最終章 それは祝福と呼ばれている
ノアは廊下へ飛び出した。
どこへ向かうつもりもなかった。
ただ、あの部屋にはいられなかった。
エマの首。
白いもの。
爪の下へ入り込もうとした、あの細い先端。
思い出した瞬間、喉の奥がひきつった。
ノアは壁に手をつく。
「おえっ……」
何も出ない。
吐こうとしているのに、吐き出すものがなかった。
毎朝、食べていたはずだった。
スープを飲んだ。
パンを噛んだ。
果物の甘さを知っていた。
それなのに、喉の奥から出てくるものは何もない。
胃の中が空っぽなのだと分かった瞬間、台所の棚が頭に浮かんだ。
淡い琥珀色の油。
白い粉。
乾いた欠片。
違う。
今は違う。
ノアは壁から手を離した。
ここにはいられない。
あの寝台にも、あの部屋にも、戻れない。
ただ、それだけだった。
ノアは廊下を進んだ。
右へ曲がったのか、左へ曲がったのかも分からない。
普段なら近づかない館の奥へ、足だけが勝手に進んでいく。
触れられたら、また戻される気がした。
髪を整えられ、手袋を直され、紅茶を飲まされ、寝台に横たえられる。
そうなれば、今見たものも、吐き気も、首の傷も、すべて朝には薄くされてしまうのだろう。
エマはきっと、そうする。
ノアが苦しまないように。
ノアが壊れないように。
ノアが、ノアのままでいられるように。
その全部が怖かった。
優しさで戻される。
大切にされながら、元の場所へ置き直される。
それはきっと、鎖よりも柔らかく、檻よりも温かい。
だから逃げられない。
逃げているのに、逃げられる気がしなかった。
食事。
台所。
白い粉。
回収物。
手袋。
鏡のない館。
エマの首。
ひとつ思い出すたびに、別のものがつながっていく。
違う。
違うと思いたいのに、全部が同じ場所へ戻ってくる。
リリィの中にも白いものがいた。
エマの中にも白いものがいた。
なら、自分の中には何があるのか。
考えたくなかった。
考えたくないのに、問いだけが足音に合わせて近づいてくる。
廊下の燭台は、すっかりと暗くなり蝋燭の火で淡く灯っていた。
小さな火が壁を揺らし、床の上にノアの影を落とす。
その影は細く、ぎこちない。
歩くたびに、関節が少し遅れるように見えた。
ノアは見ないふりをした。
見ないふりをすることには、もう慣れていた。
壁に手をつく。
白い手袋をした手。
白い指。
壁の冷たさは分かる。
ざらついた壁紙の凹凸も分かる。
だから大丈夫だと思いたかった。
けれど、触れているという感覚の奥に、もう一つ別の感覚があった。
触らされている。
そう思ってしまった。
ノアは手を離す。
息が荒くなる。
ふと、廊下の奥に、少しだけ開いた扉があった。
そこから、古い匂いがした。
古い本の匂い。
乾いた匂い。
けれど、目を逸らしたいと思った。
理由は分からない。
ただ、その隙間の向こうに、今まで見ないようにしてきたものがある気がした。
あの部屋には戻れない。
あの首を、あの白いものを、もう一度見ることはできない。
どこでもいい。
ここではない場所へ行きたい。
そう思っていたはずなのに、ノアの足は扉の前で止まった。
ここを開けたら、もう戻れない。
そんな言葉が、誰の声でもなく胸の奥に浮かんだ。
それでも、後ろには戻れなかった。
ノアは扉を押した。
そこは、知らない部屋だった。
知らないはずなのに、見覚えがあった。
天井から下がる縄。
その下には、小さな台が置かれていた。
台の縁には、何度も指をかけたような擦れ跡がある。
床には、同じ場所に立ち続けたような細い傷が残っていた。
壁際には、淡い色の布が何枚も畳まれている。
どれも、使われていないものの静けさではなかった。
けれど、そこには寝台がなかった。
休むための柔らかいものは、一つもない。
夢で見た台と縄が、そこにあった。
今度は、夢ではなかった。
誰の部屋なのか、ノアは知らない。
知らないはずなのに、ここにはエマの気配があった。
ここは、暮らすための部屋ではない。
エマが戻るための場所だった。
部屋の隅には、古い本が開かれたまま置かれていた。
紙は乾いている。
文字は読めない。
けれど、見ているだけで喉の奥が渇いた。
魔法書。
そう呼ぶべきものだと、なぜか分かった。
その近くには、見覚えのある紙片が何枚も重ねられていた。
黒い封の印。
地名のような細い文字。
ノアが朝ごとにエマから受け取っていた回収札と、同じ形だった。
机の上には、ストールに似た布がいくつか畳まれている。
少し離れた場所に、全身鏡があった。
鏡だけは、他のものと違っていた。
部屋のどこも古く、乾いていて、長い時間を閉じ込めたようにくすんでいるのに、その鏡だけは妙に手入れされていた。縁の装飾に埃はほとんどない。鏡面は曇っていない。
この館には、鏡がなかったはずだった。
ノアの部屋にも、廊下にも、身支度をする場所にも。
見なくて済むように、最初からそう作られていたみたいに。
それなのに、ここにだけ鏡がある。
誰かが使っている。
エマが使っている。
その理解が、ゆっくりとノアに降りてくる。
エマは、ここで首を吊る。
ここで魔法書を開く。
ここで回収札を作る。
そして、この鏡を見る。
何を見るために。
ノアは答えを知りたくなかった。
けれど、目は鏡から離れない。
古い、装飾のついた大きな鏡。
曇りひとつない鏡面。
そこに答えがあるのだと、分かってしまった。
ノアは息を止めた。
足が一歩、鏡へ近づく。
胃の奥が、また小さく痙攣する。
鏡面の中で、赤い部屋が揺れていた。
縄。
台。
古い本。
そして、その手前に立つもの。
ノアは最初、それが自分だと分からなかった。
分かりたくなかった。
鏡の中に、女の形をした木人形が映っていた。
白い肌だと思っていたものは、薄く塗られた木だった。
