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氷の女帝の、震える肩を抱けるのは俺だけ 〜どん底の元エリートは、誠実さを牙に変えて彼女を守り抜く〜  作者: 寝不足魔王


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第十話:猟犬の夜、女帝の祈り

 深夜の銀座。ネオンの光が雨上がりのアスファルトに反射し、毒々しい色彩を放っている。

 高級会員制クラブの奥まった個室で、九条は傲慢に足を組み、紫煙を燻らせていた。


「おやおや、一ノ瀬社長の愛犬が、夜散歩のついでに挨拶か? 例のライセンス契約書、持ってきたんだろうな」


 九条は、俺が差し出した茶封筒を、汚いものを見るように指先で引き寄せた。

 俺は表情一つ変えず、彼の対面に腰を下ろした。ネクタイはきっちりと締め直し、眼鏡の奥の瞳は、銀行員時代よりもさらに冷徹な光を宿している。


「……九条さん。あなたは一つ、大きな計算違いをしています」

「あ?」

「僕は、凛さんに頼まれてここに来たわけではありません。……僕が、僕自身の判断で、あなたに引導を渡しに来たんです」


 俺は封筒の中から、数枚の資料を取り出した。

 そこには、九条の会社が行っていた海外法人経由の不透明な資金移動、および、特定の銘柄に関する不自然な株取引の記録が、緻密なグラフと共にまとめられていた。


「……な、なんだ、これは」

「あなたが隠蔽していたインサイダー取引の証拠。それから、先ほどあなたが凛さんに送った脅迫メッセージのログ一式。これらはすでに、僕の指先一つで警察と証券取引監視委員会へ送信される準備が整っています」


 九条の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。

 彼は震える手で資料を掴み、中身を確認した。


「ば、馬鹿な……。こんな情報、外部の人間が手に入れられるはずが……!」

「僕は元、中央帝都銀行の融資担当ですよ。あなたのメインバンクが、あなたをどう評価しているか……その数字の裏を読むことなど、呼吸をするより簡単だ。……九条さん、一ノ瀬凛という女性を脅した代償は、高くつきますよ」


 俺は身を乗り出し、九条の瞳を至近距離で射抜いた。

「明日の朝、あなたの会社には家宅捜索が入るでしょう。社会的地位、資産、すべてを失ってから、後悔してください」


「ま、待て! 交渉だ! 写真は消す! 二度と彼女には近づかない! だから……!」

「交渉? ……却下です。あなたは彼女の『安眠』を奪った。それは万死に値する罪です」


 俺は椅子から立ち上がり、一度も振り返ることなく個室を後にした。

 背後で九条が何事か叫んでいたが、その声は俺の心には一分も響かなかった。

 誠実さとは、守るべき者のために、敵に対して非情になれる強さのことだ。今の俺には、その覚悟がある。


 午前三時。

 静まり返ったマンションに戻り、リビングのドアを開けた。

 真っ暗な部屋の中、ソファの片隅に小さな影が縮こまっているのが見えた。


「……社長? 起きていらしたんですか」


 声をかけると、毛布にくるまっていた凛が、弾かれたように顔を上げた。

 彼女の瞳は赤く、頬には涙の跡が光っている。

「……佐藤? 本当に、佐藤なの?」


 凛はソファから飛び降りると、裸足のまま俺の元へ駆け寄り、その胸に激しく衝突するように抱きついた。

「……っ、遅いわよ、馬鹿! どこに行ってたのよ! 私の前から、勝手にいなくならないでって言ったじゃない!」


 震える腕が、俺の背中に回される。

 かつての「氷の女帝」は、今や迷子の子供のように俺のスーツを掴み、必死にその体温を確かめていた。


「申し訳ありません。……九条との件は、すべて片付きました。二度と彼が、あなたを脅かすことはありません」

「そんなのどうでもいいわ! あんたが無事なら、会社なんてどうなったって……っ」


 凛の声が詰まる。

 彼女は俺の胸に顔を埋めたまま、嗚咽を漏らした。

 孤独に耐えてきた彼女にとって、俺がいなくなる恐怖は、死ぬことよりも耐え難いものになっていたのだ。


「……佐藤。もう、二度と私を一人にしないで。……これは社長命令じゃないわ。……私の、一ノ瀬凛としての、一生の願いよ」


 彼女の独占欲、そして依存。

 それは、歪で、重く、けれどこの上なく純粋な愛の形だった。

 俺は彼女の背中に手を回し、その震えを包み込むように抱きしめた。


「……約束します、凛さん。あなたの影として、あなたの猟犬として、一生あなたの側にいます」


 凛は俺を見上げ、潤んだ瞳で俺の首筋に指を這わせた。

「……あんた、本当にずるいわ。……こんなに私を『あんたなしじゃダメな体』にしておいて……。……もう、絶対に離さないから。逃げようとしても、鎖で繋いででも、私の側にいさせるわよ」


 凛の言葉に、俺は静かに微笑んだ。

「鎖なんて必要ありませんよ。……僕は最初から、あなたの誠実さに、繋がれていますから」


 俺は彼女を横抱きにし、寝室へと運んだ。

 ベッドに横たわった彼女は、眠りにつくまで俺の手を離そうとしなかった。

 

 窓の外、夜明けの気配が東の空を紫に染め始めている。

 俺たちが超えてしまった境界線。

 それはもう、単なる主従関係には戻れないことを意味していた。

 

 依存し、執着し、守り抜く。

 それが、泥の中から拾われた男と、孤独な女帝が選んだ、新しい再雇用の形だった。


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