚の古い地図もお願い」
「はい」
エマはすぐに手を伸ばす。
背はノアより低いのに、不思議と細かな作業はノアよりずっと丁寧だ。
彼女が地図を広げると、古い紙の匂いがした。
「あなた、本は読むの?」
「ご主人様が必要とされる本は読みます」
「そうではなくて、あなた自身が読みたい本は?」
エマは少し考えた。
「礼儀作法の本でしょうか」
「あなたらしいわね」
「従者として足りないところがあるかもしれませんので」
「十分だと思うけれど」
言った瞬間、エマの手が止まった。
彼女はゆっくりこちらを見た。
「……本当ですか?」
「ええ。少なくとも、私には過ぎた従者よ」
言い終えてから、少し照れくさくなる。
エマはしばらく動かなかった。
それから、両手で地図を抱えたまま、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「大げさ」
「嬉しいです」
「……そう」
「とても」
「分かったから、地図を潰さないで」
「あ」
エマは慌てて地図を机に置いた。
その様子があまりに真剣で、ノアはまた笑った。
昼過ぎになると、少し眠くなった。
雨上がりの庭、古い本の匂い、暖炉の火。すべてが眠気を誘う。
ノアは居間の長椅子に腰掛け、いつの間にかうとうとしていたらしい。
目を開けると、膝に薄い毛布がかかっていた。
エマがすぐそばに座り、手元で糸を巻いている。
「……寝ていた?」
「少しだけ」
「起こせばよかったのに」
「お疲れのようでしたので」
「また心配?」
「はい」
エマは迷いなく答えた。
「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。少し眠かっただけ」
「よかったです」
その声が、あまりにやさしかった。
ノアは毛布の端を指でつまむ。
「これ、あなたが?」
「はい。冷えるかと思いまして」
「気が利きすぎると、かえって落ち着かないわ」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいの。褒めているのよ、多分」
「多分、ですか」
「ええ。多分」
エマは少し考えてから、控えめに笑った。
「では、多分ありがとうございます」
「変な返し」
「ご主人様の真似をしました」
「私、そんなに変なことを言っている?」
「少し」
「言うようになったわね」
エマは、しまったという顔をした。
「申し訳ありません」
「いいわ。少しくらい言い返せる方が、人間らしいもの」
何気なく言った言葉だった。
エマはそれを大切そうに受け取った。
「人間らしい、ですか」
「何よ、その顔」
「嬉しいです」
ノアはまた困って、毛布をかぶり直した。
「……寝るわ」
「はい。おそばにおります」
「そこまでしなくていい」
「では、少し離れたところにおります」
「……好きにしなさい」
「はい」
目を閉じる前に、エマがそっと暖炉の火を弱めるのが見えた。
眠りに落ちる直前、胸の奥に静かな安堵だけが残った。
こういう静かな日が、これからも続いていくような気がした。
その夕方、ノアはエマの髪を結い直すことになった。
きっかけは些細なことだった。庭仕事の途中で風に吹かれたらしく、エマの編み込みが少しだけ崩れていたのだ。
「そこ、ほどけているわ」
ノアが指摘すると、エマは自分の髪に触れた。
「失礼いたしました。すぐ直します」
「自分では見えないでしょう。こっちへ来なさい」
「……よろしいのですか?」
「何が?」
「ご主人様のお手を煩わせてしまいます」
「髪を結ぶくらいで大げさね」
椅子を指さすと、エマはおそるおそる腰掛けた。
まるで何か特別な儀式でも始まるみたいに、両手を膝の上で揃えている。
「そんなに緊張しないで」
「緊張しています」
「正直ね」
「ご主人様に髪を触っていただくのは、初めてですので」
「……そうだったかしら」
「はい」
エマはほんの少しだけ、声を弾ませていた。
ノアは彼女の髪飾りを外し、金色の髪に指を通す。柔らかく、ほどけやすい髪だった。いつも自分で丁寧に結っているのだろう。少し乱れているだけで、櫛を通すとすぐに整った。
「動かないで」
「はい」
「痛かったら言いなさい」
「痛くありません」
「まだ引っ張ってもいないわ」
「ご主人様なら大丈夫です」