肩には球体の関節。
腕は細く、手は作り物の指をしている。
顔も、見慣れた自分の顔ではない。
人間に似せた、綺麗な木の面。
目だけが、ノアのものだった。
「……なに」
声が漏れた。
悲鳴にはならなかった。
人は本当に理解できないものを見た時、叫べないのだとノアは知った。
叫ぶには、これは違うと信じる余地がいる。
でも鏡の中のものは、違わなかった。
目の動き。
唇の震え。
肩をすくめる癖。
恐怖で指を丸める仕草。
全部、自分だった。
木でできた自分。
木人形。
そう思った途端、今までのすべてが遅れて形を変え始めた。
肌を見せないための手袋。
顔を覆う面。
身体の線を隠すローブ。
鏡のない化粧台。
どれも、ただの習慣ではなかった。
隠すためだったのか。
人間のように見せるためだったのか。
そう思った瞬間、ノアは自分の手を見たくなくなった。
鏡の中にはもう映っている。
見えている。
逃げようがない。
だが現実の手を見れば、まだいつもの白い手袋がある。
布がある。
見慣れた形がある。
ノアは、その見慣れた形に縋りたいと思った。
まだ見ていないことにしたかった。
鏡が嘘をついていることにしたかった。
けれど、鏡の中の目がノアを見ている。
人間に似せた木の面の中で、目だけが震えている。
その目だけは、誰にも作られたものではない気がした。
だから、なおさら苦しかった。
もし全部が作り物なら、こんなに怖くはなかった。
もし心まで偽物なら、こんなに拒みはしなかった。
ノアは人間ではない。
それでも、ノアは見てしまった。
見てしまったものを理解する心だけは、確かにそこにあった。
その心が、今、壊れそうになっていた。
ノアは、鏡から目を逸らそうとした。
けれど、逸らした先にも自分の手があった。
白い手袋をした手。
何度も見てきた、何度もエマに整えられてきた手。
ノアは息を吸った。
鏡の中で、白い手袋が手首から剥がれていく。
一本ずつ。
少しずつ。
布の下から現れたのは、白い肌ではなかった。
細い木の指だった。
人間の指に似せて磨かれた、作り物の指。
爪のあるべき場所には、薄く色を塗っただけの平らな面がある。
関節は丸く、節の位置は人間よりわずかに不自然だった。
ノアは息を止めた。
自分の手を見下ろせば、そこには見慣れた白い指があるのかもしれない。
けれど、鏡の中では違った。
木の指が、震えていた。
それが、ノアの手だった。
ノアは指を動かした。
鏡の中の木の指が、同じように動く。
もう、見間違いにはできなかった。
だから、もっと残酷だった。
全部が一度に壊れてくれればよかった。
悲鳴を上げて、気を失って、何も分からなくなればよかった。
けれどノアは、分かってしまう速度より少しだけ遅れて、まだ自分を自分だと思っていた。
ご主人様。
エマの声が、頭の中で聞こえた。
その呼び名で呼ばれていたものが、鏡の中にいる。
朝食を食べ、紅茶を飲み、髪を梳かれ、少し偉そうに命じ、エマを困らせていたもの。
それが人間ではなかった。
それでも、呼ばれた時に振り返っていた気持ちは本物だった。
エマの声に安心したことも、帰りを待たれて嬉しかったことも、触れた時に胸が温かくなったことも、全部なかったことにはならない。
だから、ノアは壊れきれなかった。
人間ではないと分かっても、人間だった時間だけが、まだ胸の奥で息をしていた。
人間に似せられた自分。
ご主人様と呼ばれていた、自分。
「違う……」
鏡の中の木人形が、同じように唇を動かす。
ノアは手を上げた。
鏡の中の人形も、同じように手を上げる。
遅れはない。
ズレもない。
だからこそ逃げ場がない。
これは見間違いではない。
別の誰かではない。
鏡が嘘をついているのでもない。
自分だ。
「……違う」
ノアは首を振る。
鏡の中の人形も首を振る。
けれど、違わなかった。
それが自分だと、分かってしまった。
ノアは、自分の肩に手を置いた。
鏡の中の木人形も、同じように肩へ手を置く。
そこにあったのは、肉の丸みではない。球体の関節。綺麗に磨かれた、けれど明らかに作り物の継ぎ目。
爪を立てようとしても、爪などない。
指先は人間のように見える形をしているだけで、触れた感覚は薄い。自分の身体に触れているのに、古い家具の表面を撫でているようだった。
胸元を押さえる。
呼吸はしていると思っていた。
息苦しくなったこともあった。泣きそうになって、喉が詰まったこともあった。
でも鏡の中の胸は、人間のようには上下していなかった。
動いているのは、息ではない。
人間の生命ではない。
木の内側に絡んだ、細い白い筋。
それは血管ではなかった。
神経でもなかった。
縫われた跡。
留められた痕。
何かを器の中に押し込めておくための、古い支配の糸。
それが、ノアという形を繋ぎ留めていた。
ノアは、これで笑っていた。
これで食べていた。
これでエマを疑い、リリィを潰し、エマに守られたと思っていた。
ノアは声を出そうとした。
出なかった。
鏡の中の木人形が、泣きそうな顔をしている。
木の顔なのに。
目だけが、どうしようもなく自分だった。
ノアは後ずさる。
背中が壁にぶつかった。
逃げようとして、足が動かない。
全てが繋がる。
手袋。
面。
ローブ。
鏡のない化粧台。
夜の夢。
エマの首。
この部屋だけにある鏡。
どれも、別々の違和感ではなかった。
ひとつの場所へ向かっていた。
ノア自身へ。
「私……」
ノアは鏡を見たまま、呟く。
「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」
背後から声がした。
同じ言葉だった。
さっきも聞いた。
リリィの前で。
倒れたエマが、意識を失う直前に。
あの時は、優しさに聞こえた。
守ってくれた人の言葉に聞こえた。
