第二十二話:永遠の再雇用契約
都心の夜空を焦がすような、アイリス・エッジ創立記念パーティーの夜。
会場となった超高級ホテルの大広間は、数千個のクリスタルが煌めくシャンデリアに照らされ、政財界の重鎮や、時代の先端を行く若き起業家たちで埋め尽くされていた。
中央帝都銀行の不正を暴き、巨大な逆境を跳ね除けて「完全勝利」を収めた一ノ瀬凛と佐藤誠。二人の物語は、今やビジネス界の伝説として語り草となっている。だが、同時に彼らを見る周囲の眼差しには、拭いきれない邪推が混じっていた。
「有能すぎる秘書が、孤独な女帝の心を掌握して乗っ取った」
「所詮は公私混同。ビジネスを私情で汚した二人だ」
そんな無責任な囁きが会場の端々で交わされる中、扉が開き、主役の二人が現れた。
一ノ瀬凛は、月の光を織り込んだような純白のシルクドレスを纏い、その美しさは見る者の呼吸を止めるほどだった。そしてその隣には、寸分も隙のない正装に身を包んだ佐藤誠。彼は凛の手を優しく、だが周囲を威圧するような強さでエスコートしていた。
パーティーが佳境を迎え、凛がスピーチのためにステージへ上がった。
誠はいつものように、彼女の三歩後ろに控える。マイクを前にした凛の指先は、僅かに震えていた。対人恐怖症という呪縛は、今も彼女の深層に根を張っている。
だが、彼女は視線を泳がせることはなかった。彼女の背中には、自分を見守り、自分のために世界を敵に回すと誓った唯一の男の視線があったからだ。
「……本日お集まりいただいた皆様。アイリス・エッジは、この一年で大きな飛躍を遂げました。ですが、その成功よりも私にとって価値があったのは、ある一人の男性との出会いです」
会場が水を打ったように静まり返る。メディアのカメラが一斉に彼女に向けられた。
「私はかつて、孤独の深淵にいました。誰も信じられず、自分の居場所さえ見失っていた私を、絶望の泥の中から掬い上げてくれたのは、ここにいる私の秘書……佐藤誠です」
凛はゆっくりと振り返り、誠を見つめた。琥珀色の瞳には、もはや「女帝」の仮面はなく、ただ一人の愛に飢え、愛を識った女性の熱情が宿っていた。
「彼は私の盾となり、牙となり、そして私の心のトゲを一本ずつ抜いてくれた。……彼がいないアイリス・エッジに、価値などありません。そして、彼がいない私にも、明日を生きる意味はないのです」
ざわめきが広がる会場。その騒然とした空気を裂くように、誠が一歩、前に出た。
彼は懐から、仕事用のタブレットでも契約書でもなく、一輪の青い薔薇――アイリス・エッジの象徴であり、誠がかつて凛に贈った思い出の花と、漆黒のリングケースを取り出した。
誠は全参加者の前で、ゆっくりとその膝を突いた。
「……一ノ瀬凛社長。いえ、僕の凛さん」
誠の声は、マイクを通さずとも会場の隅々にまで届くほどに、深く、そして力強く響いた。
「あなたからお預かりした『専属運転手兼ボディガード』としての雇用契約。あの日、雨の公園で交わしたその約束は、本日を以て満了とさせていただきます」
悲鳴に近い驚きが会場を包む。「辞めるのか?」「このタイミングで?」という声が飛ぶ中、誠はリングケースを開き、その中に収められた最高級のダイヤモンドを凛へと捧げた。
「代わりの契約を提案させてください。役職は『夫』、期間は『一生』。……あなたが眠る時はその髪を撫で、あなたが震える時はその身を挺して温め、あなたが戦う時は隣で同じ泥を被りましょう。……凛さん、この新しい雇用契約、更新していただけますか?」
会場は静寂を超え、凍りついた。誰もが、これほどまでに真っ直ぐで、そして狂気すら感じるほどの執着に満ちたプロポーズを目の当たりにするとは思っていなかったのだ。
凛は、溢れ出す涙を拭おうともせず、誠の前に膝を折った。彼女は誠の手を取り、その薬指に自らの指を絡ませた。
「……不採用よ、佐藤」
凛の声は、幸福な涙に濡れていた。
「『夫』だけじゃ、到底足りないわ。……あんたは一生、私の『所有物』として、私の檻の中で、私のために尽くしなさい。……私の魂を買い取った責任、墓場まで持って行ってもらうんだから」
凛は誠の胸に飛び込み、首筋に深く顔を埋めた。
「更新するわ。……死ぬまで、あんたを解雇してあげない」
割れんばかりの喝采が、会場を揺らした。
メディアのフラッシュが、二人を祝福の光で包み込む。かつての「不潔な公私混同」という悪評は、今この瞬間に、世界で最も純粋で、最も濃密な「公私混同」という名の純愛へと塗り替えられた。
誠は凛の腰を引き寄せ、衆人環視の中で、彼女の唇を奪った。それは、誰にも邪魔させないという独占の印であり、二人の帝国が完成したことを告げる祝砲でもあった。
数時間後。
パーティーが終わり、二人を乗せたリムジンが深夜の都会を静かに滑り出していた。
外の世界では、今夜の出来事が「世紀のロマンス」としてニュースを駆け巡っている。だが、車内の静寂は、出会ったあの日と同じように、二人だけのものだった。
「……疲れたわね。……佐藤、じゃなくて、誠」
凛は誠の膝の上に頭を乗せ、リラックスした姿で微笑んだ。
「ええ。ですが、これで本当の公私混同です。これからは堂々と、役員会議の合間にあなたを抱きしめることができますね」
「あんた、本当に……。……でも、いいわよ。これからもたっぷり働かせてあげる。覚悟しなさいね」
誠は彼女の髪を指に絡め、愛おしそうに瞳を細めた。
「仰せのままに、僕の奥様。……あなたの誠実な猟犬は、一生あなたの獲物を追い続けるでしょう」
泥の中から始まった物語は、一つの大きな結末へと辿り着いた。
だが、二人の契約はまだ終わらない。
互いを縛り、互いに依存し、互いだけを愛し抜く。
そんな歪で、けれど誰よりも幸福な「公私混同」の日常が、ここから永遠に続いていくのだ。




