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氷の女帝の、震える肩を抱けるのは俺だけ 〜どん底の元エリートは、誠実さを牙に変えて彼女を守り抜く〜  作者: 寝不足魔王


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第2話:盾の初仕事

 朝、六時。

 窓の外に広がる都心のパノラマが、白んだ光に溶け始めていた。

 一ノ瀬凛のマンションのゲストルームで目を覚ました俺は、数秒の間、自分の置かれた状況を整理した。

 昨日までの絶望が嘘のように、シーツの肌触りは滑らかで、部屋の空気は清浄だ。だが、今の俺は客人ではない。一ノ瀬凛という主君に仕える影だ。


 俺は即座にベッドを抜け出し、顔を洗って身だしなみを整えた。

 昨晩買い与えられたブラックスーツに袖を通す。銀行員時代よりも上質な生地が、背筋を自然と伸ばさせた。

 キッチンへ向かい、冷蔵庫の中身を確認する。食材は豊富だが、どれも「買っただけで満足した」ような形跡があった。

 俺は元銀行員だ。融資先の経営状況を知るために、社長の食生活から健康状態まで把握するのは基本だった。加えて、一人暮らしが長かったため、自炊には自信がある。


 三十分後。

 出汁の香りがリビングに漂い始めた頃、寝室のドアが力なく開いた。

「……ん、佐藤……? 何、この匂い」

 現れたのは、昨夜の冷徹な「女帝」とは程遠い姿の凛だった。

 シルクのパジャマは少し着崩れ、長い黒髪はあちこち跳ねている。眠そうに目をこするその姿は、実年齢よりもずっと幼く見えた。


「おはようございます、一ノ瀬社長。朝食の準備ができております」

「……朝食? 私、朝はコーヒーだけって言ったはずだけど」

「空腹での会議は判断力を鈍らせます。それに、昨夜の様子を見る限り、糖分が不足しているようでしたので、少し甘めの卵焼きを焼きました」


 凛はふらふらとダイニングテーブルに近づき、並べられた和食の献立をじっと見つめた。

 焼き魚、小鉢、味噌汁、そしてふっくらと焼き上がった卵焼き。

「……あんた、本当に何者なのよ。銀行員って、料理教室にも通わされるわけ?」

「いいえ。ただの生存戦略です」


 凛は毒づきながらも席に着き、箸を取った。

 一口、卵焼きを口に運ぶ。その瞬間、彼女の琥珀色の瞳が大きく見開かれた。

「……悪くないわ。合格よ。減給は保留にしてあげる」

「光栄です」

 彼女はそこから、憑き物が落ちたように食べ始めた。

 口いっぱいに頬張る姿を微笑ましく見ていると、彼女は不意に視線に気づき、「見ないで! あっち向いてなさい!」と顔を真っ赤にして叫んだ。


 この不器用な女性が、あの巨大な『アイリス・エッジ』の舵取りをしている。

 その事実が、少しだけ不思議に、そして愛おしく感じられた。


 八時三十分。

 マンションの地下駐車場に控えたマイバッハの運転席に俺は座っていた。

 後部座席に凛を乗せ、静かに車を発進させる。

 車内という密室に入った途端、凛の纏う空気が一変した。

 背筋を伸ばし、タブレットで経済ニュースをチェックする姿は「社長」そのものだが、バックミラー越しに見える彼女の指先は、小刻みに震えている。


「佐藤……。今日の役員会議、誰が来るか把握してるわね」

「はい。筆頭株主である投資会社の役員二人と、社内役員三人です」

「あいつら、私が若い女だってだけで、隙あらば首を挿げ替えようとしてくるの。……大勢の人間と目を合わせるだけで、心臓が壊れそうになる。皮肉なものよね。こんな性格で、トップにいるなんて」


 凛の声は、消え入りそうなほど細かった。

 車内は、彼女が唯一「武装」を解ける聖域なのだ。

 俺は信号待ちの間に、後部座席の方を振り向かずに答えた。


「大丈夫です。あなたの後ろには、僕がいます。たとえ世界中があなたの敵になっても、僕だけはあなたの味方として、その場に立ち続けます」

「……っ。あんた、本当、そういう台詞を平然と言うわね。さすが元エリート様だわ」

 凛はそっぽを向いたが、ミラー越しに見る彼女の震えは、少しだけ収まっていた。


 アイリス・エッジが入るタワービルに到着すると、凛は一瞬で「仮面」を装着した。

 凛然とした歩き方。周囲を威圧する冷たい視線。

 俺はその三歩後ろを歩く。

 ロビーを通る社員たちの視線が、新顔の俺に集まる。

「あの男、誰だ?」「一ノ瀬社長の新しいボディガードか?」という囁き声が聞こえるが、俺は一切表情を変えない。


 会議室に入ると、重苦しい空気が立ち込めていた。

 五十代、六十代の脂ぎった男たちが、上座に座る凛を品定めするように見つめている。

「一ノ瀬社長、今日も相変わらずお美しい。ですが、経営の方は美しさだけでは立ち行きませんよ」

 投資会社の役員が、嫌味たらしく笑った。


 会議が始まると、男たちは容赦なく凛を攻め立てた。

 新事業の進捗の遅れ、コストの増大。彼女の小さなミスを突き、精神的に追い込もうとする。

 凛は毅然と答えていたが、俺には分かった。

 彼女の呼吸が、わずかに浅くなっている。机の下で、彼女の膝がガタガタと震え始めている。


(――今だ)