「信用が重いのよ」
エマは小さく笑った。
ノアは髪を二つに分け、ゆっくり編み直していく。人の髪を結うことなんてほとんどない。少し不格好になるかもしれないと思ったが、エマは終始、嬉しそうにしていた。
「これでいいかしら」
最後に花飾りをつけ直す。
エマは両手で自分の髪に触れた。
「ありがとうございます」
「この角度だと、仕上がりは保証しないわよ」
「ご主人様が結んでくださったので、それで十分です」
「本当に、あなたはそればかりね」
「はい」
エマは振り返って笑う。
その顔があまりに幸せそうだったので、ノアは少し困った。
結い終えた髪を、エマは何度も指先で確かめていた。
きっと、仕上がりそのものを気にしているのではない。
ノアが触れた場所を、消さないようにしているのだ。
「そんなに触っていたら、かえって崩れるわよ」
「崩れても、今日のものですので」
「今日のもの?」
「はい。ご主人様が結んでくださった、今日だけの髪です」
まるでその一日を、そっと栞に挟んでしまうような言い方だった。
ノアは、呆れるより先に、少しだけ胸の奥がくすぐったくなった。
「髪なんて、明日にはほどくでしょう」
「はい」
「それでもいいの?」
「はい」
エマは迷わない。
そういうところが、時々ずるいと思う。
大切にされているのは分かる。けれど、その大切にされ方があまりに真っ直ぐで、逃げ道がない。
茶器も、手袋も、ストールも、ローブも、ノアの机に飾られる折れた花も。
エマはすべてを、同じように丁寧に扱う。
違うのは、それがノアに関わるものだという一点だけだった。
「ねえ、エマ」
「はい、ご主人様」
「あなたは、私があげたものなら何でも大切にするの?」
「はい」
「壊れていても?」
「はい」
「使えなくなっても?」
「はい」
即答だった。
「……理由は?」
「ご主人様のものですので」
「答えになっていないわ」
そう言いながら、ノアはもう、それ以上を聞かなかった。
聞けばきっと、エマはまた少しずれた答えを返す。
けれど今は、そのずれをただ可愛いと思っていたかった。
「……変なら後で直しなさい」
「直しません」
「なぜ」
「今日はこのままがいいです」
ノアは言葉に詰まる。
それから、仕方なく肩をすくめた。
「好きにしなさい」
「はい」
その日の夜、エマは本当に、その少しだけ不格好な編み込みのままでいた。
花飾りがいつもより少し傾いていたけれど、本人は気づいていないのか、気づいていて直さないのか、終始ご機嫌だった。
夕食の後、ノアは机に向かって回収記録をまとめた。
エマは隣で、今日使った外出用の手袋を手入れしている。
「あなた、手袋の手入れまでしているの?」
「はい。ご主人様が次に使われる時、気持ちよくお使いいただけるように」
「私、そこまで気にしたことがないわ」
「では、私が気にします」
「そういうもの?」
「はい」
エマは何の迷いもなく言った。
ノアはペンを置く。
「もし私が、もうそんな世話はいらないと言ったら?」
エマの手が少し止まった。
それでも彼女はすぐに答える。
「ご主人様がそう望まれるなら、控えます」
「本当に?」
「はい」
「そのわりに、ひどく寂しそうな顔をしているけれど」
「……寂しいです」
素直すぎる。
ノアはまた困る。
「でも、控えるの?」
「ご主人様が望まれるなら」
「では、望まないわ」
エマはぱっと顔を上げた。
「よろしいのですか?」
「あなたがそんな顔をするからよ」
「どんな顔でしょうか」
「面倒な顔」
「面倒でしたか」
「ええ、とても」
そう言うと、エマはなぜか嬉しそうに笑った。
「では、これからもお世話してよろしいですか」
「好きにしなさい」
「はい」
返事が早い。
ノアは呆れたふりをして、またペンを取った。
それからまた数日、穏やかな日が続いた。
小さな回収札が一つ。古い封じ札が二枚。古い魔具の整理。庭の花の入れ替え。変わったことは何もない。
エマは毎朝、ノアより早く起きているようだった。ノアが食堂へ向かう頃には食事が用意され、外出の日にはローブと手袋が揃えられている。
ある朝、ノアは少しだけ意地悪を言った。
「あなた、たまには寝坊したら?」
「寝坊、ですか」
「ええ。従者だって寝坊くらいするでしょう」
「ご主人様が困ります」
「困らないわ。自分で起きるし、自分で食事も取れる」
