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氷の女帝の、震える肩を抱けるのは俺だけ 〜どん底の元エリートは、誠実さを牙に変えて彼女を守り抜く〜  作者: 寝不足魔王


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第3話:古巣からの来客

 アイリス・エッジの社長応接室は、凛の好みを反映してか、無機質ながらも洗練された空間だった。全面ガラス張りの向こうには、東京のビル群がひしめき合っている。かつて俺があの群れの一部として、組織という歯車に組み込まれていたことが、遠い昔の出来事のように感じられた。


「佐藤、顔色が悪いわよ。……嫌なら、あんたは下がっていてもいいのよ?」


 デスクで資料に目を通していた凛が、ふと顔を上げて俺を見た。彼女の琥珀色の瞳には、珍しく気遣いの色が混じっている。


「いえ。むしろ、僕がここにいることに意味があります。社長、ご心配なく」

「ふん。誰が心配なんて。あんたが私の後ろで倒れでもしたら、見栄えが悪いでしょ」


 そう言って彼女は鼻を鳴らしたが、その指先がわずかに膝の上で遊んでいるのを俺は知っている。彼女自身もまた、古巣である中央帝都銀行との接触に緊張しているのだ。かつて融資を冷酷に跳ね除けられた過去。彼女にとって銀行員とは、自分の夢を踏みにじろうとした敵そのものなのだから。


 コンコン、と控えめだが横柄なノックの音が響いた。

「失礼いたします。中央帝都銀行の広瀬でございます」


 その声を聞いた瞬間、俺の背筋に冷たい震えが走った。

 広瀬。俺の元直属の上司であり、柏木が仕掛けた「横領」の証拠を、ろくな調査もせずに事実だと断定し、俺を真っ先に切り捨てた男だ。

 

「入りなさい」


 凛の冷徹な声が合図となり、ドアが開く。

 入ってきたのは、五十代後半の、脂ぎった顔に狡猾な笑みを張り付かせた男だった。広瀬は凛の姿を見るなり、深々と、だがどこか慇懃無礼な礼をした。


「一ノ瀬社長、本日はお時間をいただき感謝いたします。御社の目覚ましいご発展、我々も我がことのように喜んでおりまして――」

「お世辞はいいわ。用件を言いなさい。三分で」


 凛の氷のような対応に、広瀬は一瞬だけ顔をひきつらせたが、すぐに営業用の笑顔を取り繕った。

「ははは、相変わらずお厳しい。本日は、以前お話ししていた追加融資の件、当行としても前向きな回答を持ち帰ってまいりました。こちらが条件面をまとめた資料で……」


 広瀬が鞄から資料を取り出そうとした、その時だった。

 俺は音もなく歩み寄り、彼の手から資料を奪うように受け取った。


「一ノ瀬社長に代わり、私が確認いたします」

「……ん? 君、秘書の方かな。気が利くじゃないか。だが、これは極めて機密性の高い内容で――」


 広瀬が何気なく俺の顔を見上げた。

 次の瞬間、彼の言葉が喉に詰まった。金魚のように口をパクパクとさせ、広瀬の目が驚愕に見開かれる。


「……さ、佐藤……? なぜ、お前が、ここに……!」

「お久しぶりです、広瀬次長。いえ、今は一ノ瀬社長の専属スタッフですので、お前呼ばわりは困りますね」


 俺は完璧なビジネススマイルを浮かべ、広瀬を射抜くように見つめた。

 広瀬の額から、嫌な汗が吹き出すのが分かった。彼にとって、俺はすでに社会的に抹殺した「死人」だったはずだ。それが、今や自分たちが擦り寄ろうとしている急成長企業の社長の隣に、平然と立っている。


