表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷の女帝の、震える肩を抱けるのは俺だけ 〜どん底の元エリートは、誠実さを牙に変えて彼女を守り抜く〜  作者: 寝不足魔王


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/23

第二十話:雇用契約の破棄

 アイリス・エッジの本社会議室。そこは普段、合理性と数字が支配する冷徹な空間だ。しかしその日の午前十時、そこはどす黒い欲望と、敗者を待ち構えるハイエナたちの熱気に満ちていた。

 円卓を囲むのは、一ノ瀬凛の失脚を虎視眈々と狙ってきた五人の役員と、その後ろ盾である大株主たち。彼らは皆、自分たちがこの城の新しい主になる瞬間を、今か今かと待ちわびていた。


「予定時刻を十分過ぎている。一ノ瀬社長は、また自室に引きこもって震えているのかね?」

 筆頭役員の江口が、わざとらしく腕時計を叩きながら鼻で笑った。

「佐藤という秘書を解雇しただけで、すべてが解決するとでも思っていたのなら、あまりに甘い。スキャンダルに塗れた女社長に、このアイリス・エッジを率いる資格はない。……さあ、始めよう。彼女の代表解任動議を――」


 江口が挙手を促そうとした、その時だった。

 重厚な防音扉が、外側から力強く押し開かれた。

 

 入ってきたのは、一人の男だった。

 三日前に「辞職願」を出し、姿を消したはずの佐藤誠。だが、そこにいたのは、かつての腰の低い、影のような秘書ではなかった。

 仕立てのいいチャコールグレーのスーツを纏い、眼鏡の奥の瞳には、周囲を圧倒するような絶対的な王者の風格が宿っている。

 誠は無言で扉の脇に立ち、その背後にいる「真の主」のために道を空けた。


「……遅れて悪かったわね。ゴミ掃除に手間取っていたの」


 凛然たる声が、会議室の空気を一瞬で凍りつかせた。

 現れた一ノ瀬凛は、真紅のタイトドレスに身を包み、かつてないほど鋭い、琥珀色の光を瞳に湛えていた。彼女は誠が差し出した手を、指を絡めるようにして強く握り、一歩ずつ、確実に上座へと歩を進める。

 かつての彼女なら、これほどの大勢の敵意に晒されれば、喉が詰まり、立っていることさえままならなかっただろう。だが今の彼女の隣には、自分の呼吸さえも支配し、守り抜くと誓った男がいる。


「さ、佐藤! 貴様、なぜここにいる! すでに解雇された身だろうが!」

 江口が椅子を蹴って立ち上がり、誠を指差した。

「警備員! この部外者を連れ出せ!」


 誠は、江口の叫びを柳に風と受け流し、凛を優雅に社長席へとエスコートした。そして、自らはその隣の席――本来なら副社長クラスが座るべき場所に、当然のような顔で腰を下ろした。


「……江口さん。部外者とは、誰のことですか?」

 誠の声は低く、そして恐ろしいほど静かだった。

 彼は一通の書類を、円卓の中央へと滑らせた。

「本日午前九時を以て、僕個人、および僕が代表を務める資産管理法人は、一ノ瀬泰造氏が隠し持っていた全株式、および市場に流出していた浮動株のすべてを買い取りました。……現在、僕の議決権保有比率は三五パーセント。凛さんの保有分と合わせれば、この会社の決定権の七割以上が、僕たちの手の中にあります」


「な……ッ!? 馬鹿な、そんな短期間で数十億の資金を……!」

「中央帝都銀行の『裏帳簿』を暴いた際、僕に協力してくれた海外の投資家たちが、僕への『誠実さ』の対価として融資してくれましてね。……それから、もう一つ」


 誠は懐から、もう一通の、今度は桃色の縁取りがされた書類を取り出した。

 そこには、佐藤誠と一ノ瀬凛の名前が、並んで記されている。


「先ほど、役所へ提出してきました。……婚姻届の受理証明書です」

 会議室が、爆発したような騒然とした空気に包まれた。

「婚姻……!? 秘書と結婚だと! 正気か、一ノ瀬社長!」

「公私混同も甚だしい! 会社を私物化するつもりか!」


 怒号が飛び交う中、凛は静かに、だが確固たる足取りで立ち上がった。

 彼女は誠と繋いだ手を、高く掲げた。その左手の薬指には、眩いばかりのダイヤモンドが輝いている。


「ええ。私物化するわよ。文句があるかしら」

 凛の琥珀色の瞳が、役員たちを一蹴するように射抜いた。

「あなたたちは、佐藤を解雇しろと言ったわね。佐藤と不適切な関係にある私を、是正しろとも言ったわ。……望み通りにしてあげたわよ。雇用契約は破棄した。今の彼は、私の秘書じゃない。……アイリス・エッジの共同経営者であり、私の生涯の伴侶。私という檻の、唯一の番人よ」


 凛は誠の肩に手を置き、不敵に微笑んだ。

「私が愛した男を否定する人間は、私の会社には一人もいらないわ。……佐藤。例の、解任リストを読み上げて」


「承知いたしました、凛さん」

 誠はタブレットを操作し、冷徹な声で名前を呼び始めた。

「江口役員。および、そちらに並んでいる四名の役員。……あなたたちが過去に行ってきた経費の不正流用、および競合他社への機密漏洩の証拠は、すべて精査済みです。……今この瞬間、あなたたち全員を『特別背任』による懲戒解雇処分とします。……即刻、このビルから立ち去りなさい」


 誠の言葉は、事務的な宣告でありながら、獲物の息の根を確実に止める処刑宣告だった。

 顔を真っ青にした江口たちが、言葉も出せず、震えながら席を立つ。彼らは、自分が牙を剥いた相手が、もはや「有能な秘書」ではなく、自分のすべてを奪い去る「略奪者」であったことを、あまりに遅すぎるタイミングで理解した。


 ハイエナたちが去り、静寂が戻った会議室。

 二人きりになった広い部屋で、凛は張り詰めていた緊張を解き、誠の胸に顔を埋めた。

「……上手く、言えたわね。私」

「ええ。完璧でしたよ、僕の奥様。……もう、誰もお前を傷つけることはできない」


 誠は凛の顎を持ち上げ、その唇に、主従を超えた「誓い」としての熱い接吻を落とした。

 公私混同。主従逆転。

 社会が何と呼ぼうと、二人が手に入れたのは、誰にも侵されることのない「二人だけの帝国」だった。


 窓の外、春の嵐が去った東京の街が、眩しい陽光に照らされている。

 誠実さを牙に変えた男の、これが最大の、そして最後の「雇用」の形。

 物語は今、かつての裏切り者たちへの、慈悲なき最終宣告へと向かっていく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