建部政宇
三代藩主・建部政宇は建部政長の五男である。政宇は文人肌であった。刀も槍も弓矢も全ての武器を嫌い、手に取ろうともしなかった。体の鍛錬も武術の習得にも興味を示さなかった。兄・政明の養嗣子となり、寛文十年(一六七〇年)二月二七日に藩主になった。
政宇は朝寝が好きであった。
「殿。起きて下さいませ」
「んーあと少し……」
「駄目ですよ。今日は朝早くから御公儀の使者が来るのですから早く支度をして下さい」
「うーわかったよぉ」
政宇は眠たそうな目を擦りながら布団から出た。
ある夜のこと。いつものように夕げを終え、寝所に入ったあとのことである。
「若様」
襖の向こう側から声がかかった。
「入れ」
短く言うと、スッと音もなく襖が開かれ、一人の男が入ってきた。
「夜分遅くに申し訳ありません」
男は、その場に平伏して言った。
「構わん。それより用件は何だ?」
「はい。実は折り入ってお願いがありまして……」
「願いだと?」
「はい。私めをしばらくの間、御側に置いていただきたいのです」
……ん? どういうことだ?
「なぜそのようなことを言うのだ?」
「はい。実は私の仕えていた主家が取り潰されてしまいまして……。それで行くところがなくなってしまったのです」…………。
「ふうむ……」
政宇は小さくため息をついた。男の身のこなしからは武芸者特有の気配を感じた。それにあの刀だ。あれほどの業物は見たことがない。並大抵の腕ではないだろう。
「わかった。好きにせよ」
「ありがとうございます」
男の声が弾んだ。
「ですが、よろしいのですか? このような素性も知れぬ者を屋敷に置くなど……」
「よい。その代わり一つだけ条件があるがな」
「何でしょうか?」
「この屋敷にいる間は、わしに仕える者として振舞うがよい」
「かしこまりました。これからよろしくお願い致します」
男は深々と頭を下げた。
「そちの名は何というのだ?」
「これは失礼いたしました。私の名前は力四郎と申します」
「そうか。では力四郎、早速だが頼みがあるのだが」
「はい。何なりとおっしゃってくださいませ」
「実は今朝から腹が減ってたまらぬのだ。何か食べる物を持ってきてくれまいか?」
「かしこまりました。すぐにご用意させていただきます」
建部政宇は優秀な内政家であった。初代藩主の政長が治めていた時分から林田藩の領地経営は順調であったが、政宇が藩主になってからはさらに進んだ。政宇は領民の生活向上に熱心だった。石高は増え、農民達の暮らしはよくなった。政宇の治世下で林田藩はますます栄えた。
「殿! ただいま戻りましてございます!」
勢いよく襖が開かれ、力四郎が入ってきた。
「おお、戻ったか。して首尾はどうであった?」
「それが……」
力四郎の顔に緊張の色が浮かぶ。
「どうかしたのか?」
「いえ、それが……」
力四郎は言い淀みながら正座すると、懐に手を入れた。
そして一通の手紙を取り出し、それを政宇に差し出した。
「なんだ、これは?」
手紙を受け取りつつ尋ねる。
「先ほど、私の元に来た文なのですが、差出人が書かれていないのです」
「ほう……。確かに妙であるな」
「はい。それで怪しいと思い、中身を読んでみたのですが……」
力四郎は顔をしかめた。
「なんと言っていいものか……とにかく、とんでもないことが書かれておりました」
「ふむ。読んでみてもよいかな?」
「はい。もちろんですとも」
受け取った紙を広げてみると、そこには達筆な字でこう書かれていた。
『我が名は真田源五郎幸村』
「……!?」
思わず目を疑った。
(まさか、本当に……?)
「ところで、大坂の御蔵屋敷ですが、そろそろ手狭になってきております」
力四郎の言葉にうなずく。御蔵屋敷とは藩の米倉のことである。
「よし! では、大坂の蔵屋敷を拡張しよう!」
「ありがとう存じます」
「それで、どのくらいの規模にするのだ? あまり大きすぎると、また文句が出るぞ」
「それはご心配なく。すでに候補地の目星をつけておりますれば」
「ほう……」
さすがは力四郎だ。抜かりがない。




