第二十一話:奈落の底の亡霊たち
柔らかな陽光が差し込む朝のダイニング。かつては孤独な「女帝の聖域」だったこの場所も、今では二人の体温が溶け合う、世界で最も甘やかな空間へと変貌していた。
佐藤誠は、白シャツの袖を捲り上げ、手際よく朝食の支度を整えていた。コンロで焼かれる厚切りのベーコンが弾ける音と、挽きたてのコーヒーの香りがリビングを満たす。そこへ、シルクのナイトウェアを纏った凛が、眠たげな目を擦りながら近づいてきた。
「……おはよう、誠。今日も、私の好みの焼き加減ね」
「おはようございます、凛。……いえ、凛さん。まだ会社ではその呼び方に慣れませんね」
誠が微笑みながら振り返ると、凛は当然のように彼の背中に腕を回し、その広いた背中に顔を埋めた。
「いいのよ。家でも会社でも、あんたは私の隣にいるんだから。……ねえ、今日のネクタイは、私が選んだあの深い藍色にして。私のドレスの色と合わせるのよ」
「了解しました、共同経営者殿。……さあ、冷めないうちに召し上がれ」
かつての主従関係は、婚姻という名の「一生解約不能な契約」によって、より強固で、より逃げ場のない愛の形へと昇華されていた。誠は凛を甘やかし、凛はその甘露に溺れる。二人の「公私混同」は、今やアイリス・エッジの社員たちにとっても、一種の神聖な日常として受け入れられ始めていた。
だが、その日の初仕事は、そんな甘やかな気分を一変させるものだった。
アイリス・エッジが拡大戦略の一環として買い取った、中央帝都銀行の不良債権ポートフォリオ。その資産調査のために訪れたのは、湾岸エリアにある打ち捨てられたような古い雑居ビルだった。
「……ここなの? 私たちの新しい資産というのは」
凛が不快そうに鼻を寄せ、誠の腕を掴んだ。潮風に錆びた鉄扉、壁に貼られた期限切れの督促状。かつてエリートとして君臨していた二人には、あまりに不釣り合いな場所だ。
「ええ。正確には、このビルを担保に多額の借入を行い、返済が滞っている『債務者』たちの調査です。……凛さん、心の準備はよろしいですか?」
誠が重い扉を開け、薄暗い廊下の奥にある一室へと入った。
そこには、ゴミの山と酒瓶が散乱する部屋で、怯えたように蹲る二人の男女がいた。
「……ひ、ひぃ! 勘弁してください! 金なら、金ならもう少し待って……!」
男が床に頭を擦り付けながら叫ぶ。その声を聞いた瞬間、誠の隣で凛の身体が僅かに強張った。
泥にまみれた作業服、無精髭に覆われ、かつての傲慢な面影を失った男――柏木健介。
そして、その傍らでボロボロのブランドバッグを抱きしめ、焦点の合わない瞳で震えている女――美咲。
誠を陥れ、泥を啜らせた裏切りの主犯たちが、今、自分たちが「ゴミ」のように切り捨てた男の足元で、命乞いをしている。
「……柏木。久しぶりですね」
誠の声は、驚くほど平穏だった。怒りも、憎しみも、復讐の昂ぶりさえもない。ただ、道端に落ちている石ころを見るような、徹底した無関心。
「……さ、佐藤……? お、お前、なんでここに……」
柏木が顔を上げ、誠の姿を認めた瞬間、その顔が絶望に歪んだ。完璧なスーツを纏い、傍らには眩いばかりの美貌を取り戻した凛を連れた誠。その圧倒的な格差に、柏木は言葉を失った。
美咲もまた、誠の姿を見るなり、這いつくばるようにして彼の靴に縋り付こうとした。
「誠君! 誠君でしょ!? ああ、神様……! 助けて、私たち、騙されたの! 銀行の役員たちに全部罪をなすりつけられて、借金だけ背負わされて……。ねえ、昔のよしみで、少しだけでいいから恵んで……! 私、あなたのこと、本当は今でも……!」
美咲が伸ばした手が、誠のパンツの裾に触れようとした、その刹那。
凛が、鋭いハイヒールの音を響かせて一歩前に出た。
「――その不潔な手で、私の夫に触れないで」
凛の琥珀色の瞳から放たれた冷徹な一喝に、美咲は悲鳴を上げて手を引いた。
凛は誠の肩を抱き寄せ、自らの所有物であることを誇示するように、柏木たちを見下ろした。
「この男の髪一本、爪の先一つまで、すべては私の所有物よ。……あんたたちのような亡霊が、気安く名前を呼んでいい存在じゃないわ」
誠は、凛の独占欲に満ちた守護を心地よく受け入れながら、淡々とタブレットを取り出した。
「柏木。美咲さん。……僕は誠実な男です。ですから、あなたたちが犯した罪の対価、および本日付で当社が買い取った債権については、最後の一円まで、法的に、誠実に、一切の慈悲なく回収させていただきます」
「待ってくれ佐藤! 悪かった、俺が悪かった! 頼む、これ以上追い詰めないでくれ!」
「追い詰める? 心外ですね。僕はただ、契約を履行しているだけだ。……あなたたちが僕から奪った三年間。そして、凛さんの心を傷つけた罪。……それらを返済し終えるまで、あなたたちの人生に、安息の日は二度と訪れません」
誠はそう言い捨てると、一度も振り返ることなく、凛を連れて部屋を後にした。
背後で柏木が泣き叫び、美咲が狂ったように誠の名前を呼び続けていたが、その声は二人の歩調を乱すことさえできなかった。
雑居ビルを出ると、迎えのマイバッハが静かに待機していた。
車内に滑り込み、外界の喧騒が遮断された瞬間、凛は誠の胸に顔を埋めた。
「……気分が悪かったわ。あんな人たちが、あんたの過去にいたなんて」
「申し訳ありません。……ですが、これで本当の意味で、過去は死にました。……怖かったですか? 凛さん」
誠が彼女の髪を優しく撫でると、凛は顔を上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「いいえ。あんな小石のような人たちのことより……ねえ、誠。今夜の夕食は、あんたが前に作ってくれたあのパスタがいいわ。……それから、夜はたっぷり、私を甘やかしなさい。あの不潔な女に見せつけられた分、上書きしてもらわないと気が済まないわ」
「了解しました、僕の主。……いえ、僕の奥様」
誠は凛の顎を持ち上げ、深く、長い接吻を交わした。
裏切りも、絶望も、すべてはこの瞬間の幸福を際立たせるためのスパイスに過ぎなかった。
過去を完全に葬り去った二人の前には、もう、遮るものは何もない。
物語はいよいよ、究極の公私混同――「永遠の再雇用契約」を公にする、最期のステージへと向かっていく。