今は違う。
お体。
この木の体。
壊れていないか、確認しているように聞こえた。
ノアはゆっくり振り返る。
エマが立っていた。
さっきまで意識を失っていたはずなのに。
折れていた腕は、もう正しい形に戻っている。
首にはストールが戻されている。
顔はいつも通り。
穏やかで、心配そうで、何も悪いことをしていないような顔。
「……私は」
ノアの声は震えていた。
「私は、人間なの?」
エマは、すぐに答えた。
「はい」
ノアは息を止める。
だが、エマは続けた。
「私にとって、一番大切な人です」
「……違う」
喉の奥から声が出た。
「違う!」
怒鳴ったつもりはなかった。
怒りなのか、恐怖なのか、焦りなのか、自分でも分からない。
「そういうことを聞いてるんじゃない!」
エマは少しだけ困ったように瞬きをした。
その顔が、さらにノアを追い詰める。
このままでは、ずっとズレた答えしか返ってこない。
ノアは息を吸った。
質問を変える。
「……お前は誰だ?」
エマは、ほんの少し首を傾げた。
「私は、ご主人様の従者です」
「違う」
ノアの声が低くなる。
「そうじゃない」
ノアは、鏡の中の自分から目を逸らせなかった。
「言葉を変えないで。私は、その奥を聞いてるの」
エマは黙っていた。
本当に分からない、という顔だった。
「その体は、何なの」
エマは、ほんの少しだけ自分の手を見た。
さっきまで折れていたはずの腕。今は正しい形に戻っている腕。
「ご主人様のお世話をするための体です」
答えになっている。
けれど、答えになっていない。
ノアの指が震えた。
「そうじゃない」
鏡の中の木の手が、同じように震えていた。
台所には、食事を作るものがなかった。
ストールの下には、白いものがいた。
エマの腕は、いつの間にか人間の形へ戻されていた。
いつから。
それは、エマに聞いたつもりの言葉ではなかった。
ただ、喉の奥から漏れた。
「いつから……」
エマは、その言葉を少しだけ考えるように受け止めた。
「いつから、ですか」
エマは自分の胸元に軽く触れた。
「気づいた時、私は吊るされていました」
「……吊るされていた?」
「はい。首に縄がありました。手も足も木で、動かすことはできませんでした」
木。
その言葉に、鏡の中の自分と目が合う。
「ずっと、そこから見ていました。人が歩くところを見ました。食べるところを見ました。眠るところを見ました。触れるところを見ました」
少しだけ、懐かしそうに言う。
「羨ましかったのです」
「……木人形だったの?」
エマは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……そう呼ばれていました」
否定ではなかった。
けれど、肯定の仕方がどこか遠かった。
木人形。
そう呼ばれていたもの。
もう終わった形。
エマにとって大事なのは、木だったことではなく、動けなかったことなのだと、ノアはなぜか分かってしまった。
「でも、動けませんでした。触れることも、振り返ることも、誰かの隣にいることもできませんでした」
「……それで」
「肉体が欲しくなりました」
あまりにも静かに、エマは言った。
「魔法使いが、本を読んでいました。声に出して、何度も。私は覚えました。全部は分かりませんでした。ただ、肉体を得るために必要なことだけを覚えました」
「魔法使い……」
「愚かな人でした。でも、たくさんのことを知っていました」
ノアはその言葉に、奇妙な痛みを覚えた。
知っている名前ではない。
顔も思い出せない。
けれど、聞いた瞬間、胸の奥で乾いたものが軋んだ。
魔法使い。
この館の主だった者。
エマを吊るしていた者。
禁忌の本を開いた者。
「その人は、どうなったの」
エマは、少しだけ考えた。
「私は、肉体を持ちたかったのです」
エマは静かに言った。
「歩き、触れ、誰かの隣にいて、人のように暮らしてみたかった」
それから、自分の手を見た。
「そして、それが終わらないものなら、なお良いと思いました」
「……終わらないもの」
「はい。そのためには、外側に人の皮膚が必要でした。内側には、朽ちないものが必要でした」
ノアの喉が鳴った。
ノアは、ストールの下にいた白いものを思い出した。
傷口の奥で蠢いていたもの。
糸のように細く、虫のように湿っていて、皮膚の下から形を縫い止めていたもの。
「はい。それは、形を保ってくれます。裂けたところを閉じて、足りないところを寄せて、壊れたものを戻してくれます」
「あれは、治していたんじゃないのね」
「はい」
エマは頷いた。
「保っているのです」
吐き気が戻ってくる。
治しているのではない。
助けているのではない。
ただ、形を保っている。
「肉体を得た時、私はとても嬉しかったです」
エマは微笑んだ。
その言葉。
その言葉が、ひどく遠く聞こえた。
「初めて立てました。初めて歩けました。初めて、自分の指を見ました。全身を鏡で見ました。私は、それを祝福だと思いました」
ノアは、部屋の全身鏡を見る。
エマはこの鏡で、自分の肉体を見ていた。
その肉体を確かめていた。
ノアが地獄を見る鏡で、エマは幸福を見ていた。
「けれど、元の器を空にすることはできませんでした」
「元の器……」
「私が吊るされていたものです。あれは、厄災を受けるためのものです。呪いを留めるための器です。空にすると、保てません」
息が止まる。
「だから、そこにご主人様が必要でした」
「……私が?」
「はい」
「あの人から、形あるものは無くなりましたが、形のないものが残りました」
「形のないもの?」
「声や、記憶や、魂の切れ端のようなものです。ご主人様を入れる時、それを使いました」
入れる。
その言葉で、ノアは自分の胸の中が空洞になったように感じた。
自分は、生まれたのではない。
