第十七話:平穏という名の試練
アイリス・エッジの朝は、かつてないほどの輝きに満ちていた。
窓の外には、雲一つない春の青空が広がり、高層ビルのガラス壁を乱反射して、社長室の白い床に無数の光の斑点を作っている。
中央帝都銀行との死闘を制し、不当な買収工作を撥ね退けたアイリス・エッジの株価は、連日のように上場来最高値を更新し続けていた。かつて凛を「若造」と侮っていたメディアや投資家たちは、今や手のひらを返したように、彼女を「時代の寵児」と称賛し、その右腕として暗躍した佐藤誠の正体について、畏怖を込めて囁き合っている。
だが、その喧騒をよそに、社長室の空気はどこか停滞していた。
佐藤誠は、いつものように完璧な角度で結ばれたネクタイを直し、主である凛のデスクの傍らに控えていた。手元には、午前中の役員会議のための資料。そして、彼のジャケットの内ポケットには、誰にも――そう、凛にさえもまだ見せていない一通の書状が入っている。
世界最大規模を誇る投資ファンド『ブラック・クレスト』。
その日本法人代表のサインが入った、破格の条件でのヘッドハンティングの誘い。
「佐藤誠様。あなたの財務戦略と危機管理能力は、一企業の秘書に留めておくにはあまりに惜しい。我々はあなたに、次世代を担うファンドマネージャーとしての地位と、数十億規模の裁量権を用意している」
かつて泥沼に沈み、名前さえ汚された自分に届いた、最高級の「救済」であり「自立」への切符。
誠にとって、それはかつての輝かしいキャリアを遥かに凌駕する舞台だった。だが、誠がその書面を見て抱いた感情は、喜びでも野心でもなく、底知れないほどの「虚無」と「嫌悪」だった。
誠にとっての存在価値は、もはや数字を動かすことでも、巨万の富を築くことでもない。
ただ一人の、この震える肩を持つ女性の「盾」でいられるかどうか。それだけが、彼の人生のすべてになっていたからだ。
「……佐藤。さっきから、何を考えているの?」
ふいに、凛の声が沈黙を破った。
彼女はデスクに肘をつき、指先でペンを弄びながら、誠をじっと見つめていた。その琥珀色の瞳は、誠の微かな心の揺らぎを逃さなかった。
「いえ。午後のスケジュールを再確認していただけです、社長」
「嘘ね。あんた、嘘をつく時は、いつもより少しだけ左の口角が上がるのよ。知らなかった?」
凛は椅子から立ち上がり、ゆっくりと誠に近づいた。
ヒールの音が、静かな室内に硬く響く。彼女は誠の正面に立ち、彼の胸元に手を伸ばすと、整いすぎているネクタイのノットをわざと乱すように指を掛けた。
「……何か、隠しているわね。銀行の残党? それとも、また九条のような不潔な男たちが動いているの?」
「……ご心配には及びません。僕がすべて処理します」
「それが嫌だと言っているのよ! いつだってあんたは、一人で泥を被って、私には綺麗な景色だけを見せようとする。……私がそんなに頼りないかしら。それとも、もう私を守ることに、飽きてしまったの?」
凛の声が、僅かに震えを帯びる。
彼女は、誠の有能さを誰よりも高く評価している。だからこそ、今のアイリス・エッジが「誠という巨大な才能を繋ぎ止めておくには、あまりに小さな檻」であることも自覚していた。
勝利の後、彼女の元には誠への引き抜きの噂が絶え間なく届いていた。彼は自由になるべきだ。横領犯という汚名を晴らし、世界を舞台に戦うべき男なのだ。
そう分かっている。分かっているのに――。
彼がいなくなることを想像しただけで、凛の胸の奥は鋭い氷で貫かれたように凍りつく。
対人恐怖症。人間不信。孤独の深淵。
それらを埋めてくれた唯一の酸素が、この男なのだ。
「……ねえ、佐藤。あんたに、新しいオファーが来ていることは知っているわ。世界一のファンドでしょう? 以前の銀行なんて比じゃない。あんたなら、そこでも頂点に立てるわね」
凛は無理に口角を上げ、歪な笑みを作った。
「……行ってきなさいよ。私みたいな、あんたに依存してばかりの女の下にいるより、よっぽど有意義だわ」
