第十六話:絶体絶命の包囲網
森の隠れ家から都心へ戻るマイバッハの車内は、外界の騒音を遮断する静寂に包まれていた。だが、アイリス・エッジの本社ビルが見えた瞬間、その平穏は無残に引き裂かれた。
エントランス前には数え切れないほどの報道陣が詰めかけ、フラッシュの光が激しく明滅している。その異様な光景をバックミラー越しに確認した佐藤誠の瞳が、鋭い猟犬のそれに切り替わった。
「……予定より早いですね。彼らも、僕たちがいない間に勝負を決めたかったようです」
誠の冷静な声に、後部座席の凛が深く息を吐いた。彼女の手は、今も誠が用意した「高い襟のシャツ」の裾を、自身の不安を押し殺すように握りしめている。
「佐藤。……私、逃げないわ。あんたが私の側にいる限り、私は一ノ瀬凛でいられる」
「ええ。あなたの指先一本、あの有象無象には触れさせません」
誠は車を地下駐車場へと滑り込ませた。エレベーターで社長フロアへ上がると、そこにはアイリス・エッジの社員ではなく、中央帝都銀行が送り込んだ「執行官」と名乗る男たち、そして傲慢な笑みを浮かべた弁護士軍団が応接室を占拠していた。
「お帰りなさい、一ノ瀬社長。そして……前科者の佐藤君」
中央に座っていたのは、かつて誠を直接切り捨てた銀行の顧問弁護士、神崎だった。彼は一枚の書類を突きつけた。
「君たちが森で戯れている間に、株主総会の特別決議は完了した。君の解任、およびアイリス・エッジの全資産は中央帝都銀行の管理下に入る。さらに……」
神崎はニヤリと笑い、タブレットに映し出された映像を再生した。そこには、数日前に誠が駐車場で刺客を退けた際の映像が、巧妙に「秘書が一方的に暴力を振るっている」ように編集されて流れていた。
「佐藤君。君の暴力行為を指示した疑いで、一ノ瀬社長にも逮捕状が出る手はずだ。……今すぐ辞任届にサインすれば、穏便に済ませてやるが、どうする?」
かつての凛なら、この圧倒的な重圧の前に崩れ落ちていただろう。対人恐怖症という檻に閉じ込められ、呼吸を忘れ、ただ震えることしかできなかったはずだ。
だが、今の彼女は違った。誠という逃げ場のない檻の中で、彼の独占欲という毒を全身に浴びてきた彼女は、絶望の淵で冷徹に微笑んだ。
「……神崎先生。私の盾を汚した報い、高くつくわよ。……佐藤、掃除を始めなさい」
凛の声に、震えは微塵もなかった。誠は「承知いたしました」と静かに一礼すると、神崎たちの前に自分のノートパソコンを開いた。
「神崎先生。……弁護士が捏造映像を証拠に脅迫とは、随分と落ちぶれたものですね。……あなたが今見せた映像の『全編版』は、すでに僕のクラウドから警察のサイバー犯罪対策課へ送信済みです。そこには、あなたが雇った男たちが先に凶器を取り出し、凛さんへの危害を口にしている様子が克明に記録されています」
「なっ……、そんなものはハッタリだ! 第一、経営権委譲の決議は正当に行われた!」
誠の指先が、キーボードを鮮やかに叩く。
「正当、ですか。……では、このリストについてはどう説明されますか?」
画面に映し出されたのは、アイリス・エッジの主要株主たちが、決議の直前に中央帝都銀行から受け取っていた「不可解な融資」の全記録だった。
「特定の決議を目的とした利益供与。……さらに、その資金源は銀行の一般預金口座から『役員専用の裏帳簿』を経由して流出している。……神崎先生、あなたが守ろうとしている上層部は、すでに一線を越えました」
神崎の顔から血の気が引き、額から脂汗が吹き出した。
「なぜ……、なぜそのデータにお前がアクセスできる……!」
「僕は銀行を追われるあの日、自分の潔白を証明するための『鍵』だけは、決して手放しませんでした。……この瞬間のために、三年間、僕は牙を研ぎ続けてきたんです」
誠がエンターキーを叩いた瞬間、応接室の大型モニターにニュース速報が流れた。
『中央帝都銀行・常務理事ら複数名を、特別背任および預金流用の疑いで金融庁が強制査察』
同時に、神崎たちのスマートフォンが一斉に鳴り響く。それは、彼らのクライアントが今この瞬間に犯罪者へと転落したことを告げる死の宣告だった。
「……さて、不法侵入および脅迫の罪で現行犯逮捕される前に、退室されますか? それとも、僕が物理的に『排除』しましょうか」
誠の瞳に、パーティーの夜に見せた以上の冷酷な殺気が宿る。神崎たちは悲鳴に近い声を上げて応接室から逃げ出していった。
静寂が戻った社長室。書類が散乱し、荒らされた空間の中で、凛は糸が切れた人形のように誠の胸に崩れ落ちた。
「……佐藤、勝ったのね。……私たち、勝ったのね」
誠は彼女を力強く抱き寄せ、その細い肩を震えが止まるまで包み込んだ。
「ええ。あなたを邪魔する者は、すべて消えました。……これからは、あなたを縛るのも、あなたを守るのも、僕一人だけです」
凛は誠を見上げ、涙で濡れた瞳に激しい独占欲を宿して笑った。
「……当たり前よ。……もう、あんた以外に私の肌を触らせない。あんた以外に、私の心を一分たりとも明け渡さない。……佐藤、一生私を、あんたの側から離さないって、ここで誓いなさい」
「誓います。……僕の主。僕のすべて」
二人は、荒らされた社長室の床で、互いの存在だけを唯一の真実として深く寄り添った。
公私混同、主従逆転。もはやそんな言葉は意味をなさない。
泥の中から始まった物語は、今、誰も立ち入ることのできない「共犯者の楽園」へと辿り着いた。
窓の外、夕闇に沈む東京の街。
二人の戦いは、一つの大きな節目を越え、永遠に続く「再雇用契約」という名の深淵へと進んでいく。




