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氷の女帝の、震える肩を抱けるのは俺だけ 〜どん底の元エリートは、誠実さを牙に変えて彼女を守り抜く〜  作者: 寝不足魔王


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第4話:氷の女帝の震える夜

 広瀬次長を追い返した日の夜、凛はどこか浮き足立っていた。

「今日は外で食べるわよ。佐藤、あんたの快気祝い……じゃなくて、銀行への先制パンチ成功の祝杯よ」

 そう言って連れてこられたのは、六本木の路地裏に佇む、看板のない焼肉店だった。全席完全個室。対人恐怖症を抱える彼女が、唯一「外」で食事を楽しめる数少ない行きつけなのだろう。


「社長、少し飲み過ぎでは?」

「うるさいわね。今日は特別よ。……あんたも飲みなさいよ。私の命令よ」

 冷徹な女帝の仮面はどこへやら。凛は顔を赤く染め、普段の彼女からは想像もつかないほど饒舌になっていた。

 上質な和牛が網の上で弾ける音と、香ばしい香りが個室を満たす。

 凛はシャンパングラスを転がしながら、ふと、夜景の見える窓の外に視線を投げた。


「ねえ、佐藤。……あんたは、どうしてあんなに真っ直ぐでいられるの?」

「……真っ直ぐ、ですか?」

「そうよ。裏切られて、泥を塗られて、何もかも失ったのに。あんたの仕事ぶりを見てると、まるで一度も汚れたことがないみたいに誠実だわ。……私には、それが眩しすぎて、時々腹が立つの」


 凛は自嘲気味に笑い、残りのシャンパンを飲み干した。

 俺はトングを置き、彼女の琥珀色の瞳を見つめた。

「……僕も、一度はすべてを諦めました。公園であなたに拾われるまでは。でも、誠実さ以外に何も持っていない男からそれを取り上げたら、本当に何も残らない。そう思っただけです」


「……馬鹿ね。本当に馬鹿だわ、あんた」

 凛はそう呟くと、ポツリポツリと自分の過去を語り始めた。

 それは、彼女が「氷の女帝」と呼ばれるようになる前の物語だった。


 五年前。凛は今の会社の前身となる小さなチームを、大学時代の信頼できる友人たちと立ち上げた。だが、事業が軌道に乗り始めた矢先、共同経営者だった男が会社の資金と技術データを持ち出し、ライバル企業へ寝返ったのだという。

 残されたのは、巨額の負債と、何も知らずに彼女を責め立てる債権者たちの波。


「あの時、大勢の男たちに囲まれて、罵声を浴びせられたわ。……『女のくせに生意気だ』『責任を取って消えろ』。それ以来よ。人の視線が、刃物みたいに見えるようになったのは。……誰も信じられない。誰かに背中を預けるなんて、死ぬより恐ろしかった」


 凛の手が、テーブルの上で激しく震えていた。

 豪華な食事も、最高級の酒も、彼女の心に刻まれた深い傷を癒やすことはできない。

 彼女が常に強気な態度で周囲を威圧していたのは、そうしなければ自分が壊れてしまうからだったのだ。


 俺は無意識に、テーブルを隔てて彼女の震える手に自分の手を重ねていた。

「っ……!?」

「……一ノ瀬さん。僕は、あなたを裏切りません。それは道徳的な理由ではなく、僕という男の存在証明だからです」


 凛は驚いたように目を見開き、重なった俺の手をじっと見つめた。

 彼女の指先から、震えがゆっくりと引いていく。

「……あんた、本当に……。……熱いわよ、手が」

 彼女は顔を伏せたが、その手は払いのけられなかった。


 店を出て、夜の風を浴びながら駐車場へ向かう。

 凛の足取りは少し千鳥足で、俺の腕を支えにして歩いていた。

 その時、俺のポケットの中でスマートフォンが震えた。

 仕事用の連絡かと思い画面を見ると、そこには見たくもない名前が表示されていた。


【柏木 健介】


 俺の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

 凛に気づかれないよう、少し距離を置いてメッセージを開く。


『広瀬次長から聞いたぜ。佐藤、お前一ノ瀬凛に飼われてるんだってな。落ちたもんだ。

 今さら何を企んでるか知らないが、無駄だ。近いうち、俺が正式にアイリス・エッジへ「挨拶」に行ってやる。お前が隠したつもりになっている「横領の残りの証拠」、まだ銀行内にあるのを忘れたか? 次はお前の主(飼い主)ごと、地獄へ引きずり落としてやるよ』


 指先が、怒りと嫌悪感で凍りついた。

 柏木。あいつはまだ、俺を嬲り足りないというのか。

「……佐藤? どうしたのよ、そんな怖い顔して」

 凛が心配そうに覗き込んでくる。

「……いえ、何でもありません。ただの迷惑メールです」

「ふん。変なことに首を突っ込まないでね。あんたは私の『所有物』なんだから」


 彼女をマンションに送り届け、自室に戻った後。

 俺はノートパソコンを開き、アイリス・エッジの財務データと、銀行時代の記憶を照らし合わせ始めた。

 柏木が「挨拶に来る」と言った意味。そして、奴が「横領の証拠」を盾にしていること。

 おそらく柏木は、中央帝都銀行の融資枠を利用して、アイリス・エッジの経営権に食い込もうとしている。広瀬を使って失敗したから、今度は自分が表に出てくるつもりだ。


 だが、柏木は一つ大きな計算違いをしている。

 俺がただ怯えて暮らしていると思ったら大間違いだ。

 

 俺は銀行員時代、柏木が密かに行っていた不透明な資金移動の記録を、断片的ではあるが控えていた。当時は「同期を疑いたくない」という甘さで伏せていたが、今は違う。

 

 さらに、アイリス・エッジの財務諸表を精査するうち、一つの「罠」に気づいた。

 広瀬が持ってきた融資契約書案の裏に隠されていた、特定の投資組合を経由した不自然な資本注入の動き。

「……そうか。奴らの狙いはこれか」


 柏木は、アイリス・エッジを助けるふりをして、特定の投資組合に株を買い集めさせ、外側から凛を追放する「敵対的買収」を仕掛けようとしている。

 そしてその裏には、おそらく美咲も絡んでいる。彼女は銀行の窓口業務を悪用し、顧客リストや資産状況を柏木に流しているはずだ。


 暗い部屋の中で、液晶の光が俺の目を照らす。

 怒りで震えていた心は、いつの間にか冷徹な勝負師のそれへと切り替わっていた。


「……柏木、美咲。君たちは、僕の『誠実さ』が甘さだと思っていたようだけど」

 

 俺は画面上の複雑な資金フローを一箇所、修正した。

 それは、柏木たちが仕掛けてくるであろう買収工作を、逆に彼ら自身の首を絞める罠へと変換する「毒」のコードだった。


「……誠実であるということは、相手を信じ抜くことじゃない。守るべきもののために、徹底的に最善を尽くすことだ」


 翌朝。

 俺は凛に、柏木から連絡があったことを伏せたまま、一つの提案をした。

「社長。近々、大きな融資の話が『別の窓口』から来るかもしれません。その時は、僕にすべての交渉を任せていただけませんか?」

 凛は怪訝そうな顔をしたが、俺の目を見て、ふっと口角を上げた。


「あんたのその目、嫌いじゃないわ。……いいわよ、許可する。私の盾なんだから、せいぜい派手に守って見せなさい」


 運命の歯車が、音を立てて回り始めた。

 俺を泥沼に突き落とした奴らに、本当の絶望を教える準備は整った。


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