それは、彼女の精一杯の「誠実さ」だった。
愛しているからこそ、彼を自由にしてあげたい。自分という足枷を外してあげたい。
だが、その言葉とは裏腹に、彼女の指先は誠のシャツの襟を、引き裂かんばかりの強さで握りしめていた。
「……本心ですか、凛さん」
誠の声が、これまで聞いたことがないほど低く、冷徹な響きを伴って室内に沈み込んだ。
彼は凛の手を優しく、だが逃げられない強さで包み込み、自分の胸から引き剥がした。
「あ……っ、佐藤……」
「僕を自由にする。……それが、あなたの望みですか。僕をあの日、泥の中から拾い上げ、僕の誠実さを買い取ったのはあなただ。……なのに、今さら『飽きたから返してやる』と仰るのですか」
誠は一歩、また一歩と間を詰めた。
凛は思わず後ずさり、窓際の冷たいガラスに背中を押し当てた。
逃げ場のない高さ、二百メートルの空中。
誠は彼女の両脇に手をつき、逃げ場を完全に塞いだ。
「……勘違いしないでください。僕が、あなたの側にいるのは、契約だからではありません。……僕が、あなたを離さないと決めたからです」
誠の瞳に宿る、狂信的なまでの執着。
彼はポケットから『ブラック・クレスト』の書状を取り出すと、凛の目の前で、迷いなく二つに、四つに引き裂き、床へぶちまけた。
「世界を相手にするより、あなたの隣で、あなたの震える肩を抱いている方が、僕にとっては遥かに価値がある。……凛さん、あなたはまだ分かっていない。僕にとって、自由なんてものは、あなたを失うことに比べればゴミ同然だということを」
「……嘘よ。あんたは、もっと広い世界で……」
「僕の世界は、この部屋の、この窓の内側だけだ!」
誠の激昂した叫びが、防音の効いた室内に反響した。
凛は驚きに目を見開いた。いつも冷静で、感情を押し殺して微笑んでいた誠が、これほどまでに剥き出しの怒りと、そして「哀しみ」を見せたのは初めてだった。
「……あなたは、僕を信じていると言いながら、僕の愛を侮辱している。……僕が、条件一つであなたを捨てるような男に見えますか? 僕の誠実さを、そんな安っぽい天秤にかけないでいただきたい」
誠は彼女の顎を指先で持ち上げ、潤んだ彼女の瞳を真正面から射抜いた。
「……社長命令を上書きさせていただきます。……凛さん、あなたは一生、僕という檻の中で、僕に依存して生きていきなさい。……僕もまた、あなたという逃げ場のない檻の中で、死ぬまであなたに仕え続ける。……それが、僕たちの本当の『再雇用契約』です」
凛の頬を、一筋の涙が伝った。
それは恐怖ではなく、極限までの安心と、歓喜の涙だった。
自分が彼を縛っているのではなく、彼が自分を縛りたがっている。
二人は、互いを所有し合うことでしか、己の存在を定義できないほどに、歪んで、深く、結びついていた。
「……ふふ。……あんた、本当に……どうしようもない変態ね」
凛は泣き笑いのような表情で、誠の首に腕を回した。
「……いいわ。……一生、私の側で泥を被りなさい。……どこかへ行こうとしたら、本当に、あんたの脚を折ってでも繋ぎ止めてやるんだから」
「光栄です、僕の凛さん」
二人の唇が、重なり合うかのように近づく。
だが、その至福の時を裂くように、誠のスマートフォンが、机の上で冷たく振動した。
表示されたのは、警察の捜査二課からでも、銀行の残党からでもない。
一ノ瀬家の本家――凛を「一族の恥」として疎んじている、彼女の実父からの着信だった。
アイリス・エッジの成功が、かつて彼女を捨てた身内という名の「真の亡霊」を呼び寄せてしまった。
「……佐藤」
「分かっています。……あなたの平穏を乱す者は、たとえそれが誰であろうと、僕がすべて処理します」
誠は凛を優しくソファに座らせると、眼鏡を掛け直し、再び冷徹な「盾」の顔に戻った。
平穏という名の試練。
それは、二人の愛が本物かどうかを試すための、最終章の序曲に過ぎなかった。
引き裂かれたヘッドハンティングの紙屑が、西日に照らされて、虚しく床で輝いていた。




