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氷の女帝の、震える肩を抱けるのは俺だけ 〜どん底の元エリートは、誠実さを牙に変えて彼女を守り抜く〜  作者: 寝不足魔王


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第1話:泥の中の再会

 叩きつけるような雨が、安物のビジネスシューズを容赦なく濡らしていく。

 三月の夜の公園は、凍えるほどに冷たかった。街灯の鈍い光が、泥水にまみれたアスファルトを頼りなく照らしている。ベンチに腰を下ろしたまま、俺――佐藤誠は、動く気力さえ失っていた。


 一週間前。俺は日本最大のメガバンク、中央帝都銀行の融資担当として、将来を嘱望される立場にいた。同期の中でも出世頭と目され、傍らには結婚を約束した恋人もいた。

 それが今では、五億円の横領犯だ。


 同期の柏木が仕掛けた巧妙な罠。稟議書の偽造、俺の印鑑の盗用、そして――。

「ごめんね、誠。私、将来性のない人とは一緒にいられないの」

 そう言って、柏木の手を握ったのは、俺が心から信じていた恋人の美咲だった。

 二人の共謀。組織的な口封じ。行内での俺の信用は、一夜にしてゼロ、いやマイナスにまで叩き落とされた。懲戒解雇。業界への再就職も絶望的。退職金どころか、あらぬ疑いで資産は凍結され、住んでいた社宅も追い出された。


 誠実であること。それが僕の信条だった。

 顧客のために奔走し、数字の裏にある汗を見極める。それが銀行員の誇りだと信じていた。

 だが、現実はどうだ。誠実さはただのすきでしかなく、信じる心は裏切りを呼び込むための呼び水に過ぎなかった。


「……はは、笑えないな」


 乾いた笑いが、雨音にかき消される。

 目の前が霞むのは、雨のせいか、それとも。

 その時だった。

 公園の入り口に、一台の漆黒の車が滑り込んできた。

 雨を切り裂く鋭いヘッドライトの光。メルセデス・マイバッハ。この公園の寂れた風景には、あまりにも不釣り合いな最高級車だ。

 後部座席のドアが静かに開き、一人の女性が降りてきた。

 運転手が傘を差し出そうとするのを手で制し、彼女はハイヒールの音を響かせてこちらへ歩いてくる。

 水たまりを厭うこともなく、泥を跳ね上げながら俺の前に立った。


「……随分とみっともない姿ね。中央帝都銀行の『誠実なエリート様』が、今はただの濡れ鼠かしら」


 聞き覚えのある、鈴の音のように冷徹な声。

 俺は重い頭を上げ、彼女を見上げた。

 一ノ瀬凛。

 飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長を遂げるITベンチャー『アイリス・エッジ』の代表取締役社長。

 そして――三年前、俺が彼女の融資依頼を「非情にも」断り、彼女から「一生恨んでやる」と吐き捨てられた宿敵だった。


「一ノ瀬……さん……」

「そうよ。あんたに地獄を見せられた、一ノ瀬凛だわ。まさかこんな場所で、死体になりかけのあんたを拝めるなんて。神様もたまには粋なことをするわね」


 彼女は三年前よりもさらに美しく、そして人を寄せ付けない冷たさをまとっていた。

 琥珀色の瞳が、蔑むように俺を射抜く。

 今の俺には、彼女に言い返す言葉も、かつての融資拒否が上司の身勝手な派閥争いの結果だったと弁明する気力もなかった。


「好きに、笑えばいい……。今の僕は、その通り、ただのゴミだ」

「ゴミ? 自惚れないで。ゴミは燃えるけど、今のあんたはただの汚泥よ。使い道さえない」


 凛は俺のすぐそばまで歩み寄ると、しゃがみ込んで俺の顔を覗き込んだ。

 香水の甘い香りと、冷たい雨の匂いが混ざり合う。

 彼女の白い指が、俺の顎を強引に持ち上げた。


「……でも、不思議ね。だけは死んでいない。裏切られて、叩き落とされて、それでもまだ、自分の中の『何か』を守ろうとしている。その、反吐が出るほど馬鹿正直な光だけは」


 彼女の指が震えていることに、俺は気づいた。

 寒さのせいじゃない。彼女の全身が、小刻みに、それでいて必死に何かを抑え込むように震えている。

 ふと思い出した。彼女が創業間もない頃、業界の重鎮たちから嫌がらせを受け、人間不信に陥っているという噂。極度の対人恐怖症を隠すために、彼女は常に攻撃的な仮面を被っているのだと。


