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氷の女帝の、震える肩を抱けるのは俺だけ 〜どん底の元エリートは、誠実さを牙に変えて彼女を守り抜く〜  作者: 寝不足魔王


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第十二話:独占欲の境界線

 昨夜のパーティーでの余韻が、甘い毒のように全身に回っている。

 一ノ瀬凛は、社長室のデスクで何度目かの溜息をついた。開いたままのノートパソコンには、意味をなさない文字列が並んでいる。視線の先には、扉の側に泰然と控える佐藤誠の姿があった。

 

 衆人環視の中で、彼に腰を抱き寄せられた時の、あの熱。

「僕の宝物に触れようとした罰です」

 その言葉が、耳の奥で何度もリフレインし、彼女の思考を麻痺させる。


「……社長。先ほどから手が止まっていますが。午後の役員会議の資料、まだ目を通されていませんよね?」

 誠が、淀みのない足取りでデスクに歩み寄ってきた。眼鏡の奥の瞳は、いつも通り沈着冷静だ。

「わ、分かってるわよ。少し考え事をしていただけよ。あんたこそ、仕事中なんだからあまりジロジロ見ないで」

「失礼しました。あまりにあなたが無防備な顔をされていたので、つい」


 誠はそう言うと、彼女の前に新しいコーヒーを置いた。

 凛はその香りを吸い込み、少しだけ落ち着きを取り戻そうとする。だが、彼がカップを置く際に、わざとらしく彼女の指先に自分の指を滑らせたことに気づき、心臓が大きく跳ねた。


(……この男、分かってやってるわ……!)

 

 彼に支配され、依存していく自分。それが心地よく感じてしまう自分。

 凛はそんな自分を振り払うように、立ち上がった。

「……今日の午後は、予定をキャンセルして。私、一人で少し外を歩いてくるわ。気分転換が必要なの」

「お一人で、ですか?」

「そうよ。あんたはここで、溜まった事務仕事でも片付けてなさい。……これは命令よ」


 それは、彼なしでも自分は立っていられるのだという、最後の悪足掻きだった。

 誠は一瞬、眉を動かしたが、すぐに深く一礼した。

「……承知いたしました。お気をつけて」


 三十分後。

 凛はオフィスの外、午後の陽光が降り注ぐ並木道を一人で歩いていた。

 だが、歩き始めてすぐに、彼女の足取りは重くなった。


 すれ違うサラリーマンの何気ない視線。向こうから歩いてくる若者の笑い声。

 誠がいれば、彼はその恵まれた体躯でそれらすべての「毒」を遮断し、彼女に清浄な空気だけを与えてくれていた。だが、一人になった途端、世界は剥き出しの刃物となって彼女を襲う。


(……息が、苦しい……)

 

 胸が締め付けられ、冷や汗が背中を伝う。

 対人恐怖症の暗雲が、容赦なく彼女の視界を塞いでいく。足の震えが止まらず、並木道のベンチに辿り着く前に、彼女は膝から崩れ落ちそうになった。


「――だから言ったでしょう。無理をなさらないでくださいと」


 背後から伸びてきた強く温かい腕が、凛の細い肩を抱きとめた。

 懐かしい、落ち着く香り。

 凛は縋り付くようにその腕を掴み、彼の胸に顔を埋めた。


「……さ、とう……。なんで、ここに……」

「あなたが僕を必要とするなら、僕は地の果てまで影となって付き従います。……僕の許可なく、僕の側を離れようとした罰ですね、これは」


 誠の声は優しかったが、その言葉には逃げ場のない独占欲が滲んでいた。

 彼は動けない凛を軽々と横抱きにすると、近くに回してあったマイバッハの後部座席へと運び込んだ。


 マンションに戻った後も、誠の「躾」は終わらなかった。

 リビングのソファに凛を座らせると、誠は彼女の背後から包み込むようにして、その首筋に冷たい指を這わせた。


「凛さん。今日の独断専行は感心しません。僕がいない場所であなたが壊れてしまったら、僕のこれまでの献身が無駄になってしまう」

「……ごめんなさい。……でも、私は……」

「言い訳は不要です。……あなたが勝手なことをするたびに、僕はこうして、あなたに僕の存在を刻み込まなければならなくなる」


 誠は彼女の耳たぶを、痛くない程度に甘噛みした。

 凛の口から、熱い吐息が漏れる。叱責されているはずなのに、その声に含まれる執着が、彼女の脳を甘くとろけさせていく。


「……もっと……。佐藤、もっと私を縛って。……あんたがいなきゃダメだって、思い知らせてよ……」

「……本当に、手の焼けるあるじだ」


 誠は呆れたように溜息をつき、彼女の髪に深く指を沈めた。

 二人の距離は、もはや唇が触れるか触れないかの位置にある。誠は彼女の顎を上げ、逃げ場のない瞳で彼女を見つめた。


「今夜は、寝室のドアを開けておいてください。あなたの寝息を隣で聴いていないと、僕も不安なんです。……あなたがどこかへ消えてしまわないように」


 それは、秘書としての一線を越えた、明白な独占宣言だった。

 凛は微かに震えながらも、至福の表情で頷いた。


 二人の関係は、もはや健全な主従関係には戻れない。

 依存という名の鎖で繋がれた二人は、互いの肌の熱さを唯一の救いとして、共依存の深淵へと静かに堕ちていく。

 

 窓の外、夜の帳が降りる中。

 アイリス・エッジの社員たちが、最近の二人の「あまりに濃密すぎる空気」に疑念の目を向け始めていることなど、今の二人にはどうでもよいことだった。


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