 俺は一歩前に出た。

 無礼を承知で、凛の横に立ち、手元の資料を彼女の前に差し出した。

「失礼いたします、社長。こちら、先ほどご指示のあった補足データです」

 そう言いながら、俺は資料を持つ指先で、凛の手にそっと触れた。

 ほんの一瞬の接触。

 だが、俺の体温が伝わった瞬間、彼女の肩の力がふっと抜けた。


「……ええ、ありがとう、佐藤」

 凛の声に、力が戻った。

 彼女は俺が差し出した(実はただの基本データの写しだ)資料を一瞥し、不敵な笑みを浮かべた。

「大原役員。今あなたが指摘したコストの件ですが、このデータの三ページ目をご覧ください。これは将来的な利益を最大化するための先行投資です。三年前のあなたの失敗例を反面教師にさせていただきました」


 凛の反撃が始まった。

 論理的で、かつ情け容赦ない論破。

 役員たちは顔を真っ赤にして黙り込む。

 俺は再び三歩後ろに下がり、彼女の背中を見守った。

 俺が触れた指先の感覚が、まだ熱く残っていた。


 一時間の激戦を終え、会議室を出た凛の足取りは、心なしか軽やかだった。

 エレベーターに乗り込み、扉が閉まった瞬間。

「……はぁぁぁぁ、死ぬかと思った……」

 凛は壁に背中を預け、ずるずると崩れ落ちそうになった。


「お疲れ様でした、社長。見事な采配でした」

「……佐藤、あんた、さっきわざとやったでしょ。手が触れるように」

「何のことでしょうか」

「惚け倒すつもり!? ……でも、まあ、助かったわ。あんたが隣にいると……少しだけ、静かになるの。周囲の雑音が」


 彼女は恥ずかしそうに視線を彷徨わせていたが、ふと鼻をくんくんと動かした。

「ねえ。車に、何か置いてきたでしょう」

「お気づきになりましたか」


 駐車場に戻り、マイバッハのドアを開ける。

 俺は保冷バッグから、一つの小箱を取り出した。

「期間限定の『ショコラ・ド・ブラン』です。お好きだとお見受けしたので」

「っ!? これ、どこのコンビニでも売り切れで、私、三軒回っても見つからなかったやつ……!」


 凛は子供のように目を輝かせ、箱をひったくった。

「なんで分かったのよ! 私、誰にも言ってないのに!」

「社長のパソコンの履歴に、公式ページのブックマークがありました。それと、今朝のコーヒーの好みがミルク多めでしたので、ホワイトチョコ派だろうなと」

「……ストーカー。変態。銀行員って、みんなそうなの?」

「いえ、僕だけかもしれません」


 凛は「信じられない」と首を振りながらも、車内で大切そうにチョコを口に運んだ。

 一粒食べるごとに、彼女の表情が柔らかくなっていく。

 その様子をバックミラーで見ながら、俺は確信していた。

 この人は、強くあろうとして、必死に自分を削っている。

 ならば俺の役目は、彼女の削れた部分を、誠実さという埋め合わせで埋めていくことだ。


「佐藤、午後の予定は?」

「新規案件の資料読み込みと、銀行からの来客対応の準備です」

「……銀行、ね」

 凛の目が、鋭いビジネスマンのそれに変わった。

「中央帝都銀行が、融資の増額を打診してきてるわ。あいつら、私が困っていた時は見向きもしなかったくせに、利益が出た途端にこれよ」


 中央帝都銀行。

 その名を聞くだけで、胸の奥が熱くなる。

 柏木。美咲。

 俺を泥沼に突き落とした連中が、まだ平然とあそこにいる。


「社長。その対応、ぜひ僕に同席させてください」

「言われなくてもそのつもりよ。あんたを捨てたことを、あの組織に後悔させてやるわ」


 凛は残りのチョコを一気に口へ放り込むと、窓の外を見つめた。

 彼女の横顔には、もう震えはなかった。


 俺たちの日常は、まだ始まったばかりだ。

 けれど、この「公私混同」とも言える奇妙な関係が、俺の死んでいた心に、再び火を灯し始めていた。


 次の戦場は、かつての古巣。

 俺を裏切った奴らの影が、少しずつ、、だが確実に近づいていた。


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