第十五話:共犯者たちのバカンス
深い森の静寂を切り裂くように、漆黒のマイバッハが濡れたアスファルトを滑っていく。
行き先は、伊豆の山奥にひっそりと佇む『アイリス・エッジ』所有の保養施設。とは名ばかりの、世俗から切り離された隠れ家だ。銀行側が放った刺客を退けた佐藤誠は、動揺する一ノ瀬凛の精神状態を鑑み、二十四時間体制での「隠密出張」という名の逃避行を強行した。
「……静かね。鳥の声すら、毒を含んでいるみたいに聞こえるわ」
助手席に座る凛が、窓の外の濃緑を眺めながらポツリと呟いた。彼女の細い指先は、今も誠の選んだ高い襟のシャツの下に隠された「自らの刻印」をなぞるように、自分の胸元を彷徨っている。
「凛さん。ここでは、もう誰の目も気にする必要はありません。メディアも、銀行も、あなたの価値を理解できない有象無象も、この森の入り口で僕がすべて追い払ってきました」
「……あんた、本当に恐ろしい男ね。私のために、あんな連中の人生を……家族ごと壊してくるなんて」
「誠実であるということは、守るべき者のために悪魔になることだと、あの日あなたに教わりました」
誠の静かな声が、密閉された車内に溶けていく。二人の距離は、もはや秘書と社長という公的な関係をとうに超え、互いの罪を分け合う共犯者のそれへと変質していた。
施設に到着した頃には、夕闇が森を飲み込もうとしていた。
木々に囲まれた瀟洒なコテージ。誠は手際よく荷物を運び込み、冷え切った室内を暖炉の火で満たした。電波も届きにくいこの場所では、スマートフォンの通知音に怯える必要さえない。
「佐藤……、何をしているの?」
キッチンで地元の食材を捌く誠の背中に、凛が問いかけた。彼女はすでに重苦しいドレスを脱ぎ捨て、誠が用意した彼の私物であるゆったりとした白シャツを身に纏っている。オーバーサイズの袖から覗く白い指先が、酷く無防備で、独占欲を煽った。
「夕食の準備です。凛さん、あなたはそこに座って、僕があなたを甘やかすのをただ眺めていればいい」
「……私を、ダメにするつもり?」
「ええ。僕なしでは、靴を履くことも、眠ることもできないほどに」
誠はあえて冷徹なトーンで告げ、彼女の前に地元の赤ワインを注いだ。
食卓に並んだのは、繊細な盛り付けの地鶏のローストと、新鮮な野菜のサラダ。誠は自分の食事にはほとんど手を付けず、ただ凛が口にする様子を、慈しむような、あるいは観察するような眼差しで見守り続けた。
「……見てないで、あんたも食べなさいよ」
「あなたの空腹が満たされるのを見るのが、今の僕の最大の報酬です」
食事を終え、暖炉の前で二人は並んで座った。爆ぜる薪の音だけが、室内の沈黙を埋めていく。
凛はワインの酔いも手伝ってか、膝を抱え、視線を火の粉へと向けたまま、重い口を開いた。
「……五年前に私を裏切ったあの男。……信じていたのよ。世界でたった一人、私の才能を愛してくれていると思っていた。でも、彼は私のアイディアを売った金で、別の女と海外へ逃げたわ。……あの時、私は壊れたの。誰かの瞳を見るだけで、そこにある『打算』と『裏切り』が透けて見えて、息ができなくなった」
凛の声は震えていた。対人恐怖症という名の鎧の下にある、生々しい傷口。
誠は無言で彼女を引き寄せ、自分の膝の上に抱き上げた。
「っ……、佐藤……」
「その傷跡も、過去の痛みも、すべて僕が買い取りました。……凛さん、あなたの涙一滴さえ、僕以外の誰にも見せないでください。あなたの弱さを知るのは、僕だけでいい」
誠の指先が、彼女の濡れた目尻をなぞり、そのまま唇へと降りていく。
「誠実さという言葉を、僕はかつて正義だと信じていた。……でも今は違う。僕にとっての誠実さとは、あなたをこの檻から出さず、僕以外の誰にも触れさせないことだ」
誠の瞳にあるのは、かつての誠実なエリート銀行員のそれではない。獲物を確実に追い詰め、逃げ場を奪う猟犬の執着。
凛はその底知れぬ独占欲に恐怖しながらも、同時に、これまでの人生で一度も得られなかった「絶対的な帰属」を感じていた。
「……いいわ。……私を、あんたの檻に閉じ込めなさい。……でも、その代わり。……佐藤、あんたの携帯にある、私以外の女の番号……ううん、私に関係ない人間の連絡先、今すぐ全部消して」
凛が誠の胸ぐらを掴み、熱い吐息とともに命じた。
「私以外の声を聞かないで。私以外の願いを叶えないで。……あんたの誠実さを、私一人のためだけに使い潰して……!」
それは、溺愛の果てにある、正気ではない契約だった。
誠は微笑み、躊躇なくスマートフォンを取り出すと、彼女の目の前で初期化の操作を行った。
「……消しました。これで僕の世界には、あなたしかいない」
二人は深く、深く、溶け合うように抱き合った。
公私混同。主従逆転。依存。
社会的な規範など、この深い森の中では何の価値も持たない。
ただ、自分を拾った女と、その女を精神的に支配し返す男の、歪な熱情だけがそこにあった。
「……明日、ここを出たら。……私たちはまた、社長と秘書の仮面を被らなきゃいけないのね」
凛が誠の胸に顔を埋め、名残惜しそうに呟いた。
「いいえ。仮面の下の真実を知っているのは、僕たち二人だけです。……凛さん、あなたはただ、玉座に座っていればいい。泥を被るのも、敵を屠るのも、すべて僕の役目です」
夜が更ける。
暖炉の火が消えかかる頃、誠は眠りについた凛を抱きかかえ、寝室へと運んだ。
彼女の寝顔を見つめながら、誠は密かに誓いを新たにする。
たとえこの先、どれほど巨大な力が自分たちを引き裂こうとしても。
一度味わったこの支配と被支配の甘美さを、手放すつもりは微塵もない。
だが、その穏やかなバカンスの裏側で。
誠の不在を好機と見た銀行の上層部が、卑劣な法的手続きを完了させていた。
翌朝、彼らを待ち受けているのは、アイリス・エッジの「法的乗っ取り」という名の、本当の包囲網。
誠の瞳に宿る猟犬の光が、闇の中で静かに、そして鋭く輝いた。