「ば、馬鹿な……。横領犯の貴様が、なぜこんな場所に……! 一ノ瀬社長! この男は危険です! 銀行の金を横領して解雇された前科者ですよ!」


 広瀬の叫びが応接室に響く。

 だが、凛は表情一つ変えず、優雅にコーヒーを啜った。


「それが何か?」

「え……?」

「彼が横領犯かどうか、そんなことはどうでもいいわ。私が認めた男が、私の隣にいる。それ以上に確かな真実がどこにあるのかしら。それとも、あんたは私の『目』が節穴だと言いたいわけ?」


 凛の鋭い視線に、広瀬は言葉を失った。

 彼女は、俺が過去に何を背負っていようと、それを丸ごと飲み込んで「盾」として雇ったのだ。その事実に、俺の胸の奥が熱くなる。


「広瀬次長。社長の時間は貴重です。この資料、拝見しましたが……酷いものですね」


 俺は広瀬が持ってきた資料を、パラパラと捲りながら指摘を始めた。


「金利は優遇されているように見えますが、この特約条項。御社指定の役員をアイリス・エッジに受け入れることが条件になっていますね? さらに、技術特許の実施権に関する優先交渉権まで盛り込まれている。これは融資ではなく、実質的な乗っ取りの準備工作だ」

「なっ、それは……当行としてのリスクヘッジで……」

「三年前、まだ実績のなかったアイリス・エッジの融資を『将来性がない』と切り捨てたのはあなたです、広瀬次長。なのに今になって、成功した途端に果実だけを奪おうとする。銀行員としての矜持はどこへ行ったんですか?」


 俺の言葉は、かつて自分が銀行員として守りたかった「誠実さ」そのものだった。

 広瀬は顔を真っ赤にし、プルプルと震えている。


「佐藤! 泥棒の分際で偉そうな口を! お前が何を言おうと、銀行界にお前の居場所はないんだぞ!」

「ええ、知っています。だから僕はここにいる。一ノ瀬社長の利益を守ることが、今の僕の唯一の仕事です」


 俺は資料を広瀬の胸元に突き返した。


「この条件では、アイリス・エッジにメリットはありません。……社長、いかがいたしますか?」

「決まっているわ。佐藤、そのゴミを片付けなさい。二度と、私の視界にこの不潔な男を入れないで」


 凛が冷たく言い放つ。

 俺は「承知いたしました」と一礼し、呆然とする広瀬の腕を掴んだ。

 銀行員時代には考えられなかったほどの強い力で。


「……柏木によろしく伝えておいてください。僕は、まだ終わっていないと」


 耳元でそう囁くと、広瀬は悲鳴に近い声を上げて逃げるように応接室を去っていった。


 静寂が戻った室内。

 凛はふぅ、と深い溜息をつき、ソファに深く体を沈めた。

「……疲れたわ。あんな下俗な男の相手、二度とさせないで」

「申し訳ありません。ですが、これで銀行側も、僕があなたの側にいることを知りました。柏木も、すぐ動くでしょう」

「いいわよ。あんな奴ら、あんたと私でまとめて叩き潰してあげるわ」


 凛はそう言うと、不意に俺のスーツの裾を小さく掴んだ。

 見上げると、彼女の顔がわずかに上気している。


「……佐藤」

「はい、社長」

「……さっきの、かっこよかったわよ。少しだけ、見直してあげてもいいわ」

「……光栄です、凛さん」


 思わず、社長ではなく名前で呼んでしまった。

 凛は一瞬、目を見開いたが、すぐに顔を背けて「……馴れ馴れしいわよ。減給一割」と呟いた。

 だが、その掴まれた裾が、いつまでも離されることはなかった。


 古巣への、最初の反撃。

 それは小さな一歩だったが、俺と彼女の絆を確かなものに変えた一歩でもあった。

 

 窓の外、中央帝都銀行の本店ビルが、夕闇の中にそびえ立っている。

 待っていろ、柏木。そして美咲。

 君たちが築いた偽りの砂の城を、内側から瓦解させてやる。


 俺の誠実さは、もう、誰にも利用させない。

 ただ一人の、僕を信じてくれた女性のために。


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