入れられた。
器に、形のないものを詰められた。
それなら、ノアがノアだと思っていたものは何だったのか。
エマに腹を立てたこと。
リリィを怖いと思ったこと。
花を褒められて照れたこと。
エマが髪を結われて喜んだ時、少し困ったこと。
それらは誰のものだったのか。
魔法使いの記憶か。
魂の切れ端か。
ただ器が、人間らしく反応していただけなのか。
「私は……」
ノアは自分の胸を押さえた。
木の胸。
器の内側。
そこにあるものが本当に自分のものなのか、もう分からなかった。
分からないのに、まだ心臓のあたりが痛む気がした。
ならば、この痛みは誰のものなのだろう。
魔法使いの残滓か。
エマが入れた形のないものか。
それとも、ノアという名前を与えられてから積み重なった、取るに足りない日々の名残なのか。
朝の光を眺めていたこと。
エマのストールを褒めたこと。
庭の花を見て、悪くないと思ったこと。
紅茶を飲んで、少しだけ眠くなったこと。
リリィに名前をつけたこと。
そのすべてが、誰かの部品でできているのだとしても。
感じたのは、自分ではなかったのか。
「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」
エマの声がした。
鏡の中でも、現実でも、同じ声だった。
ノアは振り返らない。
振り返れば、エマがいつもの顔をしていることが分かってしまう。
優しく、心配そうで、嘘のない顔。
それがいちばん嫌だった。
「……私は、いつからこうだったの」
声はかすれていた。
「最初からです」
エマは答えた。
考える間もないほど、静かに。
ノアは笑いそうになった。
最初から。
その言葉は、あまりに短かった。
ノアが迷った時間も、エマを信じた時間も、リリィを怖がった時間も、すべてを一息で閉じてしまう。
最初から。
ならば、途中で引き返す場所など、どこにもなかったのだ。
「……私は」
声が震えた。
「私は、誰なの」
「ご主人様は、ご主人様です」
やはり、エマはそう言った。
優しく、まっすぐに。
ノアはその優しさを、初めて心の底から憎んだ。
ノアは、鏡の中の木人形を見た。
肉ではない。
骨でもない。
それでも、自分の中には知らない誰かの声や記憶の切れ端がある。
その誰かは、この館にいて、エマを吊るしていた。
禁忌の本を開き、声に出して読み、最後には皮膚も形のないものも使われた。
ご主人様はご主人様です。
それは慰めのようで、何の慰めにもなっていなかった。
「私は、あなたのために入れられたのね」
エマは、ほんの少しだけ考える。
その間が怖かった。
迷っているのではない。ノアの言葉を、エマの知っている形に置き直しているだけの沈黙だった。
「ご主人様は、私にとって一番大切な人です」
「それは、私の答えじゃない」
ノアの声が低くなる。
「……じゃあ、回収は」
震える声で聞く。
「札に示されていたもの。私が外に出て、持ち帰っていたものは何だったの」
「残りです」
「残り?」
「呪いの残り。禁忌に触れて、形を失ったもの。ご主人様は、それを受けるための器ですから」
胃の奥が、またひっくり返りそうになった。
「食事は」
「ご主人様が受け入れられる形に整えたものです」
スープ。
焼きたてのパン。
果物。
エマが嬉しそうに並べていた朝食。
全部、違った。
「……私には、食事に見えていた」
「はい」
エマは、当然のことのように頷いた。
「ご主人様が受け取れる形に、整えていました」
「整える……?」
「はい。食事を食事として、紅茶を紅茶として、朝を朝として受け取れるように、ご主人様を入れる際に整えました。」
エマの声は、どこまでも穏やかだった。
「そうでなければ、祝福の中で暮らせませんから」
祝福。
その言葉が、喉の奥に引っかかった。
ノアが見ていた朝も、食事も、紅茶も。
鏡を見るまで信じていた自分の姿も。
全部、そういうことだったのだ。
ノアは自分の手を見る。
見慣れた手に見える。
けれど、もう信じられなかった。
「紅茶は」
聞きたくなかった。
でも、もう止まれなかった。
「あれは、何」
「ご主人様がお休みになれるように」
「それだけじゃないでしょう」
ノアはエマを睨んだ。
「あれは、私を眠らせるためのもの?」
「眠りに近いものです」
エマは否定しなかった。
「ご主人様の奥深くに沈めるためのものです。ご主人様が起きていると、私は戻れません。」
「それだけ?」
「いいえ」
エマは、少しだけ考える。
「ご主人様のお体が乾かないように。関節が軋まないように。動ける形でいられるように」
紅茶。
ノアが温かい飲み物だと思っていたもの。
眠る前の優しさだと思っていたもの。
けれど、それは眠るためだけのものではなかった。
沈め、保ち、乾かぬようにするものだった。
「戻るって」
「元の器へ」
エマは、自分の首元に触れた。
「夜は、戻らなければなりません。そうしなければ、保てません」
ノアは何も言えなかった。
「吊るされていた時と同じ形でなければ、戻れませんから」
同じ形。
その言葉だけで、夢で見た縄と台が浮かんだ。
ノアは息を吸い損ねた。
「ですから、ご主人様にはお休みいただく必要がありました」
夜更かしは禁忌ですから。
あの声が、耳の奥で蘇る。
可愛い注意ではなかった。
優しさでもなかった。
柔らかい命令だった。
「リリィは」
「保たれなかったものです」
「私と同じ?」
「近いものです」
近い。
あれと。
潰した時、粘液と白いものを漏らしたあれと。
「リリィ様は、欲しいものを我慢できませんでした。だから、ご主人様を食べようとしました」
「私も、そうなるの」
「ご主人様は、保たれています」
「誰に」
「私と、形を保つものに」
名前を聞きたいと思った。
