第5話:不遜なる来訪者
その日の朝、アイリス・エッジのオフィスには、冷え切った緊張感が漂っていた。
俺は凛のデスクの傍らに立ち、タブレット端末に表示された幾つかの数字を最終確認する。昨日仕掛けた「毒」は、すでにシステムの深層で静かにその時を待っている。
「佐藤、顔が怖いわよ。……鏡、見てきたら?」
凛が、普段通りの強気な口調で茶化してきた。だが、彼女が握っている万年筆が、わずかに震えているのを俺は見逃さない。
「申し訳ありません。ですが、今日来るのは、僕がこの世で最も軽蔑する男です。……そして、あなたを裏切ろうとしている男でもあります」
「……わかってるわよ。あんたがそこまで言うんだもの。私はあんたの背中を見てるわ。だから、しっかり守りなさい」
凛はそう言うと、深い溜息をついてから「女帝」の仮面を被った。
午前十時。
受付から「中央帝都銀行の柏木様がお見えです」という内線が入る。
俺は凛の許可を得て、応接室の重厚な扉を開けた。
そこにいたのは、仕立てのいいスリーピースのスーツを完璧に着こなした男だった。
柏木健介。
かつての俺の親友であり、同期。そして、俺の人生を泥沼に沈めた張本人だ。
柏木は、俺の顔を見るなり、勝ち誇ったような歪んだ笑みを浮かべた。
「やあ、佐藤。元気そうじゃないか。まさか本当にここで運転手なんてやっているとはな。……ああ、今は『秘書』だっけか? 横領犯の再雇用なんて、一ノ瀬社長も随分と物好きだ」
「……お久しぶりです、柏木さん。挨拶はそれくらいにして、席に着いていただけますか。社長の時間は貴重ですので」
俺の冷淡な対応に、柏木の眉がわずかに跳ねた。だが、奴はすぐに興味を凛へと移し、芝居がかった仕草で一礼した。
「一ノ瀬社長、本日はお時間をいただき光栄です。先日の広瀬の失礼、当行としても深く反省しております。本日は、そのお詫びも兼ねて、御社のさらなる飛躍を約束する『最高の提案』を持って参りました」
柏木はそう言うと、同行していた一人の女性に目配せをした。
彼女は一歩前に出ると、流れるような動作で資料を配り始める。
その顔を見た瞬間、俺の視界がわずかに歪んだ。
美咲。
俺と結婚を約束し、そして柏木と共に俺を裏切った女。
彼女は俺と目が合っても、まるで赤の他人を見るような冷たい光を宿したまま、不敵に微笑んだ。
「本日の交渉のサポートを務めさせていただきます、外部コンサルタントの美咲です。よろしくお願いいたします、一ノ瀬社長」
かつて愛した女性の、あまりにも厚顔無恥な態度。
俺の指先が、怒りで微かに震え始める。その時だった。
テーブルの下で、凛が俺の手を、ぎゅっと強く握りしめた。
彼女の体温が、俺の凍りつきそうな心を繋ぎ止める。
(――佐藤、しっかりしなさい。あんたは私の盾でしょう)
彼女の視線が、そう語りかけていた。
「提案の内容を拝見しましょう。柏木さん」
俺は凛の手に支えられ、冷静さを取り戻して口を開いた。
柏木の提案は、アイリス・エッジへの大規模な増資と、中央帝都銀行が主導する企業連合への加入という、一見すれば夢のような話だった。だが、その実態は恐ろしいものだ。
「……なるほど。この契約書、第十五条の『優先株の転換条項』、および第二十条の『取締役の指名権』。これらを組み合わせれば、銀行側はいつでも一ノ瀬社長の解任を決議できる。……これは業務提携ではなく、実質的な乗っ取りだ」
俺の指摘に、柏木は鼻で笑った。