「……」
エマが黙った。
珍しい。
「どうしたの」
「ご主人様が、ご自分で全部なさったら」
「ええ」
「私は、少し寂しいです」
その言い方が、あまりにも小さかった。
ノアはスプーンを置く。
「……冗談よ」
「冗談でしたか」
「ええ。あなたが困った顔をするから」
「困りました」
「でしょうね」
「ですが、冗談ならよかったです」
エマは本気でほっとしていた。
ノアは何となく、胸のあたりがむずがゆくなる。
「あなたは本当に、私の世話が好きね」
「はい。とても」
「即答しないで」
「考えても同じです」
ここまで真っ直ぐ言われると、からかう方が負けた気分になる。
ノアはパンをちぎりながら、視線を逸らした。
「……なら、今日もよろしく」
「はい、ご主人様」
エマの声は、朝の光みたいに明るかった。
その日の午後、ノアはエマに文字を書かせた。
理由は、回収記録の写しが必要だったからだ。いつもならノアが全部書くが、今日は量が多かった。
「手伝える?」
そう尋ねると、エマは驚いたように顔を上げた。
「私が、ですか」
「他に誰がいるの」
「はい。お手伝いします」
返事は早かったが、ペンを持つ手は少しぎこちなかった。
エマの字は綺麗だ。几帳面で、線がまっすぐで、癖が少ない。ただ、時々こちらを見ては、これで合っているかと確認してくる。
「そんなに不安そうにしなくても、読める字よ」
「ご主人様の記録に残るものですので」
「私の字より綺麗なくらいだわ」
「そんなことはありません」
「あるわ」
「ありません」
「あなた、こういう時だけ強情ね」
エマは少しだけ困った顔をした。
「ご主人様の字は、綺麗です」
「整っているとは思えないけれど」
「私には読めます」
「それは慣れているだけでしょう」
「慣れていることも、嬉しいです」
ノアは返事をし損ねた。
エマは何でも嬉しがる。ノアの癖も、面倒な仕事も、待つことも、世話を焼くことも。
その単純さが可愛くもあり、少しだけ困ったものでもあった。
しばらく二人で黙って書き写した。
窓の外では、午後の光が傾いている。
同じ部屋で同じ机に向かっているだけなのに、妙に穏やかな時間だった。
「ご主人様」
「何?」
「また、お手伝いしてもよろしいですか」
「字を書くのが気に入ったの?」
「ご主人様の隣にいられるので」
「……本当にあなたは」
ため息をつく。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「必要な時は頼むわ」
「はい」
エマは、まるで褒美をもらったみたいに笑った。
数日が過ぎた。
その間も、生活は何も変わらなかった。
朝、エマが起こしに来る。食事を用意する。ノアは仕事へ出る日もあれば、館で書類を片付ける日もある。夜には紅茶が出る。
淡々としている。
けれど退屈ではない。
その日の回収は、森の外れにある古い倉庫だった。
朝、エマが差し出した札には、閉鎖された薬草師の倉庫と記されていた。そこに残る魔具を引き取ることになっている。
ノアはいつものローブを羽織り、手袋をつけ、面をつけた。
エマは最後に襟元を整える。
「今日は少し遠いわね」
「はい。お戻りは夕方になるかと」
「夕食は遅くていいわ」
「温かいものをご用意しておきます」
「私の話を聞いている?」
「聞いています」
「なら、遅くていいと言ったのだけれど」
「遅くなっても、温かいものをご用意します」
どうしてもそこは譲らないらしい。
ノアは諦めて、小さく笑った。
「好きにしなさい」
「はい」
出発しようとした時、エマがノアの袖を軽く摘まんだ。
「ご主人様」
「何?」
「お帰りを、お待ちしています」
「分かっているわ」
「はい」
「そんなに不安そうな顔をしなくても、帰ってくるわよ」
「不安ではありません」
「そう?」
「はい。待つのは、従者の務めですので」
務め、と言うわりに、その顔は少し寂しそうだった。
ノアは短く息を吐く。
「エマ」
「はい」
「戻ったら、紅茶を飲むわ」
エマの表情が明るくなる。
「はい。ご用意しておきます」
「だから、そういう顔をするほどのことではないでしょう」
「私には、とても嬉しいことです」
ノアは返事に困って、背を向けた。
「行ってくるわ」
「いってらっしゃいませ、ご主人様」
