第十四話:誠実な猟犬の報復
薄闇が残る午前六時のリビング。タワーマンションの窓の外には、まだ眠りから覚めきらない灰色の都会が広がっていた。
佐藤誠は鏡の前に立ち、首筋に残された鮮やかな赤紫色の痕を、無表情に見つめていた。前夜、感情を爆発させた凛が刻みつけた、剥き出しの所有権の証明。それは鋭い痛みを伴うが、今の誠にとってはどんな勲章よりも誇らしいものだった。
「……おはようございます、凛さん」
背後で衣擦れの音がした。振り返ると、シルクのガウンを羽織った凛が、寝惚け眼でこちらを凝視している。彼女の視線は、吸い寄せられるように誠の首筋へと注がれた。
「……消えてないわね」
「ええ。あなたが、あれほど強く望んだものですから」
誠はあえて、いつもの三ピーススーツのシャツではなく、襟の高いワイドカラーのシャツを手に取った。
「隠すつもり?」
「秘書が衆人環視の中で見せびらかすものではありません。……ですが、この布地の下に、僕を縛るあなたの鎖がある。そう思うだけで、僕は今日一日、誰よりも誠実なあなたの猟犬でいられます」
凛は黙って誠に歩み寄り、彼の手からシルクのネクタイを奪い取った。
「私がやるわ。……あんたは、黙って私に委ねていなさい」
震える指先。凛は誠の喉元に手を伸ばし、丁寧に、そして首を絞めるような強さでノットを締め上げていく。至近距離で交わる視線。凛の瞳には、誠が「男」として外の世界に触れることへの、狂おしいほどの不安と独占欲が渦巻いていた。
「いい、佐藤。外で他の誰にも、その下を見せてはダメよ。あんたの肌に触れていいのは、私だけ。あんたの誠実さを享受していいのも、私だけなんだから」
「分かっています、凛さん。僕のすべては、あの日からあなたのものです」
誠は彼女の腰を優しく、だが逃げられない強さで引き寄せ、その額に誓いのような口づけを落とした。彼女を自分なしでは生きられないように甘やかし、依存の深淵へと誘い込む。それが、泥の中から拾われた彼の、歪んだ報恩の形だった。
出社後、アイリス・エッジのオフィスには不穏な空気が漂っていた。
誠のデスクには、発信人不明の封筒が置かれていた。中身は、彼を再び陥れようとする銀行上層部による、卑劣な「再調査の通知」と、暗に物理的な排除を匂わせる脅迫状。
柏木を失脚させた誠を、銀行の「汚点」として完全に消し去ろうとする老害たちの最後の足掻き。
(……ようやく動きましたか)
誠は、その脅迫状をシュレッダーに放り込むと、社長室で資料を読んでいた凛に、極めて平穏な声で告げた。
「凛さん。少しだけ、外部の協力者と打ち合わせに行ってきます。一時間ほど、席を外しますが……僕がいない間、決して部屋から出ないでください」
「打ち合わせ? そんな予定、入ってないわよ。……佐藤、何をするつもり?」
凛が椅子を蹴るようにして立ち上がる。彼女の直感が、誠が自分を置いて危険な場所へ向かおうとしていることを察知していた。
「心配いりません。……ただ、僕があなたに相応しい盾であるために、片付けておかなければならないゴミがあるだけです。……信じて、待っていていただけますか」
誠はあえて詳細を語らず、彼女の不安を煽るように背を向けた。執着を完成させるには、時に「喪失の恐怖」が必要であることを、彼は理解していた。
向かったのは、オフィスビルから数ブロック離れた、再開発途中の寂れた地下駐車場。
そこには、銀行側が雇ったであろう、目つきの鋭い三人の男たちが待ち構えていた。彼らの手には、鈍く光る特殊警棒が握られている。
「佐藤誠だな。……お前が大人しく銀行の不祥事をすべて被って消えていれば、こんな真似をせずに済んだんだがな」