「佐藤誠。あんたのその無駄な誠実さ、私が買い取ってあげる」

「……え?」

「あんたに選択肢はないわ。ここで凍え死ぬか。それとも、私という『地獄』で働くか。どっちがいい?」


 彼女の提案は、救済というにはあまりにも傲慢だった。

 だが、世界中の誰からも「不要」だと言われ、存在そのものを否定された俺にとって、「買い取る」という言葉は、何よりも強烈な救いとして響いた。


「……僕に、何ができる」

「私の『専属運転手兼ボディガード』になりなさい。常に私の三歩後ろにつき、私の静寂を脅かす不快な有象無象うぞうむぞうを排除する。それがあんたの仕事よ」

「銀行員のキャリアは、関係ないのか」

「キャリア? あんな腐った組織の肩書きなんて、今の私には何の価値もないわ。私が欲しいのは、あんたのその『絶対に裏切らない誠実さ』。それだけよ」


 凛は立ち上がり、俺に手を差し出した。

 白く、細い手。だがその手は、どんな巨万の富よりも重厚な意志を秘めているように見えた。

 俺は、泥に汚れた自分の手を見た。

 迷いはなかった。

 このまま消えていくくらいなら、この女の盾となって、燃え尽きるまで使い潰される方がマシだ。


 俺は彼女の手を、力強く握り返した。


「……了解しました、一ノ瀬社長。今日から僕は、あなたの影になります」

「ふん。いい返事ね、佐藤。……あ、勘違いしないで。これは慈悲じゃないわ。利息をつけてたっぷり働かせるから。いいわね?」


 そう言って背を向けた彼女の耳が、ほんの少し赤くなっているのを、俺は見逃さなかった。


 一時間後。

 俺は彼女が住む都心の最高級タワーマンションに運ばれていた。

 入室するなり、凛は俺を浴室へ放り込み、新品の着替えを用意させた。

 用意されていたのは、俺の体型を測ったかのように完璧にフィットする、最高級のブラックスーツ。


 鏡の中に、一人の男がいた。

 無精髭を剃り、髪を整え、漆黒のスーツを纏った姿。

 かつての銀行員、佐藤誠は死んだ。

 ここにいるのは、一ノ瀬凛という孤独な怪物を守るための、名前のない影だ。


 リビングへ向かうと、凛はソファに深く腰掛け、高級そうなシャンパングラスを傾けていた。

 だが、その指先は相変わらず震えている。

 部屋には俺と彼女の二人しかいない。それでも、彼女の「対人恐怖症」の症状は完全には消えないらしい。


「着替え終わったわね。佐藤、こっちへ来なさい」

「はい」

「座りなさい。私の、手の届く距離に」


 俺は指示通り、彼女の傍らに膝をついた。

 彼女の震えが、俺が近づくにつれて、目に見えて穏やかになっていく。


「……佐藤、あんた。不思議な人間ね」

「何がでしょうか」

「普通、他人がこの距離にいたら、私は吐き気がするほど不快なの。でも、あんたからは……あの時の銀行員と同じ、退屈なほど真っ直ぐな、静かな空気しか感じないわ」


 凛はそう呟くと、ふっと視線をそらし、手元にあった未開封のコンビニの袋から、チョコ菓子を取り出した。

 高級シャンパンに、安物のチョコ。

 彼女の意外な一面に、俺の頬がわずかに緩む。


「笑ったわね。減給よ」

「……すみません。ただ、社長も意外と普通の人間なんだなと」

「黙りなさい。私は普通の人間じゃない。あんたのあるじよ。明日から、分かっているわね。まずは私のスケジュール管理と、会食での外敵排除。それから――」


 彼女は一気にまくし立てるように、明日からの業務内容を告げていく。

 その言葉は厳格で、非情で、けれどどこか、自分自身を鼓舞しているようにも聞こえた。


 裏切った柏木。俺を捨てた美咲。

 彼らへの復讐心は、まだ胸の奥で黒く渦巻いている。

 だが、今はそれよりも。

 この震える肩を抱えた孤独な社長を、そのトゲの隙間から漏れる「寂しさ」を、支えてやりたいと思った。


 誠実さが仇となるなら、次は俺が、その誠実さを盾にして彼女を守ろう。

 泥を啜った男の、これが新たな、そして本当の「誠実さ」の証明だ。


「承知しました。明日から、全力でお仕えします」


 窓の外では、まだ雨が降り続いていた。

 けれど、俺の心にある氷は、彼女の不器用な言葉によって、ほんの少しだけ溶け始めていた。


 これが、俺と彼女の、歪で、けれど唯一無二の物語の始まり。

 泥の中から始まった、逆転劇の第一歩だった。


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