第十三話:過去の亡霊と、深まる共依存
午後二時。アイリス・エッジの応接室には、場違いなほどの「正義感」が漂っていた。
佐藤誠の前に座っているのは、中央帝都銀行時代の後輩、高橋だ。彼は誠が横領犯として追放された後も、一人で調査を続け、柏木の不正を暴くための端緒を掴んだ男だった。
「佐藤さん、戻ってきてください。常務も、当時の判断ミスを認めています。君のような誠実な人間が、こんなベンチャーで運転手まがいのことをしているのは、国家的な損失です」
高橋の瞳は、純粋な敬愛に満ちていた。その「善意」は、今の俺には眩しすぎて、ひどく胃が疼く。
「高橋君。君の尽力には感謝している。だが、僕はもう、銀行という組織には何の未練もないんだ」
「そんな……! あの一ノ瀬という社長に、何か弱みでも握られているんですか? もしそうなら、僕が……っ」
高橋が身を乗り出し、俺の右手を強く握りしめた。
その瞬間、背後のドアが僅かに開く音がした。視線を向けるまでもない。廊下側の微かな気配、そして彼女が好むルームフレグランスの香りが、鋭い棘となって空気を刺した。
「失礼、佐藤。……取り込み中だったかしら」
氷の女帝、一ノ瀬凛がそこに立っていた。
彼女の視線は、高橋が握っている俺の手に向けられ、琥珀色の瞳が凍りついたように静まり返っている。
「……社長。中央帝都銀行の、元後輩です」
「そう。……熱烈な再会のようね。邪魔をして悪かったわ。佐藤、話が終わったら社長室へ来なさい。一分でも遅れたら、減給よ」
凛はそれだけ言い捨てると、踵を返して去っていった。その歩調が、いつもより僅かに乱れているのを俺は見逃さなかった。
五分後。俺が高橋を冷徹に追い返し、社長室の扉を開けた瞬間。
机の上に置いてあったはずのクリスタル製のペーパーウェイトが、俺の足元を掠めて壁に激突し、乾いた音を立てて砕け散った。
「遅いわよ、佐藤。あの子といつまで手を繋いでいるつもりだったの?」
凛はデスクの端を指が白くなるほど強く掴み、肩を激しく震わせていた。その顔は、嫉妬という名の醜悪な感情に支配され、絶望に近い怒りを湛えている。
「……ただの挨拶です」
「挨拶であんなに長く手を握るの!? あんた、あの子のところへ戻るつもりなんでしょ? あんなキラキラした『まともな世界』から迎えに来られたら、私みたいな汚れきった女の側になんて、いたくないわよね!」
凛の声が裏返る。彼女は机を回って俺に詰め寄り、俺の胸ぐらを掴んだ。
「……行かないで。絶対に許さない。あんたを拾ったのは私よ。あんたを泥の中から引き上げたのは私なのよ! あんたの誠実さも、能力も、指の一本一本まで、全部私の所有物なんだから!」
その叫びは、もはや愛というより呪いに近かった。
嫉妬に歪み、独占欲に理性を失った彼女。これほどまでに醜く、そしてこれほどまでに愛おしい姿があるだろうか。
俺は逃げようとする彼女の手首を掴み、そのまま背後の壁に押し当てた。
「っ……! 離しなさい、佐藤……!」
「離しません。……凛さん、あなたが僕の過去にそこまで嫉妬してくれるなら、これ以上光栄なことはありません」
俺は彼女の耳元に顔を寄せ、熱い吐息を吹きかける。
「高橋君の涙なんて、関係ありません。……今の僕にとって、あなたのその、嫉妬で引き攣った美しい顔の方が、何万倍も価値がある」
凛の目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「……嘘よ。あんたは、あんなに誠実なんだから……」
「ええ、誠実ですよ。だからこそ、僕はあの日、あなたに拾われた時に過去をすべて捨てた。……僕を二度と過去に返さないための『楔』を、あなたが打ってくれませんか?」
俺は自分のネクタイを緩め、首筋を無防備に晒した。
「……社長命令です。僕が誰のものか、あなたが刻み込んでください」
凛は一瞬、呆然と俺を見上げたが、やがて捕食者のような熱を帯びた瞳で、俺の首筋に食らいついた。
鋭い痛みが走る。彼女が「自分のものだ」と証拠を残すための、執着の痕跡。
「……はぁ、はぁ……。……佐藤、誠……。あんたは、私のものよ。……一生、私の檻の中で、私のために尽くしなさい」
「仰せのままに。……僕の主」
二人は暗い社長室の中で、互いの存在なしでは呼吸さえできない共依存の深淵へと、さらに深く堕ちていった。
窓の外。
俺を拒絶したはずの銀行上層部は、誠を「排除」するか「凛を陥れる」かの策謀を練り始めている。
だが、今の俺たちにとって、そんな外敵の影など、二人の濃密な時間を彩るスパイスに過ぎなかった。