けれど、聞けばまた何かが決まってしまう気がした。名前を与えれば、それはこの世界にあるものとして認めなければならなくなる。虫なのか、呪いなのか、生き物なのか、魔法なのか。そう分類できてしまえば、少しは楽になるのかもしれない。
でもノアは、楽になりたくなかった。
あの首の傷の中で動いていた白いものは、名前のある何かではなく、もっと曖昧で、もっと近くて、もっと自分にも触れているものだった。そう思えてしまうことが、一番嫌だった。
「それは、何なの」
それでも、聞いた。
エマは少しだけ考えた。
「形を続けるものです」
「それだけ?」
「はい。裂けても、欠けても、戻してくれます。ご主人様がご主人様でいられるように」
エマは、名前を言わなかった。
名前がないのかもしれない。
名前を必要としていないのかもしれない。
あるいは、ノアが知る必要がないのかもしれない。
「裂けたものを閉じます。溢れるものを戻します。形を続けます。続けられる限り、ご主人様はご主人様でいられます」
エマの言葉は、どれも淡々としていた。
罪を告白する声ではない。
秘密を打ち明ける声でもない。
ただ、ノアが質問したから答えている。
そういう声だった。
それが一番残酷だった。
エマは隠していたのではないのかもしれない。
隠すという発想すら、あまりなかったのかもしれない。
ノアが尋ねなかったから、答えなかった。
見なかったから、見せなかった。
お休みになっていたから、沈めていた。
そこには、悪意よりも冷たいものがあった。
必要だったから。
そうするものだったから。
それを保つためだったから。
「私は……」
ノアは笑った。
笑い声にはならなかった。
「じゃあ、私は何なの」
エマは、ほんの少しだけ考える。
「ご主人様は、私にとって一番大切な人です」
「それは、もう聞いた」
ノアの声が低くなる。
「私は、何のためにここにいるの」
「私が、この祝福を保つために」
エマは、当たり前のように答えた。
まるで、ご主人様の朝食を用意する理由を答えるみたいに。
今までで一番、答えらしい答えを返した。
その瞬間、ノアの中で何かが冷えた。
これまでも、エマは答えていたのだろう。
嘘ではなかった。
ただ、ノアが聞きたい場所と、エマが答える場所が、いつも少しずれていた。
そのずれが、今だけ合ってしまった。
だから残酷だった。
エマが、それを保つために。
ご主人様のためではない。
ノアのためでもない。
エマのために。
最初から、そのためだった。
「じゃあ、私は……」
ノアは鏡を見る。
木の顔。
木の手。
人間のふりをしていたもの。
「私は、人間じゃないのね」
エマはノアを見ていた。
いつもの顔だった。
ノアの髪を梳き、紅茶を差し出し、帰りを待っていた時と同じ顔。
少し心配そうで、優しい顔。
「はい」
そして、その優しさのまま言った。
「私にとって、一番大切な人です」
その言葉が、今度こそノアを壊した。
大切。
必要。
保つもの。
器。
エマにとって、それらはきっと同じ場所にある。
ノアが人間かどうかではない。
ノアが何を感じていたかでもない。
ノアが何を食べ、何を信じ、何を夢だと思っていたかでもない。
エマが保たれるかどうか。
その中心に、ノアがいただけだ。
「……そんなの」
足が一歩、後ろへ下がった。
下がるつもりはなかった。
ただ、エマの声が近すぎた。
鏡の中の自分が、見えすぎた。
「ご主人様、お体は大丈夫ですか?」
エマが近づく。
その瞬間、鏡の中の景色が変わった。
ノアが後ずさったことで、角度が変わった。
エマが近づいたことで、鏡の端にその姿が映った。
ノアは、見てしまった。
鏡の中のエマは、エマの形をしていた。
白い肌。
金の髪。
ストールを巻いた首。
いつも通りの、やわらかな顔。
けれど、そこに生きているものの温度はなかった。
腐っているわけではない。
崩れているわけでもない。
ただ、人間の皮膚を、正しい場所に丁寧に貼り合わせたように見えた。
頬はなめらかで、唇には色がある。
まばたきもする。
微笑みもする。
それなのに、その奥から血が通っている気配がしなかった。
皮膚の下で、別のものが動いている。
首元が、ストールの奥で浅く波打った。
腕の内側では、白い筋のようなものが絡まり、さっき折れていた場所を正しい形へ引き寄せている。
治っているのではない。
人間の形に、戻されている。
鏡の中のエマは、美しかった。
美しいまま、生き物ではなかった。
エマの言葉は、作り話ではなかった。
ノアが受け入れたくなかったものは、全部、そこに映っていた。
「……触るな」
声が出た。
低く、はっきりと。
エマの手が止まる。
「ご主人様」
「触るな」
もう一度言った。
エマは困ったように眉を下げた。
いつもの顔だった。
ノアが少し機嫌を損ねた時と同じ、どうすればいいのか分からないという顔。
それが、たまらなく気持ち悪かった。
「紅茶をお持ちします。お休みになれば、大丈夫です」
エマが言った。
その声はまだ穏やかだった。
「お休み前の紅茶は心が沈まりますから」
紅茶。
その言葉だけで、喉の奥に甘い香りが戻った気がした。
白いカップ。揺れる湯気。エマの細い指。眠る前に必ず差し出された、優しさの形をしたもの。
けれど、もう知っている。
あれは眠るためのものではなかった。
ノアを沈めるものだった。
ノアを知らないままにしておくものだった。
エマが元の器へ戻るために、ノアの意識を押し込めるものだった。
紅茶を飲めば、また眠れる。
眠れば、朝が来る。
朝が来れば、エマはまた食事を用意する。
ノアはまた椅子に座り、ご主人様として振る舞う。
そこには痛みが少ないのかもしれない。
考えなくていいのかもしれない。
人間ではない自分を、人間のように見ていられるのかもしれない。
それは確かに、優しい続き方だった。
