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氷の女帝の、震える肩を抱けるのは俺だけ 〜どん底の元エリートは、誠実さを牙に変えて彼女を守り抜く〜  作者: 寝不足魔王


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第十八話:一族の亡霊

 アイリス・エッジの社長応接室。そこは常に最先端の空気が流れる場所だった。しかし、その日の午後は、カビの生えた古い蔵のような、湿った圧迫感に支配されていた。

 一ノ瀬泰造。

 一ノ瀬凛の実父であり、かつて地方財閥として名を馳せた『一ノ瀬ホールディングス』の現会長。その老人は、最高級の革ソファに深く腰掛け、まるで自分の持ち物を確認するかのような厚かましい視線を室内に巡らせていた。


「随分と小綺麗にしたものだ。……まあ、一ノ瀬の血が流れている以上、これくらいの体裁は整えてもらわねば困るがね」

 泰造の声が響く。その声を聞いた瞬間、隣に座っていた凛の肩が、目に見えて跳ねた。彼女の白い指先が、膝の上でシーツを引き裂かんばかりに握りしめられる。琥珀色の瞳は、かつての凛然とした輝きを失い、怯えた子供のように床の一点を見つめていた。


「……何の、御用でしょうか。父上」

「父上、とは他人行儀な。凛、お前が勝手な家出同然の起業をしてから五年。一族はお前の不始末を隠すのに、どれほど苦労したと思っている」

 泰造は鼻で笑い、傍らに控える佐藤誠を、泥のついた靴でも見るような目で見下した。

「……それで、そこの薄汚い男が、お前の新しい『飼い犬』か? 銀行を追われた横領犯を側に置くとは、一族の顔に泥を塗るにも程がある。……まあいい。凛、お前に最後のチャンスを与えてやる。我が社は今、再編の時期にある。お前のこの会社を一ノ瀬ホールディングスの傘下に入れろ。そして、提携先である代議士の三男と結婚しろ。それが、お前が犯した数々の非礼に対する、唯一の償いだ」


 それは、対等なビジネスの提案でも、親としての助言でもなかった。

 ただの、所有物に対する命令だった。

 凛の呼吸が、急速に浅くなっていく。幼少期、暗い部屋に閉じ込められ「役立たずの一族の恥」と罵倒され続けた記憶が、彼女の理性を塗り潰していく。誠と過ごした夜の熱も、あの強気な言葉も、血縁という名の巨大な呪縛の前では霧散しそうになっていた。


「……私、は……」

「黙って従え。お前のような精神を病んだ女に、何ができる。……おい、そこの使用人。早く茶を淹れ直せ。冷めた茶など、一ノ瀬の人間が飲むものではない」


 泰造が、誠に向けて傲慢に顎をしゃくった。

 その時だった。

 それまで死んだように静かに控えていた誠が、一歩、前へ踏み出した。


「――一ノ瀬会長。申し訳ありませんが、当社の社長は、あなたの所有物ではありません」


 誠の声は、氷の底を流れる水のように静かで、鋭かった。

 彼は泰造の前に、一冊の黒いファイルを、音も立てずに置いた。


「……何だ、これは。使用人の分際で、私に意見するつもりか?」

「『一ノ瀬ホールディングス』の直近三期分の、真実の決算書です。……あ、もちろん、あなたが銀行に提出した『修正済み』のものではありません。あなたが秘密裏に運用し、昨年末に焦げ付かせた、不透明な不動産ファンドへの投資履歴を反映させたものです」


 泰造の顔から、一瞬で色が失われた。

「な……何を……、どこでそれを……!」

「僕は元、中央帝都銀行の融資担当です。……あなたがた一族が、地方の支店長と結託して、どのような粉飾を繰り返してきたか。……その痕跡を辿るのは、僕にとっては容易い仕事でした。……一ノ瀬会長。今のあなたは、娘に縋らなければ一ヶ月以内に倒産を免れない、ただの破産者だ」


 誠は眼鏡のブリッジを押し上げ、冷徹な視線で泰造を射抜いた。

「あなたが凛さんに要求した『政略結婚』の裏契約書も、拝見しました。……結婚と引き換えに、相手の代議士から得られるはずだった、公共事業の利権。……それを担保に、さらに借り入れを増やすつもりだったようですね。……一族の誇りという言葉を、人身売買の包み紙に使うのは、さすがに誠実さに欠ける」


「貴様ぁぁっ! 黙れ! 泥棒の分際で……っ!」

 泰造が激昂し、杖を振り上げようとした、その刹那。

 誠は泰造の手首を、折れんばかりの強さで掴み、その動きを封じた。


「……凛さんの許可なく、この部屋で声を荒げないでください。……そして、二度と彼女の過去を辱めないでいただきたい」

 誠の瞳には、かつての柏木を追い詰めた時以上の、どす黒い殺気が宿っていた。

「一ノ瀬ホールディングスの発行済み株式の過半数は、本日午前九時を以て、アイリス・エッジが市場外取引で取得しました。……泰造さん。あなたは今、この瞬間、解任されました。……警備員。この『部外者』を外へ連れ出しなさい」


 誠の合図とともに、室外に控えていた屈強な警備員たちが泰造を取り押さえた。泰造は、かつての権威を剥ぎ取られ、ただの老いぼれた叫び声を上げながら、応接室から引きずり出されていった。


 静寂が、再び室内に戻る。

 だが、凛は依然としてソファに座り込んだまま、激しく肩を上下させていた。過去の亡霊は去った。しかし、心に刻まれた傷跡は、今も彼女を苛んでいる。


 誠は歩み寄り、凛の足元に膝をついた。

 彼は彼女の冷たくなった両手を、自分の大きな手で包み込んだ。

「……終わりましたよ、凛さん」

「……佐藤……。……私、私は……やっぱり、一族の……」

「いいえ。あなたはもう、誰の娘でもない。……一ノ瀬泰造の所有物でも、一族の道具でもない。……あなたは、ただの凛さんです。僕だけが、その価値を独占することを許された、僕の凛さんだ」


 誠は彼女を抱き上げ、自分の膝の上に乗せた。社長室の広いソファ。二人の体温が重なり、凛のパニックを、誠の深い鼓動が上書きしていく。

「……あなたは、僕を拾い、僕を救った。……ならば、今度は僕が、あなたの過去という泥をすべて飲み込んであげましょう。……家族という言葉があなたを傷つけるなら、僕が新しい『家族』の定義を教えてあげます」


 誠の手が、凛の背中を、まるで壊れ物を扱うように優しく、けれど絶対に離さないという強さで撫でる。

「……私の家族は、あんただけよ、佐藤。……あんたがいない場所なんて、私にはもう一秒だって存在しないの」

 凛は誠の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。血縁という名の重いくびきが外れ、彼女は初めて、自分という存在が誰のものかを、心の底から理解した。


「……了解しました。……僕は、あなたの新しい世界そのものになります」


 誠は、彼女の琥珀色の瞳を見つめ、その瞳の奥に宿る自分だけの姿を確認した。

 誠実さを武器にする男。その誠実さは今や、たった一人の女性を、この世のあらゆる悪意から隔離し、自分だけの檻に繋ぎ止めるための、極上の毒となっていた。


 窓の外、夕闇が東京を包み込んでいく。

 実父という最後の「外敵」を排除した二人の間に、もう、言葉上の「主従」を残す必要はなかった。

 誠は、凛の左手の薬指に指を這わせ、来るべき「最終契約」の準備を、静かに、そして確実に進めていた。


 公私混同。

 それは、孤独な二人が辿り着いた、唯一無二の幸福の形だった。


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