第九話:女帝の聖域、誠実な侵入者
都心の夜を一望する、一ノ瀬凛のタワーマンション。その最上階にある彼女の私室は、外界から隔絶された「鉄の城」だった。
対人恐怖症を抱える彼女にとって、ここだけが鎧を脱ぎ、一人の人間に戻れる唯一の場所。その聖域に、今、俺という「異物」が足を踏み入れようとしていた。
「いい、佐藤。これはあくまでセキュリティ上の緊急措置よ。あんたを陥れた銀行の残党や、それを嗅ぎ回る下俗な週刊誌……そんな連中に、私の『資産』であるあんたを汚されるのは癪だから。勘違いしないでちょうだい」
リビングの中央で腕を組み、凛はいつになく早口で言い放った。頬がわずかに上気しているのは、暖房のせいだけではないだろう。
「了解しました、社長。防犯上の観点からも、二十四時間体制であなたをお守りできるのは望ましいことです。……今日からよろしくお願いします」
俺は一礼し、運び込んだ必要最低限の荷物を整理し始めた。
と言っても、俺自身の持ち物は少ない。代わりに鞄から取り出したのは、凛の体質に合わせたオーガニックのハーブティー、彼女が愛用するブランドのキャンドル、そして彼女が以前「食べてみたい」と独り言を漏らしていた地方限定の焼き菓子だった。
「……何よ、その荷物。あんた、自分の物より私の物の方が多いじゃない」
「秘書としての務めですから。あなたの平穏を守るためには、環境を整えることが最優先です」
俺がキッチンに立ち、手際よく彼女のお気に入りのコーヒーを淹れ始めると、凛は手持ち無沙汰そうにソファに腰掛けた。
「……佐藤」
「はい」
「あんたが来ると、私の部屋じゃないみたいだわ」
「不快ですか?」
「……逆よ。不快なら、今すぐ叩き出してる。……なんだか、空気が柔らかくなったみたいで。それが、少しだけ……怖いのよ」
彼女の呟きは、コーヒーメーカーが立てる音にかき消されそうなほど小さかった。
鎧を脱いだ彼女は、驚くほど脆い。その脆さを自分だけが知っているという事実に、俺の胸の奥で黒く、甘い独占欲が鎌首をもたげる。誠実さという名の仮面の下で、俺は確実に彼女を浸食し始めていた。
翌朝。
凛が目を覚ますと、寝室のドアの向こうから微かな調理の音が聞こえてきた。
彼女がリビングへ向かうと、そこには完璧な温度で用意された白湯と、彼女の体調を考慮した和食が並んでいた。
「……六時三十分。一分の狂いもないわね」
「おはようございます、凛さん。昨夜はよく眠れましたか?」
「あんたの淹れたハーブティーのせいよ。……泥のように眠れたわ」
凛は寝癖のついた髪を気にすることもなく、椅子に座った。
いつもなら「他人が自分の生活圏にいる」ことに動悸を覚えるはずの彼女が、俺の存在には何の拒絶反応も示さない。それどころか、俺が差し出した箸を当然のように受け取り、俺が選んだ料理を美味しそうに口に運ぶ。
「……ねえ、佐藤。あんたがいなくなったら、私はどうなるのかしら」
ふとした瞬間の、毒を含んだ問い。
「そんな日は来ません。僕の雇用契約は、あなたが『いらない』と仰るまで続きます」
「……そう。なら、あんたを一生クビにしないわ。死ぬまで私の隣で、私のために働きなさい」
それは不器用な、けれど何よりも重い「独占」の宣言だった。
その日の夜。
仕事から戻った俺たちは、リビングで翌日の資料を整理していた。
普段は完璧なスーツ姿の俺も、今はシャツのボタンを外し、ネクタイを緩めている。眼鏡を外し、少しだけプライベートの顔を見せた俺に、凛の視線が突き刺さる。
「……何ですか、社長。僕の顔に何かついていますか?」