けれど、終わりではない。
続くだけだ。
エマのために、続くだけだ。
ノアはそれだけは嫌だった。
「……嫌」
声は思ったより静かだった。
「もう、嫌」
エマが一歩近づく。
「ご主人様」
「触るなと言ったでしょう」
エマの足が止まる。
それでも、その表情にはまだ諦めがなかった。
紅茶を飲ませればいい。
お休みいただければいい。
朝になれば、またご主人様はご主人様に戻る。
そう信じている顔だった。
ノアは、その顔を見て初めて、静かな怒りを覚えた。
怒鳴り散らしたい怒りではない。
泣き叫びたい怒りでもない。
もっと冷たいもの。
目の前のものを、形ごと壊してしまいたいという、乾いた衝動。
エマは、自分のことを愛しているのだろう。
それはたぶん嘘ではない。
けれど、その愛はノアのためだけのものではなかった。
エマが得た肉体、エマが得た日々、エマが得たご主人様という役割を保つためのものだった。
ならば、ノアが奪えるものは一つしかない。
エマのもの。
燃える。
ノアは燭台の灯りを見た。
小さな揺れだった。
これまで何度も見てきた、何の変哲もない館の灯り。
エマが夕暮れごとに油を足し、廊下を温かい色に染めていたもの。
それが今、唯一の出口に見えた。
「ご主人様?」
エマの声が近づく。
ノアは振り返り、エマを突き飛ばした。
強くはなかった。
けれど重さの足りないエマは、よろめき、壁に手をつく。
その隙に、ノアは棚の横にあった古い油壺を取った。
灯りに使うものだ。
壺の口から、重い液体がこぼれた。
最初に髪へ落ち、次に肩へ広がり、服の合わせ目から内側へ染みていく。
冷たい。
けれど、水の冷たさとは違った。
膜のように薄く、肌だと思っていたものの上を滑り、それから奥へ馴染んでいく。
ノアは、その感覚を知っていた。
知っているはずがない。
油を浴びたことなどない。燭台の油壺に触れたことも、エマの横で灯りを眺めたことがあるだけだ。
それなのに、身体の奥はこの感触を知っている。
喉を通る甘い膜。
眠りへ落ちる前に胸へ広がるぬくもり。
乾いたものをしっとりと保つような、薄い、油のような感覚。
体の奥が覚えていた。
甘さの下にあった膜。
眠りの下にあった油。
ずっと優しさだと思って飲み込んでいたものが、今は服の上から同じように染みてくる。
内側と外側が、同じもので濡れていく。
エマは毎晩、これに似たものをノアへ渡していたのではないか。
優しいふりをして。
眠りのふりをして。
体の内側へ、良いことのように。
ならば、これでいい。
エマがノアを保つために使ってきたものなら、それを壊すためにも使える。
優しさとして渡されたものを、拒絶として返すことができる。
油は胸元まで染みていた。
カップを持つ時のように、指先が少し滑った。
ノアは燭台を掴む。
小さな炎が、油の匂いに揺れた。
「おやめください」
エマの声が、初めて揺れた。
「それは、危険です」
「私に? それとも……」
ノアは油壺を抱えたまま笑った。
「あなたの祝福に?」
エマの顔から、色が消えた。
その答えを待たずに、ノアは自分に火をつけた。
布が先に燃えた。
小さな灯りは最初、遠慮がちだった。
濡れた布の端を舐めるように、細く揺れる。
それから、油を見つけた。
明るさが一気に広がる。
胸元から肩へ、袖へ、髪へ。
ノアは、自分が燃えているのだと理解する。
熱い。
けれど、人間が感じる痛みとは違う。
身体の表面が熱を持ち、内側の細い縫い目が縮み、関節が軋む。痛みではなく、構造が壊れていく感覚だった。
肩の奥で、ぷつ、と何かが切れる。
次に肘。
手首。
指。
これまで当たり前に動いていた場所から、細い命令のようなものが途切れていく。
ノアは指を動かそうとした。
動かなかった。
それなのに、胸の奥が少しだけ満たされた。
動かない。
動かされない。
それは、初めての感覚だった。
自分のものではない手を、自分のものとして動かすことよりも、動かない手を見ている方が、ずっと自分に近い気がした。
切れた場所から、身体の奥が少しずつ静かになっていく。
今までそこにあったはずの合図が、届かない。
動け、と命じるものも、保て、と引き留めるものも、熱の中で細く痩せていく。
ノアはそれを怖いと思う前に、ようやく自分の内側に余白ができたような気がした。
布が縮み、木の肌が黒くなり、表面に細い亀裂が走る。
その奥で、白い糸のようなものが焼ける音がした。
声ではない。
悲鳴でもない。
ただ、縛っていたものが熱に負けてほどけていく音だった。
ノアは息を吸った。
煙が入る。
苦しい。
苦しいはずなのに、笑いそうになった。
今の苦しさだけは、誰かに用意されたものではない。
ノアが選んだ。
ノアが火をつけた。
ノアが燃えることを決めた。
それだけで、十分だった。
「ご主人様!」
エマが叫ぶ。
その声を聞いて、ノアは初めて少しだけ満たされた。
エマの声が、いつもの形を失っていた。
整っていない。
穏やかではない。
役割を忘れた声だった。
それだけで、燃えた意味があった。
「消さなければ」
「消さないで」
「ご主人様、お体が」
「もう、その言い方はやめて」
お体。
その言葉の中に、ノアの名前はなかった。
大切にされていたのは、自分なのか。
それとも、壊れてはいけない形なのか。
もう、区別できなかった。
ノアの声は不思議と静かだった。
熱い。
熱いはずだ。
けれど痛みは遠い。
身体の奥で、何かが慌てて動く気配がある。
エマが長い時間をかけて器を繋ぎ留めていた縫い目。呪いを留めるための支配の糸。その痕跡が、熱に炙られて身じろぎしている。
戻そうとしているのではない。
壊れ方に耐えられず、縮み、軋み、ほどけているだけだった。
「やめてください」
エマが叫ぶ。