「相変わらず細かいな、佐藤。だが、これは『支援』だ。今のアイリス・エッジには、世界展開するための体力が足りない。我々の傘下に入ることが、一ノ瀬社長にとっても最良の選択のはずだ。……それとも何か? 横領で銀行を追われたお前の『素人判断』を、社長が信じるとでも思っているのか?」
柏木は凛に向き直り、甘い言葉を並べ立てる。
「社長。この佐藤という男は、銀行時代から数字をいじるのが得意でした。今回の横領も、彼が自分自身のミスを隠すためにやったことです。そんな男の言葉に耳を貸しては、御社の未来が汚されますよ。……さあ、賢明な判断を」
美咲も、追従するように頷いた。
「そうですよ、社長。私も彼の傍にいたから分かります。彼は誠実なふりをして、裏では何を考えているか分からない男ですから」
二人の醜悪な言葉が、応接室に満ちる。
俺は、ただ静かに凛の言葉を待った。
凛は、手元に配られた資料をパラパラと捲り、不意にそれを机に放り出した。
「……柏木さん、だったかしら。あんた、一つ大きな勘違いをしているわ」
「……勘違い、と言いますと?」
「私が佐藤を雇ったのは、彼が銀行員として優秀だからじゃないわ。……世界中でたった一人、私を裏切らないと確信できる男だからよ。そんな彼の言葉を疑うなんて、私自身の存在を否定するのと同じことだわ」
凛は凛然と言い放ち、俺を真っ直ぐに見上げた。
「佐藤。この契約、あんたはどう思う?」
「……毒饅頭です。食べる必要はありません。ですが――」
俺は柏木と美咲に、冷徹な視線を向けた。
「せっかくの『最高の提案』です。検討する余地は残しておきましょう。……柏木さん。この契約書の雛形、一旦預かります。一週間後、こちらの条件を提示した上で、改めて回答します」
柏木は、凛の拒絶に一瞬顔を歪めたが、俺が「検討する」と言ったことで、再び余裕を取り戻した。
「……ふん、いいだろう。一週間の猶予をやる。だが、佐藤。お前に何ができる? 銀行という巨大な力を前に、お前のような虫ケラが足掻いたところで、結果は変わらない。……一週間後、一ノ瀬社長が泣いて契約書にサインする姿を楽しみにしているよ」
柏木は美咲を連れて、勝ち誇ったように応接室を後にした。
扉が閉まった瞬間、凛は大きく息を吐き出し、ソファに倒れ込んだ。
「……佐藤、あんた、本気なの? あんな奴らの提案、一秒だって考えておく必要なんてないわよ」
「ええ。検討なんてしません。……ただ、彼らが仕掛けてきたこの『買収工作』。これを逆手に取れば、中央帝都銀行の特定の派閥――柏木たちが所属するグループの資金を、一気にこちらへ引きずり込めるスキームを構築できます」
俺は凛の前に、別のタブレットを差し出した。
そこには、柏木たちが気づいていない、アイリス・エッジのシステムの「真の価値」と、それを利用した逆買収のシミュレーションが表示されていた。
「一週間後、彼らはアイリス・エッジを手に入れたつもりで、自分たちのすべてを失うことになります。……凛さん、僕に、あなたの権限を貸してください。僕を陥れた連中を、二度と這い上がれない場所まで叩き落とすために」
凛は、俺の瞳に宿る静かな、だが激しい炎を見た。
彼女は一瞬だけ躊躇い、そして、ふっと微笑んだ。
「……いいわよ。あんたの誠実さが、牙を剥く瞬間を見てみたいわ。……存分にやりなさい、佐藤」
凛の言葉は、俺にとって何よりの軍資金だった。
俺は、柏木が残していった資料をシュレッダーに放り込んだ。
一週間。
それが、あいつらが「エリート」でいられる最後の時間だ。
誠実さを捨てた奴らに、誠実さを武器にする男がどんな地獄を見せるか。
俺の、本当の反撃が、今この瞬間から始まった。




