第二十三話:二人だけの帝国
柔らかな陽光が、都心の最高級タワーマンションの広大なリビングに降り注いでいた。
数年前、佐藤誠が「異物」として足を踏み入れたこの場所は、今や彼という脊髄なしでは成り立たない、一つの完成された小宇宙となっていた。
「……誠、まだかしら。今日の会議は一分も遅れられないって言ったはずよ」
リビングのソファで、一ノ瀬凛が不機嫌そうに声を上げた。
彼女は今や日本を代表する巨大ITグループとなった『アイリス・エッジ』の頂点に立つ女帝だ。その美貌には磨きがかかり、琥珀色の瞳は以前よりもずっと深く、確固たる光を湛えている。だが、そんな彼女の足元には、ブランド物のヒールではなく、誠が彼女の足の形に合わせて特注させた、柔らかな室内履きがあった。
「お待たせしました、凛。……いえ、社長」
キッチンから現れた誠は、以前と変わらぬ、寸分も隙のない三ピーススーツを纏っていた。ただ一つ違うのは、彼の左手の薬指に、凛が「一生の檻」として授けた結婚指輪が誇らしげに輝いていることだ。
誠は凛の前に、彼女のその日の体調に合わせてブレンドした温かいハーブティーを置き、その傍らに跪いた。
「今日の予定、および全グループの財務状況のアップデートは完了しています。……それから、これを」
誠が差し出したのは、アイリス・エッジの象徴である青い薔薇を模したブローチだった。彼は凛の胸元に指を伸ばし、その震えを鎮めるようにゆっくりと、愛おしそうに針を通す。
「……あんたは、共同経営者になっても相変わらずね。秘書みたいなことばかりして」
「僕にとって、あなたの隣でこうして世話を焼くことが、どんな役職よりも優先されるべき実務ですから。……凛、あなたの呼吸、少し浅いですね。昨夜の疲れが残っていますか?」
誠の指先が、彼女のうなじに触れる。凛はその接触に安堵し、猫のように目を細めて彼に身を預けた。
かつて対人恐怖症で孤独に震えていた女性は、今やこの男の「溺愛」という酸素なしでは、一分も外の世界を歩けない。それこそが、誠が時間をかけて築き上げた、彼女を自分だけのものにするための「誠実な支配」の結果だった。
車に乗り込み、オフィスへと向かう。
アイリス・エッジの本社ビルに到着した途端、二人は「夫婦」から「最強の経営コンビ」へと仮面を切り替える。
全社員が居並ぶロビーを、二人は無言で歩く。凛が凛然と前を見据え、誠がその一歩後ろで、飛んでくるすべての悪意や雑音をその身で遮断する。その光景は、社員たちにとってアイリス・エッジの強さを象徴する神聖な儀式となっていた。
午後。副社長室――かつての秘書室を改装した誠の部屋で、事務的な報告が行われていた。
「……報告は以上です。それから、例の『亡霊』たちの件ですが」
誠がタブレットを操作し、幾つかの写真を表示した。
そこには、地方の土木作業現場で泥にまみれて働く柏木の姿や、安価なアパートの一室で督促状に囲まれて咽び泣く美咲の姿があった。そして、かつて凛を道具扱いした実父・泰造は、誠が買い叩いた介護施設の一室で、誰からも見舞いに来られない孤独な余生を送っている。
「……あんな人たちのこと、もう忘れていたわ」
凛は画面を一瞥し、興味なさそうに視線を逸らした。
「ええ。彼らにとっての最大の罰は、あなたが彼らを完全に視界から消し、僕とこの上なく幸福でいることです。……彼らの人生は、僕たちの帝国の礎にさえならない、ただの瓦礫ですよ」
誠はそう言うと、立ち上がって凛の背後に回り、彼女の肩を優しく揉み解した。
「……ねえ、誠。今夜は、あの場所に行きたいわ」
「……例の、公園ですか?」
深夜。
二人は、かつて誠がすべてを失い、雨の中で蹲っていたあの公園を訪れた。
今は整備され、当時のような寂れた雰囲気はない。だが、そのベンチの配置だけは、あの日のままだった。
「……あの日、あんたを拾った私を、世界中の誰よりも褒めてあげたいわ」
凛は誠の腕に絡みつき、夜風に吹かれながら微笑んだ。
「あんたの誠実さを買ったあの日から、私の世界はあんた一人の色に塗り替えられた。……ねえ、誠。あんたは幸せ?」
誠は立ち止まり、月光に照らされた凛の琥珀色の瞳をじっと見つめた。
「幸せ、という言葉では足りません。……僕は、あなたという檻の中で、毎日を再雇用されている気分です。……凛、来世の予約をしてもいいですか?」
凛は驚いたように目を見開き、やがて噴き出すように笑った。
「……来世? あんた、本当に欲張りね。……いいわ。許可してあげる。来世でも、その次でも、あんたのその無駄な誠実さを、私が一番高い値段で買い取ってあげるわ。……だから、死ぬまで、そして死んだ後も、私に尽くしなさい」
「了解しました。……僕の、永遠の主」
誠は凛を引き寄せ、深い、深い誓いの接吻を交わした。
誠実さを牙に変えた男と、その牙に守られ、飼い慣らされた女帝。
公私混同から始まった二人の物語は、誰にも侵されることのない、永遠の愛という名の帝国を築き上げた。
夜の帳が降りる中、二人の影は一つに重なり、明日という戦場へ向けて、確かな足取りで歩み出した。
二人の契約書に、終止符が打たれることは、二度とない。
(完)