倉庫での仕事は少しだけ時間がかかった。
魔具は多くなかったが、湿気で封紙が傷んでいたため、一つずつ包み直す必要があった。外は夕方へ近づき、森の中は早くも薄暗くなり始めていた。
帰り道、ノアは少し足を急がせた。
理由は分からない。
ただ、エマが待っていると思うと、あまり遅くなりたくなかった。
館に戻った時、窓には灯りがともっていた。
扉を開ける。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
エマの声がした。
その声が、胸の奥にすとんと落ちる。
「ただいま」
ノアはそう言って、少しだけ笑った。
エマは一瞬、驚いたように瞬きをした。
「どうしたの?」
「いえ」
「変な顔をしているわ」
「ご主人様が、少し嬉しそうに見えましたので」
「気のせいよ」
「そうですか」
エマは嬉しそうだった。
気のせいだと言ったのに。
エマは、受け取った包みを胸に抱くようにして持った。
重いものではないはずなのに、両手で支えている。大切そうに、けれど少しだけ急ぐように。
「それ、そんなに丁寧に持つ必要があるの?」
「回収品ですので」
「壊れ物だったかしら」
「ご主人様がお持ち帰りになったものです」
「……またそれ」
ノアは呆れたように言った。
エマはまったく悪びれずに微笑む。
外の森では、夕方の風が濡れた葉を揺らしていた。館の中に入ると、その冷たさが背中から剥がれていく。代わりに、燭台に灯った火と、厨房から漂う温かな匂いがノアを包んだ。
戻ってきたのだと思う。
ただの館に。
ただの古い家に。
エマがいて、紅茶があって、ノアのために温められた部屋がある場所に。
「ご主人様?」
「何でもないわ」
エマが首を傾げる。
ノアは、その顔を見ないようにローブの袖を払った。
外にいる間は、自分一人で何でもできると思っている。
回収札を読み、道を歩き、封のされた箱を持ち帰る。面をつけ、手袋をはめ、決まった形で仕事を終える。
けれど館へ戻ると、すぐにエマの手が伸びてくる。
襟を直す。
手袋を外す。
濡れた髪を払う。
それが少し悔しいほど自然で、ノアは自分がどこまでを自分でしていたのか、時々分からなくなる。
「冷えていらっしゃいます」
「森を歩いたのだから当然でしょう」
「すぐに温まるようにします」
「命令していないわ」
「はい」
「はい、ではなくて」
「したいので」
エマはそう言って、当たり前のように微笑んだ。
ノアは返事に困り、少しだけ視線を逸らした。
したいからする。
その単純さが、今はまだ、ただ優しかった。
「回収品を預かります」
「ええ」
包みを渡すと、エマは両手で受け取った。
それからノアのローブに手を伸ばす。
森を歩いたせいで、裾に葉がついていたらしい。
「少し汚れています」
「森を歩いたのだから当然でしょう」
「すぐに整えます」
エマはノアに背を向け、ローブを脱がせて衣紋掛けに掛けた。裾の葉を払い、濡れた部分を布で押さえ、面を外して机に置く。
その後ろ姿を、ノアはぼんやり見ていた。
細い背中。金色の髪。首元のストール。
ノアが贈ったものを、いつも大切に巻いている。
細い肩が、ノアのために忙しく動いている。
ふと、胸の奥がやわらかくなった。
外で聞いた風の音よりも、館の中のこの静けさの方が落ち着く。
エマの「おかえりなさいませ」が、思っていたよりずっと、ノアにとって当たり前になっている。
本当に、気まぐれだった。
ノアは一歩近づき、ローブを直しているエマを、後ろからそっと抱き寄せた。
「……っ」
エマの身体が小さく強張る。
驚いたのが、腕の中で分かった。
「……何をしているのかしら、私」
自分でも可笑しくなって、すぐに離そうとした。
「ごめんなさい。忘れて」
けれどエマは振り返らなかった。
少しだけ俯いたまま、かすかな声で言う。
「忘れたくありません」
「……エマ?」
彼女がゆっくり振り返る。
頬が、ほんのり赤い。
「驚きました」
「そうでしょうね」
「でも」
エマは、目元をやわらかくして笑った。
「触れていただけて、嬉しいです」
「……そう」
視線を逸らす。
どうにも落ち着かなかった。
「変なことをしたわね」
「いいえ」
「いいえ、じゃないでしょう」
「とても、良いことでした」
真面目な顔で言うものだから、ノアはそれ以上何も言えなくなった。
