第8話:盾の居場所
一週間後。中央帝都銀行による公式会見が行われ、俺の潔白は証明された。
アイリス・エッジのオフィスには、銀行側の法務部長や役員たちが連日のように頭を下げに訪れている。
「佐藤君、改めて当行から謝罪したい。君のような優秀な人材を失ったのは、我が行にとって痛恨の極みだ。特任部長というポストを用意した。年収も以前の倍を保証しよう。君のキャリアのためにも、戻ってきてはくれないか」
かつて俺を泥棒扱いした男たちが、今は手のひらを返したように揉み手で擦り寄ってくる。
その光景を、俺は冷めた目で見つめていた。
視線の端では、社長室の重厚なドアがわずかに開き、こちらを伺う琥珀色の瞳が見えた。俺と目が合うと、その瞳はすぐに逸らされ、ドアが音を立てて閉まった。
「……検討しておきます」
俺は適当な言葉で彼らを追い返し、社長室へと向かった。
入室すると、凛は窓の外を眺めたまま、デスクに背を向けていた。
「何よ。銀行の偉い人たちとのお話し合いは終わったの?」
声は冷たいが、どこか震えている。
「はい。復職の打診を断りきれず、時間がかかりました」
「……そう。よかったじゃない。元通りのエリート様に返り咲けるわね。私の『専属運転手』なんて汚れ仕事、もうしなくていいんだから。……さっさと荷物まとめて出ていけば?」
凛は振り向かず、吐き捨てるように言った。
だが、窓ガラスに映る彼女の顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいる。机の上に置かれた新作のチョコには手がつけられておらず、銀紙がくしゃくしゃに握りつぶされていた。
「凛さん。僕はまだ、辞めるとは一言も言っていませんが」
「嘘ばっかり! あんな大きな銀行の部長になれるのよ? 私みたいな、性格も口も悪い女社長の下にいるより、よっぽど輝かしい未来じゃない!」
凛が激昂して振り返った。その瞳には涙が溜まっている。
「あんた、誠実なんでしょ!? 誠実なら、自分のキャリアを一番に考えなさいよ! 私は……私は、もう大丈夫だから。柏木もいなくなったし、会社も安定したし……もう、あんたがいなくても……」
彼女の言葉は、嘘で塗り固められていた。
対人恐怖症が完治したわけではない。現に、彼女の指先は、俺の視線から逃れるようにスカートの裾を必死に掴んでいる。
俺はゆっくりと歩み寄り、彼女のデスク越しにその手を優しく取った。
「っ……! 離しなさいよ!」
「離しません。……凛さん、僕が銀行に戻る理由は一つもありません」
「……なんでよ」
「僕にとっての『誠実さ』は、組織や肩書きに捧げるものではなくなったからです。……僕は、雨の公園で僕を拾ってくれた、あなたという一人の女性に、僕のすべてを預けると決めたんです」
凛の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
「……馬鹿じゃないの。あんた、本当に馬鹿だわ。……損しかしないわよ」
「構いません。あなたの隣にいることが、僕にとって最も価値のあるキャリアです」
凛は力なく笑うと、そのまま俺の腕の中に崩れ落ちた。
彼女の体温が胸に伝わる。かつての「宿敵」は、今や俺の腕の中で、壊れそうなほど小さく震えていた。
「……行かないで。……佐藤。……私の側にいなさい。これは命令よ」
「了解しました、社長」
俺が彼女の背中に手を添えた、その時。
デスクの上の電話が、無慈悲な音を立てて鳴り響いた。
表示されたのは、警察の捜査二課――柏木の事件を担当している刑事からだった。
「……佐藤です。はい、はい……。……え?」
刑事の言葉に、俺の表情が強張った。
柏木の背後関係を洗う中で、押収された資料からアイリス・エッジの財務に直結する「不穏なデータ」が見つかったという。
それは柏木個人が仕組んだものではなく、中央帝都銀行のさらに上層部――常務理事クラスが関与している巨大な不正蓄財の証拠だった。
「どうしたの、佐藤」
涙を拭った凛が、俺の異変に気づいて顔を上げた。
「……凛さん。柏木は、ただの尖兵に過ぎなかったようです」
俺は刑事に伝えられた内容を整理し、彼女に伝えた。
「銀行の上層部が、アイリス・エッジをマネーロンダリングの隠れ蓑にしようとしていた形跡があります。……僕たちが柏木を叩き潰したことで、彼らは『証拠隠滅』のために、本格的に動き出すかもしれません」
復讐を終えたと思ったのも束の間。
俺と彼女の前には、国家規模の権力という、さらに巨大な壁が立ち塞がろうとしていた。
「……上等じゃない。私たちが、あんな腐った銀行のゴミ箱にされるなんて、絶対に許さないわ」
凛の瞳から不安が消え、再び「女帝」の鋭い光が戻る。
「佐藤、あんた、覚悟はできてるんでしょ?」
「もちろんです。あなたの盾として、最後までお供します」
俺は凛のデスクに置かれた、冷めてしまったコーヒーを片付け、新しい一杯を淹れ直した。
かつての職場との決別は、より過酷な戦いの始まりを意味していた。
だが、今の俺には守るべき人がいる。
そして彼女には、誰よりも信頼できる「影」がいる。
不器用な二人の手は、机の下で、静かに、そして固く結ばれた。
東京の夜景が、新たな嵐の予感を含んで輝き始める。
誠実さを牙に変えた男の戦いは、ここから真のクライマックスへと突き進んでいく。