先頭の男が、嘲笑を浮かべて間を詰めてくる。
だが、誠は動じなかった。彼は懐から一冊の黒い手帳を取り出し、それを淡々と開き始めた。
「……黒田さん、ですね。奥さんは現在、中央帝都銀行の系列病院で闘病中。娘さんは来月、海外留学を控えている。……それから、お仲間のお二人。一人は多額のギャンブル債務を抱え、もう一人は未成年者への暴行事件を金で揉み消している最中だ」
男たちの足が、凍りついたように止まった。
「……な、何を……」
「銀行員というのは、数字と記録を扱うプロです。あなたたちの人生を破滅させるための『証拠』と『債権』。そのすべてを、僕は一晩で買い取りました。……今、ここで僕に手を上げれば、あなたの家族の治療費は打ち切られ、娘さんの留学資金は差し押さえられ、残りの二人はそのまま警察へ送られることになる」
誠の声には、怒りさえなかった。ただ、事務的に「事実」を執行するだけの、冷徹な死神の響き。
「暴力で人を屈服させるのは二流です。……僕は誠実な人間ですから、あなたたちの『対価』を最大限に利用させてもらう。……さあ、その棒を捨てて、あなたたちの雇い主に伝えなさい。『次は、あなたたちの口座を凍結する番だ』と」
男たちは、誠の底知れぬ恐ろしさに腰を抜かし、逃げるように駐車場を去っていった。
誠は乱れたネクタイを直し、首筋の「刻印」が隠れていることを確認すると、足早にビルへと戻った。
予定の時間を五分だけ過ぎた頃、誠が社長室のドアを開けると、そこにはこの世の終わりを象徴するような光景が広がっていた。
凛はデスクの隅で蹲り、過呼吸気味に肩を上下させていた。床には書類が散乱し、彼女の爪は、不安を紛らわせるために自分の腕を強く掻きむしった跡があった。
「……凛さん。戻りました」
その声を聞いた瞬間、凛は弾かれたように顔を上げ、言葉にならない悲鳴を上げながら誠に飛びついた。
「……っ、佐藤! 佐藤……! 馬鹿、大馬鹿よ! あんた、死んだと思ったわ……! 私がどんな気持ちで、この部屋の時計を見ていたと思ってるの!」
彼女は誠の胸ぐらを掴み、涙でぐしゃぐしゃになった顔を押し当てた。
「……二度と行かないで。私の側から一秒も離れないで。……あんたがいなきゃ、私、もう一歩も歩けないのよ……!」
誠は、泣き叫ぶ彼女を強く、骨がきしむほど抱きしめた。
彼女の絶望、恐怖、そして狂おしいほどの愛。そのすべてが、誠の体温を通して伝わってくる。
「凛さん。……僕は、あなたを一生裏切りません。たとえ地獄の底まで、あなたの影として付き従う。……ですから、僕を信じて、僕の愛に溺れなさい。……あなたの盾は、一度も折れてなどいません」
誠は彼女の顎を上げ、逃げ場のない距離で彼女の瞳を見つめた。
主従は、この瞬間に完全に逆転していた。守られているのは凛だが、彼女の精神を支配し、飼い慣らしているのは、他ならぬ誠だった。
「……さ、とう……。……私を、壊して……。あんたなしじゃ、生きていけない体にしてよ……」
凛の告白は、もはや理性の外側にあった。
誠は彼女の首筋、自分が昨夜刻んだ跡とは別の場所に、優しく、けれど深く唇を寄せた。
「了解しました、社長。……今日から、僕たちは世界を敵に回した共犯者です」
ドアの外で、秘書の様子を伺いに来た社員たちが、室内の異様な熱気と漏れ聞こえる声に息を呑み、足早に去っていく。
公私混同、職権乱用。そんな言葉では到底片付けられない、執着と溺愛の檻。
二人の物語は、もはや引き返すことのできない、甘美な破滅へと向かって加速し始めた。




