第十一話:見せつけの情愛
一ノ瀬凛という女性は、光を浴びるために生まれた存在だ。
鏡の前で、真紅のイブニングドレスを纏った彼女を見て、俺は改めてそう確信した。背中が大きく開いたデザインは、彼女の透き通るような白い肌を際立たせ、琥珀色の瞳はシャンデリアの輝きを吸い込んで、見る者を惑わせる。
「……佐藤、そんなに見つめないで。ドレスが燃えてしまいそうだわ」
凛が、鏡越しに俺を睨んだ。だが、その頬は微かに朱を帯びている。
俺は一歩近づき、彼女の背後に立った。手元にあるのは、彼女の誕生石をあしらった最高級のダイヤモンド・ネックレスだ。
「失礼します、社長。仕上げを」
冷たい石の感触が彼女の鎖骨に触れた瞬間、凛の肩が小さく跳ねた。俺の指先が、彼女のうなじを、わざとゆっくりと這うようにして留め具を止める。
鏡の中の俺たちは、まるで一幅の絵画のようだった。完璧に整えられた三ピーススーツの俺と、その腕の中に収まる美しい女帝。
「凛さん、心臓の音がここまで聞こえますよ。……怖くはありません。僕があなたのすぐ後ろにいて、あなたの吸う空気さえ僕が管理しますから」
「……あんた、本当に傲慢ね。私の呼吸まで支配するつもり?」
「ええ。あなたのすべてを把握するのが、僕の再雇用契約の条件ですから」
俺が彼女の耳元で低く囁くと、凛は観念したように目を閉じ、俺の腕に体重を預けた。この密室で育まれる、甘やかな支配と依存。それが今夜の戦場へ向かうための、彼女の唯一のガソリンだった。
会場であるホテルの広間に足を踏み入れた途端、凛の仮面は完成した。
顎を上げ、視線は誰とも合わさず、悠然と歩く「氷の女帝」。俺はその斜め後ろ、影のように寄り添い、彼女に向けられる有象無象の視線をその身で受け止めた。
「一ノ瀬社長! 今夜も一段と輝いていらっしゃる」
近づいてきたのは、新興不動産グループの代表、江藤だった。
まだ三十代前半、自信家特有の嫌味な笑みを浮かべた男だ。江藤は、俺を一瞥して鼻で笑うと、無作法にも凛の手を取ろうとした。
「こんな窮屈な場所は、僕のような刺激的なパートナーと楽しむべきだ。……後ろにいる、その無愛想な木石は、あちらの控室で冷えたコーヒーでも飲ませておけばいい」
凛の手が、一瞬で強張る。対人恐怖症のスイッチが入り、彼女の視線が助けを求めるように泳いだ。
江藤の指先が、彼女の腕に触れようとした、その刹那。
「――お言葉ですが、江藤様」
俺は音もなく二人の間に割り込み、江藤の手を、物理的に、そして冷徹に制した。
俺の瞳には、かつて柏木を破滅させた時以上の冷酷な光が宿っていた。
「一ノ瀬社長は、現在、極めて重要な経営判断の最中です。軽薄な接触は彼女の思考を妨げます。……それから、あちらの控室へ行くべきなのは、僕ではなくあなたの方だ。昨夜、あなたが決済したはずの練馬の用地買収……あれ、裏で某指定暴力団のフロント企業が絡んでいますよ。メインバンクにはもう報告が行っている頃でしょうが」
江藤の顔から、一瞬で余裕が消えた。
「な……、何を、デタラメを……っ!」
「デタラメかどうかは、五分後に鳴るあなたのスマートフォンの着信で確認されるといい。……凛さん、行きましょう。ここには、あなたの価値を理解できる人間はいないようです」
俺は呆然とする江藤を背にし、震える凛の腰を、衆人環視の中で力強く引き寄せた。
本来、秘書がしていい距離感ではない。だが、周囲の者たちは、俺の放つ圧倒的な威圧感と、その「所有宣言」とも取れる振る舞いに、気圧されて声を上げることもできなかった。
「……佐藤、あんた。やりすぎよ……みんな見てるわ」
「見ていればいい。……僕の宝物に触れようとした罰です」
会場を後にし、マイバッハの後部座席に滑り込んだ瞬間。
凛は堰を切ったように、俺の肩に顔を埋めた。
「……怖かった。……でも、あんたがあの男の手を払いのけた時……なんだか、すごく安心したの。……ねえ、佐藤。あんた、さっき本当に怒ってたわね?」
凛が俺を見上げる。その瞳には、恐怖ではなく、征服された者の悦びと、俺への深い執着が混ざり合っていた。
俺は無言で、彼女を自分の膝の上に引き上げた。
「っ……! 佐藤……?」
「社長。……いえ、凛さん。僕は誠実な男です。だから、一度決めたことは曲げられない」
俺は彼女の細い顎を持ち上げ、逃げ場のない距離で彼女を閉じ込める。
「二度と、あんな男に触らせないでください。……僕以外の男に、あなたの肌の温度を教える必要はありません。……もし次があったら、僕は自分でも何を教えるか、制御できる自信がありませんよ」
「……独占欲の塊ね。あんた、本当に……私の『盾』なの?」
「あなたのすべてを独占し、守り抜く。それが僕の誠実さの正体です。……凛さん、あなたは、僕なしではもう生きていけない。……そうでしょう?」
俺の指先が彼女の唇をなぞる。凛は微かに震えながらも、自ら俺の胸に額を押し当て、小さな声で答えた。
「……ええ。……もう、あんたがいない世界なんて、息ができないわ。……だから、一生私を、あんたの毒で満たしなさい」
暗い車内。二人の境界線は完全に溶解し、主従という名の、逃げ場のない檻が完成した。
泥の中から始まった物語は、今や純粋な執着へと形を変え、二人を深い闇の奥へと誘っていく。




