第十九話:公私混同の「清算」
春の嵐が過ぎ去った後の都心は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
だが、その静寂はアイリス・エッジの社長室を一歩出れば、激しい罵声とフラッシュの嵐に取って代わられる。一ノ瀬泰造の追放劇。それは世間にとって、格好の「親殺し」の物語だった。
テレビのワイドショーは連日、凛を「冷酷な女帝」と呼び、その傍らに立つ誠を「社長を操る怪僧」として書き立てた。ネット上には誠の過去の横領疑惑――すでに晴れたはずの汚名までが、面白おかしく再生産され、拡散していく。
「一ノ瀬社長は、あの男に洗脳されているのではないか」
「有能な秘書という名の、若き社長を食い物にする寄生虫」
そんな無責任な言葉の刃が、アイリス・エッジの株価を押し下げ、社内の空気を凍らせていた。
「……佐藤、座りなさい。お茶を淹れたわ」
凛の声は、低く、かすれていた。
デスクの上に置かれた二つのカップ。だが、誠はその椅子に腰を下ろそうとはしなかった。彼は窓の外を見つめたまま、いつになく遠い眼差しをしていた。
「凛さん。役員会から、正式な通達がありました。……僕の解任、およびあなたに対する『私生活の是正』の要求です。それに応じなければ、代表解任動議を出す、と」
「……そんなの、無視すればいいわ。株の過半数は私が握っている。あいつらに何ができるっていうの」
「会社は数字だけで動くものではありません。信頼という名のガソリンが切れれば、この城はただの巨大な墓標になります」
誠はゆっくりと振り返った。その瞳には、凛がかつて見たことのない、冷徹で事務的な光が宿っていた。
「……僕は、あの日あなたに拾われた時に誓いました。あなたの盾になり、あなたの価値を守り抜くと。……今、その価値を最も毀損しているのは、他ならぬ僕という存在です。……僕がいることで、あなたが汚れる。それは僕の『誠実さ』が、絶対に許さない」
誠の手が、デスクの上に置かれた一通の封筒に伸びた。
「……これは、僕の辞職願です。すでに、プレスリリース用の草稿も広報に渡してあります。『佐藤誠は一身上の都合により退職し、アイリス・エッジとの一切の関係を断つ』。これで、世論は鎮静化するはずです」
時が止まった。
凛は、誠が何を言っているのか、脳が理解することを拒否していた。
「……退職?……関係を断つ?……あんた、本気で言ってるの?」
「本気です。……凛さん、あなたは自由になるべきだ。僕という泥から離れ、再び清廉な経営者として――」
「ふざけないでッ!!」
凛が叫び、デスクの上のカップをなぎ払った。
陶器が砕け、熱い紅茶が床に広がる。だが、誠はその飛沫を浴びても微動だにしなかった。
「あんた、私がどんな思いで……! 誰が会社のためにあんたを捨ててくれなんて頼んだ!? 私は、あんたがいなきゃ、またあの暗い部屋で震えるだけの役立たずなのよ! 会社なんて、あんたがいなきゃただの箱じゃないのよ!」
「……凛さん。感情的にならないでください。これは、戦略的な撤退です」
「嫌よ! 絶対に認めない! 命令よ、そこにいなさい! 佐藤誠、あんたは私の所有物でしょう!?」
「……いいえ。今日、この瞬間を以て、雇用契約は終了しました」
誠は深く、深々と頭を下げた。それは、あの日雨の公園で出会った時よりも、ずっと遠く、絶望的な礼だった。
彼は一度も振り返ることなく、社長室の扉を開け、出ていった。
凛はその背中に縋り付こうとしたが、足が震えて動かなかった。ただ、閉まるドアの音だけが、彼女の心臓を叩き割るように響いた。
それから三日間。
アイリス・エッジの「女帝」は、文字通り死んだ。
凛はマンションから一歩も出ず、寝室の隅で蹲り続けていた。誠が用意してくれていた常備薬も、ハーブティーも、すべてが彼を思い出させる毒に変わった。
社員からの電話も、秘書室からの緊急連絡もすべて無視した。
対人恐怖症が、かつてないほどの激しさで彼女を襲っていた。
暗闇の中で、凛は気づいた。
自分が愛していたのは、アイリス・エッジの社長という地位でも、成功した自分の姿でもない。
ただ、自分の隣で静かに息をし、自分の欠落を完璧に埋めてくれる、あの「誠実な猟犬」だけだったのだと。
(……死にたい……。佐藤がいないなら、息をする意味なんてない……)
意識が混濁し、時間の感覚すら失われかけた、三日目の深夜。
マンションの玄関の鍵が、静かに回る音がした。
凛は、幻聴だと思った。だが、聞き慣れた、規則正しい足音がリビングを通り、寝室のドアへと近づいてくる。
ドアが開き、月の光と共に一人の男が入ってきた。
佐藤誠だった。彼はコートも着ず、シャツのボタンを数個外した、ひどく疲弊した姿でそこに立っていた。
「……凛さん。ひどい顔だ」
その声を聞いた瞬間、凛の中の何かが決壊した。
彼女はベッドから飛び起き、誠の胸に体当たりするように飛び込んだ。
「……ばか! ばか! ばか! なんで来たのよ! あんた、私を捨てたんじゃないの!? 自由にしろって言ったじゃないの!」
凛は拳で彼の胸を何度も叩いた。涙で視界が歪み、誠の顔がうまく見えない。
「……寂しかった……怖かったのよ……! 会社なんてどうでもいい! あんな連中に、私の好きなだけ言わせればいい! あんたがいない世界で王座に座るなんて、死んだ方がマシなのよ!」
誠は彼女の暴力を無言で受け止めていたが、やがて彼女の腰を強く引き寄せ、その身体を宙に浮かせるほど激しく抱きしめた。
「……分かっています。……僕も、地獄でした」
誠の首筋に、冷たい雫が落ちた。彼もまた、耐えていたのだ。
「凛さん。……あの日、僕はあえてあなたを突き放した。……あなたが、自分の手足をもぎ取られるような苦しみの中で、何を選ぶのかを確認するために。……残酷な真似をして、申し訳ありません」
誠は彼女の顎を上げ、逃げ場のない距離でその瞳を覗き込んだ。
「これで、もう逃げられませんよ。……あなたは、僕という檻の中でしか生きられないことを自ら証明してしまった。……会社も、名声も、常識も。それらすべてを捨ててでも僕を欲した、あなたのその醜くも純粋な依存心を、僕は一生愛し、支配し続けます」
「……ええ。いいわ。……檻でも、毒でも、なんでもいい……。あんたがいれば、私はそれでいいの……」
凛は、誠のシャツを掴み、その胸に顔を埋めた。
二人の間に、もはや「誠実な秘書」も「誇り高き社長」もいなかった。
ただ、互いなしでは魂が腐り果ててしまう、二人の共犯者だけがそこにいた。
「凛さん。……最後の手続きをしましょう」
誠は彼女の耳元で、冷たく、そして甘く囁いた。
「……雇用契約書は、破棄しました。……次は、もっと重く、一生解約できない契約を。……明日、役員会に二人で乗り込みましょう。……あなたが僕の『夫』として、アイリス・エッジの全権を掌握する、その宣言のために」
窓の外。
都会の騒音はまだ続いている。だが、この寝室に満ちる熱気は、世界中のどんな悪意も寄せ付けないほどに濃密で、閉ざされていた。
二人の公私混同は、ついに「世界」を飲み込み始めた。
誠実さを牙に変えた男の、これが最後にして最大の、愛の証明だった。