「……別に。ただ、あんた、眼鏡を外すと随分と……雰囲気が変わるわね」
凛はそう言うと、わざとらしくソファの端に座り込んだ。だが、その距離は明らかに昨日よりも近い。
俺はあえてその距離を詰め、彼女の隣に膝を折った。
「一日の仕事で、足が浮腫んでいますね。マッサージをしましょうか」
「っ!? いいわよ、そんなの。あんたは私の盾であって、召使じゃないわ」
「僕がやりたいんです。……いいですか?」
俺が少しだけ低く、甘やかした声で尋ねると、凛は「勝手にしなさい」と顔を背けた。
彼女の細い足を手に取る。ヒールで酷使されたその足を、丁寧に、けれど逃がさないように力を込めて揉み解していく。
「……あ……、んっ……」
凛の口から、無防備な吐息が漏れた。
彼女の顔は真っ赤に染まり、俺の肩を掴む指先に力がこもる。
「……佐藤、あんた……。本当に、ずるいわ……」
「ずるいのはお互い様です、凛さん。僕をこんな場所に住まわせるなんて」
俺は手を止め、彼女をじっと見上げた。
琥珀色の瞳が揺れている。そこにあるのは、社長としての威厳ではなく、一人の男に執着され、依存していく一人の女性の情熱だった。
その時。
凛のデスクに置かれたスマートフォンが、冷たく震えた。
凛が手を伸ばし、画面を確認した瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。
「……何だ、これ……」
画面には、昨夜、このマンションの地下駐車場へ俺と彼女が入っていく背影の写真が表示されていた。
メッセージの主は、凛が以前から苦手にしていた同業大手の経営者、九条だった。
『一ノ瀬社長、随分と仲睦まじいことで。例の横領犯と一つ屋根の下とは……。明日の経済誌のトップを飾るには十分なネタだと思いませんか? ……公私混同も甚だしい。これを揉み消して欲しければ、例の新技術の独占ライセンス、私に譲るのが賢明ですよ』
「……あの、汚らわしい男……っ」
凛の手が、パニックの兆候で激しく震え始める。
せっかく穏やかになりかけていた彼女の心が、再び外部の悪意によって引き裂かれようとしていた。
俺は彼女の震える手を両手で包み込み、スマートフォンの画面を裏返した。
そして、彼女の耳元に唇を寄せる。
「落ち着いてください、凛さん。……こんなゴミのような脅迫、僕がすべて処理します」
「……でも、佐藤。これが世に出たら、あんたの潔白もまた汚されて……」
「僕のことはどうでもいい。……ただ、あなたの大切な場所を汚そうとする不潔な手は、僕が徹底的に折っておきます」
俺の瞳に宿る、冷徹なまでの誠実さ。
凛はその光に当てられたように、呆然と俺を見つめた。
「……あんた、本当に……私の盾なのね」
「いいえ、今は盾だけではありません。……あなたの安眠を妨げるものをすべて排除する、あなたの専属の猟犬です」
俺は凛をソファに座らせ、コートを羽織った。
夜の帳が降りる中、俺の心は驚くほど静かだった。
誠実さを踏みにじる者には、それ以上の冷徹さで応える。
それが、一ノ瀬凛という女性を拾い、その聖域に招き入れられた俺の、新たなる「雇用契約」の形だ。
「凛さん、温かいココアを淹れておきます。僕が戻るまでに、それを飲んで休んでいてください。……約束ですよ」
俺は彼女の額に、触れるか触れないかの距離で指先を置き、部屋を後にした。
背後で、彼女が「佐藤……!」と名前を呼ぶ声が聞こえたが、俺は振り返らなかった。
九条。
君は、僕が最も大切にしている「誠実さ」を脅迫の道具に使った。
その代償がどれほど高くつくか……。
一晩あれば、君の会社ごと、この世から消してあげる。




