第6話:牙を研ぐ影
深夜二時。アイリス・エッジのオフィスは、稼働し続けるサーバーの微かな駆動音と、俺がキーボードを叩く音だけが支配していた。
窓の外、眠らない街・渋谷の光が、液晶画面に反射して俺の瞳を青く縁取っている。
柏木が提示した契約書案、その裏側に隠された複雑な資金移動のルートを、俺は一つずつ解きほぐしていた。
奴らは、アイリス・エッジの主要取引先である数社に中央帝都銀行から迂回融資を行い、その返済が滞った瞬間にアイリスの債権を一斉に差し押さえるという、極めて悪質なスキームを構築している。
「……見つけた。ここが、奴らの急所だ」
柏木が独断で動かしている、銀行の『特別融資枠』。本来なら厳格な審査が必要なはずの資金が、彼の権限で不自然に流動している。この流れを逆手に取り、アイリス・エッジの全資産を一時的に新設の海外法人へ避難させつつ、柏木たちの資金だけを国内の休眠口座に「隔離」するプログラムの最終調整に入る。
「……あんた、まだやってるの? 死ぬわよ、本当に」
不意に背後から声をかけられ、俺の手が止まった。
振り返ると、そこにはオーバーサイズのカーディガンを羽織った凛が、マグカップを二つ持って立っていた。
「社長。まだ起きていらしたんですか」
「眠れるわけないでしょ。自分の会社の運命を、こんな無鉄砲な男に預けてるんだから」
凛は俺の隣に椅子を引き寄せ、ドカッと座った。
彼女が持ってきたマグカップからは、甘いココアの香りが立ち上っている。
「ほら、飲みなさい。……それから、これ。新作のナッツチョコ。あんたの好物でしょ」
「ありがとうございます。……凛さん、怖くはないですか? 一週間後、この会社は数字の上では一度、完全に『破綻』した状態になります」
「怖いわよ。当たり前じゃない。……でも、あんたが私の後ろにいて、私の手を握ってくれた時に思ったの。……この男が嘘をつく時は、世界がひっくり返る時だって。だから、信じてるわよ」
凛はココアを一口啜り、ふっと弱々しく微笑んだ。
外では強気な仮面を被り続けている彼女が見せる、一瞬の素顔。
その脆さを守るためなら、俺はどんな泥を被っても構わない。そう改めて強く誓った。
翌日の夕方。凛が外出している隙を突くように、一人の来客があった。
受付からの連絡を遮るように、オフィスのエントランスに現れたのは、美咲だった。
「誠君。……少し、話せるかしら」
彼女はかつての清楚な装いとは打って変わり、派手なブランド品に身を包んでいた。だが、その瞳に宿る焦燥感は隠せていない。
俺は彼女を、人目のない非常階段の踊り場へと促した。
「柏木さんには内緒で来たのか? 美咲」
「……ええ。ねえ、誠君。今ならまだ間に合うわ。柏木君は、一週間後にあなたを完全に社会から抹殺するつもりよ。でも、私が彼を説得してあげる。あなたがアイリス・エッジの内部データを渡すと約束してくれれば、横領の罪も『内部の調査ミス』として処理させて、あなたの名誉を回復させてあげる」
美咲は、かつて俺が愛したあの甘ったるい声で、俺の腕に触れようとしてきた。
その手つき、その言葉。すべてが薄っぺらな演技であることを、今の俺は見抜いていた。
「……名誉の回復、か。面白いことを言うな」
「誠君?」
「君たちの言う『名誉』なんて、僕にはもう一文の価値もないんだ。……美咲、君は柏木が自分を裏切らないと、本気で思っているのか?」
俺の冷徹な問いかけに、美咲の顔が引きつった。
「柏木は、アイリス・エッジを手に入れた後、君を捨てるだろう。彼はそういう男だ。……君が僕を裏切ったように、彼は君を裏切る。いや、もうすでに、君をスケープゴートにする準備を始めているんじゃないか?」
「な、何を……そんなわけないわ! 柏木君は私を愛してるし、私たちは一緒に頂点へ――」
「銀行の内部資料を盗み出したのは、君のIDだったな。……万が一計画が失敗した時、すべての責任は君が負うよう、彼は署名入りの書類を偽造している。……調べればすぐにわかることだ」
これはブラフではない。深夜の調査で見つけた事実だ。
美咲の顔から血の気が引き、彼女は力なく壁に寄りかかった。
「……君の知っている佐藤誠は、あの日、雨の公園で死んだんだ。今の僕は、一ノ瀬凛の盾だ。……二度と、僕の前にも彼女の前にも現れないでくれ」
俺は背を向け、踊り場を去った。
背後で美咲が何かを叫んでいたが、その声は俺の心には一分も響かなかった。
過去への未練は、今この瞬間に完全に断ち切られた。
オフィスに戻ると、凛がデスクで俺を待っていた。
「……終わった?」
「はい。不燃ゴミの処理をしてきました」
「ふん。いい判断ね。……佐藤、いよいよ明日よ」
凛は立ち上がり、窓の外を見つめた。
明日は一週間後の約束の日。柏木たちが、アイリス・エッジという獲物を食らい尽くそうと、牙を剥いてやってくる日だ。
「準備は、すべて整いました」
俺は凛に、一冊のファイルを差し出した。
そこには、柏木たちが仕掛けてくるであろう債権回収のタイミング、そしてそれに対するカウンタープランが秒単位で記されている。
「柏木は、銀行のシステムを使って、強制的にお客様の口座を凍結させるつもりです。それが発動した瞬間、我々は『倒産』を宣言します。……そして、その直後に、彼らが動かした不正資金の全容を、金融庁とメディアに一斉送信します」
それは、刺し違える覚悟の特攻ではない。
相手が振り上げた刃を、そのまま自分自身の喉元に突き立てさせる、究極の合気道だ。
「……佐藤。一つだけ、約束しなさい」
「何でしょうか」
「……勝った後、どこか遠くへ行ったりしないこと。あんたがいなくなったら、私はまた、一人で震えなきゃいけなくなるんだから」
凛の声が、わずかに震えていた。
彼女は俺のジャケットの裾を、必死に握りしめている。
俺はその手を、自分の手で包み込んだ。
「約束します。……あなたの隣が、僕の今の、唯一の居場所ですから」
二人の影が、月明かりに照らされたオフィスに長く伸びる。
誠実さを踏みにじり、人の心を道具として扱ってきた奴らに、本当の絶望が何たるかを教える時が来た。
牙は、十分に研がれた。
あとは、獲物がその首を差し出してくるのを待つだけだ。
明日。
この東京の空の下で、最も残酷で、最も爽快な「再雇用」の物語の幕が上がる。