その顔は、理解できないものを見ている顔だった。
「あなたのためよ」
「私の?」
「ええ」
ノアは微笑もうとした。
口元が焦げ、うまく動かない。
「あなたが守ってきたものを、終わらせてあげる」
エマの瞳が揺れた。
「どうしてですか」
その声には、怒りがなかった。
責める色もなかった。
本当に、分かっていない声だった。
エマにとって、動けることは良いことだった。
鏡に映る肉体は良いものだった。
ノアがそこにいることも、紅茶を飲むことも、夜に眠ることも、全てそれを保つための正しい営みだった。
だからノアの行為は、エマには理解できない。
それを得たものが、なぜ自分から終わろうとするのか。
大切なものが、なぜ自分で大切な器を壊そうとするのか。
その分からなさが、エマの顔を歪ませていた。
「ご主人様は、私にとって一番大切な人です」
「知ってる」
「だから」
「だから、奪うのよ」
明るさが肩へ回る。
ストールを巻いたエマの首が、赤い揺れの向こうに見えた。
あの下にも傷がある。
あの下にも、形を保つものがいる。
あの下にも、良いことと呼ばれたものの代償がある。
ノアが壊したかったのは、自分だけではなかった。
エマの中で、良いこととして続いてきたものを終わらせたかった。
油を吸った服が縮み、髪が頬へ貼りつき、木の奥へ熱が入り込む。
身体の奥で、細いものが焼き切れる音がした。
糸が切れた。
切れたものが何だったのか、ノアには分からない。
けれど、それが切れるまで、自分は支えられていたのだと分かった。
歩くこと。指を曲げること。怒ること。笑うこと。
その全部の下に、見えない線があった。
線が切れるたびに、ノアは少しずつ壊れていく。
壊れていくのに、奪われていく感じはしなかった。
むしろ、ようやく返されているような気がした。
ほんの短い間だけ。
焼け落ちるまでの間だけ。
それでも、誰かに整えられていない形で、自分がそこにあった。
ノアの膝から力が抜ける。
力尽きたのではない。吊っていたものを失った人形のように、ただ崩れた。
その瞬間だけ、私は私だった。
その言葉は、誰かに聞かせるためのものではなかった。
声にもなっていない。ただ、燃える身体の内側で、初めて自分だけに向かって落ちた。
私。
その単語が、こんなにも遠かったことを、ノアはその時まで知らなかった。
ご主人様。
エマはずっとそう呼んだ。
ノア。
リリィはそう呼んだ。
どちらもノアを指しているはずなのに、どちらもノアを別の場所へ結びつける名前だった。従者に呼ばれる主人。匂いに惹かれる対象。守られるもの。見られるもの。保たれるもの。開けられようとするもの。
私、だけがなかった。
炎がそれを作った。
作ったというより、焼き残したのかもしれない。
怖い。
熱い。
終わる。
それら全部が、初めてノアの内側から出てくる。
誰かのために整えられた感情ではなく、誰かに返すための返事でもなく、ただ燃えているものが燃えていると分かる感覚。
ノアは、その一瞬だけ、エマを見なかった。
リリィも見なかった。
鏡も見なかった。
自分の中で、何かが切れた音だけを聞いていた。
そしてその音だけが、ノアのものだった。
熱い、と思った。
痛い、とは少し違った。
けれど、それは初めて誰かに整えられていない感覚だった。
私のものだった。
エマが叫んでいる。
その声も、ようやく遠くに聞こえた。
「ご主人様!」
エマは火を避けなかった。
自分の袖に燃え移ることも、皮膚が焼けることも、気にしなかった。
倒れてくるノアを抱き止める。
それは、リリィからノアを庇った時と同じ動きだった。
ただし、もう何も守れなかった。
「ご主人様」
返事はできない。
「お体は」
そこで、言葉が途切れた。
大丈夫ですか、と続けられなかったのだろう。
見れば分かる。
もう、大丈夫なはずがない。
それでもエマは、壊れた問いを抱いたまま、黒くなったノアを離さなかった。
腕は焦げ、皮膚は縮み、ところどころ剥がれている。
それでも離さない。
泣いている。
泣いているのに、やはり気持ち悪い。
その姿だけを見れば、大切な人を失ったひとりの女だった。
ご主人様を失って、どうすればいいか分からなくなった従者だった。
でもノアは、もう知っている。
エマが抱いているのは、自分だけではない。
エマを保つための形。
空にできなかった器。
ご主人様と呼ばれるもの。
それでも、泣いていることだけは本当だった。
その本当が、一番気持ち悪かった。
もし嘘だったなら、憎めた。
もし演技だったなら、壊せた。
けれどエマは本当に泣いていた。
本当に大切なものを抱いていた。
その大切なものが、ノアという人間ではなく、ノアという形であったとしても。
涙だけは本物のように見える。
そのことが、燃え残った意識の端に、最後まで引っかかった。
夜が深くなる。
エマは首を吊りに行かなかった。
ノアを抱いたまま、そこにいた。
戻るべき時間を越えても、エマは動かなかった。
もう戻る必要がなくなったから。
窓の外が、ゆっくりと白み始めた。
朝の光が、細く部屋へ差し込む。
薄い光は床の煤を照らし、焦げた布の端を照らし、黒く焼けたノアの身体を照らした。
その光の中で、エマの火傷がゆっくり薄れていった。
黒く縮んだ皮膚が、内側から押し戻される。
焦げた袖の下で、白いものが細く動く。
焼けたところを繕い、剥がれた皮膚を引き寄せ、人間の形に戻そうとしている。
人を助ける動きではない。
形を戻す動きだった。
エマはそれに気づいていないのか、気づいていてもどうにもできないのか、ただノアを抱きしめていた。
そして、首元の傷が閉じ始めた。
ストールの下で、白いものが動いている。
ずっと動いていたのだろう。
毎晩ついた傷を閉じるために。
首を吊るたびに裂ける皮膚を、また同じ形へ戻すために。