「……紅茶にしましょう」
「はい」
エマは、いつもより少し弾んだ声で答えた。
夕食は本当に温かかった。
帰りが遅くなったのに、湯気の立つ料理が並んでいる。ノアは呆れながらも、少し嬉しかった。
「準備が良すぎるわ」
「ご主人様がお戻りになると思っていましたので」
「帰ると言ったでしょう」
「はい。ですから、ご用意しました」
会話になっているのか、なっていないのか。
それでも、このやりとりが心地よかった。
夜が深くなる。
夕暮れには、エマがいつものように廊下の燭台へ火を入れていた。細い指で油差しを傾け、芯の長さを整え、火を移す。ひとつ灯るたびに、壁紙の深い赤がゆっくり沈み、緑の絨毯の模様が夜の草むらのように浮かび上がる。
ノアはその手際を横目で見ながら、ずいぶん慣れたものだと思った。エマは振り返り、少しだけ得意そうに微笑む。館の灯りを整えることも、主人の帰りを待つことも、彼女にとっては同じ務めなのだろう。
館の外はすっかり暗くなり、窓には室内の灯りだけが映っていた。ノアは書類を片付け、椅子から立ち上がる。
「今日はもう休むわ」
「はい、ご主人様」
エマは待っていたようにカップを用意していた。
「本日の紅茶です」
「……毎晩ね」
「はい」
「私がいらないと言ったら?」
「ご用意だけして、お待ちします」
「結局あるのね」
「はい。お休み前の紅茶は、心が静まりますから」
カップを受け取る。
紅茶は、かすかに甘かった。
喉を通ったあと、薄い膜のようなぬくもりが身体の奥に残る。
エマの優しさが、内側からそっと包んでくれるようだった。
乾いていたものが、ゆっくりほどけていく。
「……悪くないわ」
「ありがとうございます」
エマは嬉しそうに微笑んだ。
「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」
「今日はよく聞くわね、それ」
「ご主人様が遠くまでお仕事に行かれましたので」
「大丈夫よ」
「よかったです」
その言葉が、あまりにも素直だった。
ノアはカップを傾ける。飲み終える頃には、まぶたが少し重くなっていた。
「……よく効くわね」
「よくお休みになれるようにしておりますので」
「あなたが淹れる紅茶は、いつもそう」
「ご主人様にお休みいただきたいので」
ノアはカップを返した。
エマは両手で受け取り、大切なもののように茶器を下げる。
「そろそろ寝るわ」
「はい」
寝室へ向かおうとした時、エマが後ろから声をかけた。
「ご主人様」
「何かしら」
「夜更かしはダメですよ?」
「……分かっているわ」
ノアは軽く返す。
いつものように、エマは真面目な顔でノアを見ていた。
少しだけ間があった。
そして、エマは続けた。
「夜更かしは禁忌ですから」
ノアは振り返った。
エマは、いつも通りに微笑んでいる。
「……大げさね」
そう言って、ノアは寝室の扉を閉めた。
ベッドに横になる。
館は静かだった。
何もかもが、いつも通りだった。
ただ、胸の奥に、ほんの少しだけ。
言葉にできない何かが、残っていた。
寝台の中で目を閉じても、紅茶の甘さは喉の奥に残っていた。
濃い甘さではない。
舌に貼りつくほどでもない。
ただ、飲み終えたあともしばらく、身体の内側に薄く膜を張るような甘さだった。
エマの紅茶は、いつもそうだ。
温かく、やさしく、静かに沈む。
気づけばまぶたが重くなり、考えていたことが端からほどけていく。
嫌な感じではない。
むしろ、安心に近い。
安心していいのだと、身体の方から言われているような気さえした。
「……夜更かしは禁忌、ね」
小さく呟いて、ノアは自分で少し笑った。
エマらしい大げささだ。
けれど、その言葉を思い出すと、なぜか胸の奥が少しだけざらついた。
禁忌。
夜更かしに使うには、あまりに重い言葉。
古い魔法書か、壊れた封じ札にでも書かれているような響き。
そう思ったところで、思考はまた紅茶の温度に沈んだ。
明日の朝になれば、きっと忘れている。
エマが扉を叩き、いつもの声で起こしに来る。
顔を拭く布はちょうどよい温度で、食卓には温かい皿が並び、エマは首元のストールを大切そうに整える。
それがこの館の日常だ。
それ以上のことなど、何もない。
ノアはそう思おうとした。
思いながら、眠りに落ちた。