エマがエマとして動けるように、それが続くように。
けれど、今は違う。
今夜は、新しい傷がつかない。
エマは首を吊りに行かなかった。
戻るべき時間を越えても、ノアを抱いたままだった。
だから、閉じる。
完全に。
エマの首元から、裂け目が消えていく。
毎晩の首吊りで開き続けていた傷が、初めて滑らかになる。
皮膚が引き合わされ、赤黒い線が薄くなり、まるで最初から何もなかったかのように整っていく。
美しかった。
だからこそ、終わりだった。
それは、傷を治したのではない。
保っていたものを、完成させた。
完成したものは、もう保たれない。
エマの身体が、ぴくりと震えた。
それは痛みではなかった。
痛みを感じる仕組みがあるのかさえ分からない。
けれど、絶望だけはあったのかもしれない。
エマの目が、ほんの少しだけ開く。
焦点は合っていない。
それでも、黒く焦げたノアを探しているように見えた。
「ご主人様」
声にならない声。
次の瞬間、エマの内側が動いた。
保つことをやめるために。
「……?」
エマが小さく息を呑んだ。
痛みはないのだろう。
ただ、何かが起きていることだけは分かったらしい。
「待って」
エマの声が震える。
「まだ、私は」
言葉の途中で、内側から音がした。
裂ける音ではない。
噛みちぎる音でもない。
糸がほどける音だった。
湿った、細かな音。
皮膚の下を、小さな波が走る。
首から肩へ。
肩から胸へ。
胸から腕へ。
エマの皮膚はまだ美しい。
人間を真似た外側。
ノアが何度も見て、従者のものだと思っていた肌。
その下で、何かがほどいている。
裂くのではない。
食い破るのでもない。
丁寧に、選ぶように、保っていた糸を逆に辿っていく。
頬が少し沈む。
肩の形が薄くなる。
腕が軽くなる。
人間の形をしていたものが、内側から支えを失っていく。
エマは叫ばなかった。
叫ぶための痛みがなかったのかもしれない。
叫ぶという人間の反応を、最後までうまく知らなかったのかもしれない。
ただ、ノアを抱く腕の力だけが、少しずつ弱くなっていく。
「ご主人様」
最後まで、それだけだった。
エマの腕は、まだノアを探していた。
抱きしめる形を覚えたまま、ほどけていく。
指先は何かを掴もうとして、掴むべきものの輪郭を失っていく。
それでも、その動きは最後まで乱暴にならなかった。
優しいまま壊れていくものは、怒るものよりずっと怖かった。
エマの首元から、白い糸の束のようなものが滑り出る。
ひとつではない。
細いものが何本も、皮膚の内側から抜け出してくる。
それらは互いに絡まり、ほどけ、また集まる。
虫のようにも見える。
糸のようにも見える。
けれど、そのどちらとも言い切れない。
それがエマを食い荒らしているようには見えなかった。
ただ、エマをエマの形にしていたものが、役目を終えて出てきているようだった。
やがて、エマの身体は軽くなった。
最初から軽かった身体が、さらに軽くなった。
皮膚の下にあったものが、ひとつずつ消えていく。
人間の形だけが、しばらく残った。
美しいまま。
中身を失ったまま。
そして、それも静かに崩れた。
黒く焼けたノアは、床に残された。
エマだったものの内側から、白いものが這い出てくる。
細い。
湿っている。
糸のようで、虫のようで、けれどそのどちらとも言い切れない。
それはしばらく、床の上でほどけていた。
迷っているようには見えなかった。
ただ、次に入る隙間を知っているようだった。
白いものは、焼け焦げたノアへ近づく。
黒い木の表面を、細い先端がなぞった。
焦げた肩。
割れた胸元。
燃え残った関節の継ぎ目。
そこには、まだ何かが残っていた。
ノアという形の残り。
呪いを留めていた古い糸。
エマが長い時間をかけて保っていた痕跡。
白いものは、ひとつずつ確かめるように触れていく。
急がない。
獲物へ飛びつく動きではなかった。
失くしたものを拾い上げるような、静かな確かめ方だった。
黒くなった胸元の裂け目に触れた時、白いものは一度だけ止まった。
まるで、そこが扉であることを確かめるみたいに。
来るな、とも言えない。
目を閉じることもできない。
嫌だという言葉は、口の形と一緒に失われている。
それでも、もし残っていたなら、きっと同じことを思った。
入ってこないで。
けれど、思うためのノアはもう、ほとんどそこにいなかった。
白いものが、ゆっくりと入り込んでいく。
押し入るのではない。
こじ開けるのでもない。
最初から用意されていた隙間へ、元の場所に戻るように沈んでいく。
黒い割れ目の周囲で、焦げた木がわずかに軋んだ。
ノアだったものは抵抗しない。
抵抗するための線は、もう焼けていた。
冷たいとも、熱いとも思わなかった。
ただ、分かった。
終わっていなかった。
何も、終わっていなかった。
黒く焦げた指が、ほんのわずかに動いた。
一度ではなかった。
ほんの少し止まり、また、かすかに曲がる。
動きは弱い。
けれど、そこに迷いはなかった。
焼け残った指は、もうノアの知らない規則で動いていた。
床に残った灰が、指先の下で崩れる。
かつてノアが花をつまみ、紅茶のカップを持ち、エマの髪に触れ、リリィを壊した指。
その全部を覚えているようで、何一つ覚えていないような動きだった。
部屋にはもう、エマの声はない。
ご主人様、と呼ぶ声もない。
それなのに、その指は何かを探すみたいに動いた。
紅茶か。
ストールか。
エマか。
それとも、まだ名前のない別のものか。
誰にも分からない。
それはノアの意思ではなかった。
エマの意思でもなかった。
もっと別の、名前をつけたくない続き方だった。
答えるためではない。
ただ、動くために。
焼け残った器の奥で、白いものが静かにほどける。
そして、それは、そこに入った。




